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23 4月

預言の言葉の適応  リック・ジョイナー   4月24日2011年


預言の言葉の適応

 

リック・ジョイナー

 

神からの啓示、あるいはヴィジテイション(主や天使の訪れ)等の超自然的な方法である場所に引っ越すように指示されたので 、又同じような超自然的啓示を受けるまではそこを去ることを拒む人たちを、私は知っています。このような人の中には、 留まるべき期間がずいぶん過ぎていることが明白な人たちもいたのですが、彼らは「もう一度超自然的な啓示をもらうまでここに留まる」と言い張りました。ある地に行くように啓示を受けたならば、そこを去るにはまた同じような啓示を受けなければならないと、どこに書いてあるのでしょうか?

 

聖書には、そして私の経験や親しい人たちの経験からしても、主は私たちを導かれるために多くの異なった方法を用いられます。主が過去に私たちを導いてくださったのと同じ方法で将来も導いてくださるであろうと思うのは、間違いかもしれないのです。この「法則」によって生きると決めてしまった人たちは、 主が今までとは違う方法で 語られたり、私たちが十分成熟して自分で何をすればよいのかわかるだろうと主が期待される故に何も語られない場合は、 主の御心を知ることができないことが往々にして起きてしまいます。

 

次の法則 principle を考慮に入れるべきです。 私たちが信仰と知恵において成長して、すべてのことに預言的啓示を必要としないことを主は通常、望んでおられるのです。どこかある場所に引っ越すようにと私たちに告げるために主が天使を遣わさねばならないとしたら、その引っ越しが重要であるのではなく、私たちの霊の耳がよく聞こえないということであるのかもしれないのです。その場所での私たちの務めが終ったときにそこから移るようにと、又もや主が天使を遣わすことを必要だとすれば、それは私たちが未だによく聞けないからであるかもしれません。

 

幼な子は絶えず指図されねば何もできません。大人になっても細かいことまで指図されねばならないとしたら、その人はまだ未熟なのです。もう一度言いますが、私たちが「ハイレベル」の啓示と呼ぶものは、必ずしもそれを受けた私たちが重要であるかとか、その任務がどれほど重要かとは関係なく、私たちが未熟で聞くことに疎いからかもしれないのです。

 

またこれも常にそうであるとは限りません。しかし、時には物事の重要性の故にそれがハイレベルの啓示で示されることがあります。つまり私が言わんとすることは、物事をパターン化したりそれが法則であると思い込む危険なあやまちから自分を守らねばならないということです。そうしないと将来私たちはつまずくことになるでしょう。 私は、その人が受けた啓示を自分自身で解釈する預言者はあまり信用しない方がよいことを今までの経験から学んできました。しかし、これを私の法則とした途端に、啓示を受けた本人が大変正しく解釈する預言者があらわれて、この法則は破られることになるでしょう。私は確かに法則を用いはしますが、それに強く固執することなく、常に新しいことにオープンであるように努めています。このバランスをとるのは難しいですが、 それ故に私たちは 主を絶えず求めるようにされますし、それこそ最も重要なことかもしれません。

 

ポリティカリィー・コレクトネス(その時の政治風潮的に見て正しいこと、その時の世間で受け入れられる正しさ)は、西洋文化の敵が、西洋に対して非常に効果的に用いていると豪語している一番大きな 欺きの覆い(ヴェール)です。しかしそれと同時に非常に大きな欺きであるのは、物事をステレオタイプ化したり、十ぱひとからげで総括的に見てしまうことです。もし私たちが主に従うならば、すべての雪の結晶 や、すべての人間を一つ一つ異なるものとして造られ、御こころを多くの異なった方法で 伝えることを好まれる神の基本的な御性質をしっかりと把握する必要があります。私たちの神は多様性を好まれます。もし私たちが主に従うならば、なにをさておきユニーク性に対しての備えがなくてはならず、私たちが人間的に案出した法則、方法、型は危険であり要注意なのです。

 

魔術とは、基本的にいえば偽りの霊の権威を用いることです。魔術や魔法は、主に従うのではなく、聖霊以外の 諸霊を用いて人を操りコントロールすることを土台としています。これはガラテヤ5章で肉の働きの一つとして挙げられていますが、その理由は初期の段階では霊というよりは肉のものとしての性質を強く持つからです。多くのクリスチャンはこのような方法を用いるという誤りに陥り、自分たちで勝手に神の目的であると思う事柄を達成するために魔術を用いてしまうのです。これに関してはまた詳しく話したいと思いますが、ある一つの型とか方式、法則を用いるのは、魔術の根本であることをよく考えねばなりません。 聖霊による私たちの歩みは、聖霊というお方に従うことが土台であり、方式に従うのではないのです。

 

もし私たちが賢明であるならば、「主は以前このようにして下さったから、この様に語られたから、次も同じようにされるだろう」と思いこむことを警戒するはずです。 私はむしろ「主は朝ごとに新しい」(哀歌3:23参照)ことをしっかり理解し悟るほうがどれほど良いかと 思います。これは主が変る方であるというのではなく、主は限りのない方であり、私たちの狭い考えに主を閉じ込めることはできないということです。 私たちが自分の型にあまりにも固まってしまうと、人との関係は退屈で面白みのないものになってしまいます。私たちの神はものすごくすばらしい方なので、主のお傍近くにいれば決して退屈などしないのです!(終り)


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