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Walk With God Ministries

16 8月

御霊により歩む   ジョアン・マクファッター 8月16日 


御霊により歩む

ジョアン・マクファッター 


どのくらい 御霊によって歩むことができるかどうかは、 何よりも私たちが主の御霊をどれほど知っているかによって決まります。黙想や交わりによって御霊をよく知る事により、私たちはますます御霊と一つとなり、御霊の方法や御声を知り、御霊が私たちの内において、又、私たちを通してどのように働かれるかがわかるようになります。
  
御霊にある自分の内なる人を建て上げる方法を理解するにしたがって、私たちは黙想、異言、ワーシップ、御言葉の学び等を通して、出来るだけ主の御霊と頻繁に接し、交わるようになります。主と同じ思いを常に持つためには、聖書全体や歴史の中で 主が人間とどのように関わってこられたかを調べて、 主がどのようなお方であるか、又、主が御自分をどのような形で表されるかを、十分に知ることが非常に大切です。

主の御霊について学ぶならば、御霊がある人に臨まれるとその人の力だけでは不可能だったことが出来るようになることがわかります。ゼカリヤと話した天使はこの真理をよく説明しています。

「すると彼は、私に答えてこう言った。『これは、ゼルバベルへの主のことばだ。「権力によらず、能力によらず、わたしに霊によって。」と万軍の主は仰せられる。』」ゼカリヤ4:6

その人に本来の賜物が何であれ、今までの力以上の能力が御霊により増し加えられます。聖書の中で主の御霊が多くの人たちに臨まれてどのような事が起きたかを見てみれば、それはギデオンからエゼキエル、ダビデ、イエスにいたるまでであり、主は人を偏り見る方ではないことがわかります。多くの者が御霊を受けましたが、今、そのうちの幾人かの例を見てみたいと思います。

主の御霊

主の宮の職人であったウリの子ベツアルエルに関して次のことが書かれています。

「(わたしは)彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。それは、彼が、金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、はめ込みの宝石を彫り、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。」出エジプト31:3−5

これに続いて、知恵を授けられたすべての職人のことが述べられています。知恵はイザヤ11章に書かれている主の御霊が持つ特長 の一つであり、創造力と技術を 彼ら本来の力を超えて豊かに与えるものでした。

「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、、」
イザヤ11:2−3

肉の」目や耳で見聞きしたことで物事を判断しないという事と、主の御霊が私たちの上にとどまることとが並べられて同じこととして書かれているのは興味深いことです。勿論そのことはいつも言われていることですが、実際に実行することは私たちにとって非常に難しいことのようです。同じことを私が繰り返し繰り返し云うことは壊れたレコードのようで嫌なのですが、それはやはり私たちの中にしみ込んでしまっているギリシャ的(西洋的)思考パターンに由来しています。

聖書にはまた、モーセの上にあった主の霊が70人に分与されたことが書かれています。それはリーダーとしての能力に関するものであり、70人の長老たちには御霊が与えられる前には備わっていなかったものであることが明らかです。

「すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その70人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは恍惚状態で預言した。しかし、それを重ねることはなかった。そのとき、ふたりの者が宿営に残っていた。ひとりの名はエルダデ、もうひとりの名はメダデであった。彼らの上にも霊がとどまった。彼らは長老として登録された者たちであったが、天幕へは出て行かなかった。彼らは宿営の中で恍惚状態で預言した。」民数記11:25−26

これは、御霊の働きは時間と空間に制限されないこと示す驚くべき出来事です。長老として登録されていたにも拘わらず何らかの理由で天幕に来なかった二人の上にも、御霊が全く同じように臨まれたのです。私たちが往々にして 作り上げる物理的な壁を、御霊は飛び越えることを示すばかりではなく、「雲の中」即ち、礼拝の場である神殿、で与えられるものは、マーケットプレイスでも与えられることを意味していると私は思います。両方の場所において御霊は同じように与えられ、しかも同じ結果を生み出しました。他の長老たちには面白くないことだったかもしれませんが、御霊の思いは神の目的に適ったものだったのです。

明らかに彼らの上に御霊が与えられたのは、ある一つの能力、 リーダーシップの分与のためでした。しかしながら、それは彼らの心の動機を完全なものにすることはありませんでした。御霊がされたことに対する彼らの怒りは、「集会に来なかった」にも拘わらず同じ御霊を分与された二人に対する反応を見れば明白です。これこそが私たちが自分に死んで主のされる事を完全に受け入れるというプロセスによって訓練されることが非常に重要である理由です。御霊の油注ぎを受けても、その油注ぎを持つにふさわしい徳を持つ者になることは保証されていないのです。キリストに似た者になる努力をするのは私たちに与えられている責任です。

