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Walk With God Ministries


18 02月

二種類の人間    坂 柚実子    2月18日


2種類の人間

人間を二つに分類するにはいろいろな方法があります。
私の勝手な分類の仕方には、畑人間か釣り人間か、というのや
テニス人間かゴルフ人間か、等があります。
これはただ趣味が違うというだけではなく、深い性質の差があるように私には思えるのですが、いかがでしょうか。

これはどこかで読んだ分類の仕方ですが、
“There you are!”人間と、
“Here I am!” 人間があるのだそうです。 
直訳すると、
「あなたがそこにいるのね!」と
「私、ここにいますよ! 」 となりましょうか。

“There you are!”人間とは、
自分ではなくて、相手に注目する人。
“Here I am!”人間とは、
相手ではなく自分に注目してほしい人、ということでしょう。

これは一応“There you are!”と、自分より相手を中心に考える人間のほうがいいと思われます。自分の必要より相手の必要を考えられる人なわけです。

私がオレゴンで最初からずっと仲良くしてくださり、お世話になったメリーさんという方は、そんな人でした。 会うと必ず、「ゆみ、そのブラウスはとっても素敵よ。」とか「今日の髪型はとても似合うわよ。」とか、何か私を励ます言葉を言ってくれるのです。電話をすると「What can I do for you? 何かお役に立てるかしら?」と聞いてくださるのでした。これはただ「アメリカ人はそういう物の言い方をする」という以上の、彼女の心そのものでした。私のアメリカ生活はメリーさんによってどれだけ助けられたかわかりません。彼女は周りの人のことをいつも考えている人だったのです。

ベタニヤのマリヤはイエス様のお気持ちを考えて、静かにイエスの足元でお話を聞いていました。これは“There you are, Jesus.”という態度だったでしょう。 マルタは自分だけが忙しく立ち働いていることでイライラしましたが、これは“Here I
am!“と自分を主張したことだったかも知れません。

でも、私たちも“Here I am !”と言っていいときがあると思うのです。今冬季オリンピックの真っ最中ですが、長年の厳しい練習を重ねての晴れ舞台で、選手たちが「今こそ実力を出しきるぞ。」という気迫で氷や雪の上に立つ姿は“Here I am !”のすばらしい瞬間だと思います。

クリスチャンとしても、晴れ舞台に立つ機会を与えられることがあるでしょう。いえ、これからは、どんどん社会の中でもクリスチャンが活躍し、輝いていくときだと預言されています。そのとき、主と親しく交わり主から特訓をうけたクリスチャンたちが“Here I am in Jesus!”と主にあって輝くことになるのだと信じます。いずれにせよ、つねに主のうちにあるならば、「自分の思い」ではなくて、「神の思い」の中で、自意識から解放されて生きていく道を与えられている私たちはまことに幸いだと思います。(終わり)


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08 02月

シュワちゃんのこと      坂 柚実子     2月8日


シュワちゃん

もと映画俳優で今はカリフォルニア州の知事であるアーノルド・シュワツネイガー氏のことを日本ではシュワちゃんというらしいですね。そのシュワちゃんに関する逸話をご紹介します。トランスフォーメーション・ハワイに携わっているモアナルア・ガーデンズ・ミッショナリー教会のコンチネン牧師が、先日のエド・シルボソ師の集会のときに話してくださったものです。

「最近、うちの教会のメンバーの娘がカリフォルニア州のサンディエゴで結婚することになりました。両親はハワイのトランスフォーメーションのビデオを沢山もってでかけました。

結婚式が終わってから、彼らは娘に、知事のいるサクラメントまでの飛行機代を出すから、知事にこのビデオを渡してきてほしいと告げました。娘は『とんでもない、シュワちゃんが私なんかに会ってくれるはずはないでしょ!』と答えました。するとお父さんが、『ハニー(愛する娘よ)、誰がこの結婚式代を払ったんだっけ?』というので、娘は『分かったわ、行ってくる。』と仕方なく引き受けました。

