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Walk With God Ministries

31 8月

聖なる儀式   ウォルター・ビュートラー    8月31日


聖なる儀式
                                          ウォルター・ビュートラー

 皆さんの中には、「夜中に目が覚めたり、主から起こされた時、一体何をすればいいのですか?」という疑問を持っている人がおられると思います。イザヤ30:29を見てみましょう。

 「あなたがたは、祭り(holy solemnity 聖なる儀式)を祝う夜のように歌い、主の山、イスラエルの岩に行くために、笛に合わせて進む者のように心楽しむ。」

 あなたが夜起きて主を仰ぎながらただ座っているとき、それは聖なる儀式となります。主の臨在も、又、何の導きも感じなくても、ただ主をあがめ、主を礼拝して座っているのです。あなたの霊が神を求めながら、静かに座っているのです。心は主をあがめる状態で主を仰いでいます。 それが聖なる儀式です。

 あなたは手を上げて座っています。 手をずっと上げていると疲れますから、私は肘掛椅子をつかって肘を支えます。一時間、一時間半、二時間、、、と。 もっと長く座っていたことも多々あります。ただ座って聖なる儀式を行うのです。 時には「主をたたえます、ハレルヤ」というような短い言葉が出ることもあります。

 詩篇92:1-3を見てください。これは小さなことのように思えるかもしれませんが、そうではないのです。これはあなたが主にささげることのできる最も偉大なる宝の一つなのです。 人が夜、又は昼でも、じっと座って主を礼拝するのは、主が最も喜ばれることの一つなのです。 何かをお願いしたり、金銭を求めたり、また、癒しを求めたりするのではなく、何も求めないで座っているのです。 ただじっと聖なる儀式をします。これは主にとって非常に価値のあるものなのです。

 私は何週間も毎夜この聖なる儀式を続けました。はじめは主に起こされたのではなく、自分で起きたのです。そして座り心地のよい椅子を用意してそれに座りました。 特別な主の臨在はありませんでした。ただ主はどこにも満ちておられる方ですから、私のそばにおられたのです。   私がいるところにいつも主はおられます。主は天と地に満ちておられるのです。それがわかると聖なる儀式を始めるのはたやすいことになります。

 ある夜、何の音も声もしなかったにもかかわらず、私の霊ではっきりと主が私のうしろから近づいて来られるのを感じました。主は椅子に座っていた私の上に後から身をかがめられました。私は主が私を上から見ておられるのが分かりました。そして、主の涙が私の頭の上に落ちてきたのです。 たくさんではありませんでしたが、数滴の涙を確かに私は感じたのです。これは主が私のしていることを喜んでいる涙だ、ということが御霊によって瞬時に確かな真理として私に教えられました。 それは主の臨在の顕らわれでした。その涙(それは霊的なものでしたが)を私が感じるように主はしてくださったのです。 

 それは、毎晩聖なる儀式のために起きている者に対する主の感謝の涙だったのです。主の感謝の心がどれほど深いかを、主は私に知らせたかったのです。これは聖なる儀式をもって主を見上げる魂に与えられる神を豊かに知ることができる特権の一つです。ですから、夜起きて何をしたらいいか分からないときは、聖なる儀式をはじめなさい。

 「夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。」 詩篇42:8

 祈りをするべきときもあります。けれども私が聖なる儀式をするときは私は願いごとはしません。うっかりして何かを主に願ってしまったときは、私はすぐに「主よ、お赦しください。今の願いを取り消しますから、答えないでください。」といいます。聖なる儀式は願いごとをするときではないのです。 それはまた別のときにすればよいことです。

 しかし、主をあがめる祈りはあります。詩篇141:2を見てください。「私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上がりますように。」とあります。これが礼拝の祈りであり、それは香りのよい煙として神のもとに昇っていきます。 あなたは座して霊の中で香を神に焚くのです。

私 は夜主によって起こされるとき、すでに私の心に礼拝の香が燃えているのを感じることがありました。私の中から主に向かって香の煙がのぼっていくのがわかりました。それで私は目をさまし、聖なる儀式のときを持つのです。

 主から起こされるのを待つ必要はありません。自分で起きてみてください。やってみたいと思うならば、いつでもいいですから起きてみてください。「主よ、今から私は聖なる儀式を始めます。ここに座っています。」と申しあげるのです。このことを真剣に、勤勉に続けるならば、あなたの霊のろうそくに火がともり、主の臨在の素晴らしい経験をするでしょう。

 最後に黙示録3:20を見てみましょう。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼と食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」とあります。主のノックの仕方はいろいろあります。あるときは歌をあなたに与えて起こされます。又、主の臨在をもって起こされるときもあります。私は主の足音で起きたときもありました。

 「だれでも」とありますから、すべての人にこの機会は開かれています。ですから主のノックに応えて起きてください。主の呼びかけに応えてください。 すばらしい食事が用意されているのです。 主とあなたとの親しき交わりが待っています。それはあなたのろうそくに火をともす儀式となることでしょう。

 この話を聞いて、「ああ、いいですね。素敵ですね。」というだけではいけません。実行してください。戸を眺めているだけではなくて、戸を開いてください。 そしてダビデと共にこころの中でこういえますように。
「あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます。」(詩篇18:28)(終わり)


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