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Walk With God Ministries


21 06月

あなたが証しをする時、あなたは世界にむかって預言する  ビル・ヨント 6月21日 


あなたが証しをする時、あなたは世界にむかって預言をしているのだ

ビル・ヨント

「イエスのあかしは預言の霊です。」 黙示録19:10

あかしは私たちの持つもっとも力ある武器の一つであり、今暗闇の力をすべての国々から追放しはじめている!

主の大いなる愛と力に触れられたものはみな、立ち上がって屋上から主がなしてくださったことを叫べと、今天の父はすべての者にむかって要求されています。私は今はその時「カイロス」だと感じています。

自分では小さな何でもないあかしに過ぎないとおもうことでも、世界に伝染していって火をつけることができるのです。それゆえに神はあなたにあかしをせよと言われるのです!あなたのあかしのDNA(遺伝子)は預言の霊を含んでいます。なぜならばそれはあなたのあかしではなく、イエスのご自身のあかしであり、世界にむかって主の途方もない伝染力のある恵みと憐れみの業を、あなたを通してあかししているからです!

あなたのあかしには預言の霊も含まれている!

あかしとは、神があなたの人生で何をしてくださったかを公に宣言することです。あかし(testimony)という言葉は、「再び行う」という意味を持つ語根から派生しています。あかしの持つ伝染力は、神が一度されたことはあなたのために、また全世界のために、もう一度してくださるということです!
あなたが自分の人生で神がしてくださったことをあかしするとき、それは実際、神はあなたのためにこれからもずっと続けてしてくださることを預言しているのです。

例えば、神があなたのあることを癒してくださったというあかしをするとき、あなたは実際あなたのほかの部分―霊、魂、身体―も癒し続けてくださることを預言しているのです。 主は始められたことは完成させられるからです。

山を流れるなだれに「何がきっかけで流れ始めましたか?」と聞いてごらんなさい。一片の雪だというでしょう!

今世界中に広がっていて、もうすぐあなたの戸口まで来ようとしているフロリダ州レイクランドの聖霊の傾注は、ただ一人のひと、タッド・ベントリーのただ一つのあかしから始まったかもしれないのです。何年も前のことですが、彼は主が自分の人生で何をしてくださったかという体験を人々に話はじめました。この「あかし」は世界規模のリバイバルの「預言」だったようです。勿論、沢山の人々の沢山のあかしが、地上から立ち上ってきたので、多くの天使がレイクランドになだれのようにやってきたのです。そしてそれによって天が開け、大勢の天使たちが世界中に今おりてくるようになっています。

過去神がしてくださったことをあかしするとき、あなたの未来の勝利をあなたは預言していることをご存知でしょうか?

1サムエル17:37 「ついで、ダビデは言った。『獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。』 サウルはダビデに言った。『行きなさい。主があなたとともにおられるように。』 」

ダビデがあかししているときに預言の霊が働き始め、ダビデはゴリアテが敗北すること、又その後でダビデによって一万人が殺され、その他の敵も殺されることを預言をしたのです。


兄弟たちは小羊の血と自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った!

5年前私が心臓発作に襲われましたが、主は私が少しづつ癒されることを示してくださいました。その日から私はどこへ行っても、私は癒しによって襲われているとあかししています。

私は5年もの間、ちょうど妊婦のように、私の中に癒しという赤ちゃんを孕んでいたのです。正直なところ、心臓が癒されているようには感じられないときもありましたが、「我が家(神の家族)は癒しの起こる家系だ!」というのが真理だったのです。

5年間、定期的なコレステロールと血液の検査を続けて来た結果は、徐々に良くなり、丁度先週、ついにコレステロールや心臓のための薬が必要ではなくなったのです!
どんな小さなことでもあなたの健康が少しでも改善されたときは、感謝の心で屋上から大声で叫んでください。そうすればあなたは、癒しの満ち溢れる主の門の中に入っていくのです。そして癒し主なる主ご自身があなたの中に入ってくださるまで感謝しつづけてください!癒しや奇跡があなたのところにまだ届いていなくても、それが今やってくることをあかしし、今あなたのところに来る途中であると預言できるのです!

