WWGM

Walk With God Ministries

28 2月

超越した命     フランシス・フランジペイン   2月28日


超越した命        
         フランシス・フラジペイン


霊の賜物を伸ばしていく方法とか、人生の目的を発見するための本が、現在、大量に出版されています。そして確かにその大部分のものは注目に値するものです。自分の賜物を知り、神に仕えるためにそれぞれが召された分野において訓練されることは、神の御心です。しかし、その事よりもっと深く基本的で重要な究極的なクリスチャンのゴールがあることを忘れてはいけません。それは「キリストに似た者となる」ために生涯をかけることです。

私たちはパウロの生涯を見るときに驚嘆せざるをえません。彼は多くの書簡をあらわし、何千人もの人をキリストに導き、多くの教会を立て上げ、すべての霊的賜物を受けていました。しかし、彼が一番追い求めたものは伝道という召命ではなく、キリストのようになるという事であり、そのゴールにむかって彼は死ぬまで情熱をもって突き進んでいたのです。ピリピ3:10、11において、パウロは次のようにその気持ちを表しています。

「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、
 キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」

自分の賜物やミニストリーを開発し完成させることに力を尽くすあまり、キリストに似る者となることへの追求をおろそかにしてしまった人たちを、私たちは余りにも多く見てきました。 それが私の危惧なのです。自分のミニストリーや賜物から霊的な充足を望むことは、
かえって私たちを霊的飢餓に陥れるのです。

私たちが神から受けている仕事、即ち召命の性質について、ここでもう一度はっきり説明させてください。召命は人生の最終目標の中核をなすものではないのです。確かに召命は私たちにとって大変重要です。しかし、私たちの人生目標の中心点は、私たちが神のために何をするか(召命)に根ざしているのではなく、私たちの心がキリストの心と同じになるということにあるのです。「キリストに似る者となる」というのが、私たちの人生の目標なのです。
霊的賜物やミニストリーは、キリストの身丈にまで成長する道のりを運転している私の車に便乗している道ずれに過ぎないのです。

キリストに似た者になるように私たちは定められている

人生のゴールについてパウロは「なぜなら、神はあらかじめ知っている人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。(ローマ8:29)」といっています。私たちは、神の御子のかたちと「同じ姿にあらかじめ定められている」のです。新約聖書で私たちの人生のゴールに触れている箇所は、いつも「キリストに似た者になる」ことを述べている箇所と同じ文脈のなかにあります。神から与えられた仕事、即ち、召命は、例えば牧師や教師、主婦やビジネスマンといったものですが、そのような外面的な務めが何であったとしても、中核となるゴール、つまり自分の外面的な状況がどうあろうと変わらずに追求していくべき定められたゴールは、「神の御子の姿と同じにされていく」ことなのです。

私たちの目指すべきゴールは、神のために何かをなすことではなくて、自分と神との関係をどのように築いていくか、神にとって自分は何になるのか、と言うことなのです。キリストに似る者となることを願いながら生きて行くとき、私たちの神に対する愛はどんどん豊かになり、罪人への伝道は力強くなり、内なる自分は清くされていきます。イエスと同じ姿になりたいという思いで生活して行くときに、そがすべての事に関する霊的な動機、願望となり、そこから力が沸いてくることにあなたは気がつくことでしょう。

私たちは、自分は神のために大切で偉大な仕事をしている、と思うかもしれませんが、キリストから離れていては、「わたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられ、枯れます。(ヨハネ15:6)」とイエス様が言われたとおりになってしまいます。しかし、もしキリストと共にあるならば、どんな葛藤、試練、誘惑の中にあろうとも、「イエスのいのちが私たちの身において明らかに示される(IIコリント4:10)」のです。これこそ、まさに、超越した神からの命ということができるのです。

賜物と召命

多くの西洋の神学校では、神学や聖書の解釈にばかりを熱心に教えて、「キリストに似る者となる」ことに焦点を当てていないのは非常に残念なことです。 確かに、聖書に関する正しい知識を得ることは必要ですが、それよりもキリストに似る者になることの方がもっと大切です。また、教会においても、みんなの賜物を開発するための多くの努力をしています。それは勿論続けていくべきですが、私たちは更に根本的で大切な仕事、即ち、キリストの姿となることが人生のゴールであるという考えを、教会員のなかに培っていくことをおろそかにしてはならないのです。

パウロは神の賜物と召命は「取り消されない、変わることがない。(ロマ11:28)」と教えています。 ここでパウロは、イスラエルに対する神の御計画は決して変わることがないことを言っているわけですが、パウロの語っているこの真理は、私たちにも当てはまることです。ですから、私たちが受ける神の召命と賜物は、私たちの心の状態がどうあろうともそれとは関係なく続いていくのです。

牧師は、たとえ彼が重大な罪を犯している時でも、毎週説教をして会衆を感動させることができます。彼の「召命」は、彼の義が今どのような状態であるかということに依存していません。土曜の夜に姦淫を犯したワーッシップ・リーダーは、日曜には会衆を感動的なワーッシップへと導くことができるのです。彼の「賜物」は彼の罪によって取り消されるということはなく、働き続けているからです。前夜飲んだくれていた伝道者は、自分の説教で多くの魂が悔い改めるの見て感激の涙を流し、きっと神は自分の罪を赦してくださったのだ、と勘違いをしてしまいます。しかし、このように聖霊様が教職者の賜物を通して働いておられるときでさえ、罪の中にあるその人自身は非常に危険なところにいるのです。彼は他人には宣べ伝えたにもかかわらず、自分自身は失格者になってしまう可能性があるのです。(Iコリント9:27)多くの教職者たちが罪に捕らわれて二重生活をおくりながらも、彼らの召命、賜物が働き続けていたのを私たちは今までに

Post a Comment