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Walk With God Ministries

22 10月

大いなるトランジッションは始まっている  リック・ジョイナー 10月22日


大いなるトランジション(移行、推移、変化)は始まっている

リック・ジョイナー

「トランジションのときは最もリスクが大きい。故に信仰が最も必要とされる。」
大きなリバイバルが起こったところではどこでも、それが過ぎ去ると、前の状態より悪くなったように思えるのはどうしてでしょうか? この問いに対する答えは、教会がもっといのちにあふれるため、また、教会がリバイバルなど必要がないほどの豊かないのちを保つための、多くの重要な答えを持っています。リバイバルというのは、再生という意味ですから、何か生き返らせるべきものがあるときにだけ必要です。教会が、本来あるべき姿で活き活きと繁栄しているとしたら、リバイバルは必要ではなく、どんどんといのちと力を増し加えていくことでしょう。

箴言4:18に「義人の道はあけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」とありますが、これが本来あるべきノーマルなクリスチャニティー(キリスト教)の姿なのです。どんどんと光が増し加わる中を歩いていき、ついには真昼のように明るいところに到着するのです。残念ながら、現在、真昼のように明るい光の中を歩いているクリスチャンがいないのは明らかであり、また、自分はそうだという信用の置ける人もいないので、私たちがまだこれから、かなりの距離を歩いていかねばならないのははっきりしています。しかしながら、ある人々やムーブメントは、明るさを増していく正しい道を確かに歩いているようです。

ですから、もし自分の歩いている道がだんだん明るくなっていかないならば、どこかで道を曲がり損ねて間違って道を歩いてきてしまったのです。そうならば私たちは、間違ってしまったところまでもどって、もう一度正しい道を歩かねばなりません。これは「悔い改め」ということです。

正しい道からそれることは確かにありますが、そればかりか、間違った道の途中で止まってしまって動けなくなると大変です。多くの人がこういう状態におちいります。彼らは罪を犯すとか律法的になるとかではないかもしれませんが、彼らの道の光は少しも明るくはなっていきません。彼らは立ち往生してしまったのです。その理由の多くは、彼らはトランジションするべき場所にきたのにそれができなかったり、あるいは、するのを拒んだりしたからなのです。

霊的なトランジションの中をどのように進めばいいかを知る能力は、リーダーに要求されるものの中で最も難しいことの一つであり、また、それを持つ人は甚だ少ないのです。トランジションの中を通ることは最もリスクが大きく、それゆえにもっとも信仰が要求されます。私が経験してきたすべての重要なトランジションでは、次の霊的レベルに移行するためには、私の働きの全部の存在がリスクにさらされたようでした。この移行をすれば、ミニストリーはもっと実を結ぶようになるという約束があっても、ほとんどの場合、その前には厳しい剪定の過程が要求されるのです。ミニストリーに人がどんどん集まってきて、すべてが上手くいっているときに導くのは楽ですが、人々が去っている剪定のときに導くのは大変です。そのトランジションの目的や必要性は、往々にして、リーダーたちは理解していても、他の人たちにははっきりわからないのです。

使徒パウロが一世紀の教会に次のように言っています。「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」(使徒行伝14:22)この法則を私たちは「私たちが神の国にはいるには、多くのトランジションを経なければならない。」と解釈することができます。トランジションは艱難、苦しみです。ですから、全世界が神の御国に推移するときには、一番大きな大艱難が起こるのです。みんな御国に入りたいのですが、その扉を開いて入っていく勇気のある人はあまり多くはないのです。

しかしながら、教会やムーブメント、ミッション、そして会社や国家でも、発展の途中の段階で止まってしまうと、成長が止み、前進しなくなり、いのちがなくなっていきます。いのちの川はその名の通り川であって、湖や池ではないのです。川はいつも流れ、動き、どこかに向かって動いています。「同じ川に2度入ることはできない。」というのは、そういうことです。川はいつも変わっているのです。好むと好まざるにかかわらず、それが健康ないのちがある基本的な証拠です。いのちの道は義の道とも言われますが、それは道であり、道は必ずどこかへと通じているのです。

聖書の中には、神の偉大な働きを推し進めて行こうとするときに、人々が私たちと同じ問題にぶつかったことが書かれています。一つの顕著な例はエズラ記4:24-5:2にあります。
「 こうして、エルサレムにある神の宮の工事は中止され、ペルシヤの王ダリヨスの治世の第二年まで中止された。 さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。 そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも彼らといっしょにいて、彼らを助けた。」

ハガイとゼカリヤが預言したように、エズラ記には残りの者たちが神殿を再建するために、エルサレムにもどったことが記されています。しかし、基礎工事が終わった時点で、彼らは自分の家を建てるのに気を取られて、神の家のことをなおざりにしまいました。これは、まさに教会が今日ある姿を預言的に表しています。過激的で聖書的なキリスト教、新約の教会を回復させたい、と志す者が大勢立ち上がりました。そして、そのための基礎は据えられました。しかし、その後、働き人たちは気を散らされてしまい、おのおの自分の「家」、ミニストリーを建て上げるために行ってしまったのです。

今ある多くのミニストリーは、御国建設のために真の目的とヴィジョンを持っているものはほとんどなく、みんな個人の目的、ヴィジョンを中心に成り立っています。エズラ記によると、人々は預言者が現れて預言し始めるまで、自分のことだけに気を取られていました。今日主が、預言のミニストリーを立て上げておられる主な理由がここにあります。即ち、主の家の修復を完成させ、教会を神に召された通りの栄光ある姿にするために、人々が再び働きはじめるようにするためなのです。

過去20年の間に、キリストの身体なる教会のより多くの人が、預言のミニストリーを受け入れるようになってきました。

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