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Walk With God Ministries


08 10月

朝ごとの私の祈り ハイディ・ベイカー(IRIS MINISTRIES) 2018年10月8日


朝ごとの私の祈り

 

ハイディ・ベイカー(IRIS MINISTRIES)

 

「どのようにしたらあなたは毎日自分に死ぬことができるのですか?」という質問にお答えしたいと思います。

少し変に思われるかもしれませんが、私にとって自分に死ぬことは、毎朝次のように祈ることを通して可能になるのです。

 

まず、床に座りひれ伏して、文字通り姿勢を低くします。そして主の臨在の前に自分を注ぎ出します。自分には力がなくて出来ない様々なことを思い、又、神にはすべてが可能であることを思い祈ります。そして「神よ、どうかあなたの愛が私を通して輝き出ますように。どうかあなたの麗しさで私を覆ってくださいますように。」と祈ります。私は死んで、主が生きてくださるのです。それは栄光に満ちたすばらしいものです。

 

この祈りの時は、私にとって毎日の葛藤であり、毎日の戦いであり、毎日の喜びです。この「葛藤、戦い、喜び」という3つの言葉は一見矛盾するようですが、本当なのです。

主に従えない思いの中で葛藤し、戦い、そして勝利したとき喜びがくるのです。私が主の邪魔をすればするほど、主がコントロールしてくださる部分は少なくなっていきます。

 

私はひざまずいたままで両手を広げ「主よ、助けてください!」と心から叫び求めます。そして黙して耳をそばだてます。御声を聞くことができるように、自分の霊を静め整えます。そして聖霊の言われていることを聞きます。すると聖霊はいつも私が思いもつかないことを心に入れてくださるのです。

 

聖霊に自分を完全にコントロールして頂くためには、「明け渡した愛 yielded love」の状態にならねばなりません。主の御声に対して100%オープンになると、あなたは御声を聞き始めます。主の言われることは、この世で忙しくしている肉の人には意味をなさないかもしれません。でも私たちが霊で聞くならば、聖霊が私たちの心の中に来てくださり、ある考えや思いを与えてくださいます。私はそれを「霊的知性 spiritual intelligence」と呼んでいます。それはとても素晴らしくわくわくするものであり、即ち「キリストの思い mind of Christ」を私たちが持つことに他なりません。

 

主の御声を聞いて立ち上がるとき、私たちは主がしておられる事をすることが出来ます。あなたが主の御声に従えば従うほど、次にあなたがするべきことがわかってきます。(主が分からせてくださいます)主が下さった小さなことに従うならば、主は次には更に大きなことを下さるでしょう。自分に死ぬとは、従順と愛に生きることであり、身を低くして時間をかけて主に聞くことです。それは本当にすばらしいことです!(終り)


01 10月

キリストの型 フランシス・フランジペイン           2018年10月1日


キリストの型

 

フランシス・フランジペイン

 

訳者注:

 今は終末の時、しかも終わりが迫って来ている緊急のときです。終わりの時とは、肉から生まれ変わったクリスチャンを、みな霊的に実った「真のキリストの弟子」に育てる、あるいは、各自がそうならなければならないときと私は思います。それがマタイ28章の終わりに出てくる大宣教命令の意味です。

 フランジペン師は、アメリカで長年この霊的な弟子訓練を手がけ、そのための専門学校(英語ですが、ネット上でもその学びが習得できます。)を通して、真の「キリストに似た」クリスチャンを大勢生み出して来られた、私たちが最も尊敬する指導者の一人です。

 私はここで師が「教会の牧師」を対象としてこのメッセージを語っていますが、それは牧師の資格を持つ教会の長としての牧師だけに限らず、教会あるいは、どんな小さなクリスチャンの会合でも、そのリーダーとなる人を総称して牧師と言っておられると解釈していただきたいと思います。それには勿論スモール・グループのリーダーから、職場・家庭礼拝をリードする方でもその指導者に立つ人であれば、この「牧師」に当てはめられます。

 

 「私たちは皆、顔のおおい取り除けられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリント3:18)

 

 

「どのような教会であれ、何ヶ月、あるいは何年かの間に、信徒の内にキリストの似姿が現れ出ているかどうかが、その教会の究極的なテストである」と私たちは度々教えられてきました。確かにそれが神の目標であり、又教会の目標でなければなりません。

 

では実際に、信徒達はどのようにして変えられて行くのでしょうか? 単に外面的に宗教的であることから、内側が真にキリストに似る者になるようにと、教会を刺激し鼓舞するのは何なのでしょうか?

