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21 12月

感謝の心で不平不満と戦え フランシス・フランジペン 12月21日


感謝の心で不平不満と戦え

フランシス・フランジペン

クリスチャンになったときからずっと私は、次のような質問を人々がするのを聞いてきました。「イエスが『あなたがた12人は、わたしが選んだではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。』(ヨハネ6:70)と、イスカリオテのユダのことについて言われた言葉は、一体どういう意味なのだろう。」と。

イエスはどういう意味で言われたのでしょうか? ユダは遺伝子学的に言えば悪魔であって人ではなかったのでしょうか?(イエスは、ユダの中に悪魔がいる、と言ったのではなく、ユダは悪魔だ、と言われました。)悪魔が人間として人々の間で住むことが、実際に可能なのでしょうか? 私は勿論古代ギリシャ語の専門家ではないのですが、この箇所は原語の文字通りの訳で考えるほうが真実が見えてくると思います。ここで「悪魔」と訳されている言葉は、「diabolos」で、新約聖書の他の箇所では、「中傷する者」とか、「悪意のある噂話」と訳されています。(第一テモテ3:11、第二テモテ3:3参照)

イエスが「ユダは悪魔である」と言われたのは、「あなた方のうち一人は『偽りをもって人を非難する者』、『中傷者』、『悪意ある噂話をする者』である」という意味で言われたのです。ユダは自分の否定的な物の見方を自分の内だけに収めていることができなかったのです。

ユダは、イエスをパリサイ人たちに引渡すほんの少し前に、高価な香油が御自分の頭に注がれるのをイエスがそのままにされたのを見て、腹を立てたことを思い出してください。ユダは「なぜ、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」と怒って不平を言いました。(ヨハネ12:5)彼の言葉によって、他の使徒たちも同じように否定的な思いを抱いてしまいました。(マタイ26:8)ユダが言わんとしたのは、「誰がこの思慮の無い浪費を許したのか?」と責めているのです。勿論、それを許したのはイエスでした。女はイエスの埋葬の準備のために香油を注いだのです。しかし、ユダの目にはそれは浪費としか映らず、イエスはその高価な香油を受けるべきではなかったのです。この事件は、イスカリオテのユダを立腹させ、イエスを裏切るために大祭司の所に出かけることを正当化し決意させるものとなったのです。(マタイ26:14-15)

神は不平を言うことを問題視される

裏切りはある日突然起こるものではありません。人に対して感じた怒りや失望が、そのまま処理されずに心に溜まっていく時に、それが裏切りをひき起すのです。私たちが抱いた怒りは、祈りを通して全面的に神にお渡ししない限り、私たちの内で必ず腐敗して毒となり、その毒がゴシップを通して他の人たちへ伝達されていきます。その過程において私たちは人を中傷するのですが、そうするのが正当な行為と思えるのです。実際には「悪意のある噂話をする者」となってしまっているのですが、本人は、自分が識別した相手の性格的欠陥を「真理」として人に伝えているに過ぎないと思ってしまっているのです。

ユダによるイエスの裏切りを理解するためには、その源を掘り下げる必要があります。イスカリオテのユダは「不平を言う者」でした。私たちは、感謝すべきことが沢山与えられているのに、それが見えなくなって、ぶつぶつと文句ばかり言う者になってしまい、地獄から吹き込まれる思いによってどんどんと暗闇の世界に入っていってしまいます。

他のクリスチャンに対して怒りや苦々しい思いを抱いていると、ついその人のことを批判的なうわさ話として他のクリスチャンにしてしまい勝ちです。その人に対するあなたの批判をそこら中に撒き散らすことがないように、十分注意してください。もしそんなことをすれば、実際のところ、あなたはキリストの似姿になっていくどころか、むしろユダに似る者となっていってしまうのです。

いたるところにいる不平屋

勿論、不平をいう者は、イエスを裏切ったユダに限りません。イエスの弟子になりたいと思っていた者たちや、ユダヤ人の指導者達も不平に侵されていました。次のことを考えてみてください。当時あちこちでイエスによる奇跡が起こっていました。キリストは5000人に食事を与えられたばかりでした。まさにその時にイエスの弟子たちの多くは、人の欠点のあら捜しを始めたのです。イエスが「お互いにつぶやくのはやめなさい。」(ヨハネ6:43)と警告されたにもかかわらず、人々はやめませんでした。彼らは現にキリストの弟子だったことを考えてください。しかも彼らがつぶやいた相手は罪人ではなく、唯一の罪のないお方にむかってつぶやいたということを。
「イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。『このことであなたがたはつまづくのか。』」(ヨハネ6:61)
「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスと共に歩かなかった。」(ヨハネ6:66)


つぶやくとき、人々は奇跡を見ても喜ぶことが出来なくなってしまいます。つぶやくとき、弟子たちはイエスの教えに腹を立てるようになり、イエスと共に歩くのをやめてしまいます。

当時、そうであったように 今でも同じことが起こるのです。つぶやきは、究極的にはあなたがイエスと共に歩むことをやめさせます。それは物事を台無しにするものです。驚いたことには、イエスに欠点を見出したのはイスカリオテのユダやパリサイ人だけではなく、イエスの弟子たちさえ時々ぶつぶつと不平を言いました。彼らの真ん中で天国そのものが現われたときでさえ、彼らは何が間違っているかということばかりに心をとめていたのです。つぶやきの態度をもっているとそうなってしまいます。

この総てに批判的で感謝しないと言う毒は今日の教会の中に満ちています。パウロはそれに対する警告を与えています。「終わりの日には、、、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなり、情けを知らず、和解をせず、中傷し、、、、」(第二テモテ3:1-9参照) これでお分かりですね、「人々は中傷する者となる」つまり悪魔になるのです。彼らはお互いに言葉によって滅ぼし合うようになってしまうのです。

感謝する心

個人的にですが、私はつぶやきに対して宣戦を布告いたしました。感謝のない心は神の御心の敵です。あなたもこの戦いに参加してくれませんか? ぶつぶついう霊を十字架にかけてくださいませんか? 

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