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Walk With God Ministries

20 7月

私たちが整えられること   ウエード・テーラー  7月20日


私たちが整えられること

ウエイド・テイラー 

聖書の中に、青年は幻を見、老人は夢を見る、とあります。1950年にイエス様が私の人生の中に来てくださいました。 今までの年月を振りかえりつつ、主に仕えるようにと主から召されたときに受けたみ言葉をもう一度じっくり考え、私がその召しに対してどれほどお応えすることができたかを評価してみました。

私の成績表に主がどのような点数をつけてくださるのかはわかりません。しかし私は、この終末の時代に主が私に達成するようにと望んでおられるミニストリーのヴィジョンをはっきりと持っております。私がすでに知っており理解していることをはるかに超えたもっと素晴らしいものが用意されており、私はそれを緊急に把握する必要があることを感じています。

もうすぐ何かが起ころうとしていることが、多くの人に示されています。今まで誰も経験したことのない何かが起ころうとしているのです。聞く耳のある者たちには今の時代のためのみ言葉が用意され、それを聞くために共同体としてのバプテスマのヨハネが立てられて、そのような人を通して主は今私たちが理解しているものを超えたみ言葉を語ってくださろうとしています。

「アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。」 ルカ3:2

そのころ神が語ろうと望まれたみ言葉を聞ける者は一人もおりませんでした。そこで主はバプテスマのヨハネを一人召しだし、特別な準備をさせるために荒野に長年おかれました。そして定められた時にイエスをメシアとして世に紹介できるようにされたのです。

今私たちは教会時代の終末に近づいていますから、準備のために長い年月を荒野で過ごす時間はありません。むしろ主は「荒野で呼ばわる声」を調えるためにすばやい業をされようとしています。様々な教会活動から身を遠ざけて、主ご自身だけを求めてきた者たちは、主は自分の存在には気づいておられない、と感じているかもしれませんし、また、自分は取り残されたように思うかもしれません。しかし、そのような場所こそ、私たちが個人的にイエス様と出会う場所なのです、もし定められたときまで忍耐強く待つならば。

主は「今現在の言葉」を持っておられ、それを今語りたいと願っておられるので、それを聞くことができるように私たちを超スピードで訓練する荒野が必要になったのです。

主が訪れられるときは、その前の訪れのときとは全く違うやり方で来られます。ですから、過去に主の訪れを経験し主と出会った人たちが、新しい聖霊のムーブメントに批判的になることがよくあります。なぜならば、新しい聖霊の働きが彼らの経験したものとは違っているからです。私たちもそういう間違いをおかさないように、いつも注意深く主に耳を傾け、自分の既存の理解のレベルに固執せず。それを超えるものを聞く心構えが必要です。

1958年に私は幸いにも主の大いなる訪れを体験することができました。 主の栄光が目に見えるかたちで顕著にあらわれ、私はその中に捉えられて、人生が全く変えられました。私は文字通り「新しいぶどう酒」の中で泳ぎ、それは私の人生に深い影響を与えました。この聖霊の働きは、当時ほとんど起こっていなかったので、多くの人たちはこの聖霊の働きを拒絶し受け入れませんでした。

又、1962年に私は「神の息子たちの顕れ」というカンファレンスにある人と一緒に出席しました。 その人は紙と鉛筆を用意して、カンファレンスの中で批判すべきことがあればすぐ筆記できるようにと身構えていました。そして彼は確かに沢山書き留めるべきことを見つけました。彼は批判的な思いで会場を去り、そのカンファレンスから何も得ることはなかったのです。一方私は、主からの深い内なる思いを受けました。その結果、真の神の息子に関するヴィジョンを主からいただくことができました。それは、自分中心の生き方をやめて、イエス様のいのちと働きを現代の世界に表わしていくために自分の身体を捧げるというものでした。 即ち「神の息子たち」は消えて見えなくなり、イエスのいのちがその人から顕れてこなければならないのです。 しかし残念ながら彼らはその代わりに「宇宙を神のために治める」という人間的な計画を抱いてしまいました。

もし、私たちが主から真の霊的いのちとその真髄を分与されていたならば、人々は興味を持って集まってきたことでしょう。 神の息子Sonshipのムーブメントは起こりましたが、それは残念ながら人々が主とのリレーションシップをではなく、地位を求めたために失敗に終わり、「神の息子」という言葉まで不名誉なものとしてしまいました。

イエスとの個人的な関係を深めるには、主の臨在の中で過ごす多くの時間と忍耐が必要とされます。私はある時主に「主よ、私はもっと早く成長したいのです。」と言って主を急がせ、私が霊的にもっと早く成長するようにとしました。けれどもすぐに私はこれがまさに主に反逆していることに他ならないことに気がづきました。私は自分が消化できるよりも早い速度で導いてくださるようにと主に無理強いしたのでした。それからは、私がついていける霊的成長の速度-それは主が一番ご存知なのですーに委ねることにし、知恵と忍耐力が与えられるように祈りました。

現在ミニストリーで成功している人たちが、どのような人生を歩んできたかを私は考察してみました。そして彼らが成功にいたるまでには、それぞれが色々な代価を払ってきたことに気がつきました。みんな「備えのための荒野」で時を過ごし、そこで主と個人的に出会っていたのです。

私たちは今非常に困難な時代に生きています。社会的にも霊的にも真の指導者がおりません。多くの人々は、自分は明確な目標や目的を持って生きていないと感じています。しかし、それに対しても答えはあるのです。私たちは私たちを飲み込んでしまおうとするすべての宗教的活動を離れて、主が用意してくださっている荒野の静けさの中に入っていかなければならないのです。

特に今日イエス様は、人にいのちを与える預言的言葉を、「聞く耳」を養おうとして来た人たちに聞こえるように、語っておられるのです。

イザヤ50:4 「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」

主が私たちを呼び出されている「荒野」は、私たちの住まいの中にもなければなりません。そこは何にも邪魔されずに

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