 多くの場合、 「宗教」から「キリストに似る者」への脱出は、 その教会の牧師(指導者)の心が「キリストに似る者になる」というヴィジョンに強く捉えられた時に始まります。

説明させてください。現在の競争過多の世界においては、牧師は多くの面で卓越することを要求されます。牧師は雄弁であり、立派な学歴を持ち、しかも失われた魂の必要に敏感でなければなりません。ヴィジョンを掲げ、しかも現実的で実践的でなければなりません。

 

教会員のために自分と家族との時間を犠牲にすることを度々求められます。厳しい労働条件や決して多くはない報酬に対して不平を言うことは許されません。

 

勿論、このような牧師の仕事の大部分は、神ご自身が課したものではなく、人々の勝手な期待から生まれました。教会員が牧師に求める多種多様な希望や期待を満足させられる人など本当は一人もいないのです。実際のところ、教会員を満足させて教会を大きくしようとがんばる牧師は、すぐに自分のエネルギーを使い果たしてしまうことでしょう。

私の経験では、教会成長プランを進める牧師が一人に対して、霊的に瀕死の状態に陥った牧師が何十人もいます。

 

問題を一層深刻するのは、 牧師に対する信徒の不平不満が度重なると、牧師の士気がますますくじかれることです。落胆はヴィジョンを失わさせます。彼はかつて自分のデスティニー(即ち指導者になること)は「高い召し」であると感じていたのに、いつのまにかそれは「ほとんど喜びのない仕事場への通勤」に格下げされてしまうのです。

 

個人のリバイバル

 

忘れないでください。「牧師の成功」に対する神の尺度は「教会の信徒たちの人生にどれだけキリストが真に表されているか」です。これこそがキリストが示された牧師として仕える者に対する目標なのです。すべてのリーダーは、自分が大宣教命令をどのように遂行したかを神に報告する日を迎えねばなりません。

 

ですから牧師の皆さん、主への恐れをもって歩もうではありませんか。そして又、知恵をもって歩みましょう。もし私たちの追い求めるものが、会衆をキリストに似た者へと導くのであるならば、まず自分から始めようではありませんか。柔和に、しかし人を恐れるという誘惑に陥らないように歩みましょう。

なぜならば、人を恐れる思いは働きの上を覆う呪いのように明白に表れるからです。真の祝福への道はただ一つであり、それは自分の心をただ「キリストに似た者になること」に集中させることです。

牧師が「私はキリストを捉える」と強く決意するならば、それに反対する者が起こることは間違いありません。なぜならば、主がその人の人格、品性の真実性を試すことなしに、その人がキリストに似た者になることなどありえないからです。

しかし、牧師が(特に、自分が主とより深い関係になることを祈る)祈りの人となり、神への愛が純粋になり、へりくだりが平安へと深まって行く時、イエスを愛する信徒たちは、牧師のうちに主なるイエスを見るようになるのです。

 

戦いは、たとえ非常に激しかったとしても、それはキリストの栄光が牧師の中に生まれるための舞台装置に過ぎなかったのです。いにしえの昔から人々は「イエスを見ること(ヨハネ12:21)」を願いました。信徒たちが牧師の品性の中に主イエスを見るとき、彼らは自分たちの教会に対する神のヴィジョンを見ることになるのです。

 

キリストに似た教会

私は、「あなたの教会の牧師が完全にキリストに似た者になっていなければ、信徒がキリストに似た者になることを追い求めることはできない」と言っているのではありません。違います。キリストに似た者になる道は、いつでも、どの教会においても、歩き始めることができるのです。

しかし、信徒たちが最高のデスティニーに向かって真に上っていくためには、ある時点で牧師は羊たちが後についていけるようなキリストの型にならねばなりません。

もしあなたがとりなし手ならば、あなたの牧師のために祈ってください。教会のリーダー達を尊敬し、キリストに似た者のヴィジョンが彼らを突き動かす炎となるように祈ってください。

