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Walk With God Ministries


20 07月

パーフェクトな霊の嵐       坂 達也    7月20日   


パーフェクトな嵐が今来ている 

  去る4月6日に掲載したデニス・クレーマー師の預言「6,7,8月に来るパーフェクトな嵐」を覚えておられますか。それを要約しますと

 「今から約90日経た時、天から超自然的なことが地上に降り注ぎます。それは90日間(6,7,8月)にわたる聖霊の大いなる降り注ぎで、ペンテコステの日に起こった聖霊降臨の様子に似ているでしょう。『天からの激しい風』が世界中の教会に90日間、次のことをもたらします。  空前の世界中のいやし!しるし!不思議!
  それよりもっと偉大なことが起きます。それは世界中で起きる前代未聞の奇跡であり、90日の間、あらゆる種類の大小様々な奇跡が起こります。2006年の夏は、空前の、前代未聞の、無比の奇跡が世界中で焼けるように起こる季節なのです。」
  
 皆さんはこの記事を読まれた時どう思われましたか? 「あぁ、又カリスマ的な預言か、私にはあまり関係がない。」と言ってすぐ忘れてしまわれましたか。あるいは、今廻りを見回して、「それご覧、何も起きてないじゃないか。」と言われるかも分かりません。本当に何も起きていないのでしょうか。

 実はそうではありません。ものすごい嵐が現実に今起きているのです。但し、これはあくまで霊の世界でのことであることを忘れないでください。霊の世界では、神が前代未聞のものすごい祝福を今私たちの前に並べて「さぁ、受け取りなさい。」と言っておられるのです。それはあたかも空前の大バーゲンセールが開催されているのに似ています。
 しかし、それを受け取るためには、私たちクリスチャンが霊的になって、霊の法則で、つまり信仰で受け取る必要があります。そして、それが出来る人たちだけが受け取っています。クリスチャンは「霊の人間」になったのです。霊の人になるとはどう言うことでしょうか。手っ取り早く言えば、霊で神とコミュニケートして神の御心を知った上で、それを祈り、宣言してこの世に現して受け取る「信仰の実践」をする人のことです。
 今こそ、【御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行なわれますように。】と言う「主の祈り」を信仰で実行する時が来ました。
と言っても、肉的な聖霊派のクリスチャンが「イエスの名で命ずる」と力んで宣言すれば奇跡が起こるとは限りません。ポイントは天の御心(計画)を地で実行してゆくことが主の命令(祈りの本質)であることです。それは誰がしますか。私たちクリスチャン、即ち御国の子、御国の戦士がするのです!

 実は私も6月が過ぎようとしている時点で、本当に奇跡が起こっているのかな、と少しいぶかる思いが来ました。そして、私自身気がついたのは、確かに6月に入ってから、神様と静かな時を過ごすときにレベレーション(啓示)がいつもより多く示され、油注がれていることでした。そして廻りを見てみますと、聖霊の働き、臨在、預言、啓示が6月からは今までになく強く多く示されることを、多くの使徒的・預言的な人たちが一斉に、又一様に口にしています。

 あまりにも多いのでそれらを全部訳してご紹介することが出来ないのは残念ですが、下記にその一端をご紹介します。

  ジェフ・ジェンセン師は「ケネス・へーガンが2003年に、2006年は主の栄光がもどってくる画期的な年、教会の運命を開く大事なドアの多くがシンクロナイズして開かれる年であると預言した。今年は、教会に対して将来の運命を決定的にするようなドアが開かれており、教会は信じられないような超自然の力へと霊的進展を遂げる新しい機会を与えられている。」と言います。

  キム・クレメント師は次のように預言しました。「神の霊が言われる。『あなたがたが今感じているのは「加速」です。わたしはわたしの言葉が実現するのを加速させる。勝利は加速し、奇跡は加速し、異例な力が加速的にあらわされ、政治的な恵みも加速する。家族の一致、人間関係の回復も加速され、あなたがたの子どもたちの霊的成長が加速される。』と。」(6月24日)

  ポール・キース・デイビス師は、「私たちは今、多くのしるしと不思議を伴う霊的活動の非常に高まっている季節に入っています。そのしるしは驚くべき事であり、評価されていますが、しかしそれらは神のみことばとその啓示に目を向けるようにと示されているのです。(預言と啓示の重要性)そして、主は各個人から盗まれたものを回復させ始めています。悪魔が過去に破壊した人間関係を和解させ、うわさとかゴシップとかプロパガンダで壊された結合関係を主が今の聖霊のシーズンに超自然の方法で修復されるでしょう。私たちに示されたみ言葉はイザヤ58:12、詩篇95:6-11、ヘブル10:16,17です。」

