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Walk With God Ministries

16 6月

カナの婚礼における主の奇跡


カナの婚礼における主の最初の奇跡

 今回の日本旅行の終わりに近い頃、ある教会でメッセージをしておりました。すると突然、今までにあまり経験しないことが起こりました。それは、全く準備もしていなかった、思いがけないことを自分が話しているのです。急に私の口からヨハネ2章にあるイエス様による最初の奇跡のお話が、これから起こる私たちクリスチャンの個人的・あるいはキリストの身体(教会)としてのトランスフォーメーションを預言するものであると私が言っているのです。そう言っている自分に驚きながら、水がワインに変わるお話をしていました。しかも内心私は、もしかして私の「口から出任せの、とっさの思いつき」の話を見破ったその教会の牧師にひんしゅくを買っているのではないかとひやひやしているのでした。
 
しかし、その話をして間もなくホノルルに帰って来たのですが、その「とっさに出て来た言葉」にその後少しずつ肉ずけがなされていきました。そして、私が口にしたヨハネ2章に対する「新しい解釈」が単なる「思いつき」ではないことへの確信が強まって行ったのです。
私は今回の旅行の主なメッセージである、「キリストの身体である私たち教会が先ずトランスフォーメーションされなければならない」と言うテーマの例として、三人の弟子たちの見ている前で、イエス様が輝く栄光の姿に変貌したマタイ17章のお話は、まさに私たちが真に栄光の「キリストの身体」に変貌(ここで使われている原語はトランスフォーメーションと言う英語に当たる)しなければならないことを、私たちを代表する三人の弟子にあらわして見せたのだ、と言う形でお話しました。ですからこのカナでの奇跡は、それと同じように弟子たちにして見せた「キリストの身体のトランスフォーメーション」を意味するものであると言う思いが日毎に深まり、そのことを今朝主から最終的に確認されたと言う思いに至りましたので筆にする次第です。

ヨハネ2:1では、先ず「それから三日目に」と言う言葉が出てきます。これは一日を千年と考えれば、3千年目に入った今の時代を指していないでしょうか。つまり、カナでの婚礼とは主ご自身が私たち、キリストの花嫁との間で行われる「婚礼」を意味する預言であったと解釈できます。ですから「弟子たちも、その婚礼に招かれ」ていたことが書かれていることに意味があると思います。
そして、宴会の「ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって『ぶどう酒がありません。』」とイエス様にうったえました。それに対してイエス様は「わたしの時はまだ来ていません。」と言われましたが、確かにそうでした。しかし窮状をうったえられたイエス様は、手伝いの人たちに外に置いてあった六つの水がめに「水を満たしなさい。」と命令されました。この石の水がめには80-120リットルの水が入ると書かれておりますが、この水の量はちょうど人間の身体一人分に当たります。そして六つのかめの六と言う数字は人間をあらわすと言われます。しかもこの水がめは「ユダヤ人のきよめのしきたり」のために用いるものでした。つまり、キリストの花嫁である私たち弟子は信者同士が清め合い、又、未信者をも清めるための水であるはずなのです。しかもそこの置いてあった水がめには、水が使われたからなのか、それとも全く始めから入っていなかったのか、水があまり入っていなくて、イエス様は縁まで一杯に水を満たしなさいと命令されました。これはキリストの身体になる人たちが満杯になるまで集められたことを意味すると考えられないこともありません。
そして、イエス様はその水であるキリストの弟子をワインに変質(トランスフォーメーション)されました。ワイン、特に良質のものであれば、人が飲めば誰でも非常に喜び、それを提供した主人・花婿を賞賛し、栄光を返さない人はおりません。(11節)
私たちキリストの身体にふさわしい弟子とは、元々人を清めるための水なのですが、それが人が喜ぶ最良のワインに変えられるのですから、これこそ主がこれからなさろうとする、キリストの身体を完成すると言う主にとって最も大事で、最もすばらしい奇跡の御業と言えないでしょうか。
しかも主は良いぶどう酒を終末の最後の時まで取って置かれます。(10節)私たちは今そのような時代に生かされているのです。主にふさわしい花嫁に早くトランスフォーメーションされようではありませんか。

ところで余談ですが、数日前に手にしたダッチ・シーツ師の「祈りの権威」と言う本を読んでいましたら、シーツ師がチャック・ピヤース師とアメリカの50州を回っている時の話が載っていました。テキサス州での集会で、シーツ師が話をしている時にピヤース師が突然壇上に現れ、主からのことばとして、唐突に「もし我々が祈れば、サダム・フセインが7日以内に捉えられる」と預言した後「こんなことが口から出てくるなんて信じられない。とにかく後を頼むよ。」と言う驚きの顔をしたピヤース師がマイクをシーツ師に渡して引き下がったと言うのです。後を引き受けた師は、一瞬ためらいましたが後は力強い祈りと宣言をしたそうです。そして3日後にフセインは逮捕されました。その時のことを回想して師は、ピヤース師が主からの預言の啓示を受けた時、もしそのことを言う前に自分で「考えてしまっていたら」恐らくそのフセインの預言を口にはしなかったかもしれないと言っていたと語っています。
勿論ピヤース師の場合は、私の場合と比べ物にならないほどレベルが上であることは言うまでもありません。しかし、主から啓示を受ける時とは、突然のこともあり得ると言うことにおいて、私はなるほどと思い、一つ勉強しました。確かにとっさに受けた啓示を口にしてしまうのは勇気が要り、危険が伴います。しかし、一方で預言的であるためには、そのようなリスクも主は敢えて私たちに踏ませて訓練をされるのかもしれないと思った次第です。(終わり)


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