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Walk With God Ministries


09 08月

トーフー・ボークー    坂 柚実子     8月9日


トーフー・ボーフー

グラハム・クック師のカンファレンスのCDを聞いていたら、「トーフー・ボーフー」という言葉がでてきました。創世記のはじめの「(地は)形がなく、何もなかった。」という箇所のヘブル語だそうです。 クック師がおもしろがって何度も「トーフー・ボーフー」と言うと聴衆もそのたびに笑っています。私も「豆腐が暴風のなかでグチャグチャになった感じね。」と納得しました。私たちのこころも「トーフー・ボーフー」になってしまうことがあります。

カーター元大統領の妹さんが人生の嵐の中に置かれたとき、ある教会の集まりに出席したそうです。リーダーが「愛、喜び、平安の3つの中で、何が一番今あなたは欲しいですか?」と聞いたとき、彼女は「私は全部欲しいです!」といって泣きくずれたそうです。そこにいた人たちは彼女の正直さに心打たれ、みんなで彼女のために心をこめて祈ったそうです。

今私たちの周りは悲惨な事件が満ち、関係者の苦しみはいかばかりかと思います。また、すべての人々は様々な苦しみ、悲しみ、悩みを経験しています。そういう困難な中にあっても、主を信じる私たちは揺るがない愛、喜び、平安を持つことが可能であるとクック師は言います。彼は何事が起ころうとも、数秒で主の平安に入ることができる霊的訓練を徹底的にしたそうです。ダビデが「神は私の避け所であり、砦である」と何度も詠っているように、主の翼の陰に逃げ込む道をしっかり会得することは、非常に大切だと思います。

ちなみにクック師の人生は苦難に満ちていました。兄弟の中で何故か彼だけが父親に疎まれ、ひどい虐待をいつも受けていました。母親はクリスチャンではありませんでしたが、あるときの父親の仕打ちがあまりに激しくこのままでは彼が殺されてしまう、神よ助けたまえ、と祈ったのでした。すると、クック師は高熱を出し入院せねばならなくなり、それで父親の手から逃れることができて命が助かったそうです。彼は友人が一人もおらず、誰とも親しく話すことができないで成長しました。そういう境遇の中で、彼は主イエスを唯一の友、唯一の話し相手として親しく知るようになりました。

主によって預言者として立てられましたが、1970年代のイギリスのキリスト教界ではまだ預言者に対する認識が低く、中傷、非難、迫害の連続だったそうです。長い間の経済的困難は勿論のこと、彼の妻が神経をわずらい彼の世界的な活動についていけないという理由で最近妻から離婚を乞われ、このこともキリスト教界の一部からの非難を受けることとなりました。

彼の話が聞く人の心に響くのは、このような苦しみを通ってきた人にしかわかり得ない神の真実を彼が知っているからだと思います。そして苦しみの中でも神の愛の深さを十分に味わって静かに勝利している真の信仰の強さを彼の中の見ることができます。

私たちのいのちの源は神です。地がトーフー・ボーフーであったとき、聖霊がその上を覆ったように、私たちも主の前に立ち静かに聖霊に覆っていただき、神を礼拝することはクリスチャン生活の原点であり、苦しみの中にあるとき私たちがとるべき姿勢だと教えられます。 (終わり)


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03 08月

天の御国は今地上に侵入してきている  リック・ジョイナー  8月3日



天の御国は今地上に侵入してきている

リック・ジョイナー  

真理の回復

一世紀に教会が始まって以来今日に至るまで、人々に受け入れ易くするためと称して、キリストの福音を水で薄め妥協の産物に変えてしまう人たちが常に現れてきました。 これは一見、福音を受け入れ易いものにして敵を作らないので教会の発展を助けるように思えますが、かえって教会や真のクリスチャンに様々な問題を与える結果を生みました。 水で薄めた福音の最終的な実は、真の改心者を生み出すというよりも、それ以上に多くの偽善者を生み出す結果になり、究極的には教会史の中で最も暗い時代をもたらしてしまいました。今教会はその暗やみから少しづつ這い上がり、光と真理を回復しつつあります。

光と真理が回復されてきたのは、リーダーとなった真の弟子たちの働きによるのであり、彼らが人々よりも神を喜ばせことを決意したからです。彼らは福音を水で薄めるという誘惑を退け、人々に何と思われようとも神の御前で真理に立って歩むことを決意したのです。 真理を回復させている者たちは、論争や争いの渦中にいつも置かれることになるのですが、それは自分は神を喜ばせている、という内なる平安を受けるための代価としては、ほんのわずかなものと言えましょう。

