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Walk With God Ministries

01 8月

神の見地・・・時間と永遠の合体 キム・クレメント 8月1日


神の見地・・・時間と永遠の合体

キム・クレメント

私たちの自由は状況によって支配されてしまうという思いは、神がひと度語られれば、すっかり取り去られます。しかし、そのためには一つの条件があります。神がそうできるように私たちが神に従順であることです。
最近私は、私たちの「物の見方、見解」 について、そしていかに私たち一人ひとりが「見解」であるかを、考えています。誰もが見解を持っています。私が一つの見解であり、あなたも又、見解です。そう考えると、私たちは自分の信仰体系、教育、霊的理解、個人的歴史(良かれ悪かれ)、そしてとても重要な現在の自分の状況を土台にして物事を見ます。その見解は健全なものであるかもしれませんし、あるいは自分の狭い考えにだけ基づいた見方かもしれません。しかし神が介入してくださると、神の見解で私たちの見方を変えてくださるの

神の見解

神が語られる言葉は神から見た物事の説明であり、その事に対する神特有の見解の完全な説明であり解釈です。なぜ神は物事に関してある特有の見解を持っておられ、どうして私の見解はそれと一致しないのでしょうか。これはよくあることです。神が私たちに語られるときのもう一つの重要な要素は、私たちが主のみ言葉を信じるならば(私たちは時間と空間の中に生きているので、そこから疲れ、病気、圧迫、異なる意見等の制約を受けながらも)、主はそれを実現させることがお出来になるということです。 

あなたは、こう質問されるかもしれません。「神は神であるのだから、なんの制限も受けないのではないですか?」と。その答えは簡単です。神は永遠、つまり時間のないところに生き存在しておられ、人間を時間と空間を司るものとされました。永遠からほとんど助けを借りることなく人間がそれを管理し、時をあがない、空間を占めています。制限のある人間の世界に永遠の力をもたらす助けとなるのは、彼らの信仰だけです。

信仰は山をも動かすことができます。イエスが一本の実のない木に語ったところ、翌日にはそれは枯れていました。主は風や嵐に静まれと命令されました。キリストがされたことは、主の血液の中に存在していた永遠の力を使って主のその時の制約(時と空間)を修正したのです。私たちは主と同じ制約を持っています。しかし、私たちが主と聖霊を受け入れるならば、主と同じ力を持つことが出来、私たちが人生の目標を達成するのを縛る制約は何もないはずなのです。

マタイ16章に書かれているシモン・ペテロの話をご存知でしょう。彼は他の弟子と一緒にいて、イエスの質問に答えようとしていました。「人々は私を誰だと言っていますか?」とイエスは聞かれました。彼らはみんなオウム返しに人々の意見を主に伝えました。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」するとイエスは、明らかに彼ら自身の見解を知りたいと思われて、次の質問をされました。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

主は彼らの意見とか人間的な見解を聞いておられるのではなく、永遠の見地からの答えが何かを聞いておられるのです。誰も何も言いませんでしたが、とうとうシモン・ペテロが答えました。「あなたは、生ける神の子キリストです。」これにイエスは心打たれシモン・ペテロに言われました。「あなたにこの事をあらわしたのは、血肉(時間と空間/意見)ではなく、天にいますわたしの父(永遠)である。」また続けていわれました。「シモン・ペテロ、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう。」

突然私は一つのことがわかりました。「神からの啓示」が私たちの思いと交じり合って言葉となって口から出るとき、天(永遠/制限がない)と地(空間/時間/制限)とのハーモニーが作り出されるのです。シモン・ペテロは「神」からの見解を受けたゆえに、地上のこの世の状況の中に、つないだり解いたりすることによって永遠が入るように命ずることができたのです。

一時的 対 永遠

ここにジレンマがあります。一時的なことと永遠とは相反するものです。制約された空間的見解を捨て去って、永遠の見地の啓示を受けた者が、否定的な制約された意見からくるネガティヴなエネルギーの満ちたこの世の空間に向かって、啓示によって受けたその永遠の見解を宣言し解き放つ、そのような者を神は見つけ出そうとしておられます。
私の祖母がよく言っていました。「人の意見はお尻のようなものだ。誰でも持っていて大抵臭い。」と。 でも少し皆さんを慰めたいと思います。聖書は伝道者の書の3章で、「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。」とありますね。この「心」とは正確にいうとDNAのことなのです。

ですから、限られた時間と空間にいる私たちが持つ制約を克服できないはずは絶対ないのです。あなたのDNAに永遠があるということは、ほかの永遠に生きる人や永遠の物と接触したいという思いにあなたを駆り立てます。そしてもし見つからないと、一時的なものを見つけてその人や物を永遠のものにしようとするのです。

奇妙に聞こえますか? では、このことを考えてみてください。モーセはイスラエル人をエジプトの圧政者から助け出しましたが、400年間圧政のもとにあった何百万人かのイスラエル人の不信、恐れ、怒り、侮辱に取り囲まれていました。彼らの思いは、400年間の奴隷生活、抑圧、苦痛の歴史によって支配されていたのです。

彼らの前に突然ある一人の人が現れて、いくつかの奇跡をして見せ、ついには彼らを自由へと旅立たせました。彼らの信仰や期待感は低かったので、モーセが奇跡を行うことは困難だったといえます。しかし、モーセは神からみ言葉を受けていました。それは即ち、自分の中に永遠の命令は持っていたということです。
神の言葉は一時的ではなく、永遠で、決して死ぬことはありません。モーセは民の中に永遠なるものを見つけようとしましたが、そこには人間的な制約された見方しかありませんでした。あるとき何百万というイスラエル人は旅の途中水が無くなり、神に話して何とかせよ、とモーセに怒って迫りました。神はモーセのそばにあった大岩の中に水があると告げます。これはとんでもないことです。岩の中に水はありません。時間と空間という制約の中においてはありえないことですが、神の見地から見ればあるのです!

ですからモーセがしなければならなかった事は、神からのみ言

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