神がしてくださったことをあかししなくなった人が大勢いる

最近あまり自分にはあかしすることがないと思うならば、あなたの人生で神が何かをしてくださったところまで戻って、それを繰り返して言ってみてください。そうすれば、聖霊が再びあなたの今の人生の中で活発に働いてくださるのを見るようになるでしょう。

ある私の知っている牧師は、自分の教会の人たちの中で何も奇跡が起こっていないときは、他の場所で神が働いておられるあかしを探して、それを自分の教会で話すようにしています。

すると人々の信仰が高められ、彼らも自分たちの生活の中で神が働いてくださった経験を話し出すのです。私はこの教会に年に一回くらい行きますが、その牧師が「誰かあかしがありますか?」と尋ねると、人々は走るようにして前に出てきて、今まで聞いたこともないようなすごくユニークで力強い神のみ業のあかしをするのです。たまたま来ている訪問者さえ、自分の癒しや奇跡のあかしをすることもあります!

誰かが作った話なのですが、イエスのもとに体の不自由な男を連れていこうとした4人の男の話があります。 その話はこうです。・・・・・・4人の男のうちの一人が言った。「私は盲目だったが、イエスが目に触れてくださって見えるようになった。だから、疑いたくはないんだけど、それにしてもこの男の状態は私よりもっとひどいからなぁ。」 2人目の男は言った。「確かにイエスは私の萎えた手に触れて癒してくださったけど、こんなに重症な男は治せるとは思えない。連れていくのは無駄だ。」 三人目の男は言った。「イエスはらい病人だった私を癒して清めてくださったから、疑いたくはないのだけれど、しかし、やっぱりこの男はもう長くはないと思うよ。」

この3人は、最後の4人目の男がどのようにイエスの能力に疑問をもち批判をするかを聞くために、彼に注目した。だが、彼が自分の名前を大声で言うのを聞いて驚いてしまった。彼はこう言った。「私の名はラザロだ。あかししてもいいかい。生きているって いいね! 私が死の鎖につながれていたとき、イエスが呼び出してくださった!この男の問題がイエスには大きすぎると思っているならば、神の偉大なる声を聞いた者から学んでくれ!私の名はラザロだ!」

「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」
使徒行伝4:20
さあ、あかしをしに出かけようではありませんか!(終わり)


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18 06月

あなたの中におられる栄光に目覚めよ   チャック・ピヤース   6月18日



あなたの中におられる栄光に目覚めよ

チャック ・ ピヤース

先週末のペンテコステの集まりで主から一つのことばが与えられました。それは「わたしはスプーンを取り上げ、アメリカの中心部分であるインディアナ州、イリノイ州、アイオア州の泥をかき混ぜる。」と言うものでした。その後雨が降り始めました。そしてフランシス・フランジペイン師からの知らせでは「アイオア州、特にシーダー・ラピッツ市の周辺、その中でも特に市の中心部は歴史的に5百年に一度起きるか起きないかの洪水に襲われている……」と言うものでした。

以前にダッチ・シーツ師と全米を廻って各州で主からいただいた預言の言葉を本にしましたが、それを紐解いてみると、ウイスコンシン州での主のことばは「この州はわたしの川々(の水源)がある州である。これらの多くの川の水位が上昇するときは警戒せよ。」と書いてありました。


私は最近、創造主なる神の創造の力の大きさについて考えていました。私たちのまわりがたとえ混沌とした状況であっても、聖霊なる神によって覆われ、主の声が発せられるならば、混乱の力と闇は打ち破られ、そこに新たな秩序が創られるのです。
あなたがまだ主をご存知ないのでしたら、主があなたをある目的をもって創造されたことと、主があなたと交わりたいと願っておられることを覚えてください。主こそ地球の最高司令官です。

これは理解していない人が多いのですが、私たちの人生に起る総てのことは主の(ご計画と目的の)為に最善なこととして起るのであり、その起る総てを私たちが主からのものとして従順に受け入れ、神を賛美するならば、総てのことが究極的に私たちにとってすばらしい益となるのです。 あなたの人生に起ることは総て神の創造の力によるものであると、神のなさることに合意一致すればするほど、あなたはあせったりいらいらしたりすることが減っていくでしょう。 自分の心と霊の深みを探り、主の声に耳を傾けてください。主のされることは、すべてあなたのためなのです。
主の声に耳を傾ける時、あなたは人間的に得られるどんな平穏よりもより深い平安を得ることができるでしょう。

私たちは極度のストレスを溜め込まないように、自分を守らねばなりません。私たちの健康上の問題の多くは、ストレスと心配に由来しています。たとえあなたの周りに混乱があり、激動があり、混沌としている状態であっても、あなたがしっかり主に聞き従うならば、創造主なる神はそこに秩序をもたらし、あなたは主に一致した人生を送ることができるのです。

