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Walk With God Ministries


20 01月

2006年への預言  ダッチ シーツ  1月19日


2006年への預言 「シフト」  
        ミニストリー・教会・ビジネス・個人・家庭の再編成(restructure)
    
                                     ダッチ・シーツ


 ミニストリーが再編成され、教会が再編成され、ビジネスが再編成され、個人も再編成され、家族も再編成される。
 今年は我々の世代が経験する最大の変化の年となるであろう。私は1月5日のダラスでの集会のために準備をしていたが、その時聖霊がはっきりと私に「人々に告げよ。」と言われたので、すぐにペンをとって 聖霊の言われることを書き記した。

1. 今年、使徒の時代への最大のシフトが起こる。なぜならば、人々は今年、そこから豊かな収穫があるのを見始めるからである。

• 「今までの時は、使徒的、預言的働きが回復されてきた段階であったが、それはわたしがこれからしようとしていることのための準備だったのである。」と主が言われる。 ミニストリーのために神が我々に与えてくださった賜物がフルに用いられるようになる結果、大いなる神の実りがもたらされ、地上における神の支配(王国)が今まで見なかったような力、権威、恵み、啓示、裁きや義を解き放つ。

2.「使徒的と預言的働きに対する反撃・反対も今年は最大となるであろう。」

• 主は主の動きに反対する者たちの仮面をはがして、皮袋(新旧ともに)や、今まで隠れていた宗教の霊をあらわにされる。今の時の真理の動きを拒否する者は、キリストの身体の中で、使徒的、預言的流れの中で動いているリーダーたちを公に批判し始めるであろう。 ある者たちはいままでも目立たない形で批判してきたのだが、今年は、公然と批判するようになる。そのとき、神は彼らを裁きはじめる。

3.「わたしは、パラダイムをさらに変化させねばならない。それは今までわたしの霊の流れの中にいなかったものに変化をもたらすだけでなく、流れの中にいた者たちに対してもパラダイムを変化させる。」 私は主が「再編成、再編成、再編成」といわれるのを聞いた。

• ミニストリーが再編成され、教会が再編成され、ビジネスが再編成され、個人が再編成され(彼らの時間の使い方、ものの考え方、活動の仕方が変えられる)そして、家族が再編成される。
• 神の御国(kingdom of God)の教えがパラダイムに大きな変化をもたらし、創世記にある神の(人間に対する)オリジナル命令(Mandate)へと我々を引き戻す。今年それが何度も繰り返し教えられるのを聞くであろう。神の御国の神学が最前線に出てくる。

4.「わたしの宣教任務声明(ミッション・ステートメント)を成就させる者たちをわたしは待ち望んでいる“ (ルカ4:18-19、イザヤ61)

• 貧しい人々に福音を伝え
• 捕らわれ人には解放をあたえ
• 盲人の目を開き
• 打ちひしがれている者に自由を得させ
• 主のめぐみの年を告げ知らせる
• わたしは主が言われるのを聞いた。「もし、わたしの教会がこれを宣教方針(ミッション・ステートメント)として実行し始めるならば、これらのこと(ステートメントの内容)がすべて成就するようにわたしはするであろう。」 又言われた。「過激的な解放の油注ぎが教会に来ようとしている。それは時として非常に激しいものとなろう。人々は一瞬のうちに過激的に解放されるであろう。」
• 主のめぐみの年というのはヨベルの年のことである。捕らわれ人は自由になり、相続財産は回復される。

5.「この年はめぐみの年、そして又、うとんじられる(恵みの反対)年である。

• あなたが今まで祈ってきたこと、骨折ってきたこと、種を蒔いたこと、切望したこと、泣き叫んで求めたこと、見たけれども味わうことが出来なかったこと、断食したこと、涙を流したこと、それらすべてのことに関して今年はめぐみの年である。主のめぐみはあなたの家族、ビジネス、経済、身体(健康)の上に注がれるであろう。
• 今年、主は人々が中途半端な態度を取るのをもはや許されない。 主は、はっきりと地面に線を引かれ、彼らが何者で誰につくのかを決めねばならないといわれる。教会の中の勢力争い、政略的な行為は裁かれる。今の時代のために主が与えられる啓示の流れに乗ることを拒否したり抵抗する者は、主がうとんじられるのをあなたがたは見るであろう。いくつかのミニストリーや教会は今年主のめぐみを失うであろう。ほかのミニストリーが建てあげられ、もっと影響力をもつようにされるであろう。主に栄光をもたらさないものは取り壊され、その反対に主に栄光をもたらすものは大いに建て上げられる年となる。