裁きではなく恵みをもって祈ってください。恐れではなく憐れみに立ってください。ヴィジョンを常に持ちつつも、辛抱強くあってください。神はあなたの祈りに答えられます。

実際牧師とは、イエスのような者になり、羊たちが後をついて行けるお手本になるという召しを受けた者であるのです。この追求がなくては、牧会はいつも欲求不満を抱える牢獄となり、いのちの欠落した仕事になってしまします。

 

しかし、たとえ試煉の中を通っても私たちがキリストに似た者となることを追い求め続けるならば、神の御子の臨在が私たちのいのちの中にますます顕れ出るときがやってきます。牧師が追い求めるものは、人々が後ろからついていくキリストの型になることなのです。(終り)


24 09月

黙示録5章に書かれた「キリストの御国」の栄光 マイク・ビクル(IHOPカンサス)    2018年9月25日


黙示録5章に書かれた「キリストの御国」の栄光

 

マイク・ビクルIHOPカンサス)

 

 終末の時がついに満ちて、 天にあるもの、地にあるもの、いっさいがキリストの御国として一つに集められることが、神が御子(の再臨)においてあらかじめお立てになった御心の奥義としてのご計画です。(エペソ一1:9−10)

 そして「御子は、見えない神のかたちであり、造られた全てのものより先に生まれた方です。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られ、万物はその御子のために造られ、万物は御子にあって成り立っています。・・・」(コロサイ1:15ー17)

 

 

父なる神は、イエスを2回にわたって王座に着かせます。一回目は復活後にイエスが天に上り御父の右座に着かれた時です。

二回目は次に主が地上に再臨されるときであり、すべての国々はユダヤ人であるイエスが、天ではなくこの地上の全地を治める王になるのを見るのです。

エレミヤ3:17に「そのとき、エルサレムは『主の御座』と呼ばれ、万国の民はこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、二度と彼らは悪いかたくなな心のままに歩むことはない。」とあるように、イエスが再臨される時は「人として」地上のすべての国々から「王」として認められます。

ゼカリア14章にはそれが書かれています。ユダヤ人の王が地のすべての国を治めるという預言は、他の諸国にとっては受け入れ難いことであり、彼らは「ユダヤ人が世界を永遠に支配するとはとんでもない」と言い憤るのです。しかしイエスの誕生の500年前に父なる神はゼカリアを通して「すべての国はユダヤ人として生まれたイエスを王として受け入れる」と宣言されているのです。

 

また、黙示録19:16に「その着物にも、ももにも、『王の王、主の主。』という名が書かれていた。」とあり、これは黙示録全体のテーマです。ただ単にイエスがこの世に戻ってこられ、私たちが携挙されるだけではなく、人としてのイエスが王として来られ、他の王たちの上に立たれるーこれは非常に劇的なことです。黙示録20章には第一の復活に与る者たちが神とキリストとの祭司となり、千年の間キリストと共に王となることが書かれています。

この千年王国でのキリストの統治はやがてすべての領域、分野において完成されて行きます。主は人として、万民の前で見える形で働かれます。現在は多くの邪悪な王たちが地を治めていますが、やがてこの傑出した全地を治める王の王が来られ、その力はあまりにも明白で、これに逆らう者はないのです。

 

この王があなたを「わたしの愛する者」と呼ばれ、あなたが王のためにしたどんな小さなことをも忘れずに報いてくださいます。あなたを花嫁と呼び、喜んでくださり、すべてのことをあなたと共にしてくださるのです。ですからこれは「王として主がなさること」というだけではなく、「あなたが主と共にすること」であり、つまるところ、あなたの物語であるのです。

 

黙示録5章は王なるイエスの荘厳さと栄光を最も顕著に表していますが、それを理解するためにバックグラウンドをお話したいと思います。

約6千年前に神がアダムとイブを造られたとき、神は地を治める権威(権利と責任)をアダムに与えられました。それはアダムの子孫としての私たちにも与えられたものであり、人類がこの地を統治する権威を与えられたのです。しかしアダムはサタンの誘惑に陥り、その権利をサタンに譲渡してしまいました。

 

ルカ4:5−7で、サタンはイエスに「私を礼拝するなら、すべての国々のいっさいの権力と栄光とを差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです」と言って誘惑します。神がアダムに地を治める権威を与えたにもかかわらず、アダムはサタンにその権威を渡してしまったからです。しかしイエスはサタンから権力と栄光を受けるのではなく、人として罪のない生涯をおくることによって完全な生け贄となられ、十字架の贖いによりアダムの罪を帳消しにし、人類に救いの道を備えられ、それと同時にこの地を治める権利、権威をとりもどされたのです。