私たちは、喜んで主のみこころを行うようにしなければなりません。「落胆」という言葉をあなたの辞書からとり除いてください!そうすれば、性格的な欠点や低い自己イメージが、神があなたに計画された最高の性格とセルフイメージになるように変えられて行でしょう。そしてあなたは自分の目標に到達するための力を得ます。それは人間的な理屈、自分の評価とか判断によっては決して得られない力なのです。今こそ、あなたの中に主が与えて下さっている最高のものを、あなたが見つけるシーズンです。

今週の火曜日の祈りのときに、主は詩篇16:5-11を与えてくださいました。

「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。
わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。
わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。
あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。」


あなたのうちには主の栄光がおられ、主は今、それが現われるように召し出しておられるのです。あなたのうちなる栄光を大いに喜ばせ、それによってあなたの家系の罪が逃げ出すのを見張っていてください。(終わり)


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14 06月

現在のリバイバルの経過と未来(パート2) リック・ジョイナー 6月14日


現在のリバイバルの経過と未来(パート2)

リック・ジョイナー

アメリカのいろいろな場所やヨーロッパからも知らせが入ってきていますが、みな同じことを報告しています。それは、癒しや奇跡が、今まで見なかったような高度なレベルで起っているということです。今は神が神の民を訪れてくださっているすばらしい時です。しかし、これは、もっと偉大な神の働きが生まれ出る時―それは今年の9、10月に起ると私は思うのですが―のために私たちを備えるための霊的陣痛に過ぎないと、私は信じます。
私たちには9月21日(2008)が大切な日になると示されています。しかし、私たちは「一部分を見」、「一部分を預言する」(第一コリント13:9参照)のですから、その日に実際起きるのかどうかを宣言することができませんが、それがアメリカのリバイバルに関しての重要な日になることは断言できます。

今までの2ヶ月間は、神が奇跡をなさる方であるという信仰は劇的に大きくなりました。そして主はその信仰に応えてくださる方です。信仰が増すにつれ、神がもっと動いてくださり、それによって信仰がもっと増えていきます。その結果、主がもっと偉大なことをしてくださるのです。これを続けていこうではありませんか?

今経験していることがすでに全く驚くべきことなのですが、真に聖書的に「あるべきノーマルな姿」に到達するには、まだまだ上に上っていかねばなりません。新しい神との契約を握っているクリスチャンとしては、聖書の中に書かれていること全部が現在でも起ることを期待する権利があるのです。主は今もその時と同じ主であられます。主の名前は「I was」とか「I will be」ではなく、「I AM」 なのです。
使徒行伝の時代の教会にご臨在された同じ聖霊が、私たちと共に今もいてくださいます。すべてのクリスチャンは使徒パウロが持っていたのと同じ聖霊を持っているのですから、パウロを通して働いたのと同じ力を期待することができるのです。

第二コリント3章で、モーセは主の栄光を見て顔におおいをかけねばならないほどでしたが、私たちクリスチャンはそれよりも更にすぐれた栄光を見ることが出来るといっています。
私たちはもっと栄光のある「よりすぐれた契約」を与えられているのですから、今その栄光を見てそれを経験することを当然の権利として受け取る者たちが今起って来ているのです。これこそ主が長い間待ち望んでおられたことでした。
私たちが新しい契約の総ての特権の中を歩むことができるように、主イエスがその代価を払ってくださったのですから、その中を歩むことが出来るのは私たちだけではありません。私たちに適用された神の正義は、私たちが受けるにふさわしいからではなく、主こそが受けるにふさわしい方なのであり、ご自分がそのために最大の代価を払われた新しい契約のすべての特権を、ご自分の民が受けて喜ぶことこそ、主が受けるにふさわしい当然の権利であるのです。

 奇跡を見ることは、人々を力づけます。神が再び動かれ始めたので、人の力を超えた多くの業が私たちの中にいま起っています。それはまさに神の業に違いありません。真理もまた、私たちを力づけます。これらの業をなしておられる聖霊は、真理の御霊でもあられ、今人々の上に真理を愛する心を注ごうとしておられます。それは新しい契約に関する真理から始められ、もうすべて代価が払われているので私たちはすべての特権を受けることができるという真理です。神のもっとも基礎的な義は、神の民が天国の市民としてのすべての特権を受けることにあります。それによって、天の御国は彼らを通じてこの地にこれからももたらされ続けるでしょう。

