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20 2月

預言の賜物はどのように働くか リック・ジョイナー 2011年2月21日


 

預言の賜物はどのように働くか

 

リック・ジョイナー

 

 今回は預言の賜物が私たちの中でどのように働くのかを学びたいと思います。この学びによって、多分多くの方が、預言の賜物だと気がつかないまま、すでにそれを用いていたことに気がつかれると思います。大切なことは、これは技術ではなく神との関係、交わりであるということです。預言とは「ある一人のお方」の言われる事を聞くことであり、方式とか手順を学ぶのではないのです。

 

神との友情を通して受ける預言

 

アモス3:7に「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示されないでは、何事もなさらない。」とあります。主にそうする義務があるとは、律法のどこを探しても書かれていません。しかし、主は何事をするにもまずご自分の友にそのことを話したいと思われるので、そうされるのです。神との友情—これこそ預言のミニストリーの基本的な本質です。預言者とは神と非常に親しくなった人たちのことで、神はそれらの人に話さないでは何事もしたくないのです。

 

「預言者になるためには神からの召しが必要なのか、それとも自分からそれを求めてもいいのか」という疑問を多くの人がもっています。どちらも真実です。生まれる前から預言者となる召しを受けている人たちもいて、彼らはそれ以外のことは出来ません。又、聖書は私たちが預言を求めることを勧めています。私たちに達成不可能なことを勧められる神ではありません。預言的になることの真の本質は神との友情ですから、神はすべての民がそれを求めることを願っておられます。モーセが「主の民がみな、預言者となればよいのに。(民数記11:29)」と言った理由はそこにあります。

 

預言者は神の御座の傍近くにいますから、神が何をしておられるかが分かります。御座で起こっていることを見たり聞いたりするからです。よく聞く言葉に「私たちは賜物ではなくそれを下さる方を求めるべきだ」というのがあります。これはあたかも気高く知恵のある言葉のように聞こえますが、聖書で言っていることとは違います。このように聖書の真理から外れた軽薄な言葉に耳を傾けるのは成熟した者のすることではありません。第一コリント14:1には「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」とあります。御霊の賜物を追い求めることは、即ち主を追い求める道なのです。御父は霊と真をもって礼拝する者を求めておられますが、御霊の賜物は私たちがそのような者となるための道です。

 

勿論、私たちは賜物を下さるお方を第一に追い求めますが、それが御霊の賜物を追い求めることを排除するわけではありません。御霊の賜物は普通私たちが考えるプレゼント、贈り物というようなものではありません。「御霊の道具」と訳したほうがいいかもしれません。御霊の賜物は、何かのご褒美とか、祝福として与えられるのではなく、私たちが主の業をすることができるように(そのための必要な道具として)与えられるものです。主の業とは礼拝です。私たちが主を愛する故にする奉仕の務めです。

 

真の預言的人物でも間違いを犯すか? もし私が間違ったらどうなるのか?

預言者の基本的な務めは神のために語ることです。ある状況の中で神が語りたいことを代弁するのです。それには究極の信頼関係が必要ですから、未熟な者とか軽卒な者には主はこの務めを与えられません。王からの言葉に自分自身の意見を付け加えようとする者を代弁者とする王がいるでしょうか? ですから、 誰でも預言に用いられることは可能ですが、そのためには十分な成熟さ、誠実さ、預言者の任務を受けるに足る主からの信頼が必要なのです。自分が考えていることは神が考えておられることと同じであるとか、自分が感じていることは神が感じておられることだというように、自分はすべての事に関して神のお考えを握っていると思うのは危険な罠です。このような考えは、自分自身の魂からの言葉を預言するという間違いに人を陥らせます。

 

それは使徒ペテロが「イエスはキリストである」という最高の啓示を受けた直後に起こったことです。イエスはペテロが御父からこの啓示を受けたことを称えられました。そしてこの岩の上にー即ち、御父からの啓示の上にー主の教会を立てると言われました。そして天国の鍵を与えてペテロを祝福されました。しかし、まさにその直後、ペテロの口から出た言葉は地獄からのものであり、イエスは「下がれ、サタン!」と彼を叱責せねばなりませんでした。(マタイ16:23参照)

 

このことから私たちは、天から直接聞いたとしても、その直後にサタンから聞いてしまうことが容易に起こりえることを見ることができます。これはペテロの未熟さから起こったことですが、預言の賜物を受けた者たちのほとんど全員が未熟さのゆえに経験することなのです。もしこのことでがっかりしたり、間違いを犯すのを恐れるのならば、あなたは預言者にはなれないでしょう。しかし、もし自分の間違いから学ぶならば、あなたは神の声と自分の魂の声、もしくはサタンの声とを見分けることを会得していくでしょう。もしあなたが間違いを恐れるならば、あなたは学ぶことが絶対できないでしょう。

 

ペテロは新約聖書に書かれている大きな失敗を幾つかしてしまいましたが、それと共に最も偉大な業のためにも用いられました。イエスが天国の鍵を与えられたのはそれ故です。ペテロはその鍵を使うことを恐れなかったのです。そして水の上を歩いたり、死人をよみがえらせたり、彼の影にふれるだけで癒されるような力を持ったばかりか、ユダヤ人と異邦人の両者のための信仰の扉を開いたのでした。

 

多くの人は、 間違いを避けるために神の御声を正しく知る処方箋が欲しいと願っています。しかし私が知る唯一の処方箋は、キリストにあって成熟するということだけです。人々の頭に手をおいて、たちまち彼等を成熟させるという賜物を私が持っていたらどんなにかいいでしょう。しかしそのような賜物があるとは聖書に書いてありません。成熟するためには経験が必要なのです。また、往々にして間違いを犯すことによって人はより早く学ぶことも本当です。ですから早く成長したいならば、自分の失敗を学ぶ機会として喜んで受けとめねばなりません。これは間違いをしたいと望むということでは決してありませんが、失敗を恐れるあまり信仰の一歩を踏み出せないようなことがあってはなりません。もし恐れるならば、私たちは一生何もしないでしょうし、賜物において成長することもないでしょう。

 

「新約の真の預言の賜物を持つ」と私が思う人の中で、預言者として成熟する過程で大きな間違いをしなかった人物を私は一人として知りません。一旦預言者として任命を受けたならば、もはや大きな間違いは犯すべきではありませんが、預言の召しを受けるのと預言のミニストリーの任命を受けるのとは違います。パウロがアンテオケで使徒の任命を受けたのは彼が使徒として召しを受けた何年も後のことでした。

 

あなたは預言者としての召しを受けた時に預言者になるのではなく、任命を受けたとき預言者となるのです。私たちは「あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものと」しなければなりません。(第二ペテロ1:10参照)即ち、自分の召しに成熟することを追い求め、ついに 私たちを任命する時が到来したと神が思われるようにしなければならないのです。もしあなたが自分は任命を受けたかどうか定かでないと思われるならば、それはまだなのです。本当に任命されたならば、疑う余地などないほど明確に分かります。それまでは、自分の翼をためす機会を喜び、謙虚に間違いを受けとめ、そこから学んでください。(終り)


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