 

黙示録5章はイエスの栄光に満ちております。神は人間ヨハネに天上のすばらしい光景を 見せてくださいました。1節に「また、私は御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。」と書かれているように、この巻き物は全地の所有権の契約証書であり、神の御心によって地を裁き、清め、 治めるものです。

2節で御使いが「巻き物を開いて、封印を解くにふさわしい者はだれか。」と言っています。地を治める権利はもともと人間に与えられていますから、それを解くのは御使いではなく人間でなければなりません。「封印を解く」とは地を所有し治めるプロセスを始めるということです。即ち、「地を治める権利を取り戻して、実際にその仕事を始めるのにふさわしい人間は誰なのか?」と御使いは言っているのです。この契約証書には7つの封印がありました。6章からはこれらの封印が一つずつ解かれていきますが、それは即ち闇の王国に対する神の裁きです。しかし誰が御父のもとに行き、その巻き物を受け取ることができるでしょうか。第一に御父の栄光の前に出られる人間はいませんが、もし出られたとしてもその巻き物を受け取って封印をとき、暗闇の権威を蹴散らし、すべての国を従わせる権威のある者がいるでしょうか?旧約の預言者や使徒たちにもそれは出来ません。

5節で長老の一人が言います。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」

それはユダ族から出た人間イエスです。イエスは永遠に神であられます。しかしここでは女から生まれた一人のユダヤ人の人間でなければならなかったのです。しかも彼は「しし」であり、すべての闇を打ち負かす力を持っていました。イエスはほふられた「小羊」であり、また同時に「しし」でもあられます。イエスは33年間、人間を襲うすべての誘惑に打勝ち、完全に御父に従われました。イエスは神としてではなく、人間としてただ聖霊から力を受けて、サタンのすべての誘惑に打ち勝ちました。人類の罪の代価として死ぬためには、イエスは人間でなければなりませんでした。イエスはこの世に来られたとき、神としての能力を用いて事を行ったのではありません。主はすべてのことを聖霊の力に拠り頼まねばならない人間として生きられたのです。イエスが神でなかった時はありません。しかし、人間のための完全な生け贄となるためには、主も人間として罪のない人生を送る必要があり、そのための力は100%聖霊から受けたのです。

ご自分が持つ神としての力を用いて奇蹟を行ったならば、イエスは人間のための「生け贄にされる人間」としての資格を失います。イエスは断食や祈りを通して聖霊の力を受ける必要があったのです。

 

そしてイエスは十字架を目前にして「父よ、御こころならばこの杯をわたしから取り除いてください。」と血の汗を流して祈られましたが、御父はその祈りに答えられませんでした。神は義なる方であり、罪をそのままに放置することも、ただ赦すこともされません。罪の代価は誰かが支払わねばならないのです。アダムの罪をすべての子孫が継承したように、イエスの贖いによりすべての神の子たちはその赦しを得るのです。

歴史上、人類にはアダムとイエスという二人の代表者がいます。

 

イエスはそのようにこの地での生涯と十字架の御業によって「勝利を得た」だけではなく、死からよみがえり天の御座に着かれました。ただ生き返っただけではなく、「初穂」として力を帯びたからだによみがえられました。そして御父の右座に「人間として」着座されたのです。イエスは「わたしが人間としてここに来たように、あなたもここに来ることができるのだ。あなたも御父のそばに来れるのだよ。」と言っておられます。(人間は神の子供、神の家族の一員になるように造られたのです。)

ヨハネはここで「ほふられたと見える小羊」と言っています。これはイエスには十字架の傷あとが残っているということであり、主だけが人間としての復活の身体に傷あとをそのまま持っておられ、それは人間に対する愛のしるしです。主の傷あとを見るとき、私たちはいつも私たちへの主の愛の大きさに感動するのです。

7節に「小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。」とあります。人間イエスは御父に「わたしの持つ知恵と力で地を導き、清め、回復し、創世記1章のように再び人間が地を支配するようにできます。」という確信をもって巻き物を受け取ることが出来たのです。それを見て高位の御使いたちと長老たちは、ひれ伏して新しい歌を歌いました。