10人の斥候によってもたらされた悪い報告を信じて来なかった、新しい世代の人々が今持ち場に着こうとしています。彼らはヨシュアとカレブによってもたらされた信仰ある報告に自分たちを合わせました。それは自分たちに与えられた土地を受け継ぐには、巨人がどれほど大きいかとか、自分たちがどれほど小さいかとかには全く関係がなく、神がどれほど偉大であるかと言う信仰にかかっているということです。彼らは今ヨルダン川の岸辺に立ち、川を越えて自分たちの約束の地を勝ち取る準備ができています。


高校生たちが身体障害者、盲人、聾唖者、又不治の病を持っている人たちのために神は必ず癒されると信じて祈り、そして往々にしてそれが起るのを見ることは、いまだに非常な驚きです。幾晩か前のことですが、部屋の後方が騒がしくなりました。見ると、女子の高校生二人が、車イスの若い男性のために祈ったところ、彼は直ぐに立ち上がり歩き始めたのでした。彼は多発性硬化症(MS)で、もう7年間歩いたことがなかったのです。彼はそれから間もなく車イスに戻りましたが、それは病が戻ったためではなく、筋肉を長く使っていなかったので、疲れたからでした。彼のために祈った二人の高校生に話しましたが、
彼女たちは確かに喜んでいましたが、興奮しすぎということはありませんでした。というのは、彼らが祈るときに主がこのようなことをしてくださるのを、今はいつも経験しているからです。超自然的な奇跡が、自然なことである世代が、今現実に起っているのです。

知恵とは基本的に知識と経験の正しいコンビネーションです。しかし、これから出て来る世代の人たちが持つ知識と経験は、どちらも過去の世代のものとは違ってくるでしょう。私の年代の多くの人たちは、主は今も癒したり奇跡を起されたりすることを一応信じますが、めったにそれらを見ることが出来なかったために、彼らは信仰に対して冷ややかな思いを持つようになりました。そのような人たちの中には、信仰を持っても何も起らない時に失望しないようにという配慮から、台頭する若者たちの信仰にブレーキを掛けるようなことをしている人たちがいます。もしそうであるなら私たちは急いで悔い改めねばなりません。 

主は約束の地に入るように選ばれた人たちにとって妨げとなるような不信仰な世代の人たちを先ず完全に取り除きました。主は今の時代において、もし私たちが同じような不信仰の世代であってよしとするのであれば、そのような私たちを主は取り去られるでしょう。私たちは、敵がいかに大きいかとか、私たちがいかに弱いかで心を煩わされるのではなく、いかに偉大な神であるかと言う信仰によって敵に勝てる決意をしたヨシュアとかカレブになれるのです。私たちが主を本当に信じる時に主が総てに打ち勝って下さいます。

失望は不信仰ほど悪いものではありません。信仰を持つ ように励まし、そして奇跡が起ることを期待してください。これから起ろうとしている世代が持つ経験は、過去の世代が持ったものとは違うでしょう。神を信じることは常に真の知恵です。そして信仰がなくては神を喜ばせることはできませんし、神への真の信仰は決して失望に終わることはありません。失望することを恐れたり、避けようとするような霊を持って生きることは、必ず失望におわります。
 

今ヘリテイジで起っていることに関していくつか興味ある点があることに気がつきました。今ブレイクスルーを経験している人たちにも参考になることかもしれませんので、下記に記します。

一つの傾向

最大の奇跡は往々にして、人がほとんど帰ってしまった後で起きたということがまず第一にいえます。集会後の時間は「残照 残り火の光輝 afterglow」と呼ばれるもので、人々が集会で起ったことを小声で話しているようなときです。主はどうしてそのようなときに力強く働かれるのでしょうか?

人間的なエネルギー、興奮と信仰とは、時として見分けがつきにくいものですが、違うものです。真の信仰は多くの場合興奮を伴い、常に期待感を伴います。しかし、それはいつも同じではなく、往々にして間違いやすいものです。
真の信仰は静かなときもありますし、非常に控えめなこともあります。真の高揚も時として非常に静かで控えめです。また、両者とも大きな声ではしゃぐときもあります。みんな主によって違うように造られているからです。

私がドイツやスイス、スカンディナビア地方でミニストリーを始めた当初は、彼らの懐疑心の深いのには面くらいました。その時主が私に、彼らの懐疑心は悪いものではなく、良いものだといわれました。主に悟りを下さるように願ったところ、良い懐疑心は信じたいからのものであることと、彼らは私をくまなくチェックするから、私が本物をちゃんと持っていることが重要だと、主は教えてくださいました。これは「ベレヤの人々の信仰」であり、彼らはパウロの教えに心を開くと共に、すべてのことを聖書に照らし合わせて調べました。
それとは違い、悪い懐疑心は、疑いの思いが強く、あるかないかの小さな証拠で自分たちの猜疑心を肯定し、それをくつがえす証拠が山ほどあっても受け入れないのです。