  さて私が7月初めの断食に入ったある朝、ふと全く降ったようにある御言葉とそれに関わる証しを本で読んだ時のことが心に浮かんで来ました。その御言葉とは「サタンがあなたから盗んだ神からの祝福を取り返しなさい。」と言う意味のものでしたが、聖書を見てもとっさには見つからず、結局その本をオレゴンからの引越しで持って来たかどうかを考えながら本棚をくまなく探した結果見つかりました。それはレベッカ・ブラウン師(医師でもある)が書いた「UNBROKEN CURSES」という本で、御言葉は箴言6:30-31でした。
飢えを満たそうとして盗みを働いた者を/だれも侮りはすまいが それでもつかまれば、七倍の償いをし/家財の一切をそれにあてなければならない。」

 このブラウンさんに、主が聞いたと言うのです。「サタンは飢えているだろうか」それに対して「飢えておりません。」と答えると、「それなら、サタンがあなたから過去において奪い盗んだものの総てを七倍にして返すようにサタンに命令しなさい。」とはっきりと言われたそうです。それによりひどい状態に落ち込んでいたブラウンさんのミニストリーが見る見るうちに回復したと言う証しでした。私はこの本を8年ほど前に読んだ記憶があるのですが、多分その時、私もやってみようと思い立って同じことをサタンに宣言したのではないかと思います。しかしその命令が聞かれたと言う記憶はありません。つまりこのお話は神がブラウンさんにたまたま必要な時に与えられた御言葉(御声)であって、その時の私には当てはめられるものではなかったと言うことです。

 しかし、今回は、本当に降って沸いたようにこの証しを神様が思い出させてくださったのですから、私はこの御言葉を「今こそ私が当てはめる時が来た」ことをはっき
06 07月

アメリカの国家的預言者      坂 達也    7月5日


アメリカの国家的預言者
                      坂  達 也
 

旧約の時代のような預言者が現代のアメリカに存在していると申し上げれば、皆さんは驚かれるでしょうか。アメリカの国家的立場(政治・政策とか憲法)を左右するような重要な事態(特にそれが神を信じる建国の霊的姿勢にかかわるような場合)において、実際に国の政治に介入して事態とその流れを変えるだけの預言と宣言をし、又、国中のとりなし手を動員して「御心を祈る」ためのリーダーシップを発揮する預言者が、今アメリカにおります。そのような国家的預言者は、他にも存在すると思いますが、少なくとも私が現在知っている人ではダッチ・シーツ師がそれです。彼には明らかに神のスポークスマンとしての権威が与えられているだけではなく、国に関する政策において、神からの御ことばを宣言して神のご計画を実現させるだけの権威と力が与えられています。

神は彼の口を通して、先ず、アメリカの霊的空気を変える「ディバイン・シフト・神によるシフト」を叫ばせました。その数年後、彼にイザヤ書22:22にある「わたしはまた、ダビデの家のかぎ(権威を象徴する)を彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。」というみ言葉を与え、2000年の大統領選挙で事態が混沌として来た時点で、彼をホワイト・ハウスの前に行かせました。師はそこで神から預かったみ言葉を宣言し、ジョージ・ブッシュ大統領がホワイト・ハウスに入るドアを開いたのでした。

彼は既にその3年前から主からの特命を受けて、何度もホワイト・ハウスに祈りの足を運び、2004年の再選の前にも、同じようにホワイト・ハウスの前で神のみ言葉を宣言しております。又、アメリカの見張り人として、神は師とチャック・ピヤース師を起用してアメリカの50州を訪れさせ、各州において預言ととりなしをさせました。そしてシーツ師は、最近ではアメリカの霊的姿勢に関わる最も重要な役割を果たす最高裁判事の入れ替えのための全国的とりなしのリードを取っております。この一年間に二人の判事が退役し、今リベラル派と目される三人目の判事が近々退役することが予測されていますが、アメリカが堕胎の問題等に関して聖書的信仰に立つ判事が選ばれることによって、アメリカの国策が聖書的に留まるかどうかの瀬戸際に立たされているからです。

その意味でダッチ・シーツ師は、私たちクリスチャンが神から与えられる権威とそれに伴う神の力を信仰で行使し、神の御心と計画を私たち自身が日常生活の中でどのように勝ち取っていくかを語る第一人者であると信じます。以下は彼の最近の書「Authority in Prayer祈りの権威」からの抜粋です。


祈りにおける権威について                                                                           ダッチ・ シーツ

