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Walk With God Ministries

11 7月

何故イスラエルを気にかけるのか? サンドラ・テプリンスキー 7月11日


何故イスラエルを気にかけるのか?

サンドラ・テプリンスキー

ヘブル語の聖書を詳しく調べると、「祝福」という言葉が意味する中心的概念がわかってきます。 言うまでもないことでしょうが、現在私たちが持っている祝福という言葉の概念と、ヘブル語のもともとの意味とは劇的に異なることが明らかになりました。創世記12:3で、ヤーウェはアブラハムに「あなたを祝福するものをわたしは祝福する」と言われました。この箇所では祝福するbless にはbarekhという語が使われており、それはヘブル語の語幹であるbarakhから派生しています。驚いたことにはbarakhは「膝まづくto kneel」という意味を持つのです。

ですから誰かを「祝福する」ためには、身体の姿勢ではないとしても、私たちのこころの姿勢が問われるのです。祝福することは、その土台として、まず膝まづくことが暗示・内包されています。人の前で膝まづくことは、敬意、好意、服従、奉仕を表しています。それは人のために自分の命を投げ出す姿勢です。これは今私たちが祝福という言葉を使うときに考えることでしょうか?答えは明らかです。
 
しかしもう少し詳しく調べてみますと、語根であるbarakhは膝まづくという意味ですが、一方barekh(bless祝福する)という言葉は,霊的、物質的に豊かにすることを意味します。Barakhとbarekhを一緒にすると、神が私たちを祝福されるとき、神はいわば膝まづいて私たちを豊かにしてくださるのだということがわかりました。それは私たちの心を震えさせへりくだらせる驚くべき組み合わせです!

まことにイエシュア(イエス)は、神に似せて造られたちりにすぎない私たちの間に住むために、栄光をすべて捨てて無となられました。主のミニストリーが頂点に達しようとする直前に、主は膝まづいて12人の弟子の汚れた足を洗われました。そして十字架にかけられ、血と汗にまみれて苦しみ死なれました。主の私たちへの「祝福」には限りがありません。

聖く偉大な父なる神が、あなたを豊かにするために膝まづいている姿を想像してください。それはあたかも愛情深い父親が、小さな子供と顔と顔を合わせて話すために膝まづいているようです。私たちの二人の娘がまだ小さかったとき、夫のケリーは彼らと顔と顔を合わせて遊んだり祈ったり、またときには叱ったりするために、床に膝まづいたものです。夫は子供たちを豊かにするために膝まづいたのです。子供たちがその時必要としていることや欲しいものを与えるために、彼らのレベルにまで身を低くしたのです。創造主なる神もそれと同じことをあなたや私のためにしてくださいます。 詩篇18:35でユダヤ人の詩人が「あなたは、自ら降り/わたしを強い者としてくださる。」(新共同訳)と高らかに謳っている通りです。

祝福のへりくだり

聖書の中では主を祝福する(Bless the Lord)という言葉が多く出てきます。しかし今日私たちが「Bless God!」と言うのは、「すばらしい!」というような軽い意味で使っているのではないでしょうか。本当に私たちは誠実に主を祝福しようとしているのでしょうか? しかし宇宙の王は、私たちを豊かにするために膝まづいてくださるのです。

「あなたを祝福するものをわたしは祝福する。」という神の約束が、どれほど恵み深いものであるかがお分かりになったでしょうか? アブラハムと彼の契約の子供たちを豊かにするために膝まづくすべての人のために、ヤーウェは膝まづいて彼らを豊かにしてくださるというのです。ユダヤ人と、私たちが彼らを祝福することを通して、神は聖霊の新しいアウトポアリングの水門を開いてくださろうとしているのです。

アブラハム、あるいはユダヤの人々の前に膝まづく、というのは、彼らを崇拝するということではありません。それはキリストのようなへりくだりの心から流れ出る敬意・好意・服従・奉仕の姿勢です。このへりくだりを私たちの中に見るとき、主は私たちを祝福したいという思いを強く持たれるのです。イスラエルに祝福を与えるために神が回復したいと思っておられるのは、まさにこの私たちのへりくだりであり、一番大切なポイントであるのにも拘らず、往々にして欠落しているものなのです。

イスラエルは祝福を失ったのか?

皆さんは質問されるでしょうか。「イスラエルは神の律法を完全に守ることができなかった。そしてイエスをメシアとして拒絶した。そのイスラエルがどうしてアブラハムの祝福を受けることができるのか?」と。これに対する神の答えは、私たちにへりくだりの思いを起こさせます。
 
確かに、他の国々と同じようにイスラエルは罪を犯しました。しかし、イスラエルが祝福を決して失うことはない主な理由が二つあります。第一の理由は、もし民の中に数人でも義人がいるならば、神は民全体を滅ぼさないで救うことがあることです。歴史を通して神はご自分のために忠実なるユダヤ人のレムナントを残しておかれました。新しい契約の後には、神はイェシュアをメシアとして信じ従うレムナントを生き残らせてきました。これらメシアニック・ジューのレムナントはイスラエル全体の救いを祈っています。

第二に、そしてこれが最も重要なことですが、イスラエルが罪を犯しても、神がイスラエルに約束された祝福は、取り消されるとか無効になることは絶対にないという事実です。なぜならば、祝福は契約の基本に由来するものだからです。聖書の契約は法律と同じで、条件がある場合と無条件な場合があります。もし条件つきの契約ならば、それが成就するためにはある必要条件が満たされなければなりません。もし神が条件付き契約を結ばれるならば、神がご自分の契約を果たし成就される前に、契約相手はその条件を満たさねばなりません。しかし、もしその契約が無条件であるならば、神は相手が何かをするのを待つ必要はないのです。神が無条件契約を成就されるのは、人間側の応答に関係もなく、また左右もされません。言い換えれば、人間の罪は神の無条件契約を取り消すことも無効にすることもできないのです。驚くべき恵みではありませんか!

ヤーウェがアブラハムと結んだ契約、即ち祝福とのろいに関する約束ですが、それは無条件でした。契約の中で、神はご自分にだけ責任を課したのであり、アブラハムや彼の子孫には何も課しませんでした。これは創世記15:1-21に鮮明に描かれています。神はアブラハムにいろいろな動物を生贄とすることを指図し、神が火として生贄の中を通られました。この儀式はアブラハムの時代に使われていた方法で、二者間で契約を結ぶときに用いられま

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