9−10節「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王(国)とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」

 

イエスは人間になられる前、すべての力、栄光、権威を持つ神でしたが、それをすべて放棄し、人間として地に来られ、神の怒りを人間に代わって受けられました。しかも栄光を受けられた時には、その栄光を人類に分け与えると言われたのです。

ヨハネ17:24でイエスは「父よ。お願いします。あなたがわたしにくださったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」と言われました。主は私たちを赦してくださったばかりか、ご自分が受ける栄光を私たちと共有したいと言ってくださるのです。このように素晴らしいリーダーを信頼し、従うことは難しくないのではないでしょうか。

父なる神は人間イエスに、天上だけではなく地においてもすべての人が認めるようなフェイバーを与えるのです。そのことは、上記の黙示録5章の12節であまたの御使いたちは「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、讃美を受けるにふさわしい方です。」と大声で言います。それは千年王国の間、すべての人々(9−10節)はこれら7つすべてをイエスに捧げるということです。

私たちは王なる主に、今すでに地上において従うことができます。日々主の麗しさを見て、すべてを主に捧げて生きることができるのです!(終り)


18 09月

天国に住む リック・ジョイナー                    2018年9月18日


天国に住む

 

リック・ジョイナー

 

 

 私は自分が今まで経験してきた天国の様子をお話しておりますが、決して私の経験だけが天国のすべてを説明していると言っているわけではありません。

現に、私の見て来た天国とは異なる話も沢山読んだり聞いたりしてきました。しかし、天国は非常に膨大であり、又多様な面があるので、そのような私と違う経験をされたことを私は信じることに全く問題はありません。私たちすべての天国の経験を全部集めたとしても、天国の1%すら表現できないと思います。

主は宇宙を常に広がり続けるものとして造られましたが、それと同じく主は天の霊的領域も拡大し続けるように造られたのだと私は思います。

 

 私たちの神は、私たちが一生かかっても到底理解できない非常に大きなお方であり、神の創造も(物質的創造、霊的創造のいずれも)非常に大きいのです。それはただ大きいというだけではなく、イザヤ9:7に「その主権は増し加わり・・」と書かれているように、神の主権は永遠に増し加わり続けることを、私たちは信じてよいのです。「永遠」は決して退屈な時間ではなく、常に魅力的で畏敬に満ちています。

 

主が私を連れていかれた霊的領域では、一カ所を除いて、天国にあるすべてのものは生きていて、石や水、そして他のすべての物が生きていました。それらは皆、自分がその物として造られたことや、自分と異なる他の物との交わりがうれしくてたまらないという様子でした。奇妙に聞こえるかもしれませんが、天国ではそれがとても自然で当然のことのように思えました。そこには死がないばかりか、すべてのものに命がありました。

 

私は天国でも引力があるかのように地上と同じように普通に歩いたこともよくありましたが、又引力がないかのように宙に浮かぶこともできました。遠くに行きたいときは、そこまで飛んで行くこともできましたし、又そこに行きたいと強く願うだけで瞬時にそこに行くこともできました。

 

天国で感じる感情は、今まで経験したものよりずっと深く広く強いものでした。そして何かのことや誰かのことをじっと考えていると、それに対する感情はどんどん増していきました。

地上で私が感じた最もすばらしい平安も、天国で感じた平安に比べれば、ほんの小さなものでした。それは喜びの感情でも同じでした。

 

私たちが五感で感じる能力が地上では抑制され制限されているのと同じように、私たちの感情も地上では抑制されているのだと思います。しかし天国では五感も感情も全く制限されていないようです。

 

一度の例外を除いて、霊の領域や天の領域に私がいるときは、御使いかイエスがいつも一緒についていてくれました。一度の例外というのは、それまで私が天国で一番素晴らしいと思っていた場所に、主が私を一人で行くのを許可してくださった時のことです。

しかし行ってみると、そこが最早楽しい場所ではなかったばかりか、私はもう決して一人の経験はしたくないと思いました。この経験は、どれほど深い交わり(コイノニア)こそが「天国で生きるための酸素」であり、 コイノニアの交わりに成長するならば、私たちがどれほど天を地にもたらすことが出来るかを教えるために、主が私にさせてくださったのでした。

 

