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22 1月

教会を運営する牧師の働きについて リック・ジョイナー 1月23日2011年


教会を運営する牧師の働きについて

 

リック・ジョイナー

 

牧師の働きについて書かれているのは新約聖書の中で一箇所(エペソ4:11)だけで、教会を立て上げるために与えられている他のミニストリーと共に書かれています。牧師の働きの定義や説明も新約聖書には書かれていません。それにも拘わらず、牧師という一つの働きが三世紀以降、教会の指導権を実際的には握ってきました。この聖書箇所からわかるように、 新約時代にあるべき真のミニストリーの姿はチーム・ミニストリーであり、 本当に調えられた教会になるためにはすべてのミニストリーを私たちは受ける必要があるのです。

 

ほとんどすべてのプロテスタント、福音派、ペンテコステ派、カリズマ派は、牧師という肩書き、タイトルを持った人によって導かれていますが、彼等の中には聖書的な意味での「牧師」はあまりいません。これは彼等が真のミニスターではないということではなく、ほとんどの人が、本当は教師、伝道者、預言者や或いは使徒であることが多いということです。しかしほとんどのクリスチャンは牧師というタイトルに馴染んでいるので、教会を指導する人は「牧師」というタイトルを持つことになるのです。それはそれでまずまずよかったのですが、これからの時代には私たちは教会の指導力に関してもっと聖書的になる必要があるでしょう。

 

新約時代の預言者の働きを説明するためには、新約のチーム・ミニストリーがどのように意図されたものであるかを調べる必要があるでしょう。預言者を始めてとして、教会を調えるための他のすべてのミニストリーを本当に理解するためには、ミニストリー同士の相互関係を先ず理解する必要があります。これはすべての新約のミニストリーに関して言えることでもあります。一つ一つは教会に与えられているチーム全体の光に照らして検討されねばなりません。

 

多くの人は旧約の預言者を新約の預言者のモデルとしてきましたが、それは誤りです。預言の賜物自体は旧約時代、新約時代を通して同じかもしれませんし、啓示のタイプも似ているかもしれません。しかし、その適応が同じではないのです。旧約時代に預言者は、イスラエルが主なる神から離れている事を警告し、又 王たちにさえ度々警告しましたが、それは預言者が単独で行いました。しかし新約の時代の預言者は、キリストのからだを立て上げるチームのメンバーの一人なのです。聖書の中で新約の預言者たちが大きく用いられている場面を見ることができますが、人々を正すのは使徒や長老たちを通して行われたのであり、預言者一人でしたとは一度も書かれていません。

 

エペソ4:11から分かることは、 教会を立て上げるためのすべてのミニストリーが持つ中心的目的は聖徒を調えることであり、 ミニストリーの働きをするのは聖徒たちであるということです。ですから預言のミニストリーが持つ主要な働きは聖徒を調えるということであり、調えるとは、すべての神の民が神の御声を知り預言さえもできるように助けることと関係しています。第一コリント14:31で「あなたがたは、みながかわるがわる預言ができるのであってYou can all prophesy one by one」と私たちは言われています。クリスチャンは誰でもいつでも預言するように用いられることができ、ほとんど全員が少なくとも一度はそのために用いられるでしょう。

 

人間が罪に堕ちてから最初に神と共に歩いたのはエノクでしたが、彼は預言をしたと書かれています。(ユダの手紙14節参照)教会の歴史を見れば、「神と共に歩く人はすべて預言をするであろう」と言っても過言ではないでしょう 。神が今も預言を通して語られることを信じていない人が、非常に正確に預言するのを私は聞いてきました。ただ彼等はそれを預言だとは呼ばないだけなのです。

 

預言のミニストリーは将来のことに関する啓示を受けるだけではありません。しかしこれは預言のミニストリーの重要な一面です。 将来に関する預言的啓示が与えられるのは、神と共に歩いた人たちに与えられてきた特別な伝統的遺産であり、これからの時代にとってはますます重要な賜物となります。預言者は旧約聖書では予見者とか見張り人と呼ばれています。それは「見ること」が彼等の仕事だったからです。イザヤ29:10では、預言者は「目」であると言われています。即ち、彼等はキリストのからだの 「目」なのです。預言者がからだの目なのですから、預言のミニストリーのない教会は事実上基本的な部分で盲目なのです。

 

使徒パウロがコリントの人々に 警告したように、からだの一部分が他の部分にむかって「おまえは不要だ」と言うべきではありません。しかし実際からだの大部分が今までこのように言ってきたのであり、それは預言者に対してだけではなく、他のミニストリーに対しても「おまえは不要だ」と言ってきたのです。

 

ほとんどの教会は自分たちが盲目であることを知らないかも知れません。なぜならば彼等は動いていず、どこにむかっても進んでいないので、暗いところでもつまずかないのです。しかしながら、そういう教会がもし動き始めたならば、預言的ヴィジョンがなければつまずいてしまうでしょう。まあ、手探りで這いずりながら進むことはできるかもしれません。しかしこれからの時代には、その教会やミニストリー、ミッションが預言的ヴィジョンがあるかないかの差が非常に大きく顕れるでしょう。

 

使徒行伝2:17−18には、「終りの日」に主が聖霊を注がれることが書かれていますが、その結果はヴィジョン、夢、預言という形で預言的啓示が与えられるということです。これは「終りの日」には必要とされることなのです。なぜならば、終末に近づいている今、私たちはこれまでよりもっと預言的導きを 必要とするようになるからです。(終)

 


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