教会の眺め(Landscape)が今年変わるであろう。

6.「わたしは地上のことで心を満たしている者よりも天のことを思っている者を、今年、探し求めている。」

• 上にあるもの、即ち神の御国を求め、主が望まれることにだけ心を傾ける者を主は探しておられる。これらの者には天からの洞察力(insight)が与えられる。その洞察力により彼らは天国を地上にもたらすことができ、「御国を来たらせたまえ、御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るだけではなくなる。主は彼らに御国を地上にもたらすための権威と知恵をあたえられる。
• 又、彼らが天国の物の見方で物事を見ることができるように主はしてくださる。彼らは、厄介な問題とか、厳しいチャレンジ、あるいは主から幻を与えられたときとか、家族の問題、経済的困難が起ったときも、それらを神の視点で見ることが出来るようになる。

7.「わたしは、わたしの力を信じきる者たちを探している。奇跡はそれを求める者のためにすでに備えられている。」

• チャック・ピアスは、今年は神が動かれ、しるしと不思議が大学のキャンパスで爆発的に起こるであろうと預言した。エール大学とテキサス大学の名が特に示されたが、この預言はその2つの大学に限られたものではなく、神の力がアメリカの大学に押し寄せようとしている。

8.「わたしのリーダーたちに、もっと多く祈り、もっと少なく働くように告げよ。」

• このことばを聞いたとき、この意味は「もっと祈れば、その結果として働くのが少なくてすむ」、ということだと私には感じられた。

9.「今年は正しく整列化される(正しい線に並ぶ)べき最も重要な年である。」

• もし、我々が、リーダーたちと正しい関係につながっていなかったり、共に歩むべき人たちと結び合わされていなかったり、我々の上で権威をもつ人たちによる覆いを受けていないと
19 01月

2006年への預言    ダニー ステイン    1月19日


2006—熱いか冷たいかの年
                                ダニー ステイン                                 

詩篇46:1-11 「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。 たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ 川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。 神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた。 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ 来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。 主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ」

熱いか、冷たいかを選ぶ年、なまぬるいままでいることは非常に危険

今年、主が私に示された中心的なことは、2006年(2007年の初めも含む)は熱いか冷たいかの年であるということです。つまり、なまぬるかったり、中途半端な年ではないと主は言われたのです。

1990年代の初めに、主は私に、空間と時間に宙吊りになっている教会の建物の幻を見せてくださいました。その教会の上にイエスが立っておられました。教会はイエスの足ほどの大きさでした。教会の真ん中をめがけてイエスは両手に剣を持っておられました。イエスの顔には何にも増して一つのことを決意している、という表情が浮かんでいました。私にはイエスが決められた(適切な)時を一心に待っているということが分かりました。

次の瞬間、イエスは剣を教会の中に差込み、真二つに切ってしまわれました。教会の中にいた人々は二組に分けられて、教会の中は恐怖でみちあふれるのを私は見ました。
半分は上に上げられて、「キリストの花嫁」と言われているものとなり、その信仰の故に明るく栄光に輝いていました。

もう一方の半分は、「宗教的な暗やみ」として知られているものとなりました。それは、暗やみと不信仰の故であり、彼らは忘却へと落ちていきました。これらの者たちも回心したならば花嫁に変えられたのですが、神はこれ以上失われた者たちが光の中に隠れているのを許されないと宣言されたのです。

主は、このことが今年起こると語られたと私は信じます。光と闇の間にははっきりした区別があるのです。中途半端でいる人は大怪我をするか命を失います。(霊的に、そして肉体的である可能性もあります。)

その理由は、光の中にいる人が中間にいる人にむかって、そこから出るようにとはっきりと宣告していたからです。これはヘブル6章が実現していることだと私は信じます。
ヘブル6:4-6 「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、 しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」
Iペテロ4:17 「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。」

