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Walk With God Ministries

14 2月

あなたが今何を信じるかをはっきりさせなさい キャシー・ウォルターズ  2月14日


あなたが今何を信じるかをはっきりさせなさい

キャシー・ウォルターズ

ナイアガラの滝のヴィジョン

神の偉大なムーブメントのことを考えると私たちはわくわくします。その時には「魂が救われ、癒しや奇跡が起こり、神の臨在が顕れる」と思うからです。1948年から1952年にかけて起きたスコットランド西部ヘブリディーズ諸島リバイバルでは、実際に神の臨在が人々を追いかけ、その結果、町中が救われたのでした。(詳しくは私の著書Bright Shining Revivalを参照ください)

数年前、神がこれから始まる神の働きはナイアガラの滝のようであることを見せてくださいました。その幻の中で私は激しく渦まく水の中に立っていたのですが、その渦の勢いでだんだんと滝のほうに引き寄せられていきました。滝つぼに近づくにしたがってゴウゴウという音は激しくなり、私は恐ろしさを感じました。神が「滝の下に入るのはどうですか?」と私に訊かれました。

神の力とは圧倒的なものであって、私たちが自分の意心地の良さの範囲内にとどめておくことは出来ません。神に全く明け渡している人たちがいれば、たとえ主の働きを拒む頑固な人が少しいたとしても神はそのような人たちを無視して働いてくださいます。しかし、過去のリバイバルを見てみればわかるように、もし人々が神に逆らい続けるときには、主はやがてその地を去っていかれるのです。すべてのリバイバルは人間がコントロールしようとしたときに終わりをつげ、神の霊は逆らい続けるものがいるところから身を引かれるのです。私たちは神の御心が何であるかを見分け、神が私たちのためにされようとしていることを知らねばなりません。敵は神の御心とは反対の方向に私たちを連れていこうとします。私たちの生き方やライフスタイルが変わらないようなリバイバルなどありえないのです。

今年は多くの「突然」が起こるでしょう! 備えをしてください。常に戸のすぐそばにいてください。戸はすばやく開かれ、すぐ閉ざされるからです。あなたに神が「突然」戸を開けてくださったとき、躊躇していてはいけないのです。あなたがそこから入ることをやっと決心したときには、もう戸が閉められているかもしれないからです。

隠されたこと、特異な出会い、聖霊の動き

神が現われるときは勿論奇跡も起きますが、それと同時に多くのものが揺り動かされます。その一つとして、今まで隠されていたり眠っていたいろいろなことが、表面に現れてきます。すべてのことがうまくいっていて、人々も幸せそうであり、何も問題がないかのように見える教会に行ったことがあります。しかし、神が顕れはじめると、それまで肉の目では見えなかったことに神の光が当てられて、多くのことが突然はっきり見えるようになります。そしていろんなことが揺さぶられはじめます。毎週日曜ごとに教会に来て幸せそうに見えた人たちが、今までは見えなかったものを見て突然腹を立てたりします。ある人が罪を告白し始めると、人々はとても居心地が悪くなります。ある人がしくしく泣き始めたり笑い始めたりすると、それで居心地が悪くなる人たちもいます。

何年も前、主人のディビッドと私はある団体のカンファレンスで奉仕をしていましたが、そこで神の顕れが大いにありました。霊的なリバイバルの中に私たちは誕生させられ、主の臨在を何度も見ることができたのです。イギリスの南の海岸沖の島にあるキリスト教のゲストハウスに私たちは滞在し、それに付随しているホールで集会を開いていました。神が動かれ私たちはすばらしい時を過ごしていました。日曜の夜の集会がすんだので、ほとんどの人はゲストハウスにもどり、お菓子を食べていましたが、若者たちが数人ホールに残っていました。彼らは輪になって立ち、主を礼拝していました。そのうちの一人は、その朝救われたばかりのティーンエイジャーの青年でした。

私たちがゲストハウスでお茶を飲みながら談笑していると、ホールの方から走ってくる足音がして、「ディビッド、キャシー、早く!」と叫ぶ声がしました。私たちがホールに入っていくと、若者たちはまだ輪になって立っていましたが、救われたばかりの若者は床に膝まづいて右手をのばし、輪の中の一人一人を指さしていました。彼が腕を動かして、輪の中のある一人を指さすと、指差された者は床に倒れ、神の霊に動かされて罪を告白しはじめました。他の若者たちは逃げようとしましたが、足が床に張り付いて動けませんでした。私たちは最後の一人が床に倒れるまでただ見ているだけでした。神によってこのように用いられた若者は、何が起こったのかを後で何も覚えていませんでした。

私たちはゲストハウスにもどり、ホールで起こったことを数人に話しました。人々はまだお茶やコーヒーを飲んだりお菓子を食べていました。突然、私たちはある音を聞きました。それはどんどん近づいてくる列車のように聞こえました。ホールを覆っていた神の臨在が、いまゲストハウスのほうに動いてきたのです。人々は神の臨在に覆われる前にあわててコップやお皿を置こうとしていました。(この現象を私は説明できませんが、人は神の臨在に覆われるのを察知することは確かなようです。)神の臨在(列車)が人々を覆ったとき、彼らは床に倒れ、泣きはじめ、お互いに罪を告白し始めました。しばらくたって神の臨在は去りました。人々の顔は涙の跡で汚れてはいましたが、輝いていました。神の栄光が彼らの上にありました。