御霊によって歩む

御霊によって歩むとは、ただ単にしるしや不思議、奇跡、リーダーシップ、賜物、預言等ではなく、それを超えたものです。それは私たちが「 する事」ではなく、むしろ私たちが「 どのような者か」ということなのです。御霊によって歩むということが、能力だけではなくこころheartと関係していることが、最近やっと人々に理解されてきたように思われます。御霊によって歩むことは、今までは教会の中ではあまり見られなくなっていました。しかし、主が注ぎ込もうとしておられる油注ぎを持ち運ぶためには、主の御前に常に立つことがどれほど必要であるかを私たちがようやく理解するようになったのは、大変喜ばしいことです。

主の御霊を自分の上、又は内に受けた人々について聖書を調べることをお勧めします。それをすべて 書く事はできませんが、これから来ようとしている御霊の注ぎを受ける備えとして 自分を主にあって確立させるために考えるべきものをあなたはきっと与えられるでしょう 。今ここで、ダニエルにスッポトライトを当てたいと思います。

まず第一に、王が探していたのは「 身に何の欠陥もなく、容姿は美しく、あらゆる知恵に秀で、知識に富み、思慮深く、王の宮廷に仕えるにふさわしい者であり、また、カルデヤ人の文学とことばとを教えるにふさわしい者」でした。(ダニエル1:4)

それから王は、彼らが当時の習慣にしたがって出来うる限り最高の食事を与えられ教育されることを望みました。しかしダニエルと三人の友人たちは、主の御こころはそれとは違うことがわかり、立ち上がり、彼らが生かされていた時代にあって御霊によって歩む道を選びとりました。聖書には、王の命令とは全く異なる主からの言葉をテストすることを許されるという恵みもダニエルは受けたと書かれています。私たちが御霊の声に従うときには、必ず恵みが伴うと私は信じます。

そして端的に言えば、「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢を解くことができた。」という結果になったのです。(ダニエル1:17)

ここで注目したいのは、彼らが持っていたものは「神がそれらを与えられた」ということです。権力や能力によるのではなく、主の御霊によって彼らは与えられたのです。他の者たちが人間の思いに従ったときに、彼らは聖書にあるように御霊の知恵に従い、その結果10倍もまさった者になりました。(20節)そればかりか、彼らが火の中に投げ込まれた時には物理の法則をも超越したのです。彼らはこころ、身体、霊に秀で、いわゆる「超自然」の領域に生きていました。それは御霊によって歩んでいた当然の結果にすぎないと思います。

その結果、ダニエルは すべてのものを備えました。身体、思い、魂、霊のすべてを備えていたことにおいて、彼は御霊によって歩んだ者の最高の手本となりました。

「あなたの王国には、聖なる神の霊の宿るひとりの人がいます。あなたの父上の時代、彼のうちに、光と理解力と神々の知恵のような知恵のあることがわかりました。ネブカデネザル王、あなたの父上、王は、彼を呪法師、呪文師、カルデヤ人、星占いたちの長とされました。王がベルテシャツアルと名づけたダニエルのうちに、すぐれた霊と、知識と、夢を解き明かし、なぞを解き、難問を解く理解力のあることがわかりましたから、今、ダニエルを召してください。そうすれば、彼がその解き明かしをいたしましょう。」ダニエル5:11−12

すばらしいことは、神があなたを創造された目的が何であろうとも、あなたが御霊によって歩むことを選び取るならば、あなたは御霊によって生きる喜びに与りつつ、この世でのあなたの能力も増し加えられるということです。神は霊の世界とこの世の二つの領域が共に支え合うようにと始めから計画されましたし、私たちは二つの領域でフルに機能できるように造られていると思います。それは私たちの前に備えられたチャレンジであると同時に招きでもあります。今家庭で育児をしている人であっても、科学研究所で何かを発見している人であっても、また路傍伝道をしている人であっても、世界をあっと言わせるような芸術作品を造っている人であっても、すべての人にとってそうなのです。

最終的には多くの人々は権力や能力によってではなく、主の御霊によって捕らえられるのです!(終わり)

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