栄光と光が放たれている

今真理を追い求めている者たちの中に栄光と光が解き放たれています。一方真理の回復が進んでいる中で、神ではなく人を喜ばせようとしている者たちの間には暗やみと混乱が広がっています。 パウロはガラテヤ1:10で、「もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」と言っています。 人の歓心を買おうとすればするほど、主への真の奉仕からは遠ざかってしまうのです。

主のご計画の一部を担う者となり、神の王国の道備えをしたいと願うならば、私たちは人を恐れることから全く解放され、ただ神だけを畏れつつ生きねばなりません。 イエスはヨハネ5:44で「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたはどうして信じることができますか。」と言っておられます。

栄誉(glory)と訳されているギリシャ語はdoxaで、「認められること recognition」とか「名誉honor」とかに訳すこともできる言葉です。神からではなく人からの栄誉や承認を求めて生きているとすれば、主がここで疑問を投げかけておられるように彼らが主を信じることは不可能でしょう。人に対する恐れが真の信仰を打ち壊す最たるものなのです。

真の弟子は人を恐れることから全く解放されている

この時代の終わりに近づいている今、人を恐れることなく神に喜ばれ神に仕えることだけに生きる真の弟子、真のリーダーが起こされてくるでしょう。彼らは地上でもっとも危険な者たちであると言われるでしょう。 妥協して生きる人たちや、神のためではなく人のために作られたすべてにとって、彼らは危険な存在となるのです。

この世の王国、即ち人間の王国と神の王国とがいずれ衝突することは必至であり、両者の間の軋轢はだんだん大きくなっていくでしょう。 しかしながら、もし自分は神に従っていて神に喜ばれていると確信できるならば、たとえ全世界を敵にまわしてもあなたは完全な平安のうちにとどまることができます。

 確かに真の弟子やリーダーはまだわずかですが、今すでに私たちの中に現れています。 彼らは神のみこころによってのみ生きる者たちであり、神の王国のパン種であり、パンにする粉全体、すなわち教会全体をふくらますことができます。ダニエル2:44-45に、ダニエルがネブカデネザル王の像―それは歴史上の数々の王国を表していましたが―の夢を解き明かしたことが書かれています。

  ダニエル2:44-45 「 この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。」

天の王国は今地上に侵入している

  ダニエル2:35にあるように、「その像を打った石は大きな山となって全土に満ちた」のです。この地上の数多くの王国のただ中にもう一つの王国があるのです。それは一つの石だったのですが、それが大きな山、即ち一つの統治制度にまで成長し、ついには地上全体に広がっていくのです。この王国は、王に従いたいと心から願う者たちによって構成されています。すべての地方教会の中でこのような者たちがこれから立ち上がってくるでしょう。

  王なる主ご自身や主の道を備えたメッセンジャーと同じように、妥協に対して断固として戦う者たちがいます。この世と妥協した生き方をしている人たちの人生には、様々な問題がこれから起こってくるでしょう。

  私たちは「統治」というと政治的組織だけを考えがちですが、霊的な統治とは勢力と影響力の領域で行われるのです。その中には、メディア、産業、経済機構、教育機関なども含まれます。

  一つの石がこの世のシステムを打ち砕くために現れ、王の王にひざをかがめない者は風に吹かれる籾殻のようになるでしょう。誰が石の一部となるか、誰が籾殻になるかが、今決められつつあります。主がマタイ16:24-26で言っておられるとおりです。

 マタイ16:24-26「 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」

  使徒パウロは、自分は毎日死んでいる、といっています。(Iコリント15:31) 彼は真の弟子でした。同じことがすべての真の弟子についていえます。彼らは主のみこころを行うために自分の命を毎日捨てるのです。自分のためではなく主のために生きるからです。

誰に仕えるのか、今日選びなさい


  私たちには毎日誰のために生きるのか、即ち、自分のために生きるのか主のために生きるのかという選択肢が与えられています。私たちは、自分の十字架を負う機会を少なくとも一日一回は与えられることは間違いないでしょう。 それは自分の思いや野心に死んで、主の真理に堅く立ち、人の歓心を求めるのではなく主に仕えていくことを選びとる機会です。 私たちは今どのような選択を日々しているでしょうか。それこそが私たちがどちらの王国に属する者になるか、終わりのときにどこに立っているか、を決定していく一番の要因なのです。