今年は熱いか冷たいかがはっきり分かれるときであり、我々の従順が明確に問われるときなのです。

又、一方では、栄光が今までよりより大きな規模で解き放たれる年となるでしょう。主のしもべたちの信仰が大きくなり、奇跡が爆発的に起こります。これは世界的規模で(西欧でも!)起こるでしょう。

すでに現れている栄光のひな形や影、また2006年のはじめに解き放たれる栄光は、これからの1年半の間にはっきりと明白になってくるでしょう。それらは、来るべきものの良いことも悪いことも含めての前ぶれです。教会の中で、「死」の雛形を表していたものがこれからはもっと公にはっきりと現れてくるでしょう。また、「命」の雛形を表していたものが、大きく解き放たれて、大きな奇跡が、努力や断食や何年も祈り続けることなしに起こってくるでしょう。

砕かれ通す年


今年は打ち破りの年ではなく、砕かれ通す年です。主によって砕かれることを耐え忍び通した者は、天の領域に入っていくでしょう。 主の傷の豊かさを分け与えられるように信頼され、へりくだりを経験したものは、天の領域で昇格していくでしょう。

Iペテロ5:6 「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」

時が来ました! 信じる者が集まるところに天国のしるしがどんどん現れるようになるでしょう。天国から直接送られて来るしるしが起こるでしょう。それは金粉や、羽根、オイルだけではなく、天国からの訪問者と主の訪れが集会にあらわれるのです。また、驚くべき高度な作品とか、天国からの芸術品が、いままで地上では知ることができなかったような色彩とか、音色、あるいは現象として起こるでしょう。

時には、天が大きく開いて、主の臨在と力が集会の中にとめどなく流れ込むように感じられることが起こるでしょう。 エノクのように一人で神と共に歩くことを願うのではなく、この世代に生きる者たち総てが神と共に天の領域を歩き、その栄光を地上にもたらすことを熱望する時なのです。

誰の権威によってするのか?

マタイ21:23-27 「それから、イエスが宮にはいって、教えておられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」 イエスは答えて、こう言われた。「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。 ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」すると、彼らはこう言いながら、互いに論じ合
13 01月

預言的イメージの表現  キム・クレメント  1月13日




預言的イメージの表現
                         キム・クレメント


 ヨネ4:16-18 「イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』 女は答えて言った。『私には夫はありません。』イエスは言われた。『私には夫がないというのは、もっともです。 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 』

 その後、彼女は水がめをそこに置いて町に戻り、人々に言いました。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」(ヨハネ4:29)
 
 イエスが井戸のそばでサマリヤの女と話したとき、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と言われました。 イエスは彼女の人生の中の一つの小さなポイントにだけ焦点を合わせたのですが、その結果として彼女は町に走っていって、人々に「私の人生のすべてを話した人がいますから、来て会ってください。」と言ったのです。 イエスは彼女の人生のすべてを語ったのではありませんでした。一つのことだけ話したのです。しかし、それが彼女の全世界、人生のすべてだったのです。ですから、あなたにとっても、現在あなたが面している「まさにその事」が、あなたの全人生なのです。

 他の人の重荷と自分の重荷とを比較して、自分の重荷の方がずっと小さいと思うことはできません。私の重荷は私にとっては大きいものであり、敵はいつも私の人生を最後にはやっつけたいと考えています。敵は些細な事柄をいつも掘り起こしてきて私たちが前進するのを阻止しようとします。

 ヨハネ8:32に「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とあります。真理そのものではなくて、真理を知ることがあなた方を自由にするのです。真理はあなたを自由にしません。真理を知ることが自由にするのです。ひと度あなたが真理を知るならば、真理はあなたを自由にするのです。この真理というのは、神から与えられた真理です。もし、誰かがあなたのことを悪く言っていて、それがあなたにわかった場合、その真理はあなたを自由にはしません。かえってあなたを傷つけるでしょう。神の真理は直接神から与えられます。聖書には神の言葉は真理であると書かれています。医者は医学的な観点からあなたに事実を告げ、それは多分真理かもしれません。しかし、今私がお話している真理は、神がみ言葉によって与えてくださる真理のことなのです。