権威のサークル

 私たちの持つ神からの権威のレベルを表わすために、私はそれを「円の中心から広がる権威の原則」と称したいと思います。ちょうど中心に標的の的(まと)があって、その回りを幾重にも円(サークル)が書かれている図を想像してください。この中心の的の部分が私たち個人を表わすものとします。その中心から少し広がったところに一つのサークルを描きます。次にもう少し大きなサークルを描きます。そのサークルが大きくなるにつれ、そこにはより多くの人間とより広い地域が含まれることを想定してください。そこで気がつくのは、円が大きくなるにつれ個人としての権威は小さくなることです。なぜなら権威はそれだけ多くの人と分かち合うからです。中心の的に一番近い最初のサークルは、個人の家族を表わします。次のサークルはあなたの住む町、そして、もっと大きなサークルは国を表わすと言うように大きくなっていきます。もう一度言います。サークルが大きくなるにつれ個人としての権威は減少していきます。

あなたのライフに関する限り、あなた自身が持つ権威以上に大きな権威は誰も持ってはおりません。又、あなた自身のことを祈るのに、あなたより大きな権威をもって祈ることのできる人はおりません。私たちは生まれつき自由意志と選ぶ権利を持っており、大人に成長するにつれその自由は増大します。神に関する限り?誰もその自由を私たちから取り上げる人はおりません。
 しかしながら、そのあなたの持つ自由と共に、権威だけではなく責任も負わなければなりません。

 これは70年代の終わりから80年代にかけてのことなのですが、私の手には多くの、それは確か30-40個にもなるほどのいぼができました。私は色々な医者に相談しましたが、彼らは皆それを切除するのを躊躇しました。というのは、幾つかのいぼは、つめに直ぐ近接して発生しており、あるものは既につめを食いばんでつめの中に侵入していたからです。大量のいぼによって私はちくちく痛みを覚え、人前で非常にみっともないと言うみじめさを味わいました。

 そこで私は主を熱心に求め、主がいやしてくださるように祈りました。いやしに関する聖書の教えのほとんどすべてを試みました。先ず、教会の長老に祈ってもらいました。(ヤコブ書5:14-15)又、手を置いて祈ってもらいました。(マルコ16:17-18) 私のために祈ることに同意した人たちにも祈ってもらいました。(マタイ 18:19-20) そして、いやしの集会にも参列し、特別にいやしの賜物が与えられている人にも祈ってもらいました。(1コリント 12:9-11)しかし、一向によくならないのでした。
 
 そうこうしていると、ある日主が私の心にはっきりと語られました。主は「わたしは(今回は)他人の祈りとか、信仰によってはあなたをいやすことはしないでしょう。あなたはあなた自身の信仰でよく戦い、いやしを自分自身で獲得しなさい。わたしはあなたには多くの年数をかけてしっかりと『自分でできる』ことを教えて来た。多く与えられた者には多くのことが要求される。従って、わたしは今あなたに自分でいやしを獲得することを要求する。」と言われました。これは主が非情でも不親切でもないのです。主は愛のある親なら誰でもが子どもに対してするように、私が成長して自立することを助けようとされたのです。
 
私は神から教わったことを実行に移し始めました。それは主にマルコ 11:23 -24「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」でした。
私たちは山のような困難さに向かって、それが立ち去るように命令することができます。私はこの命令の祈りを約30日の間、一日数回行いました。それは、私の手を見つめて「み言葉によれば、私のいやしのためにイエスが打ち傷を負ってくださったので、私はこのいぼを叱りつけ、私から立ち去るように命令する権威を持っており、その権威によって命ずる。いぼよ、イエスの名によって、私の手から出て行きなさい、と命令する。」と語ったのでした。
 
何か馬鹿なことをしているように思えますか?その通りです。多くの霊的なプラクティスとガイドラインは私たちの人間的な心には、愚かなことを言っているように思えます。(1コリント2:14)しかし私は信仰を働かせて実行しました。その結果が私のしたことが愚かなことであったかどうかを実証してくれています。
 
約二週間後に私の手のいぼが小さくなっていることに気がつきました。その時点からいぼは急速に縮小して行き、二週間後には(つまり計4週間)全く消えてなくなりました。それだけでなく、指のつめに食い込んでいたいぼの後には新しいつめとその根元に新しい表皮ができておりました。

 私がこの証しをお分かちするポイントは、あなた自身のことに関しては、誰もあなた以上に祈りによって神の約束を獲得する権威を持っている人はいない、ということを示すためです。
神は、私たちが霊的に成長するにつれて、他人に頼るのではなく、自分自身の権威と信仰を行使することを要求する方であるということです。

 しかし、私たちが次に大きな輪―それは家族という関係―の中では、私たち個人の権威というものはそれだけ減少して行きます。
私たちの家族に対して神から与えられている権威はどうかといえば、その家族のそれぞれが自分自身に対して持つ権威が与えられていると共に、家族の一員として他の家族に対して祈る責任と権威も与えられています。私の場合、神は私に妻と子どもたちに対して「覆い」あるいは「保護者」となる責任を与えております。この責任に対して私はそれだけ大きな権威も持って祈ることができるのです。