それはまさに、人と関係を結ぶこと、人と交わりを持つことがどれほど重要であるかなのです。神が天地万物を創造されたとき、最初に「良くない」と言われたのはアダムが一人でいるのを見られたときだったのは、まさにこの理由です。真の愛は、一人で淋しい人を見つけ出し助けます。その時私たちは彼らの内に、彼らのまことに家、即ち天国、を慕う思いの種を蒔き始めるのです。

 

私は「天国にはゴルフや野球、サッカー等のスポーツはあるのですか?」と人々からよく聞かれます。私はそれを見たことがありませんが、前述のように私の天国のすべての経験を合わせても天国のほんの少しの部分を見たに過ぎません。

天国でスポーツの試合を見たと言う人たちもいますから、多分あるのでしょう。

個人的には私はスポーツの試合や競争は大好きですが、天国では「誰かに勝ちたい、誰かを負かしたい」という気持を持つことは考えられません。

 しかし、聖化され高められた形のスポーツが天国にあると信じることはできます。地上にある「良きもの」はすべて天国にそれに相応するものがあるからです。

神学に「最初の言及 」に関する原則があります。「ある事柄が聖書で最初に言及された箇所は、普通、その事柄の究極的な目的を示す最も重要な啓示である」というものです。

聖書が「神の家」に 最初に言及したのは、ヤコブが天に届くはしごと神の使いたちがそのはしごを上り下りしている夢を見たときのことでした。(創世記28:11−19参照)

 

これは地上の神の家である「教会」の主たる目的の啓示であり、それは即ち「天に届く通路になる」ことです。まことの神の使いたちは絶えず天の領域に上り、そして天のリアリティーと主権の証拠となるものを地のすべての問題や状況の上に持ち帰るのです。

 

ヨハネ1:51にあるように、イエスは私たちが天に上るための「ヤコブのはしご」です。私たちは主がどのようなお方であるかという啓示を一つひとつ受けて上っていくのです。私たちの目的は「イエスと共に天の所にすわること」です。(エペソ2:6参照)

 

この教義は「ただ信じればよい」という以上のものです。すべての教義は頭で信じるものではなく、私たちが生きるべきものです。ですから、クリスチャンなら誰でもキリストと共に天の所に上ることができるのです。実際すべてのクリスチャンはいつでも常にそうしているべきであるのです。

 

このようなことを経験するのを恐れている人に申し上げますが、もし一回でもその経験をするならば、今度は地上に戻ってくることの方をもっと恐れるようになるでしょう。

主の統治される天の領域で主と共にあって経験する以上の平安と喜びはありません。 天の領域のものは非常に素晴らしく、地上の最上のものであってもその影にすぎませんし、天には悪は一つもないのです。

 

天国は今すでに私たちの住まいであるはずなのです。それはあるいにしえの人が「新しく造られた者(クリスチャン)」について次のように言っている通りです。「私たちは、たまに霊的経験をする人間として召されているのではなく、たまに人間的経験をする霊的な生き物として召されているのです。」

 

すべてのクリスチャンは、目に見える世界よりも霊的領域にいるほうがもっと自然でリラックスできるはずです。

天の御国が全地に宣べ伝えられるのは、実にこのような「天国に住み天国を具現する人々」によるのです。(終り)


10 09月

希望の喜び ビル・ジョンソン(ベテル教会)         2018年9月10日


希望の喜び

 

ビル・ジョンソン(ベテル教会)

 

(訳者注:ベテル教会のあるカリフォルニア州レディングの周辺(Shasta とTrinityという二つの群)は、2018年7月23日に始まった山火事により、大きな被害を受けました。8月30日にようやくコントロールされるまでに23万エイカーが燃焼し、1000戸以上の住宅を含む1600の建造物と8名の命が失われました。ベテル教会は被害を免れ、救援物資の供給所として用いられました。この山火事はCarr Fireと名付けられましたが、 カリフォルニア州で史上6番目に大きなものでした。以下のジョンション師のメッセージは9月2日に語られたものです。)

 

 

イザヤ35章に私は長く親しんできましたが、今朝新たに気がついたことがあります。それは「喜び」が「希望」と非常に密接に関係しているということです。希望がないところには、喜びはありません。大いなる希望があるところには、大いなる喜びがあります。人がどれほど希望を持っているかは、その人がどれほど喜んでいるかによって測ることができると思います。希望(hope)という言ばは、現在は「願い」という意味で使われています。「I hope ~」と言えば、「~だといいんだけど...」という意味で使われています。

