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Walk With God Ministries

31 12月

暗黒と神の国の輝き リック・ジョイナー  12月31日


暗雲と神の国の輝き(1)

リック・ジョイナー (訳者:渡橋 喜代佳)


 2005年8月22日、私は夢を見た。夢の中で、感じのいい静かな通りを歩いていた。突然、西の方から大変な危険が自分の方に向かって来るのを感じた。振り向くと、非常に不気味な暗雲がこちらに迫っていた。その雲ははるかかなたまで一直線に延びており、すぐそこまで接近している。私はすぐそばの家に避難した。中に入りさえすれば、安全だった。しかし、ドアを開けようとするが、開かない。鍵は私のポケットにある。鍵に手をやるが、恐怖のあまり身動きできなくなった私は、ドアを開けようにも、ポケットから鍵を取り出すこともできない……夢はそこで終わった。
 この夢ですさまじい恐怖を覚えて、私はひどく苦しんだ。数日間その解き明かしを主に求め、預言者である友人のボブ・ジョンズにも尋ねてみた。そして、この雲がアジアから(私たちのいる西側に)もたらされる死のウィルスだということが示されたのだった。この夢のメッセージはこうだ。私たちにはこのウィルスに対して安全な場所があるし、そこに入る鍵も与えられている。それは神の国の鍵である。ところが、恐怖のあまりそこに入れないということもありえる。この暗雲がどんなに接近していたとしても、避難所である神の国もまたすぐそばにあるのだ。

道を備えよ 
まず確認しておきたいが、もし私たちクリスチャンが岩の上に家を建てているなら、この地上に来ようとしているどんなものをも恐れる理由はない。主のことばを聞いてそれに従うことで、私たちは岩の上に家を建てるのである(マタイ7:24~27参照)。主のことばを聞いたことのない、あるいは、聞いても従わなかった愚かな人々にも、悔い改めるための時はまだあるにはあるが、あまり残されていない。時が迫っているからだ。夢の中で暗雲が非常に接近していたのは、このタイミングのことだった。
 私たちには揺らぐことのない神の国があり、この地上を襲うどんなものからもまったく安全で確かな避難所がある。すでに述べたように、この安全な場所に入るための鍵は、主がご自身の教会に与えてくださった神の国の鍵である。けれども、クリスチャンだと言いながら、実際は、神の国のやり方ではなくこの世のやり方に従い、主のためではなく自分のために生きている人たちには、悔い改めの時はわずかしか残されていない。

 聖書は、この時代の終わりに世界がどのようになるかについて、非常に明確に語っている。
1テサロニケ5:2~6からは、励ましと警告の両方が与えられている。
 「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知している
からです。 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
  しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」


 この先世界がどのような事態にいたったとしても、クリスチャンは驚くべきではない。この地上を何が襲っても驚かない、終わりの時代の預言的なミニストリーが起こされることだろう。主の羊たちは、主の声を知っていると言われている。彼らはそうした事態に対する備えがなされて、主の囲いの中で安全に過ごすことができるのだ。主の声を知らないか、主の声に従わない人々は、たちまち、もっとも過酷な危機的状況にさらされるようになるだろう。
 何であっても、否定的だとわかると、それを受け入れることが教理的にできなくなっているクリスチャンが多い。彼らは、上記の引用箇所にあるように慎み深くしているのではなく、霊的な酩酊状態にある。すぐに酔いから覚めるのでなければ、次は昏睡状態に陥るだろう。繰り返すが、この世界がどのようになるかについて、聖書は非常に明確に語っている。

問題は何なのか?
  
 この時代の終わりに世界を襲う艱難や苦難は、基本的には、人間が神を無視して生きようとしている結果引き起こされるのだ。創造主との調和の中にいなければ、どんな被造物も、うまくいくことはありえない。この時代が終わると、すべての被造物が、そうした愚かなことは2度としてはならないことを永遠に証しするだろう。
 最大規模にまでおよぼうとしている暴風雨や他の自然災害さえも、その原因は人間側にある。人間にはこの地を治める権限が与えられたにもかかわらず、みずからが神の支配に服していないため、正しく治めることをしてこなかったからだ。しかしながら、神との根本的な関係が回復されて、神に従って生きているクリスチャンは、世界にもたらされようとしている事態を恐れる必要はないし、そうした事態に対しても権威を行使して、地域全体を大災害から守ることも可能である。
 主に従順な人々と従順でない人々には、はっきりした違いが見られるようになる。といっても、従順で「岩」の上に自分の人生を築いた人々が守られるのは、自分たちが大災害を免れたことを誇るためではない。主を無視して生きようとしてきた愚かな人々を助けるためである。私たちは、主がすべての人の救いを望んでおられ、いつもさばきよりもあわれみを示したいと思っておられることを、けっして忘れてはならない。マタイ5:44~46で、主はこう語っておられる。
 「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。」

 主は、すべての人々を愛しておられる。主を憎み、主や主のやり方に反逆する人々をも愛しておられる。愛情ある父親のように、たとえその反逆する子どもたちが悔い改めないとわかっておられても、主はその子どもたちのためにもよいことをしてくださるのだ。したがって、来たるべき破壊的状況のただ中にあっても、反逆する人々にも力を尽くしておられる神のあわれみや恵み、優しさが見られ

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