数日後、両親はハワイにもどっていましたが、娘さんから電話がありました。『今、知事のオフィスに来たんだけど、中に入れるかどうかもわからない。もう帰ろうと思うんだけど。』という娘に、母親は『とにかく中へ入りなさい。』と励ましました。

又、すぐに電話がありました。『アポイントメントは取れたけど、シュワちゃんの時間があくまで、待ってなくちゃいけないのよ。何時間後になるか分からないし、そのときに会ってくれるかどうかの保証もないの。やっぱりもう帰ろうと思う。』という娘に、母親は『ハニー、あなたの大学の費用は誰が出したか覚えてる?』といいました。娘は『分かったわ、待ってみるわ。』と承諾しました。

しばらくして、また、娘から電話がありました。『私、今、知事と一緒にいます。彼がビデオを今一緒に見てくれて、お母さんと話したいといっているの。電話、彼にかわるからね。』という娘の声に、お母さんは冗談かと思いましたが、電話の向こうに確かにシュワツネイガー氏がいたのです。『ハワイのトランスフォーメーションのビデオを見て、とても興味を持ちました。もっといろいろと知りたいと思うので教えてください。』と彼は言ったのです。なんと神様のされることはすばらしいのでしょう。」

ハワイのトランスフォーメーションは学校から始まっていて、その一つの表れはティーン・エイジャーの妊娠が減っていることだそうです。カリフォルニアでもハワイのトランスフォーメーションがモデルになることをハワイの人たちは祈っています。(終わり)


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31 01月

色々ある        坂 柚実子     1月31日


色々ある

ハワイに住むようになって、毎朝のようにパパイヤを食べています。オレゴンから遊びに来た人と一緒にスーパーに買い物に行きましたが、食料はほとんど全部といっていいほど、オレゴンよりハワイのほうが高いです。ハワイのほうが安いものは、というとパパイヤとマンゴ、パイナップルくらいのものでした。
安いパパイヤですが、朝食に食べていると、やっぱりリッチな気分です。半分に切って中の黒い種を出すのですが、私は内心いつもその種の多さに驚嘆するのです。マンゴの種は大きいのが一つだけなのに、パパイヤの種はなんでこんなに沢山に神様はしたんだろう、と思うのです。マンゴとパパイヤの木は生育形態が全く違いますから、きっとパパイヤは沢山種を作っておかなければならない理由があるのだと思います。ちなみにパイナップルはどうやって育てるかご存知でしょうか。パイナップルの実の上の葉の部分を土に植えると新しいパイナップルの苗になるのですよ。

うちの庭には、ピンクの花のジンジャーが植わっています。その花が終わりかけると花の中から新しい葉っぱが出てきて、それが新しい苗になります。私はそうやって殖やすのが楽しくて、今は庭に沢山ジンジャーの子供たちが育っています。同じジンジャーでもホワイト・ジンジャーは全く花の形も違い、匂いも違います。私の亡くなった母は台湾で子供時代をすごしたからでしょうか、家の庭にレーシ(苦瓜)やホワイト・ジンジャーを植えていましたので、私にとっては懐かしい花です。甘い清らかな匂いがします。黄色のジンジャーも又、花の形も匂いも違います。

私は何が言いたいか、というと、なんでも色々あるんだな、ということなのです。神様の創造はなんと多種、多様、多彩であることでしょう。それと反対に、人間が作るものはどうしても画一的になってしまいます。教会のことを考えるとき、神様はいろいろあっていいんだよ、と言っておられると思うのです。

グラハム・クック師がかかわっていたイギリスの一つの教会は、建物の中では集会をしない教会だそうです。それは大道芸人が集まった教会で、彼らは都会や田舎に出かけていって、集まった人に大道芸を見せながら、福音を語るのです。観衆に自分を縛りあげてもらって、縄から抜け出しながら自分が罪に縛られていたときにイエスによって救われた証を笑わせながらしていく、というようなことをするそうです。彼らは共に集まり、賛美し、御言葉を学び、祈りあい支えあっているから教会なのです。