けれども聖書が語る「希望、hope」は、それとは全く違い、「良い事が起こることを信じる喜ばしい期待 joyful anticipation of good」なのです。即ち「祈っていることを得る前にすでに感じる喜び」であり、答えを得たときに感じる喜びに匹敵する喜びです。真の「希望」は、雲を掴むような根拠のない期待ではなく、神のご性質に土台を置いているものです。あなたの人生への神の御ことばに土台を置いていて、神の御こころや思い、神の御性質、神の深い慈愛に土台を置いている希望です。ですから何が起こっているのか理解できない時でも、私は常に希望をもって生きることができるのです。

 

私が今直面している多くのことは、私を突然襲い、私を驚かせました。でもその中で神が何も知らなかった、驚いたということは一つもありません。ですから、私はどんな時でも、いつでも、確信の場所に戻ることができます。私はそんなことが起こるとは知らなかったけれど、私の神との関係は「希望hope」という場所に私を立ち続けさせ、私を「希望を持つ人」にしてくれるのです。そして答えが来る前に、そしてそれがどのような答えか知らなくでも、その答えを喜び称えることができるのです。これこそが真のクリスチャンのライフスタイルです。

 

私たちの責任は、周りの人にも伝染していくような影響力のある希望の人生を送ることです。悪いことや現実を見ないようにして楽観的に生きる「うその信仰」というものがあります。しかし本物の信仰は問題があることを否定はしません。ですから、人間関係に問題があることや、医者の診断、請求書の額などが現実であることを受け取ります。そして自分が直面しているそれらの問題に対する答えは知りませんが、「私の天の父は答えを知っておられる。」ことを知っています。イエスは十字架につかれた時、「私が全生涯に直面するすべての問題」を100%考慮に入れておられました。イエスは私の代わりに私のすべての罪を負われました。主は愛を極限まで実践されました。私のすべての罪は覆われたのです。

 

イザヤ35は希望の言葉で始まります。随分昔のことですが、私は聖書の中で「水」に関連する箇所を全部調べました。「川」や「流れ」「泉」「雨」とかいう言葉を調べ、それが何を語っているかを調べたのです。「主は流れを砂漠にもたらす」とか、「山々に川が流れる」というような表現が聖書のいたるところに出てきます。それは自然界そのものへの言葉であると共に、究極的には渇いた荒れ地のような人間のこころを神はさしておられ、それに対する解決を示しておられます。

私は水に関する箇所を全部書き出しました。その結果分かったのは、イスラエルが直面している問題が何であっても(例えば、敵の軍隊、自分たちの罪、何代にも渡る背信、疫病等)神の答えは「水」です。

「イスラエルが敵の軍隊に取り囲まれている」ならば、神は「わたしは荒野に川をつくる」と言われるのです。民は「神よ、私たちを救うのは『川』ではないと思います。敵をやっつけてください。」と思ったことでしょう。

 

しかし、私たちは神が用いられる言葉の奥義をしっかりと把握する必要があります。100%と言ってよいほどほとんどの場合、聖書で「水」は聖霊を表しています。ですから問題が何であれ、神は「わたしは聖霊を送ります」と言われるのです。「わたしは大雨を降らせます」とか「荒野に川を流します」というように、旧約聖書を通して水は聖霊をさしているのです。それは、神が聖霊を送られて神の臨在と力を現してくださるという預言、すなわち、すべての問題は聖霊によって解決されるのです。

イザヤ35:1、2「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜るので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。」

「不毛の地に主が訪れ、豊かに花が咲き、主の栄光、威光が現れる」と言っています。「民が神と親密な関係を結び、自分達への神の計画、人生の目的に確信を持つ故に希望に満たされ、彼らの心からは喜びの泉が沸き溢れ、歌となり、かつては死の地だったところが大いに栄える」ということです。

 

1、2節では神が来てくださったという背景が描かれていますが、3、4節ではその時に私たちがしなければならないことが書かれています。3、4節「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ。あなたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたを救われる。』」

 