 私がある人に個人的な預言の言葉を与えたとします。そのとき彼がそれは確かに神のことばだと信じ、神からの「真理の知識」を得るならば、その後どんなに敵の攻撃にあったとしても彼は「真理の知識」という武器で敵をやっつけることができるのです。ですから、彼が神から受け取った真理を事実(fact)にするか、ただの絵空事(fiction)にしてしまうかという力を彼は与えられているわけで、したがって責任は彼の肩にかかっています。

 医者はあなたを診断して得た事実を基にしてあなたに真理(真実)を告げるかもしれません。一方、神は神の真理を基にしてあなたに事実を告げられます。あなたはそれを目で見ることが出来ないかもしれませんし、明らかでないかもしれませんが、神は確かに真理に基づいた事実をあなたに語ってくださるのです。私たちは自分の人生は自分の望み通りであってほしいと思います。完全な人生を望みます。しかし、そうはなりません。問題や困難が絶えず起こってきます。 このようにあなたを襲ってくる問題から真理はあなたを開放してくれるのです。


 真理のことばを受けてからは、周りの状況がどのようになろうとも、自分は真理を知っているのだということを忘れないでください。神はあなたに一つの約束を下さいましたが、事の成り行きは預言の霊とくいちがってくることがあります。 しかし、預言の霊は真理の霊であり、又、キリストは真理の霊です。このようなくいちがいが起こるとき、もしあなたが真理を持っていたら、神の真理をあなたの真理にする力をあなたは持っているのです。たとえ物事が反対のほうに進んでいると思われるときでも、真理は真理であり続け、あなたはそれを事実にしていく力を持っているのです。


真理はいつまでも真理


 神が究極的な真理です。私たち個人の真理は現実です。それは知恵ですが、時間と空間のなかでそれを事実としていかねばなりません。私は真理の力に関してすばらしいことがわかりました。その真理をあなたが事実とするならば、真理はなんでも出来るのです。どうやって事実にするのでしょうか。あなたの信仰がそれを事実にするのです。あなたの想像がそれを事実にするのです。あなたが夢見ることはすべて真理でなければなりません。現在の状況に飲み込まれてしまってはいけません。

 神があなたに語られるとき、一つのことばだけをくださいます。
「ある人には御霊によって知恵のことば(the word of wisdom)が与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことば(the word of knowledge)が与えられ…」 (Iコリント12:8)
 
 これはあなたは、知恵の一つのことば、知識の一つのことばを与えられるということです。 どうして神は一つのことばだけをくださるのでしょうか。どうしてちゃんとした文章をくださらないのでしょうか。それは、私たちは神のかたちに造られたので、一つのことばから文章を造りだす力を持っているからなのです。もし私たちが間違った文章を書いたならば、神はそれを消して、もう一度書き直させます。そうやって最終的に神が意図された文章になるまで何度も書き直させるのです。

 神は全能の神なのだから、最初からなぜちゃんとなるようにしてくださらないのだろうか、と思われるかもしれません。それは神は私たちを神のかたちに造られたので、私たちが自分でちゃんとできる力を与えられているからです。ですから、神から「富」ということばを受けたとき、あなたは「富は私を堕落させ、悪くする」という文を作ることもできるし、または、「富は神の国を拡大する力を私に与えてくれて、福音が全世界に広まる」という文を作ることもできるのです。 もし、あなたがするべきであると分かっていることにむかっての一歩を踏み出さないでいるときに、真理はただの絵空事になってしまうのです。

 神はアダムとイブに、地を従わせて支配せよといわれました。これが真理です。しか
08 01月

今という年  ウエード・テーラー  1月7日


新しい年に
               ウェイド・テイラー


イエスは言われました。
「行って、あの狐にこう言いなさい。『よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人を直し、三日目に全うされます。』(ルカ13:32) 
 主は又、次のように言われました。
 「主はモーセに仰せられた。『あなたは民のところに行き、きょうとあす、彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ。彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、主が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである。』(出エジプト19:10-11)

「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。」(ホセア6:1-3) 