これはちょっと突飛な例だとは思いますが、教えられる事があるではありませんか。人間的な考えではなく、神様から示されたように教会を建て上げていくとき、きっと一つ一つ、雪の結晶のようにユニークで美しい教会ができるのではないでしょうか。他と比べることもなく、競争する必要もない、それぞれはキリストの身体の一部として大切な働きをしていくように作られるのです。

私たちはハワイに来て初めの一年間はハワイで一番大きな(1万2千人)ニュー・ホープという教会に通っていました。主任牧師のコーディロ師は日本でも良く知られた方で、それはすばらしい説教者です。私たちはそこで大変恵まれましたが、私たちが遣わされるところではないことがわかりました。そして導かれてニュー・ライフ・チャーチのメンバーになったのですが、そこは120人の教会です。この大小2つの教会はそれぞれに神さまからの特別な使命をいただいており、活き活きと活動しています。又、ニュー・ライフで今まで賛美リーダーをしていた人が、今回「家の教会」を始めるということで、みんなから祝福されて教会を出て行くことになりました。オダ牧師が心から「家の教会」のコンセプトに賛成しておられ、彼の新しい出発を喜んでいるのが彼の言葉からよく分かりました。(そして神様は新しい賛美リーダーも備えてくださいました。)

メガ・チャーチも小さな教会も、又、家の教会も神様は祝福されます。大切なことは、それが主の教会であって、主の導きを求め、主に従っていくということではないでしょうか。(終わり)



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25 01月

どこでもドアー  坂 柚実子   1月25日


どこでもドア

うちの息子は子供のときドラえもんが大好きで、日本の主人の友人からいつもドラえもんのビデオを送ってもらっていました。ドラえもんのポケットから出てくるいろんな小道具は、本当に夢があります。タイム風呂敷や竹コプター、翻訳こんにゃく等々、「こんなものいいな、あったらいいな」のテーマソングの通りですね。その中でも一番の憧れは「どこでもドア」でした。いつでも行きたいところにすぐにいける、というのは、誰もが望むことでしょう。

先日のオダ牧師のメッセージは「私たちには天国の鍵が与えられている。私たちの入っていくところは、いつでも天国にすることができる。」というものでした。どこに行っても、私たちが王の王であるイエス様と共に入っていけば、そこを神の御国にすることが出来る、というのです。私たちはどこにでも天国の入り口を持っていくことができる、そしてその鍵を持っているのです。ドラえもんの「どこでもドア」がドアの向こうに行きたい場所が現れるのと違い、天国の「どこでもドア」は自分の行くところをどこでも天国の入り口にすることができるのです。イエス様をお連れすることが鍵でしょうか。

私にはもう一つの「どこでもドア」がありました。私はオレゴン州で10畳の和室で茶道を教えていたのですが、そこで、4畳半とか2畳での点前を教えるときは、竹と木で作った至極簡単な戸のようなものを置いて小間のお稽古をしていました。マックスというアメリカ人男性の生徒が作ってくれたものでしたが、大変便利で、みんなで「どこでもドア」と呼んでいました。それを置くだけでそこが小さな茶室の入り口になり、生徒たちは神妙にそこから出入りしました。先ず、「どこでもドア」の前に正座をして気持ちを静め「和敬清寂」の心になります。そしておもむろに「どこでもドア」を開けます。室内にいる客と目を合わせて、「お茶を一服差し上げます。」と心をこめてご挨拶します。