これは非常に興味があるところです。神によって希望に浸され希望に満たされた私たちは、希望のない人、弱っている人のところに行きます。もしあなたに希望がないというのならば、それは偽りを信じてしまっているからです。神の御ことばを心から信じる者が、希望がないということはあり得ません。あなたの身に起こったことで、神が知らなかったとか、イエスの十字架で処理されていないことはないからです。聖書にはイエスが「世の初めからほふられた小羊the Lamb who was slain from the creation of the world(NIV)(黙示録13:8)」と書かれています。即ち人間が造られ、罪を犯す以前に、そのために解決がなされていたという驚くべきことです。ですから私たちにとって初めてのことでも、神にとっては初めてではなく、問題の前にすでに解決があるのです。

 

3節に「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。」とあります。以前軍隊に入っていた友人が話してくれたことを思い出します。兵士たちは長距離を走らねばならない時がありますが、ある者は力つきて倒れてしまします。すると他の兵士たちは彼を助けに行きます。一人は彼のリュックを取って自分のリュックの上に担ぎます。二人が彼の両横に行き、彼の腕を取って立たせて引っ張るようにして最後まで一緒に走ります。一人では完走できなかった者を、力のある者たちが助け一緒にゴールインするのです。この箇所はそのようなことを言っているのではないでしょうか。チームが力を合わせて助け合い、神の召しを全うする姿です。

しかし、それで終りではありません。弱っている者に預言をするのです。それはあなたが預言者から何を言えばいいかを聞き、弱っている者にそれを伝えるのではありません。神のご性質や神の約束を知っている者として、私たちは自然に語ることができるのです。私たちは「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」と預言し、宣言できるのです。

どうしてそれが重要なのでしょうか?

それはただ空虚な口だけの励ましではありません。「どうにかして励ましたとい」と自分の頭で一生懸命考えて口から出す言葉ではありません。これは神の恵みをあなたの口を通して解き放つことなのです。エペソ4:29に「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」とありますが、まさにこのことを言っているのだと思います。私があなたのところに行き、あなたに役立つ徳を養う言葉を話すとき、恵みを与えることができるのです。この恵みはどこから来るのでしょうか?それは神からです。恵みとは神からの特別な愛顧、フェイバーです。

私が弱っている者のところに行き、「恐れてはいけません。神が復讐し、失ったものをすべて取り返してくださいます。私もあなたと一緒にいますから。」と言うのを見て、神は「わたしはあの者に恵みを与えよう。わたしの息子がすでにフェイバー示したところに、今わたしのフェイバーを与えよう。」と言われるのです。

 

これは私たちが「神を操って恵みを与えるようにさせる」というのではありません。すべてのクリスチャンは「慰めのミニストリー」をする権威を与えられているのです。神のご性質を知っている者として、私たちは神がその人に必ずそうしてくださると確信をもって慰めることが出来るのです。

 

2コリント1:3−5「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみの時にも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。」

もし私たちが弱っている者のところに行かなかったら、神は「しょうがないなあ、仕方がないからわたしが行くとしよう」とか「天使を送ることにしよう」とか言われるのでしょうか?違いますね。神が私たちに指令を出されるときは、その任務を遂行するための力と責任を私たちに与えられるのです。もしここに弱って倒れそうな人がいるとします。 あなたは「神は来て、失われたものを回復し、あなたを救われます!」と 預言をせねばなりません。

 

5節は「そのとき then」という言葉から始まります。私たちが4節の預言をした「そのとき」に、すべての者は癒され、すべてが回復するのです。

イザヤ35:5−6「そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわきだし、荒地に川が流れるからだ。」

その人の内に聖霊が豊かに沸き流れ出すので、その人は癒され、回復するのです!

数年前、ラスベガスの集会で、ワーシップをしていたとき、建物の中に雨が降り始めました。牧師が屋根を調べるように言いましたが、屋根に穴はあいていませんでしたし、雨も降っていませんでした。雨は3時間屋内で降り続けました。神は時々、私たちのこころを柔らかくするために面白いことをなさいます。渇いたところに川をもたらし、それによって奇蹟が起こるのです。

 

今私たちのレディングの町には、 心に痛みをもって眠りにつく人が沢山います。それは「希望」を持っている人が周りにいないからです。もし彼らが「岩のように堅い希望を持っている人」「神を堅く信頼している人」を一人でも知っているならば、彼らの明日は変ることでしょう。私たちは真の希望を持つ者、そしてそれをもたらす者になろうではありませんか。(終り)


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