 1970年代の終わりの頃のある父親の証しが、私たちには子どものために祈る権威が与えられていることをよく物語っておりますので、お伝えしたいと思います。この人の娘さんが手に、それはいぼの一種と思いますが、数多くの腫れ物ができて困っていました。ある日、その人が祈っているときに主が力強く語られました。「あと何日間、あなたはあなたの娘の手にできている腫れ物をそのままにして置くつもりなのですか?」そう聞かれたとき、その人は神が少しご機嫌をそこねているような聞き方をされたことに驚きました。神は「あなたは自分の娘を覆って守る権威があり、娘の手から腫れ物を去らせる権利があるのです。それなのにいつまで腫れ物をそのままにして置くのですか?」と咎められたのです。
 このことがあってからその父親は直ちに、私がしたのと同じような祈り、つまり腫れ物に対して娘の手から離れるように命令することを、毎日数回祈り始めました。多くの日数をかけて、その人は主に忠実に従った祈りを実行した結果、その娘さんの腫れ物がいやされたのです。しかもそれは私の時のように徐々にではなく一瞬にしていやされたのでした。それはある日、彼女が自分の着物をクロゼットのハンガーにかけようとして着物を手に取ったときは腫れ物はあったのですが、それをハンガーをかける棒につるす瞬間に自分の手を見たときにはその腫れ物はなくなっていたのです。

 私たちは私たち自身のために祈る権威を持っているだけではなく、私たちが覆いとなっている人のために祈る権威も持っているのです。(責任があります。)

1985年に、神は私の妻のセシの卵巣に出来た嚢腫をいやすために、私の祈りを用いられました。その嚢腫が見つかってから約一年経ったとき、医師から手術によってこれを撤去する必要があると言われました。この医師はクリスチャンでしたから、彼も祈りの力を信じていることを私は知っておりました。そこで、私は彼にしばらく祈らせて欲しいと願い出ました。私は家内の病気が祈りで必ず癒やされると固く信じていたからです。医師はこの腫瘍が悪性のものではないこともあって、「それではあなたに二ヶ月の祈りの時を与えましょう。しかし、あなたの方法でその腫瘍を取り除くことができなければ、次は私の方法で撤去しましょう。」と言いました。私は主を求めて、主にこのいやしを獲得するのに必要なストラテジー(戦術)を請いました。そして主がはっきりと語られるのを聞くことができました。それは、私が毎日妻のいやしのために一時間祈れば、妻がいやしを受け取ることができると言うものでした。私はこれに忠実に従いました。私はどうして主がこの方法を選ばれたかは分かりませんでしたし、又、それは私にとってどうでもよいことでした。私にとっては、主には主の立派な理由があることだけで十分でした。二週間の後、妻の痛みがやわらぎ始め、四週間後にはそれも全くなくなりました。そしてテストの結果、嚢腫も完全になくなっていました。

もう一度言います。私たちの人の輪が大きくなればなるほど私たちの影響力と権威は減少します。その例として、私は自分の町(市)のために祈る権威を持っています。しかし同じ町に住む他の人たちも私と同等の権威を持っています。同じことが、もっと輪を大きくして国というものに対しても言えます。私たちすべての国民は自分の国のために祈る権威を皆、同等に持っていますが、人数が多くなればなるほど一人一人の権威というものはそれだけ少なくなっていくのです。(これによって、地域の出来るだけ多くの人が一致してとりなすことの重要性が分かります。訳者注)


1テモテ6:12に、 「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。」とありますが、パウロは既に救われて「永遠のいのち」を得ているはずのテモテに対して、信仰の戦いを勇敢に戦って、永遠のいのちを獲得しなさい、と言っています。キリストにあって既に契約に
22 06月

傷ついた心と父の愛          坂 達也   6月22日


傷ついた心

特にここ数年のことかもしれませんが、日本に行きますと、少し気になることに出くわします。それは日本のクリスチャンの間で「自分は誰々に傷つけられた」とか「深い昔の傷を何とかしなければ」と言うことを、まるでクリスチャンが皆、そのような傷を持っていることが当たり前であるかのように言い、それへのカンセリングが少し大げさに言えば「もてはやされている」ことです。

 そもそも「傷つく」とか「傷ついた」とはどう言うことでしょうか。それは人間の罪の性質から生じる「肉の行い」であることはガラテヤ5:20,21等を見れば明らかです。それを具体的に羅列してみると、敵意 争い、そねみ、憤り、党派心、分裂・分派、ねたみ、紛争・不和、殺意 憎悪、悪く言うこと、批判、虐待、いびる、非情、謀反心、反抗、虚栄に走る、等々…があります。そしてその結果として:感情を害する、不快になる、侮辱されたと思う、赦せない、反感・反目、立腹、怒りを感じ、憤る、憎しみを持つ、うらむ、人間関係が冷たくなり、愛が冷え、疎遠になる、…のではないでしょうか。
この現象をひっくるめて「傷つく」「傷ついた」あるいは「人間関係が傷ついた」と言い、その多くは「プライドが傷つく」ことでもあると思います。

