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Walk With God Ministries

15 6月

不都合なときの主の招き  フランシス・フランジペイン  6月15日


不都合なときの主の招き

フランシス・フランジペィン

神を信じる人は数多くおりますが、真に神を礼拝するものはわずかです。真の礼拝者たちは、神をあがめることを一番の喜びとします。彼らの礼拝はかぐわしい香りとして立ち上り、それは日曜の教会での礼拝の時間だけではなく、彼らにとって不都合なときにさえ、彼らは主を礼拝するのです。

真の礼拝者は、朝、仕事や学校に行く前に早く起きます。主と静かな時間を過ごすために、家族よりも早く起きるのです。 何かで待たされるときにも、イライラしないで、かえってその困難な事態や待たねばならない時こそ神を讃える機会として用います。
例えば道路が渋滞しているとき、あなたの隣の車の中に真の礼拝者が座っていて、プレイズ・ソングに合わせて賛美しているかもしれません。

真の礼拝者は不都合なときにも神を礼拝する奥義を習得した

私も、自分にとって不都合なときに神を礼拝するようにと、主に導かれることがあります。一人で書き物をしていたり、重要な仕事をしているときに、急に私の霊の中で何かを感じ、主が近くにおられることに気がつきます。けれども、主は私に礼拝することを命令されるのではなく、静かに招いてくださるのです。礼拝する時間は10分か15分くらいのときもありますし、もっと長いこともありますが、とにかく私は自分がそれまでしていたことをやめて、ギターを手にとって主を礼拝し始めます。

正直なところ、私はギターが上手なわけではなく、コードをいくつか知っているだけなのです。でも私が賛美するとき、天におられる王がそれを喜んでくださることが私にはわかります。主は私が御前に出ることを許され、不思議なことですが、私が歌うとき主は私の歌だけを聞いていてくださるという思いを、私に与えてくださるのです。

主からの招き

礼拝するときは自分のすべてをささげ切りたい、と私も思います。しかしながら、私が克服しなければならない最大の障害は、主が礼拝するようにと招いてくださるときは、私にとって都合が悪いことが多いことです。まるで主は私が大切な仕事に集中するのを待っておられるかのようです。しかもその仕事は主が完成せよ、と言われたことなのです。又あるときは、夜遅く、私がまさに眠りに落ちようとするときに主を賛美する機会が訪れることがあります。
しかし、私が不都合な時間にもかかわらず主の招きに応じることそれ自体が、事実、私の賛美をもっと純粋で甘美なものにするのです。
日曜礼拝の賛美は楽器の音や周りの人に助けられることがあることは確かでしょう。そこには礼拝できる雰囲気がありますから、私の賛美は純粋に私のものではなく、他の人たちから受けたものという可能性があります。それと違って、主が不都合なときに来られ、私がそれに応じるならば、私の礼拝が真実であり、私の人生で神が一番大切なお方であることを証することになります。

主が前触れもなく訪れてくださるときのもう一つの大きな喜びは、主は大掛かりな礼拝を期待されてはいないということです。日曜の礼拝は確かに素晴らしいものです。しかし、主はプロの歌ではなく、私の心からの賛美だけを求めておられるのです。

もう一つの祝福は、私が主を礼拝し始めると、多くの場合、妻もそれに気づいて一緒に賛美してくれることです。私が礼拝していると、後から妻の声が聞こえてくるのです。彼女も私とおなじように主の臨在の中に浸っています。彼女はその時何をしていようともそれを止めて、主の前にひざまずくことを愛しています。そして、二人での礼拝は真に甘美なものとなります。

祈りと賛美

祈りと賛美には違いがあります。祈りは、私たちや私たちの回りの世界の必要を神に嘆願するものです。この世は切実で急を要する必要を持つ人々で満ちていて、彼らの願いは天の父が喜んで受け取ってくださり、光に満ちた王座の前で一つ一つ聞いてくださいます。しかし、賛美は私たちの必要を話すことではありません。それは私たちの愛の表現の極致なのです。自分の必要いかんにかかわらず、私たちが神にささげるのが賛美です。

福音書にはイエスに癒しを求めた10人のらい病を患っている人たちのことが書かれています。主が彼らの願いを聞きいれ、癒されたとき、彼らは御前を去っていきました。 しかし、一人だけは引き返してきました。「そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。(ルカ17:16)」と書かれています。感謝にあふれて彼は神を礼拝しひれ伏したのです。 皆さん、多くの人は祈り、そして答えを得ます。しかし、引き返してきて主を礼拝するものは少ないのです。

愛する皆さん、私たちの心から純粋な賛美が流れ出すならば、主は私たちを主の臨在の中に度々招いてくださるでしょう。私たちの心の戸口に主の招きは静かに近づいてくるのです。主からの招待は、あなたが「主を愛したい」というシンプルな願いを心に抱く、という形をとって来るでしょう。あなたがその心の思いに素直に従うならば、あなたは主の臨在へと導かれていくことでしょう。
私たちが主を礼拝すると、主は私たちに内なる力と平安を与えてくださいます。感謝をもって主に近づけば、主は私たちを愛と喜びとで満たしてくださいます。 主を真に礼拝する者となる特権をいただいていることを喜びましょう。たとえそのチャンスがあなたに不都合なときにやってきたとしても。(終わり)


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