良い懐疑心を持つ人たちとは一緒にやっていく価値があります。何度も訪れたときに、私の教えを疑っていたかに見えた人たちは、実はそのことを深く考察していたのであり、何年もたってから彼らは私が昔教えたことを細部にわたって言うことができるばかりか、それを検討し正しいと認めたときに彼らはその教えを実行して生きる人たちとなっていたのです。
これとは反対に、私の話を集会で聞いた時にはもっとも興奮したように見えた人たちで、その集会の直後にすでに何を聞いたのかを忘れて言えないような人にも沢山会いました。何年か後になって、そのような人たちは集会中昔と同じように非常に興奮しますが、その人たちの日常生活には真の霊的成長がほとんど見られないのです。
あなたならどちらの聴衆がいいですか? 興奮して聞いてくれる人に向かって話すのは楽しいかもしれませんが、本当に残る実のために私は深くものごとを考える人を選びます。
もちろん、興奮を身体に表して、しかも深い信仰をもつ忠実な人もいるでしょう。私が言いたいのは、肉によって見えることだけで判断しないで、霊によって判断せねばならないということです。

聖書の中で、イエスは水の上を歩くというような偉大な奇跡を、ほんの少人数しか見ていないところで行われました。大きな癒しの奇跡のあとには、誰にも話してはいけない、ただ祭司のところにいって神の感謝をささげよと言われました。どうしてイエスはみんなに話してもっと多くの人たちが自分を信じるようにされなかったのでしょうか?

ここに特異な真理があります。神はご自分を信じさせるために人を癒されたことはほとんどないのです。多くの場合、主を信じていた人たちだけを癒されました。もし神が、人々が信じるようになるために奇跡を起したいのであれば、ただ病人や盲人を癒すよりももっと大きな奇跡をされたことでしょう。ユダヤ人は天からのしるしを求めたのはそれでした。彼らは、太陽を止めるというヨシュアがしたような天のしるしをイエスに求めたのです。太陽を止めたり、ご自分の名前を天に星を並べて書くことによって誰も主を否むことが出来ないようにすることは、今日主にとって容易いことです。しかし、主がされようとしているのは、そんなことではないのです。

主が大きな奇跡をされた後、多くの者はその御業のゆえにもっと心をかたくなにし、もっと激しく主を迫害しました。彼らは心がかたくなで、主が死人をよみがえらせたときに主を殺そうと心に決めたのでした。偉大な奇跡や信仰は、人々をイエスへの信仰に呼び寄せるのではなく、大抵更なる迫害を起すのです。これと同じことが使徒やステパノに起ったことが使徒行伝を見ればわかります。

今主がしておられることを見て主を信じる人が大勢起されることは予測できますが、それは必ずしも奇跡が直接的な原因ではなく、聖霊の力を受けて大胆にされたクリスチャンが語る福音のメッセージによると思います。伝道は奇跡により頼むのではなく、聖霊が人々の罪を示し、彼らが十字架の贖いを必要としていることをはっきり悟らせることが真の伝道の方法です。勿論例外もあるでしょうし、奇跡を見てとか、病がいやされたから主を信じるようになった人を知っているかもしれませんが、それは主に仕えるようになった人の中では非常に少ないケースだと思います。10人の癒された盲人のうち、一人だけが主に感謝するために戻ってきました。主は人々を愛する故に今も癒しの業を行ってくださいます。しかし、最大の奇跡であっても、一人の主の後を追って仕える者を生み出さないこともありえるのです。

神は人を愛するゆえに癒しを行ってくださいます。人々が苦しむのを見ることを好まれません。神は私たちが奇跡を必要としているので、奇跡を起してくださいます。癒しのミニストリーには憐れみの心が絶対に欠かせない理由がここにあります。それは人間的な憐れみではなく神の憐れみであり、人間的憐れみとの区別をつけることを私たちは学ぶ必要があります。
人間的憐れみからとか、あるいは奇跡をもって主を証ししようとする人たちは、多分シロアムの池のまわりにいた総ての人を癒そうとしたことでしょう。しかし、神の憐れみはイエスにただ一人の人を癒すように導かれました。イエスがその男の
05 06月

現在のリバイバルの経過と将来 (その1) リック・ジョイナー 6月5日


現在のリバイバルの経過とその将来 (その1)