 そこで私が気がつくのは、もしこれをクリスチャンが大問題にしているのなら、一体私たちが受け入れて信じたはずの「十字架」はどこへ行ってしまったのかと言うことです。
 イエス・キリストが私たちのためになぜ十字架についてくださったのか――それはまさにこの「傷つく」ことを私たちに替わってイエス様ご自身が「傷つかれ」その報いと根を処理してくださったのではなかったのでしょうか。
 1ペテロ2:24,25に「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ(罪に死に)、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」ここにこそ私たちがクリスチャンになった最大の理由があり、私たちの信仰の根本ではなかったのでしょうか。「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」と言うみ言葉を日常よく使っているマチュアなクリスチャンなら、少なくとも自分の「心の傷」は「いやされた」と言う「信仰」に立つことがそんなに難しいことなのでしょうか。

ガラテヤ5:24には、 「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や、欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」とあります。
ロマ書6:6-7でも、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」と過去完了形で書かれています。
 罪とその性質から来る上記のような諸々の問題から完全に開放されるには「自分に死んでしまう」つまり、「自分の肉を十字架につけてしまう」以外に解決方法はないのです。もしそれ以外に解決方法があるのなら、イエス様は敢えて私たちのために十字架につくことはされなかったと思います。

そのことを端的に言い表わしているのが1コリント1:18です。「十字架のことば(ロゴス)は、滅びに至る人々にはおろかであっても、救いを受ける私たちには、神の力(ドウーナミス)です。」つまり、十字架のメッセージを本当に自分のものとするときに、それは奇跡を起こすような「力」が及んで、肉と罪の性質から来る一切の「傷つき」を払拭できるのです。これこそクリスチャンとしての最大の特権であると思います。どのようなカンセリングにせよ、それを受ける前にもう一度あなたの内におられる聖霊様から「十字架のメッセージ」をお聞きし、真に理解することによって、あなたの心の傷がいやされる力を受けることが大切であることを私は強調したいのです。
  私たち霊に生まれ変わったはずの、十年選手のベテラン・クリスチャンが、いつまでも肉の性質を十字架にかけようと努力しないで、それを「わがままに」放置したまま、「いつまでも傷ついている」ことを何か新しい大問題かのように取り沙汰していてよいものでしょうか。

 しかし、「自分に死ぬこと」によって「心の傷」を取り去ることが難しいからこそ、聖書ではそのことが繰り返し言われているのも確かです。心の傷がいやされることは「傷つけた人を赦す」ことに深く関係していますから、本当に難しく並大抵なことではありません。ですから私は「聖霊様からカンセリングを受ける」ことを基本とするクリスチャン・カンセリングのやり方が悪いと申し上げているのでは決してありません。イエス様は忍耐強く、やさしい方ですから、私たちが「心の傷」の問題を正直に提起すれば、聖霊様を通して主は解決のためのカンセリングをていねいにしてくださいます。(もっともそれが、人間的なカンセリングを人間的に受けて解決しようとするカンセリングであるなら、多くの場合、未信者のように古い自分を生かしたままで何とかしようとしますから、本当の解決にはなりません。)そこで、私はもっと良い方法を提案したいと思います。

 それは「父の愛」に私たちがもっともっと触れることです。溢れるような父の愛、私たちのために十字架にかかってくださったイエス様の愛を毎朝、主の前に出てふんだんに受け取ってください。私がいつも提案している「毎日、主と個人的に親しい交わりを持つこと」とはこのことです。そして、一日中父の愛を思い起こしてはその大きな愛に包まれて生きる時に、新しい傷を受けにくくなり、又過去のどのような傷も、たとえ傷跡は残っているかもしれませんが、その傷はもはやうずかないでしょう。
 
よみがえったイエス様の手と横腹には傷跡がありました。私たちがイエス様にお会いする時に、その傷跡をイエス様は私たちに見せてくださるでしょう。イエス様の十字架の傷跡は永遠に残ります。しかし、それは完全にいやされた栄光の痕跡として残るのです。私たちはそのいやされた傷跡の永遠の証し人になるように選ばれた人たちではありませんか。

本日は私たちに与えられたすばらしい溢れるばかりの父の愛に感謝したいと思います。天の父は、私たちにご自分のひとり子のいのちさえも惜しまずに与えてくださった愛を今日も又、ふんだんに与えてくださろうとして待っておられます。その父の愛を今受け取ろうではありませんか。
今回お訪ねしたある教会で、教 会の建物の至る所にセント・フランシス・アシシの祈りのことばが標語として張ってあり、その祈りの一部にこう書いてありました。

