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Walk With God Ministries

13 2月

野望が死ぬとき フランシス・フランジペン 2009年2月13日


野望(ambition)が死ぬとき

フランシス・フランジペン

私がクリスチャンになった時、主が私の将来の夢を見せてくださいました。そして私は、主が言われたことはすぐに実現するものだと思い込んでしまいました。 自分が整えられ、自我に死なねばならない事、忍耐を学ぶ必要、試練にあってもヴィジョンを持ち続けなければ神の約束は成就しないことなどに関して私は全く無知でした。その結果、私は大望、野心でいっぱいになりました。霊的に成熟していない者のうちに起きる最初の動機は、大望や野望、功名心です。イエスの復活の数日後に「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか?」(使徒行伝1:6)と聞いた弟子と私は同じでした。

野望は非常に巧みに人を惑わします。それは全く従順のように見せかけますが、私たちは主を真には知らないので、 神の声だと思って従っているのは、実は自分自身の声なのです。ヴィジョンは確かに神からのものかもしれませんが、動機は自我です。その結果、ヤコブ書にあるように、野望のある所にはやがてすぐに「秩序の乱れやあらゆる邪悪な行い ヤコブ3:16」が起こるのです。なぜでしょうか? それは私たちが神の御心を、人間の力によって達成できると考え始めるからなのです。私たちはブレークスルーを求めていますが、神は私たちを打ち砕き、ブロークンネス、を与えたいのです。

霊的に未熟な者は、未熟なので自分が未熟だということを認めることができません。ですから彼らは焦り、恐れ、要求を突きつけるのです。野望のある者はプライドによって盲目にされ、自分にはもっと大きな神の仕事をする準備ができていると思い込みます。実際のところ、一緒に働く人たちにとって、その人がもっと厄介なお荷物になるのです。というのは、彼の行動がいつも争いをひき起こすからです。

野望は、野望と霊的成熟との間に立ちはだかるものを常に殺そうとします。けれども霊的成熟を遂げるために死なねばならないのは、実は野望なのです。辞書によれば、野望とは「富とか名声などの成功と達成を熱心に願い、そのために努力することをいとわないこと」とあります。野望は争いや教会の分裂、教会内の紛争の主たる原因となります。

神から約束をいただいたのだから、 それをすぐに実行に移す命令を受けたのだと私は早合点しました。自分がまだ徳に欠け、忠実さや、人に仕えること、感謝の心を持つことなどに欠けていたことなどは理解していませんでした。私へのすばらしい約束や好機を神が実現してくださるためには、私の中でこれらの徳が 建て上げられねばなりませんでした。「私が神のために何をしたか」よりも、「私が神のためにどのような者になるか」のほうがもっと重要だったのです。

今私は、38年前に救われた当初には夢でしかなかったような霊的領域の中に生きています。私の野望は大いに傷つき苦しみましたが、私の夢は成就しています。私が召されている一番のことにはまだ達していませんが、野望と真のリーダーシップとの違いを、はっきり理解することができました。即ち、ミニストリーとは「リードせよ」という召しではなく、「死ね」という召しだということです。私が霊的な進歩を遂げた時はいつも、必ずその前に自分に死ぬことを要求される機会がありました。私の人生の力は自分に死んでキリストに生きるところから出てくるのです。

あなたは霊的成長を遂げたいと願いますか? 復活の力を持つ道は、十字架につくことです。神はあなたが自分に死ぬ機会を備えてくださいます。それを見逃してはなりません。自分と自分の野望に死ぬことは、真の霊的成熟を遂げるための道です。自分に死ぬチャンスが与えられた時に、それに対してあなたが肉的な怒りや憤りで反応してしまうならば、成熟はできないでしょう。しかし、あなたの野望が死んでも自分のヴィジョンを保つことができるならば、あなたは成功するでしょう。

真のヴィジョンを持っても、聖い動機を持つとは限りません。ある人は神から直接ヴィジョンをもらったにも拘らず、自己推進やそれを成就させようとする野心によって駆り立てられていることもあるのです。イエスは神の御国は近づいたと言われました。これはヴィジョンです。しかし主は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」ともいわれました。(マタイ16:24)

もしイエスについて行くならば、それぞれがユニークな十字架を授かっていることに目をとめてください。「自分の十字架を負い」とある通りです。神は私たちがヴィジョンを達成する途上で肉的野望をはりつけにするために、一人ひとりのために特別にデザインした十字架を用意されているのです。ヨセフのことを考えてみてください。神は彼に将来に関する夢を与えられました。彼は、その神からのメッセージを静かに思い巡らす代わりに、10人の兄弟に対して高慢に振る舞いました。ヨセフはいつか皆が麦の束のように自分に頭を下げ自分に仕えるだろうと公言しました。

彼の肉的未熟さは、兄弟たちに肉的で悪魔的でさえある策略を思いつかせました。彼らはヨセフを殺そうとしたのです。ヨセフのヴィジョンは神からのものでしたが、彼の思いには徳が欠けていた故に、それによって命さえ奪われかけたのです。(創世記37章参照) しかし、神はヨセフが霊的知識に欠如していた時も尚、彼と共におられたのです。

そして、私たちも未熟で野望を持っているときでさえも、神は共にいてくださることを喜ぶべきです。しかし、次のことを理解していなければなりません。真のヴィジョンというものは、成就する前にあなたを殺すということです。ヨセフはどのような状況におかれても、どのように不正な目にあっても、神を信頼することを学ばねばなりませんでした。彼は忍耐を学び、彼の夢が実現し花開く時がくるまで他の人に仕えることを学ばねばなりませんでした。「彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした。」(詩編105:19)

次のことを考えてみてください。全能なる神はもっと簡単で安全な方法でヨセフをエジプトに連れてくることも出来たはずです。ヨセフは奴隷に売られることなく、家族の中で成長することもできました。彼は夢と解きあかしの賜物をもらっていましたから、聖霊が エジプトに行けという夢を与えることもできました。(何世紀も後のヨセフにはそうされました。)

そしてエジプトに着いたならば、ヨセフの夢の解きあかしの名声が、例えば王が夢を見た翌

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