リック・ジョイナー


非常にすばらしい神の動きが、今、アメリカで起っています。フロリダ州レイクランドで始まったリバイバルは目を見張らせるほどすごいものであり、しかも急速度で進展しています。私たちのミニストリーであるサウス・キャロライナ州フォートミルにあるヘリテイジ(Heritage International Ministries)の本部でも、同じようなリバイバルが起っていて、それは、ある意味では、今までの私たちのすべての経験をはるかに超えたものです。ここでも神の動きはますます激しくなってきているようで、多くの人々が神を体験するために遠くから訪れ始めました。霊のレーダーには、他の場所での神の動きに関するニュースも次々に入ってきております。

これは一体どういうことなのでしょうか? どこに向かって進んでいるのでしょうか? そして、どのような実を結ぶのでしょうか?これらの質問に答えることは、たとえ今はまだ部分的にしか答えられないとしても、大変重要なことです。私たちは一部分だけ見ることができ、一部分だけを知り、一部分だけ預言をします。確かに私たちは一部分しか把握していないことはわかっていますが、道をあやまらないためには、その一部分をしっかりと理解し、悟る必要があります。今起っていることを理解すればするほど、私たちはもっと前進することができ、より大きなインパクトを与えることができるのです。

私たちが今までに経験したことだけでも、すでに十分驚くほどすばらしいことなのですが、実はこれはリバイバルのほんの胎芽期にすぎないのです。今起り始めたことは実に、リバイバルを超えたもっとすばらしいものになる可能性を持っています。これはアメリカの次の「大覚醒 Great Awakening」、即ち、アメリカ全土に衝撃的なインパクトを与える国家的霊的リニューアルの始まりかもしれません。もし私たちがコースを踏み外さなければ、この国に神の御国を到来させる道備えが出来るのです。この覚醒なくして、アメリカは今までのような大国家として生き延びることはできず、スーパーパワーの抜け殻のようになってしまうでしょう。ですからアメリカに覚醒が起きるのは非常に重要なのです。

真のリバイバルは、ある教会が一週間の集会を計画することとは比較にならない程大きなものです。リバイバルはよみがえりの力であり、再び命を与えることであり、それこそがまさに今アメリカの教会が必要としていることです。アメリカで一番よい教会であったとしても、その教会には少なくともリニューアルや聖霊の新たな動きが必要です。しかし、ほとんどの教会は実際にリバイバルを必要としています。なぜならば、多くの教会は死んだ状態から生き返る必要があるからです。リニューアルであれ、リバイバルであれ、私たちは今神が送ってくださっているものをへりくだって感謝して受け取らねばなりません。その謙虚さを見て、神は私たちにさらに恵みを与えてくださるでしょう。

私たちはこのリバイバルをどうやって受け取ったらいいのでしょうか? レイクランドやヘリテイジ、またはどこでも神の動きが起っているところに行ってください。真のリバイバルは伝染していくものです。今ヘリテイジで起っていることは、レイクランドのリバイバルに行った二人の学生によって引き起こされました。彼らがレイクランドに行ったときの体験をバイブルクラスで話していたときに、竜巻のようなものがその部屋にやってきたのです。たちまち私たちの二つの学校と、そのスタッフ、そして学校に子どもを迎えにきた親たちまでもが、今まで経験したことがないと程のものすごい主の臨在の中にまき込まれていったのです。

主の臨在があまりにも強いので、私たちは毎晩集会を続けるほかはありませんでした。今それから一週間以上経ちましたが、臨在は弱まるどころかだんだん増し加わっています。私は多くの超自然的な経験をしてきましたが、現在の集会中は主の臨在があまりにも強くて、すべての者が恐れで一杯になることもあります。

C.S.ルイスはアスランというライオンを、キリストの型として描いていますが、「彼はおとなしいライオンではない」と書いています。集会の中で、油注ぎがだんだん弱くなっていく、と思った瞬間に、油注ぎの一番強い波が押し寄せてきて、私たちをよろめかすのです。チームの者の多くは、今までにも多くのリバイバルやリニューアル、その他の神の動きを経験してきていますが、今回の神の訪れの中で彼らがどれほど怯えているかを見るのは、私にとっても驚きであり畏れを感じさせるのに十分です。建物の中に誰もいなくなった時でさえ、背筋がぞっとするような臨在があります。いままでもこれに似たことはありましたが、これ程ではありませんでした。今回は本当に違います。

ヘリテイジで起っていることも、やはり伝染力があるようです。ヘリテイジで起っていることをEメールで読んだり、又ある場合などは、ヘリテイジのリバイバルの現場からの携帯電話を受けただけで、神の力に打ちのめされ、その人がいる地域でリバイバルが起り始めたという報告が入ってきています。それはちょうど、乾ききった薪の上に真っ赤に燃えた石炭のかたまりを投げ込むようなものです。(終わり)

(以上は4月30日付けで書かれたジョイナー師のメッセージ-<パート1.>の一部ですが、取り急ぎこれを今起り始めたリバイバルの速報としてお届けします。)


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31 05月

神からのチャレンジ ― あなたは何を見ているか? キャシー・ウォルター 5月31日


神からのチャレンジ ― あなたは何を見ているか?