憎しみあるところには、愛を
傷あるところには、赦しを
疑いあるところには、信頼を
絶望あるところには、希望を、
闇あるところには、光を
そして、悲しみあるところには、喜びを
もたらすものとさせてください。

聖なる主よ。
慰められるよりは、慰めることを
理解されるよりは、理解することを
そして、愛されるよりは、愛することを
求められますように
与えることによってこそ、真に受け取ることができ
赦すことによってこそ、真に赦され
死ぬことによってこそ、永遠の生命に生まれることが
できるのですから

このことばをモットーとする教会とは父の愛を豊かに受けている教会の一つであるに違いありません。

私は以上のメッセージをこの父の日に与えられました。(終わり)


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16 06月

カナの婚礼における主の奇跡


カナの婚礼における主の最初の奇跡

 今回の日本旅行の終わりに近い頃、ある教会でメッセージをしておりました。すると突然、今までにあまり経験しないことが起こりました。それは、全く準備もしていなかった、思いがけないことを自分が話しているのです。急に私の口からヨハネ2章にあるイエス様による最初の奇跡のお話が、これから起こる私たちクリスチャンの個人的・あるいはキリストの身体(教会)としてのトランスフォーメーションを預言するものであると私が言っているのです。そう言っている自分に驚きながら、水がワインに変わるお話をしていました。しかも内心私は、もしかして私の「口から出任せの、とっさの思いつき」の話を見破ったその教会の牧師にひんしゅくを買っているのではないかとひやひやしているのでした。
 
しかし、その話をして間もなくホノルルに帰って来たのですが、その「とっさに出て来た言葉」にその後少しずつ肉ずけがなされていきました。そして、私が口にしたヨハネ2章に対する「新しい解釈」が単なる「思いつき」ではないことへの確信が強まって行ったのです。
私は今回の旅行の主なメッセージである、「キリストの身体である私たち教会が先ずトランスフォーメーションされなければならない」と言うテーマの例として、三人の弟子たちの見ている前で、イエス様が輝く栄光の姿に変貌したマタイ17章のお話は、まさに私たちが真に栄光の「キリストの身体」に変貌(ここで使われている原語はトランスフォーメーションと言う英語に当たる)しなければならないことを、私たちを代表する三人の弟子にあらわして見せたのだ、と言う形でお話しました。ですからこのカナでの奇跡は、それと同じように弟子たちにして見せた「キリストの身体のトランスフォーメーション」を意味するものであると言う思いが日毎に深まり、そのことを今朝主から最終的に確認されたと言う思いに至りましたので筆にする次第です。

ヨハネ2:1では、先ず「それから三日目に」と言う言葉が出てきます。これは一日を千年と考えれば、3千年目に入った今の時代を指していないでしょうか。つまり、カナでの婚礼とは主ご自身が私たち、キリストの花嫁との間で行われる「婚礼」を意味する預言であったと解釈できます。ですから「弟子たちも、その婚礼に招かれ」ていたことが書かれていることに意味があると思います。
そして、宴会の「ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって『ぶどう酒がありません。』」とイエス様にうったえました。それに対してイエス様は「わたしの時はまだ来ていません。」と言われましたが、確かにそうでした。しかし窮状をうったえられたイエス様は、手伝いの人たちに外に置いてあった六つの水がめに「水を満たしなさい。」と命令されました。この石の水がめには80-120リットルの水が入ると書かれておりますが、この水の量はちょうど人間の身体一人分に当たります。そして六つのかめの六と言う数字は人間をあらわすと言われます。しかもこの水がめは「ユダヤ人のきよめのしきたり」のために用いるものでした。つまり、キリストの花嫁である私たち弟子は信者同士が清め合い、又、未信者をも清めるための水であるはずなのです。しかもそこの置いてあった水がめには、水が使われたからなのか、それとも全く始めから入っていなかったのか、水があまり入っていなくて、イエス様は縁まで一杯に水を満たしなさいと命令されました。これはキリストの身体になる人たちが満杯になるまで集められたことを意味すると考えられないこともありません。
そして、イエス様はその水であるキリストの弟子をワインに変質(トランスフォーメーション)されました。ワイン、特に良質のものであれば、人が飲めば誰でも非常に喜び、それを提供した主人・花婿を賞賛し、栄光を返さない人はおりません。(11節)
私たちキリストの身体にふさわしい弟子とは、元々人を清めるための水なのですが、それが人が喜ぶ最良のワインに変えられるのですから、これこそ主がこれからなさろうとする、キリストの身体を完成すると言う主にとって最も大事で、最もすばらしい奇跡の御業と言えないでしょうか。
しかも主は良いぶどう酒を終末の最後の時まで取って置かれます。(10節)私たちは今そのような時代に生かされているのです。主にふさわしい花嫁に早くトランスフォーメーションされようではありませんか。

