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Walk With God Ministries

25 1月

キリストが現れる   レスティヴォ    1月25日


キリストが現われる
ナンシリー・レスティヴォ

1999年1月、私は2週間にわたって主から一連のヴィジョンを与えられ、それによって私の人生は全く変えられました。そのうちの一つをお話したいと思います。私に一番影響を与えたものです。主が私を召しておられることへの新しい高さと深さを真に理解することができるように私の目を開けてくださったのです。それはあなたの目も同じように開けられるかも分かりません。

このヴィジョンは、ドアの入り口に立っている私がイエスが群衆の中にいるのを見ているのを自分が見ているところから始まりました。イエスがある人に手を伸ばすと彼らは瞬時に癒されるのです。イエスは又、ある者には励ましのことばをかけ、愛に飢えている者の肩を抱き、悪霊に苦しんでいる者から悪霊を追い出しておられました。

すると突然、何かが変わりました。私もイエスと共にその場にいたのです。しかも、イエスと私は写真のネガが重なったように一体となっているのです。イエスと私は全く一人の人間として動いていました。
「…主と交われば、一つ霊となるのです。」 Iコリント6:17

イエスが手を差し伸べられると、私の手がそれと全く一つになって動くのです。イエスが口を開かれると、ことばが私の口から出ていくのです。イエスが一歩前に進まれると私の足が一歩進み、イエスが人を見るときは、私の目を通して見られるのです。
そして、私は理解しました。それは「私の中におられるキリスト、栄光の望み(コロサイ1:27参照)」なのです。ただし、キリストが私の中に隠れておられるのではなく、私が彼の中に隠れていたのです!
「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神にうちに隠されてあるからです。」コロサイ3:3

私は傍観者として、興味と驚嘆をもってイエスの一挙一動をすべて見逃すまいと見つめていました。イエスのこんなにもそば近くで主が地上におられた時と同じ奇跡をされるのを見るのは、本当にわくわくしました。
人々は私を見ているのではないことがはっきり分かってきました。彼らは主を見ていました!主はその力と栄光をもって、すべての人に分かる姿でご自身を「現されて」いたのです。群衆も自分たちはイエスを見ていることが分かっていて、主のされるすばらしい業に完全に心を奪われていました。 
私は、イエスにだけ完全に全く何の障害もなく焦点が当てられねばならない、それが「唯一」受け入れられることである時代に私は生きているのだ、ということにはっと気がつきました。私に関することとか、何が私に出来るかとは全く関係がないのです。そうではなく、私はからっぽの器であり、イエスご自身がそこに満ち満ちてくださるのだということだけなのです。主がその中に住んでくださり、主が望まれる通りにその器を通して働かれる器になることなのです。このことが理解できたとき、私はあふれるような喜びで満たされました。

「…こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」エペソ3:19


ヴィジョンが終わるときに、主が次の箇所を示してくださり、私が経験していることが正しいことを確証してくださいました。
「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示される(be manifested)ためです。」IIコリント4:10-11

神学者の多くは、この箇所を理性で理解しやすく説明がつくようなものに変えてしまっています。しかし、今主は、今まで私たちが理解したり、私たちの理性では理解できる範囲をはるかに超えた何かをしはじめようとしておられるのです。
「明らかに示される(manifested)」ということばをThayerのギリシャ語辞書で調べてみると、
「今まで隠されていたもの、また知られていなかったものを、ことば、行為、その他の方法で明らかにすること」とあります。
  これはまさに私のヴィジョンの中でイエスに起こったことでした。主はご自分を人に見えるようにし、明らかにされ、知られ、はっきりとイエスだと分かるようにされました。主は周りにいる群衆のなかに現れて、彼らは主を見たのです!これがまさに我々主に完全に従う者を通してイエスがしようとされていることなのです。

主がこれをどうようにして実現されるのかについて私は十分にはわかりませんが、一つのことだけは知っています。それは、人々は彼らの真ん中でイエスがご自身を現されていることがわかり、イエスにだけ彼らの注意が集中されているということです。

鍵となるもの

先にあげたIIコリント4:10に、「イエスの死」ということばがあります。これはイエスの十字架上での死だけではなく、主が毎日自分の意志と自分の命に死んで来られたということをも指しています。主は何事もご自分の思いからはされませんでした。イエスにはただ一つの動機しかありませんでした。それは父なる神の御心と地上での目的を表していくということでした。
私たちも「イエスのための絶えず死に渡されていますが、、、」(11節)といわれています。イエスの命が私たち人間の身体を通して現されるためには、それが唯一の道です。自分の肉が自我の一つの領域で死ぬとき、イエスがその領域を完全に支配することが出来ます。私たちが自我に死ねば死ぬほど、イエスが私たちを通して生きることができるのです。
イエスがこのような力と権威を帯びて現れるためには、私たちは邪魔をしないように完全に退かねばなりません。バプテスマのヨハネと同じように心から「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)と叫ばねばならないのです。

私たちが自我のすべての領域で喜んで死ぬ、その度合いによって、イエスは人間をとおしてご自分を十分に現される自由を持つことができるのです。
イエスは「わたしに従ってきなさい。」といわれ、そして「その中を歩きなさい。」といわれているのです。(終わり)


[この記事はウエイド・テイラー・ミニストリーからのものです。]

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