キャシー・ウォルター


あなたは何を見ているか?

今日、あなたに一つの質問をしたいと思います。そしてこれは神があなたに質問しておられることだと信じます。実際、神はエレミヤにこれと同じ質問をしたのです。さあ、用意はできましたか?

まず、少し背景を説明しましょう。エレミヤが活動を始めたときには、彼はすでに確立されたミニストリーを持っていたわけではありません。つまり、大きな聖会のスピーカーとしてイスラエル中を駆け回ったり、セミナーを開いていたわけではないのです。彼は未だ子どもというか、せいぜいティーンエイジャーにすぎませんでした。

神がエレミヤを説教者として最初に召されたとき、「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを国々の預言者と決めていた。」と言われました。それを聞いてエレミヤはびびってしまいました。それは前にも聞いたことがあることだったのです。なにせ彼の父親は説教者でした。でも私たちは往々にして、「それはずっと先のことで、私がもっと成長したときのことだろう。」という具合に思ってしまうのです。

エレミヤは主に答えて、「ご冗談ですよね。私はまだ子どもです。まだ何もできませんから無理ですよ。」と言いました。これは私の訳ですが、聖書にはそう書いてあります。「そこで、私は言った。『ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。』」とあります。(エレミヤ1:6) 

神は、「自分は役に立たない子どもにすぎない」というエレミヤの思いを無視され、「そう言ってはならない。わたしは、わたしの言葉を既にあなたの口に与えてあるのだから。」と言われました。そして、神は非常に重要な役目をエレミヤに与えました。
「エレミヤよ、さあ、聖書学校に入って一生懸命勉強せよ。そうすれば、やがてあなたは成長してわたしの働きができるようになるであろう。」と神は言われましたか?違います!神はこのティーンエイジャーに、「わたしはあなたを国々に遣わす。国々や多くの王国の上に任命した。あなたは引き抜き、あるいは、引き倒し、あらゆる力ある業をすることができる。」と言われたのです。神はエレミヤに人々の顔を恐れるな、と告げられ、「わたしはあなたとともにいる。」と約束されました。

エレミヤがその召しを承諾するかどうか応えるのも待たないで、神は突然「エレミヤよ、あなたは何を見ているか?」と聞かれました。エレミヤの父は祭司でしたから、彼は神に関することには慣れていましたが、その時は面食らいました。神は「エレミヤよ、あなたは何を見ているか?」と言われたのです。エレミヤはすばやく自分の信仰を働かせねばなりませんでした。つまり、信仰で見なければならなかったのです。エレミヤ青年はその時、幻を見て、「アーモンドの枝を見ています。」と答えたのです。

アロンの杖はアーモンドの枝でした。それはヘブル語で「目覚めさせる者」という意味を持っています。エレミヤは信仰で自分の将来を見ていたのです。(彼はまだそれを悟ってはいませんでしたが。) 彼は「目覚めさせる者」になるように召されたのです。神は、エレミヤが預言をしてイスラエルの人々に彼らの召しと目的のチャレンジを与えるようにと言われたのです。即ち、神はエレミヤに、イスラエルの人々の目を覚まさせなさい、と告げられたのです。私ならば、誰か他の人を遣わしてください、と神にお願いして、あとは知らんぷりをしていたことでしょう。エレミヤも実はそうしたのです、でも、無駄でした。

ご存知でしょうか?人々は眠りから起されるのをあまり好まないのです。起されてすぐに機嫌のいい人はあまりいません。起されて目を覚ましたとき、あなたは多分うれしくなくて不機嫌でしょう。「目覚めさせる者」というのはエレミヤにぴったりの名前でした。「人気のある者」という形容詞は彼には当てはまりませんでした。
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さて、これが主からのあなたへの質問です。「あなたは何を見ていますか?」 私は肉の目で見えるものについて聞いているのではありません。