次に聖霊は、子供たちがすでに寝ていた2階へと移っていかれました。聖霊は彼らの上に臨まれ、起し、彼らの心を取り扱われました。子供たちは突然、泣きながら階段を走りおりてきました。ついでに申し上げますが、神は子供をのけものにすることはありません。小さな聖霊というものは存在しないのです。私は前に部屋中の大人たちと同様、部屋一杯の子供たちが霊で天国に上げられるのを見たことがあります。神の臨在の中では大きな喜びがあります。主は御霊によってあなたを連れ去りたいのです。

ヘブリディーズ・リバイバルの中で、とりなし手たちに肉体離脱が起りましたが、それが一度起ると一週間も自分の肉体を離れていました。これこそ「アバンダンメント(すべてを放棄して神に委ねきること)」です!(先述の拙著に詳しく書かれています)私はこのような聖霊の働きを何度も見てきましたが、こういうことが起きたとき腹を立てる人がいるのです。それは大抵、宗教の霊や古い考え方のせいです。ある人たちは、人間が神に全面的にコントロールされることに不愉快な気持ちを持ちます。神 が完全に支配されるとき、いかなることも起こりうるのです。

アバンダンメントの霊を持て~そして何を信じるか今決めなさい

アイルランドで5世紀から6世紀にかけて、ペレグリニと呼ばれる修道士たちの群れがいました。彼らはアイルランドの海辺から小さな舟に乗っていろいろなところに行っていましたが、その舟には舵も櫂もなく、ただ帆だけがついていました。神の御計画の場所に着くように、神が必ず風を送ってくださることを信頼しきっていたのです。そして彼らは驚くべき数々の冒険をし、神との出会いを経験しました。これを私は「神の目的のための霊的アバンダンメント」と呼びたいと思います。もしあなたが、本当に神の力が訪れてほしいと望むならば、この姿勢をとることが必要です。別に舟に乗る必要はありませんが、神の目的のためには同じアバンダンメントの霊を持たねばなりません。自分が神にむかって、何を、どのようにするかという指示をしようとするばかりではいけないのです。神に本来あるべき神になっていただくのです。

神はご自分の息子、娘たち―彼らはいと高き神の息子、娘です―が立ち上がり神が召された姿になるのを待っておられます。主はあなたが主のためにただ働くことを望んではおられませんし、世界中を駆け回られて御国の働き手を雇おうとしておられるのでもありません。どうか真の油注ぎの中に入り、油注ぎの中にとどまることを学んでください。なによりもペレグリニたちのように、主のすばらしい目的のために主にすべてを委ねるアバンダンメントの霊を持ってください。あなたが必要なものはすべて、あなたの人生に注がれる神の油の中にあります。神は御自身の願いを既にあなたの心の奥深くに入れておられますから、あなたがあなたの人生を完全に主に委ねるときに、既にあなたの心の中にある御心に従うことが、あなたにとっての喜びとなるのです。詩篇の作者が詩篇40:8で「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。」といっている通りです。

私の友人であるアラスカのアラン・ライデン牧師は、最近、自分が乗っていた船が転覆して、10メートルの荒波の上を10時間漂流していました。彼をやっつけてしまうのが間違いなくサタンの魂胆でした。彼がこの事故に遭遇する前に自分は何を信じるかをすでに決めてあったことは幸いでした。自分の置かれた状況について疑問をもったり答えを出そうとする時間は、彼にはなかったのです。彼はその時、ただ神にすべてを委ねました。

自分が一番願うことは何なのかを決めるのを、神が強く動かれるまで延ばしてはいけません。何を信じるかを決めるのを危機に襲われるまで延ばしてはいけません。自分が何を信じるか、今決めなさい。癒しに関してどう信じるか決めるのを、病気にかかるまで待っていてはいけません。自分の人生に神の川が流れるのを望むかどうか決めるのを、神が動きはじめられるまで延ばしてはいけません。その時あなたは神の川に飛び込まないで、何が起こっているのかを見極めようとして土手に突っ立ったまま貴重な時間を費やしてしまうことでしょう。川は時として、静かな流れではなく荒れて恐ろしく見えるかもしれません。でも神がされていることなら、絶対大丈夫ではありませんか?

私たちは、神に対してアバンダンメントの霊を持たねばなりません。私の集会に来る人たちは、神に対して「主よ、なんでも、どのようにでもしてください。」といって神にすべてを明け渡しています。そう言うのはとてもいいことですから、これからもそう言っていてください。「なんでも、どのようにでも」という心を持っていてください。結果は必ずすばらしいものとなります。今こそ備えをするときです。今こそ自分が何を信じるのかを決めるときです。(終わり)


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