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Walk With God Ministries

26 9月

神の友 キム・クレメント 2008年9月21日


神の友

キム・クレメント 


最近我が家でバイブルスタディーを開いたのですが、そこには私の子供たちと様々な年代の人たちが集まりました。そこでいくつかの興味深いポイントが話されましたので、皆さんにもお分かちしようと思います。

どうして神は男と女を創造されたのか?

神が地からちりで人を創り息を吹き入れた理由は多くありますが、その中でも一番興味深い(魅力的な)理由は、そしてそれが人間的にもっとも受け入れ難いことなのですが、友情です。
神と私たちの間で友情が可能だなどと、どうして信じられるでしょうか? 友とは何なのでしょうか? 友情にはどんな要素が必要なのでしょうか? (この質問に対するみんなの答えは、沢山のことを私に示唆してくれました。)

友情の要素

楽しみ:友達は一緒に楽しむ
秘密:友達はお互いに秘密を打ち明け合う
興味:友達は同じ興味を持つ
話をする:近くにいても遠くにいても友達はお互いに連絡し合い話し合う

友達はお互いのために何をするか?

お互いに忠実である
お互いに忍耐強い
お互いに赦し合う 欠点をかばいあう
お互いに正直である 「ただの友達はあなたにいつも賛成する、真の友は討論する」
お互いに同等である 「愛は友情と違う。愛は反対のことや極端なことを要求する。友情は同等性を要求する。」

さて、これを私たちと神との関係に当てはめてみましょう。箴言16:28には「陰口をたたく者は親しい友を離れさせる。」とあります。(創世記1:26-28も読んでください)

人を創られたとき、神は毎日園を歩き彼らに友として話しかけるのを常としておられました。そのときひそひそと陰口とたたくものが、神と人との友情を裂くために園にやってきました。
創世記3:1「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。『あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない。』と神は、ほんとうに言われたのですか。」
蛇に対する女の返答は正しいものでした。つまり彼女は神の言われたことを正確に知っていたのです。次に蛇は、いろいろな疑いを抱かせるような言葉を使いました。悪魔という言葉はdiabloですが、これは文字通り「分裂させるために話す、分裂を起こさせるためにささやく」という意味です。

サタンの唯一の目的は、自分のすべての息を、分裂や疑いを起こさせ、団結や契約を破るために使うことです。蛇が創世記3:4で「あなたがたは決して死にません。」と言ったとき、彼は神の言われたことを曲げ、神が二人をだまし、損をさせたのだとほのめかしたのです。
彼らがうそに乗ってしまった時点で、彼らと神との友情は破れました。というのは、もはや「神と、霊と霊で話が出来る」という同等の立場でなくなったと彼らが感じたからです。神が彼らと話すために園に来られたとき、何が起こりましたか?

アダムはあわてて身を隠しました。友情は破れて、それ以来、人は神を恐ろしい、よく理解できない、悪意を持って腹を立てているモンスターとして見るようになってしまったのです。これは真実ではありませんが、彼らは神をそのように見たのです。そしてもっと悪いことには、彼らの裸はもはや自然美ではなくなり、恥になってしまったのです。

驚くべきことに、それでも神は友とされる者を幾人か探しだされました。彼らの話を読むと、そこにはすばらしいパターンがあり、神が人を友として話されることを望んでおられることを証明することができます。
アブラハムは神によって「わたしの永遠の友、アブラハム」と呼ばれました。出エジプト記32:7-14には、神がイスラエル人を滅ぼそうとしたときにモーセが論争をしたことが書かれています。神は実際モーセに「わたしの邪魔をするな」といわれ、神がイスラエル人を滅ぼすままにさせよ、と言われたのです。そのときモーセは、まことの友がするような行動を取ったことを見てください。モーセは神に、もし民を滅ぼせばエジプトから民を連れ出したのは、山地で殺すためだとエジプト人が言って神の評判が落ちると言ったのです。
もしあなたが普通しないことをして評判を落としそうになったときに、あなたの友はどうするでしょうか?

友であるならば、あなたの前に立ちはだかってあなたの行動の結末を警告して、腹を立てているあなたを止めようとするでしょう。友とはそういうものであり、モーセは神に対してそういう者、即ち、友だったのです。聖書によると、神はイスラエル人のした悪に対して気持ちを和らげました。即ち、もっと寛大になり同情的で赦す気持ちになったのです。モーセは神の友として、文字通り神がもっと寛大になり同情をしめし、気を静めるようにしたのです。

次にイエスが友情について何と言われたかを見てみましょう。 ルカ12:1-4で、イエスは数え切れないほどの群集に囲まれました。あまりにも大勢の人で、互いに踏みつけあうほどでした。イエスは群集に話すかわりに、まず弟子たちに話しました。4節で、イエスは弟子たちを「わたしの友」と呼ばれ、群集には話さないことを彼らには話されました。ですから、イエスが主の主であり神の一人子であるにもかかわらず、弟子たちとイエスは友人関係にあったことが明らかです。

ヨハネ15:15「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。・・・わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」
神が私たちを創造されたのは、沢山の理由がありますが、友とされるためであったということを証明する上で、私はこの聖書箇所が非常に好きです。聖書の中で友という言葉が意味するところを理解するならば、現代の友人関係(ほとんど見られなくなっていますが)の概念とは随分違うことがわかるでしょう。私たちは簡単に「この人は私のベスト・フレンドです。」といって人を紹介しますが、実際には他の多くの人をベスト・フレンドと呼んでいるのです。

聖書の基準において「友とは何か」を私たちは本当に知っているでしょうか。神にとってダビデは目の中の瞳のように大切な者と呼ばれました。アブラハムは永遠に神の友であると呼ばれました。「友 friend」という言葉は二つに分かれます。Phileosという言葉ですが、これはPhiとlogosから成り、話しかける相手ということです。神は話しかける相手を持つためにあなたを創造されたのです。とてもうれしい気持ちになるではありませんか。

イエスはご

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