  主への信仰と真理を守るためにはいのちをも惜しまない、と言いながら日々の生活の中でそれを実践していかないならば、自分自身をだましているのです。 真理を知っているにもかかわらず自分に妥協を許すことは、本人の基本的人格、尊厳を損なうものであり、やがては癌のようにその人の全身を侵していきます。

  小さなことにまず従わないならば、大きなことにも従えないのです。 「証人witness」と新約の中でしばしば訳される言葉のギリシャ語は、実際に「殉教者 martyr」 とも訳すことができます。私たちは毎日殉教者になるようにと召されているのです。自分の命を捨て自分勝手な思いを捨てることによってこそ、私たちは福音の真理を証する証人となることができるのです。

  これからは神の王国とこの世の王国とがますますはっきりと切り離されていくことは確かなことでしょう。 王なる主のしもべたちと他の人たちとの相違が、誰の目にもはっきりしてくるでしょう。 イエス・キリストが人間のすべての問題に対する答えです。 ですから、神に服従せず従わないことが、人間のすべての問題の究極的な原因なのです。この事実はこの時代の終わりに近づいていくに従ってますます明らかになっていくでしょう。今日どのような選択をしていくかが、私たちが人間の王国の足を打ち砕く石の一部分になるのか、あるいは籾殻になってしまうのかを決めるのです。

  他の人々からの―たとえ彼らがクリスチャンであっても―歓心や称賛を求めて自分の信念を捨て妥協することがないように、私たちは知恵ある選択をしていくことを今、堅く決意すべきです。
神の王国の一員になるのだとすれば、私たちがいのちをもってお仕えするのは人ではなく、主なる神でなければなりません。(終わり)


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02 08月

一座建立       坂 柚実子         8月2日


一座建立

一座建立(いちざこんりゅう)とは「茶道で主客(亭主と客)に一体感を生ずるほどに充実した茶会となること。茶会の目的の一つとされる。」ことだそうです。

私も以前茶道をしていましたが、茶事、茶会で亭主をするのは、それこそ大変です。点前道具や懐石料理、軸、花、茶室、露地等々、準備するものがたくさんあります。大事な茶事であれば、何ヶ月も前から準備にかかります。それでは、それに招かれる客は楽かといえば、そうでもありません。いろいろな決まりごとがあり、一応それを会得していなければよい客とはなれません。

客の代表を務める正客に選ばれるのは、非常に光栄ではありますが、責任重大です。というには一座建立するためには、正客がどのように亭主と言葉を交わすか、どれほど他の客の気持ちを汲んでことを進めることができるかにかかっているからなのです。例えば他の客が静けさを楽しんでいるときに、正客が饒舌ではぶち壊しです。

道具について亭主に尋ねるときも、的を得た質問でなければなりません。ですから頭の知識も必要です。でも知識をひけらかすだけではよい正客とはいえないでしょう。やはり、こころの在りよう、即ち、自分中心でなくそこにいる全員のことを考慮する正客のこころの広さが、一座建立の鍵なのだと思います。茶道で私が教わった一番大切なことは、このことだったような気がします。

今の私が痛切に感じているのは、様々なミーティングの中で、自分がいつ、何を話せばよいのかをわきまえ知る難しさです。伝道者の書に「黙っているのに時があり、話をするのに時がある。」とありますが、今は黙っているべき時なのか、それとも話すべき時なのかをわきまえ知ることは、人生の様々な訓練の中でも最も大切なものの一つではないでしょうか。

ミーティングにみんなが気持ちよく参加するためには、その会の性質をわきまえ、一人の人の話しを聞くべきときならばしっかりとそれに耳を傾け、全員が意見をいうべきときであるならば自分に与えられている時間内で適切に話すことが大切です。私たちは必ずしも人間的なレベルでの「いい会」を望むわけではなく、聖霊が自由に働いてくださる会をもとめますが、そのためにも参加者一人ひとりがしっかりと聖霊に聞きながら平安の中でお互いを尊重しながら会を進めなければならないと思います。

どちらかというとアメリカ人には自己主張が強いおしゃべりが多いかもしれません。そういう人といるとこちらは話さなくていいので、楽といえば楽ですが、やはり聞くばかりだと疲れますし、こころの交わりにはなっていないことが多いと思います。 

ある日本の高校生の親への希望というのに、「父よ、もっと話してくれ。 母よ、もっと黙っていてくれ。」とかがあったそうですが、父とも母とも心からの会話をすることができない彼のジレンマが表れているような気がします。いろいろな生活の場で「一座建立」ができるならば、人間の「解りたい、解ってもらいたい」という根本的な必要がかなり満たされるのではないでしょうか。(終わり)


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