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Walk With God Ministries

19 2月

近況報告です  坂 達也  2月20日


 

イエスは言われます。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」(ヨハネ15章)

これで思い出すのは、イエスが病人をみな治し、悪霊を追い出すのを見て多くの群集が彼の後をついて来る中で、一人の律法学者が「先生あなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」と言ったのに対し、イエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」と答えられました。(マタイ8章)

 

私たちは目ざましい証には関心がありその後をぞろぞろついて廻る傾向があります。しかし、イエスが本当に求めている人は、少し距離を置いて野次馬的に「後をぞろぞろついて廻る群集」ではなく(それではいつまでたっても他人でしかない)、本当にイエスの中に入り、イエスにいつも滞在して欲しい、イエスと枕を並べ、お互いに心を開いて一夜をあかす人ではないかと思いました。

イエスに気軽に声をかければ、いつでも現れて語ってくださる、そんな気安く親しい間柄になることであると思います。

 

2011年に入り、今、多くの人が「主からみことばをもらう必要性」を語っています。いよいよ時が迫ってきているのですね。本当に今年、来年は何が起こるか分からない、思いもつかないことが今既に連続して起こっています。自分の考えとか思いでは、もはや全く、やって行けなくなって来ていると思います。

 

私は今本を書いておりますが、年のせいで頭の回転が衰えてきており、聖霊の油をそそいでいただかないと何も書けません。本当にそうであることを日に日に切実に感じております。しかし、これはとてもよいことのようです。「次に何を書きましょうか」といちいち聞き、与えられると書きます。静かに黙って主の前で待つか、異言で30分から1時間祈ります。そうすると大概はいただけます。又、今日はリラックスして休みなさいと言われることもあります。

 

主は必ずしも毎日語って下さらない方であることが分かって来ました。臨在も何も全く感じないのです。行きつけの店に行ってみると、「本日休業」の看板がぶら下がっていてびっくり、がっかりする、あの感じです。

しかし、時に何時間も、あるいは一日ふつか、何も与えられないことがありますが、そういう時は逆にうんと祈らなければならないようです。そのような祈りの後で大きなテーマの変換とか、「めざましいこと」をおっしゃられることが多いので、期待がふくらみます。何事をするにも祈りは絶対に必要であることをひしひしと感じます。

 

このところ、二度三度、私の思い上がり、いかに私が御言葉の意味を分かっていないか、クリスチャン生活を何年も続けてきて、自分がこんなに焦点がずれているout of focusかを思い知らされました。本当にショックでした。へりくだらされ続けています。ぎゃふんとなり、あるいは感激して一瞬泣きました。

 

それと、この頃非常に面白くなって来たと思うのですが、主に質問したり祈れば必ず答えて下さることです。この一、二年特に昨年初めぐらいから「お祈りは聞かれる」という思いが強くしております。皆さんもそう言う思いを持たれていると信じますが、いかがですか。

 

イエスがどれ程の祈りの人であったかをつくづく思い知らされ、自分はもっと祈らねばならないことをひしひしと感じる昨今です。(終わり)


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