ゆっくり時間をとってください。美味しいレストランにでも行き、リラックスして2,3日ゆっくり休みを取ってください。それからイエス様の足元に座ってください。「争う代わりに寄り添いなさい。」とか「もがかないで安らぎなさい。」という言葉が私のお気に入りです。
あなたは安息に入り、聖霊があなたのために何を見ておられるかを教えていただくのです。あなたの教会のためではありません。あなたの夫(または妻)のためでさえなく、あなた個人のためのヴィジョンです。あなたのヴィジョンはまずあなたから出発せねばなりませんよね。自分のために本当にヴィジョンがないならば、他の人のヴィジョンを信じることもできないでしょう。
 
ヴィジョンに関すること

昔のテレビジョンを覚えておられますか? テレビが古くなるとブラウン管が悪くなってきます。ブラウン管が駄目になってくると、どうなるか覚えていますか? 映像がだんだん小さくなっていきます。テレビは当時高価なものでしたから、古いものをなるべく長く使おうとして、最後までそのまま見ていました。縮んで見える映像を一生懸命見たものです。

さあ、あなたは何を見ていますか? 実は、ほとんどの人が縮んで小さくなった映像を見ているのです。夫のデイビットは「クリスチャンの多くは射るべき的を定めないままで、矢を放っている。」と言っています。人は自分が見るものにしか、的を定めることはできません。もし小さな召し、小さな目標、小さなヴィジョンしか見ないのならば、それに的を合わせるしかないのです。

私からのあなたへのチャレンジはこれです。それは即ち、神があなたのために見ておられるものを見ることです。神は大きなヴィジョンを持っておられるのです!私たちは大計画の中の自分の町とか、自分の家族、自分の小さな場所だけを見ています。しかし、神は世界の国々、何も隔てのない一つの大きなエリヤを見るのです。神のヴィジョンには限界がありませんし、あなたのためにも何の限界も設けてはおられません。あなたは自分の信じるものを手に入れることが出来、あなたが信仰で見ることができるものならみんな信じることができるのです。あなたは神の信仰をあなたのうちに持っています。それを信じなさい!なぜならば、「おのおのに分け与えてくださった信仰の量り」があるからです。(ローマ12:3)

あなたの冒険は何ですか ?

聖書には、神のみこころは喜ばしいとあります。「私はみこころを行うことを喜びとします。」(詩篇40:8)
神はご自分の願いをあなたの心に入れられます。言い換えれば、あなたが自分の心に従って行うだけでそれが喜びとなり、すばらしいものであり、冒険に富み、神で満ちるようにと、主はご自分の願いをあなたの心に入れてくださるのです。あなたは、ただ聖霊があなたのために見ておられることを教えてくださいとお願いすればいいのです。あなたのために、すばらしくて、驚くべき、大きな人生の目標が定められているのです。

もしあなたが今夜、主に仕えるために何かをしようとしていて、それが喜びでないならば、そんなものは止めてしまいなさい、それはただの業にすぎません。そして、残念ながら、神はあなたの業には何の関心も持たれないのです。主はご自分の業に関心を持っておられるのです。主はあなたの業に油を注がれません。ご自分の業に油注がれるのです。神の栄光はあなたの行いには決して訪れません。栄光は主がなされることの上にくるのです。あなたが努力するのではなく、油注ぎに自分を委ねるということです。

一生懸命努力をして自分で頑張るよりも、委ねたほうが楽じゃないですか? 努力するということは大変困難なことがあります。 神は御国を建てるために、あなたの町を駆けずり回って働き手を募っているわけではないのです。神はご自分の息子、娘が立ち上がって、神の召しにふさわしい者となることを願っておられるだけなのです。あなたはもはや「恵みによって救われた罪人」ではありません。「恵みによって救われた、かつては罪人だった者」であり、今や、全能なる神の息子であり娘なのです。それはあなたが自分で勝ち取るものではありません。その資格は私たちにはありません。イエス様がこの資格をあなたに値なしに相続させてくださったのです。イエス様が死んでよみがえられたときに、もう100%その代価は支払われました。

まず、主を喜ぼう

大事なことを忘れるところでした。あなたの一番の召しは神を楽しむことです。神はまずご自分を楽しむようにと、あなたを召しておられます。もし主を楽しむことがないならば、主のために働こうとしないでください。イエスがあなたに恋しておられることを知っていますか? 主はあなたに首ったけなのです。あなたにがまんしているのではありません。主はあなたを主の聖いご性格で造られました。永遠があなたの中にあるのです。主はご自分の力と義とをあなたに与えられ、麗しい救いの衣を着せてくださったのです。

これが新しい生ける道です。この道を歩いてください。そして主があなたのために見ておられることを見始めてください。(終わり)


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