ところで余談ですが、数日前に手にしたダッチ・シーツ師の「祈りの権威」と言う本を読んでいましたら、シーツ師がチャック・ピヤース師とアメリカの50州を回っている時の話が載っていました。テキサス州での集会で、シーツ師が話をしている時にピヤース師が突然壇上に現れ、主からのことばとして、唐突に「もし我々が祈れば、サダム・フセインが7日以内に捉えられる」と預言した後「こんなことが口から出てくるなんて信じられない。とにかく後を頼むよ。」と言う驚きの顔をしたピヤース師がマイクをシーツ師に渡して引き下がったと言うのです。後を引き受けた師は、一瞬ためらいましたが後は力強い祈りと宣言をしたそうです。そして3日後にフセインは逮捕されました。その時のことを回想して師は、ピヤース師が主からの預言の啓示を受けた時、もしそのことを言う前に自分で「考えてしまっていたら」恐らくそのフセインの預言を口にはしなかったかもしれないと言っていたと語っています。
勿論ピヤース師の場合は、私の場合と比べ物にならないほどレベルが上であることは言うまでもありません。しかし、主から啓示を受ける時とは、突然のこともあり得ると言うことにおいて、私はなるほどと思い、一つ勉強しました。確かにとっさに受けた啓示を口にしてしまうのは勇気が要り、危険が伴います。しかし、一方で預言的であるためには、そのようなリスクも主は敢えて私たちに踏ませて訓練をされるのかもしれないと思った次第です。(終わり)


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26 04月

アメリカに対する預言         坂 達也   4月26日


アメリカに対する預言

アメリカでメディヤとかカンファレンスを通じて、かなり一般的に知られている預言者の一人にキム・クレメント師がおります。師が最近預言していることの一つに「神がアメリカをこれから四年間、大いに祝福する」と言うのがありました。私がそれを読んだとき、何か私の心に触れるものがありました。下記がその預言です。

「アメリカは今、これから四年間の繁栄に入ろうとしている。この国は決して忘れ去られないであろう。なぜなら、あなたは自分たちの血を流して他の多くの国の門を守ったからだ。だから、わたしがアメリカの地を祝福するであろう。フレッシュで新しい恵みがあなた方の上に来る。大いなる経済的祝福がアメリカの捕われている子どもたちを開放する。そしてアメリカの地は今まで見たこともないようなところとなるであろう。…」

アメリカは中近東の戦争で、今までのどの戦争よりも大きな犠牲を払い続けて来ました。それを指揮して来たブッシュ大統領は私の知っている限り、最も人気の無い大統領です。世界中から非難を浴びせられ、憎まれながらも決してひるまないその姿は、本当にミッションマインド以外の何物でもないという気がします。イラク戦争は果たして神様の全き御心であったのでしょうか。クレメント師は神からのみことばを預言します。

「あなたはわたしがホワイトハウスに真理を信じるクリスチャン大統領を、しばらくの間留どめるのを見るであろう。それは3代に渡ってである。わたしは、ホワイトハウスがわたしを信じない者で汚されることを許さない。なぜなら、わたしがこの国に繁栄をもたらすからである。」

神はイラク戦争を始めた二つの国の指導者である、ブッシュ大統領とイギリスのブレア首相(クリスチャン)を二人とも再選させました。ブレヤ首相はブッシュ大統領に劣らず人気がなかったにもかかわらず、神様は、はっきりそのことを前もって預言した通りに再選させることによって、神が彼らを是認し支持していることを明らかにされました。

アメリカは建国以来神を信じる大統領が多く出ております。初代のジョージ・ワシントン大統領を記念して建てられたモニュメントのことをここでご紹介したいと思います。



Laus Deo
 
しばらく前ですが、上記の写真とそれを説明する下記の歴史情報がポートランドの友人から送られて来ました。これはアメリカの建国の歴史を知る上で参考になるかと思いましたので、先ずはかいつまんでその説明の内容をご紹介します。

上記の写真で白く天に向かって聳え立つ、高さ170mの建物は、アメリカの首都ワシントンD.Cで一番高い塔であるワシントン・モニュメントです。花崗岩と大理石で造られたこの塔のてっ辺に、アルミ製のキャップ(オベリスクの方尖突端部分)がかぶせてあり、その上にラテン語で二語Laus Deo と書かれてあることをご存知でしょうか。