  これら三つの聖書箇所では、準備のための2日間がまず設けられていて、それは「三日目」に起こる重大なことのための備えのためであることが書かれています。

  最初のルカ13:32で、主は「わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人を直し…」と言われました。イエスは現在父なる神と共に天に座しておられますが、今の期間に選ばれて完全にされる者たち(chosen and perfected)がキリストの身体なる教会の中にいるのです。イエスは、ご自身が「三日目」に「全うされる perfected」と言われました。この「全うされる、完全にされる」時というのは、かしらなるイエスと身体なる教会が一致し、一つとされる時という意味です。

 二つ目にあげた出エジプト19:10-11は、備えの期間の後、主がすべての人々の目の前に下りてこられるというところです。この箇所から、イエスは「三日目」に人々にあきらかに見える形で、キリストの身体なる教会のかしらとしてご自分を現され始めるということがわかります。
このように、イエスがご自分ひとりの身体を通して現された業を、教会という身体全体を通して再びされようとしているのです。

 三番目のホセア6:1-3では、「三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。」と書かれています。
すべての被造物が主の臨在…即ち、私たちが主の御前に生きること…が現れるのを待ち望み、うめいています。「うめき」とは激しいとりなしを意味していて、それによって教会が変えられていくのです。今の時代、主は多くの人たちを「激しいとりなし」をするようにと召しておられます。彼らは必ずしもすべての状況を把握していないかもしれませんが、主が今介入してくださるようにと真剣に祈っているのです。

「この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。… 女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。」(黙示録12:2,5) 

  この聖書箇所を現在に当てはめて見ると、一日目、二日目、三日目という意味を理解する助けとなります。

一日目…今日 「召し」 選ばれる
  今のとき、私たちにはある選択をする機会が与えられています。
「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(マタイ22:14)
この主による選びは、私たちが、自分中心の生活から離れてキリスト中心の生活をするための犠牲を、どれだけ喜んで払う意志があるかどうかにかかっています。キリスト中心の生活とは、私たちが全く透明になって内なるキリストご自身が私たちを通して「三日目」にこの世に現れるような生活ということです。

二日目…明日 「準備」 調えられる
 私たちの主に従うという決意がテストされるときです。それは、主と共に御座にすわる資格が与えられ勝利者となるためです。
「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」     (へブル12:6)

 この「むち」により、私たちの内にある自分中心の生き方が十字架につけられ、時としてむくむくと起き上がってくる様々な「自分中心の生き方」に打ち勝つことができます。

三日目 「現れ」  主と共に効果的に働く
「その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け…」(IIテサロニケ1:10a)
 私たちは2日の間、準備されてきましたから、三日目に入ることができるのです。「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。」とホセア書にあるようにです。

「私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」     黙示録5:10

 
 私たちは現在、「二日目」がほとんど終わろうとしている時代に生きております。主が重大な変化を起こそうとされています。主の「臨在の現れ」がどんどんと増し加わっています。私たちは更にすばらしく新しい力と油注ぎを与えられています。主は今まで教会が見たことがないような癒しと奇跡をもたらそうとしておられるのです。

  私たちは今までこの「三日目」を迎えるための準備期間にいたのですが、今はその「三日目」がいよいよ来ようとしているのです!(終わり)



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31 12月

暗黒と神の国の輝き リック・ジョイナー  12月31日


暗雲と神の国の輝き(1)

リック・ジョイナー (訳者:渡橋 喜代佳)


 2005年8月22日、私は夢を見た。夢の中で、感じのいい静かな通りを歩いていた。突然、西の方から大変な危険が自分の方に向かって来るのを感じた。振り向くと、非常に不気味な暗雲がこちらに迫っていた。その雲ははるかかなたまで一直線に延びており、すぐそこまで接近している。私はすぐそばの家に避難した。中に入りさえすれば、安全だった。しかし、ドアを開けようとするが、開かない。鍵は私のポケットにある。鍵に手をやるが、恐怖のあまり身動きできなくなった私は、ドアを開けようにも、ポケットから鍵を取り出すこともできない……夢はそこで終わった。
 この夢ですさまじい恐怖を覚えて、私はひどく苦しんだ。数日間その解き明かしを主に求め、預言者である友人のボブ・ジョンズにも尋ねてみた。そして、この雲がアジアから(私たちのいる西側に)もたらされる死のウィルスだということが示されたのだった。この夢のメッセージはこうだ。私たちにはこのウィルスに対して安全な場所があるし、そこに入る鍵も与えられている。それは神の国の鍵である。ところが、恐怖のあまりそこに入れないということもありえる。この暗雲がどんなに接近していたとしても、避難所である神の国もまたすぐそばにあるのだ。