天国の「どこでもドア」も、もしかしてそんな風に扱ったらいいのかもしれません。自分は神の国を持ち運ぶ使節なのですから、行くところ行くところにドアを設置し、開ける前にその心がまえを持ち、イエス様と共に入っていくのです。これに関して教会の人の証を聞くことができました。彼女のご主人がオフィスの引越しをする手伝いをしたとき、このメッセージを思い出して、ご主人が様々なことでイライラしていた時に神の平安と共にオフィスに入り、そこを神の御国にすることが出来たと言う証でした。

グルーバー師と祈りの歩行をされた方はご存知のように、師はどこへ行っても、必ず門のところで、詩篇24編7-10節を引用して「門よ。お前たちのかしらを上げよ。天の永遠の戸よ。あがれ。栄光の王(イエス)が入ってこられる。」と宣言されます。それと同じように、私たちも「天国の入り口・どこでもドア」をいつでも、どこにでも、持ち運んでいくことが出来たらいいですね。
(終わり)



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18 01月

ホノルルでの私たちの教会  1月18日


私たちの教会

 私たちは、一年半前にオレゴン州からハワイに移住してから、自分たちがつながるべき教会を主に求めてきましたが、今回、New Life Church Honoluluがそれであると示され、メンバーとなることになりました。メンバーになるための説明会では、この教会がどのようにして生まれ、神からどのように導かれてきたか、また、神から示されているこれからのヴィジョンは何かを、主任牧師であり日系三世のフランシス・オダ師から聞くことができました。
 
 個々の教会はそれぞれにユニークであり、それぞれに神からユニークな使命をいただいているわけですが、この教会はマーケット・プレイス・ミニストリーが使命の一つだそうです。今、世界的にマーケット・プレイス・ミニストリー(人々の日常の生活の場や仕事場でのミニストリー)の重要性が謳われていますが、この教会は10年前にすでに神からそのことを示されていました。そのときはキリスト教界では全く理解されず、カルトではないかと危険視されたこともあったそうです。

 又、神から「教会のようでない教会、a church that does not look like a church をつくりなさい」ということばを受け取って、牧師はそれはどんな教会なのかと祈りました。そして答え(それが答えなのか、答えの一部なのか分からないといわれましたが)が示されました。皆さんは、それはどんな教会だと思われますか。

 オダ牧師に示された答えというのは「教会のようでない教会とはイエス様のような教会である。」というものです。イエスは美しい式服ではなく普通の格好をしていて、自分の地位や人々からの評判は気にもかけず、罪人と交わり、空腹なものには食べさせ、病人を癒し、人々に仕えられました。当時の宗教家たちとは全く違っていました。伝統的ではなかったのです。教会が教会らしい、というのは悪いことではありません。教会らしい教会を必要としている人々も沢山います。しかし、ニュー・ライフ・チャーチは教会のようでない教会になりなさいという神からの召しを受けたのです。教会でするべきこと、つまり礼拝とか、サンディースクールとかは勿論するのですが、それに加えて、普通は教会に足を踏み入れないような人たちに対して、いろいろな方法で神の愛を示していくのです。

 この教会はホノルルのチャイナ・タウンの一角にあります。このチャイナ・タウンがこの教会のまず第一のミッションの場で、祈りの歩行も行われています。又、チャイナ・タウン全体の催しとして毎月第一金曜日の夜を「ファースト・フライディ」と呼んで、 画廊などがオープンしたりバンドが演奏したりして、沢山の人が来るそうです。今教会が計画しているのは、その時に教会もドアをオープンして、クリスチャンのアーティストのショウや、コンサートをしようというものです。この教会はもともと劇場だったので、建物的にもそのようなことをするには、ぴったりなのです。現在計画が進んでいて、三月の第一金曜日に一回目をする予定です。

 又、私たちはここにある日本語部の中でもお手伝いをさせていただくことになりました。主人は月二回メッセージを担当し、私はピアノで賛美チームに参加させていただきます。これはすべて主の御計画であるという平安があり、ハワイにこのような働きの場所を用意してくださった主に心から感謝しています。(終わり)



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