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Walk With God Ministries

21 6月

霊のシーズン   グラハム・クック    6月21日


霊のシーズン

グラハム・クック

これは神のご性格のバラドックスの一つですが、神は常に変わらない方であると同時に、移りかわるシーズンの中で働かれる方です。 私たち人間にとってそのような聖霊の働き方を理解するのはとても難しいのですが、永遠なる神がなさることにはすべてシーズンがあるのです。
たとえば自然界を見てみますと、神は春夏秋冬という季節を作られ、種まきと収穫のとき、労働と休息のときをこの地に与えておられます。それと同じことが霊的な領域でも言えます。しかし、どういう理由かわかりませんが、多くの教会は霊のシーズンがあることを認めようとはせず、常に不変の霊的バランスがあるに違いないと考え、最善のバランスを見つけ出そうと躍起になっています。彼らは常に一定、コンスタントでありたいと願い、教えとワーシップ、み言葉と聖霊の間に常にバランスをとろうとするのです。

しかし、神はそのような「バランスをとる」という考え方を退けられます。主の霊は私たちの人生の中で満ちたり引いたりするのです。 私たちは、神のみ言葉の中で満たされるときもあれば、御霊の中で満たされるときもあります。私たちの任務は、神がその時々になさっておられることを察知し、それにそって神に対応し従っていくことです。もし神が聖書のみ言葉を使って奥義を啓示しておられるときは、私たちは聖書に焦点を当てねばなりません。 もし神が聖霊の賜物とわざを通して物事を啓示しておられるときは、それに全速力で従っていかねばなりません。


私たちは御霊がフルに満ちている状態でずっと生きていくことはできません。それは不自然なことです。潮は満ちるときがあれば引くときがあります。満ち潮があれば次には必ず引き潮があります。私たちが御霊において引き潮になっているときには、神は私たちを変わることのないみ言葉へと導いてくださいます。 そしてそのみ言葉が、次の御霊のシーズンのための支柱となるのです。神は御霊の引き潮のシーズンを、次に来るブレイクスルーが何であるかを私たちに教えるためにお用いになります。即ち、霊的引き潮のシーズンに私たちが何をするかが、神が次に起こそうとされている満ち潮がどのようなものになるかを決定する重要な鍵となるのです。 神は引き潮と満ち潮を両方用いて私たちを導いてくださいます。 

私たちは今、神の働きには必ずシーズンがあることを理解し、それを受け入れねばなりません。 たとえば、神は初め何もあなたに語られないかもしれませんが、そのシーズンが来れば必ず語られるのです。ですから、私たちは、神からのみ言葉が来るまでじっと主に安息して待つことを学ばねばなりません。
私たち自身が確立されるときと、新しいことへの開発に入るときとは、同時には絶対に起こりません。そのような二つのパラドックスをうまくバランスをとって生きる能力を、神は人間に与えてはおられません。そうではなく、私たちは神が今のシーズンは何をされているかを悟り、それに従って生きるのです。 つまり私たちはその2つの極点をシーズンに従って行ったり来たりするのです。 あるシーズンには私たちはしっかりと神のみ言葉に結び合わされて確立されます。また別のシーズンには、御霊の奥義を捜し求める神秘な冒険の旅に出かけるのです。ただみ言葉の川に浸ってだけいると、私たちは神を知的な思想的な存在にしてしまい、神を「知性をつくして」のみ愛することになってしまいます。しかし私たちが霊的に探求していくと、力を尽くして主を愛するようになり、主により頼む者となります。私たちの信仰生活は、み言葉の素晴らしい冬のシーズンと御霊の燃えるような夏のシーズンの両方を経験せねばならないのです。

ある教会が神の御霊の満ち引きをよく理解していると想像してください。その教会では、御霊が豊かに働いておられるときは、人々は大胆に新しいことを始め、最高の方法で賛美をささげ礼拝することへと解き放たれるでしょう。多くの夜に人々が集まり、ただ熱心に神をワーシップすることだけに時を過ごします。そして日毎に主の大いなる力が現されるでしょう。

そのような教会では皆が霊的に大人になっているので、神がまた「み言葉にもどりなさい」といわれたときには、それを察知できるのです。このような教会は、み言葉の教えと真理が語られるダイナミックな場所となります。そして、次に来る御霊のシーズンで彼らが霊的により深い冒険をするときには、その前に学びしっかりと心に植えつけられた真理のみ言葉が彼らに伴うことを、その教会は確信することができるのです。人々は教師や牧師の周りに喜んで集まり、今のみ言葉の学びは次にくる御霊の大きな流れのための準備であることをはっきりと理解するのです。

み言葉と御霊は素晴らしい相互関係を持っています。二つのものは決して相反するものではありません。お互いに尊重しあい譲りあうことを知っています。そしていつ満ちるべきか、引くべきかをわきまえています。(終わり)

[師の最近の著書「預言とその責任」から]


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