道を備えよ 
まず確認しておきたいが、もし私たちクリスチャンが岩の上に家を建てているなら、この地上に来ようとしているどんなものをも恐れる理由はない。主のことばを聞いてそれに従うことで、私たちは岩の上に家を建てるのである(マタイ7:24~27参照)。主のことばを聞いたことのない、あるいは、聞いても従わなかった愚かな人々にも、悔い改めるための時はまだあるにはあるが、あまり残されていない。時が迫っているからだ。夢の中で暗雲が非常に接近していたのは、このタイミングのことだった。
 私たちには揺らぐことのない神の国があり、この地上を襲うどんなものからもまったく安全で確かな避難所がある。すでに述べたように、この安全な場所に入るための鍵は、主がご自身の教会に与えてくださった神の国の鍵である。けれども、クリスチャンだと言いながら、実際は、神の国のやり方ではなくこの世のやり方に従い、主のためではなく自分のために生きている人たちには、悔い改めの時はわずかしか残されていない。

 聖書は、この時代の終わりに世界がどのようになるかについて、非常に明確に語っている。
1テサロニケ5:2~6からは、励ましと警告の両方が与えられている。
 「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知している
からです。 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
  しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」


 この先世界がどのような事態にいたったとしても、クリスチャンは驚くべきではない。この地上を何が襲っても驚かない、終わりの時代の預言的なミニストリーが起こされることだろう。主の羊たちは、主の声を知っていると言われている。彼らはそうした事態に対する備えがなされて、主の囲いの中で安全に過ごすことができるのだ。主の声を知らないか、主の声に従わない人々は、たちまち、もっとも過酷な危機的状況にさらされるようになるだろう。
 何であっても、否定的だとわかると、それを受け入れることが教理的にできなくなっているクリスチャンが多い。彼らは、上記の引用箇所にあるように慎み深くしているのではなく、霊的な酩酊状態にある。すぐに酔いから覚めるのでなければ、次は昏睡状態に陥るだろう。繰り返すが、この世界がどのようになるかについて、聖書は非常に明確に語っている。

問題は何なのか?
  
 この時代の終わりに世界を襲う艱難や苦難は、基本的には、人間が神を無視して生きようとしている結果引き起こされるのだ。創造主との調和の中にいなければ、どんな被造物も、うまくいくことはありえない。この時代が終わると、すべての被造物が、そうした愚かなことは2度としてはならないことを永遠に証しするだろう。
 最大規模にまでおよぼうとしている暴風雨や他の自然災害さえも、その原因は人間側にある。人間にはこの地を治める権限が与えられたにもかかわらず、みずからが神の支配に服していないため、正しく治めることをしてこなかったからだ。しかしながら、神との根本的な関係が回復されて、神に従って生きているクリスチャンは、世界にもたらされようとしている事態を恐れる必要はないし、そうした事態に対しても権威を行使して、地域全体を大災害から守ることも可能である。
 主に従順な人々と従順でない人々には、はっきりした違いが見られるようになる。といっても、従順で「岩」の上に自分の人生を築いた人々が守られるのは、自分たちが大災害を免れたことを誇るためではない。主を無視して生きようとしてきた愚かな人々を助けるためである。私たちは、主がすべての人の救いを望んでおられ、いつもさばきよりもあわれみを示したいと思っておられることを、けっして忘れてはならない。マタイ5:44~46で、主はこう語っておられる。
 「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。」

 主は、すべての人々を愛しておられる。主を憎み、主や主のやり方に反逆する人々をも愛しておられる。愛情ある父親のように、たとえその反逆する子どもたちが悔い改めないとわかっておられても、主はその子どもたちのためにもよいことをしてくださるのだ。したがって、来たるべき破壊的状況のただ中にあっても、反逆する人々にも力を尽くしておられる神のあわれみや恵み、優しさが見られ
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