このラテン語の二語は、アメリカ合衆国が創造主の神によって建国された国であるということをよく物語ってくれます。その意味は「Praise be to God、神をほめたたえよ」です。
 建国の父であるご在天の父に向かってこの塔は、アメリカ合衆国が天の神をたたえる国であることを象徴して造られたのでした。

この初代大統領ジョージ・ワシントンを記念する塔は、1848年に建設が開始され、1888年に正式に完成披露されましたが、頂上のアルミ製のキャップとそれに文字を書き込むのに25年が費やされたと言われます。
この塔の設計者ピエール・シャルル・ランファントのオリジナル・デザインでは、この塔を中心にして、北のホワイトハウスから南にあるジェファーソン・メモリアルを結ぶ線と、東に位置する国会議事堂(キャピトル)と西のリンカーン・メモリアルを結ぶ線をもって完全な十字架を描くものであったと言われます。

1848年7月4日の独立記念日にこの建物のコーナーストーン(基石)が設置されたとき、そこにはアメリカ・バイブル・ソサエティー寄贈の聖書が埋め込まれました。この塔の内部には898の階段と50の踊り場があり、その階段を登って行くとき、そこには色々な証とクリスチャン・メッセージを見ることが出来ます。12番目の踊り場にはバルチモア市からの祈り、24番目の踊り場にはニューヨークの日曜学校の生徒からのプレゼンテーション、フィラデルフィアからは箴言10:7、ルカ18:16を彫刻したもの、といったアメリカ市民の願いと神への賛美が至る所に見られます。

このワシントン・モニュメントは、初代大統領のかかげたユニークな民主主義「One Nation、Under God 神の下での一つの国」を記念する建物です。
 そこで参考までに、このジョージ・ワシントン大統領がアメリカ国家のためにどのような祈りをささげたかをご紹介します。

「全能の神よ。アメリカ合衆国が主の聖なる保護をいただけますように切に祈ります。市民の心に政府に忠実に従う精神(霊)を培い、お互いが同朋として愛し合う兄弟愛を持てますように導いてください。最後に、我々総ての国民が正義を行い、憐れみを愛する者とならせてくださいますように。我々の祝福された信仰(宗教)を造られた神のご性質である愛、謙遜、穏やかな心を我々にも与えてください。神に似た者となるように努めることなしに、我々が幸いな国家になることは望めないからです。どうかこの嘆願をお聞きとどけください。我らの主イエス・キリストの御名のよって祈ります。アーメン」

Laus Deo!ジョージ・ワシントンにとってこの二語「神をほめたたえよ!」の意味するところは、詩篇127:1 「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」の御ことば以外の何ものでもなかったのです。

 
私はアメリカに渡って44年になりますが、今ほどこの国の「神によって建国された」という根底が揺さぶられている時代はないと言うことだけは、はっきり申し上げられます。アメリカの紙幣には総てIn God We Trust と書かれている通り、誰が何と言おうとアメリカが建国以来神を尊ぶクリスチャン国であることを否む人はいないと思います。

しかし、そのすばらしいアメリカが徐々にリベラル化し始めて200年が経ちました。そしてついには、2-3年前のことですが、これがクリス チャン国かと疑いたくなるようなことが連続して起こりました。堕胎・中絶を広範囲で認め、同性結婚を公に認める州が増えて来ると同時に、自殺希望者を医者が助けることを許したり、又、学校で祈りと聖書研究を禁止して、挙句の果てに裁判所から十戒を掲げた像とかサインを取り外すに至りました。

しかし、このような国民全体が反キリストの傾向を露にしている中で、アメリカはイラク戦争に突入し、中東で多くの犠牲者を出し始めました。ところが国民はその霊的な相関関係に気がついていませんが、国家的犠牲が多くなるにつれ、アメリカに異変が起こり始めたのです。あれだけ進んでいたリベラル化がストップしたのです。そして世論は反転し、キリストを信じると言う人が増え、多くの州で今、中絶問題、同性結婚を許す法律が見直されて、禁止しようとする動きが出て来ています。

ブッシュ大統領と言う人は、最近聖霊のバプテズマを受け、毎朝仕事に着く前にひざまづいて長く祈るその姿は、ホワイトハウスで大統領に近い人たちには周知の事実です。私は、彼自身が戦争の責任者であると同時に、自分自身の人気を捨てて、犠牲者になることを甘んじて受ける覚悟はできていると信じます。あるいは神は愛するがゆえに彼をいけにえにするお考えがあるかもしれません。それは十分にあり得ると思います。しかし、だからと言ってそれはブッシュが神の怒りに触れるようなことをしたからではなく、むしろ彼が主に忠実に仕える者であるからこそ、国家のために主がそれを許されるのであると思います。

皆さん、クリスチャンの兄弟として、ブッシュ大統領があくまで主に忠実を通す勇気をいただけるように、ぜひお祈りください。(終わり)


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