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31 01月

2007年への多くの預言をどのように受け取ればよいか 坂 達也 1月31日


2007年への多くの預言をどのように受け取ればよいか

 今年2007年に対する預言を、私たちのインターネットHPで今まで4つ5つご紹介させていただきましたが、年頭に今年ほど多く預言がなされた年は、私としては今まで見たことがありません。今までご紹介したもの以外に今私たちの手元には少なくとも後10程あります。
これ等の預言は皆少しずつ内容が違いますが、それぞれ預言的な方たちが主から個人的にいただいたものであることを私は疑いません。個人的に受け取ったものであれば、その人その人で置かれている状況が異なりますから、主からいただく預言が違って当たり前です。しかし、多くのことで共通しておりますのでそれをまとめてみますと三点あります。
一つは今年は天変地異、地震、大風あるいは大きな災難が起こるという預言。一つは、今年も昨年に続いてより激しい変化・変革が起こり、前進の年であるという点。もう一つは、今年はクリスチャンとして非常に期待の持てる「すばらしい恵み、約束が適う年」であると言うことです。ある預言者たちは「昨年はどうしても出来なかったことが今年こそ実現する」と言っています。
私はこれら多数の預言を見ているうちに、新年も日が経つにつれ私の「霊が騒ぐ」と言いましょうか、いよいよ、風雲急を告ぐ時に入ったという緊迫感が強まって参りました。そして主から示されたのはバプテズマのヨハネのことでした。

マタイ11:12 でイエスは「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」と言われましたが、この表現ですと御国が敵によって激しく攻められているように受け取られます。確かにそうなのです。しかし、イエスの言われたのは、その意味も含みながらも、実は天の御国とはそれを激しく求める人たちによって勝ち取られて行くもの―イエスの御国とはそのように激しく求め、激しく戦う人たちによってのみ築き上げられる王国であると言う意味です。言葉を替えれば、キリストの王国の弟子とは「なまぬるいクリスチャン」とは似ても似つかない、徹底して聖く激しいラディカルなクリスチャンなのです。その「聖さ」「激しさ」を身をもって紹介したのがバプテスマのヨハネである訳です。

11節でイエスは「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」(新改訳)と言われました。ここで言う天の御国とはイエスの(メシアニック)王国のことです。ヨハネはイスラエルの人たちに、イエスがメシアでありその王国が来たことを正式にアナウンスしました。彼はイスラエル人がイエスを信じ、イエスの王国の弟子となることを勧め、その人たちは「イエスの花嫁」になる人たちであると説明すると共に、自分自身を「花婿の友」と呼びました。(ヨハネ3:29)
しかし主は、ここでヨハネを紹介者ではあっても王国の外にいる〔それ以前の〕人間と位置付けております。その意味でヨハネは人間の中で誰よりも優れた者ではあっても、イエスから直接訓練を受けて王の「花嫁」となる王国の弟子たちとは比較にならないことを明言されたのです。その意図は、キングダム・メンタリティーも持った「王国の弟子・戦士」あるいは「キリストの花嫁」になる人たちの優秀性をイエスが強調されたのであると思います。これは大変なことです。私たちがこれからどんな厳しい訓練を受けるか、又、受けねばならないかがこれから容易に想像出来るからです。

私は現代のクリスチャンであっても、いや終末に生きる私たちこそ、イエスから直接王国の弟子訓練を受け、王の命令を毎日直接聞くことが出来て、総てにおいて王に忠実に従う者にならなければならないと思います。そうでなければ王国の戦士として実戦に出ても使い物にならないからです。
そのような弟子はバプテスマのヨハネよりもっと聖く、もっと激しく求める人でなければならないのではないでしょうか。

ここで見落としてはならないのは、イエスご自身が、事ご自分の御国を建て上げることに関しては、そのような激しく厳しい方であると言う点です。当時のイスラエルの霊的状態と特にパリサイ人を中心としたリーダーたちを、マタイ11:16 ―24でイエスは本当にこれ以上激しい言葉はない程の激しさで責められました。私は今の時代のクリスチャンはまさに当時のイスラエルと似ていると思います。そうであれば私たちは今こそ、この主のメッセージを本当に心して厳粛な警告として受け取らねばならない時であると思います。

特に、昨年まではどんなに宣言しどんなに祈っても起こらなかったことが、今年は実現するという点についてですが、主が示して下さったのは、それは単に手をこまねいていては起きないということでした。本当に夢と幻を実現させたければ、去年の二倍の努力をしなければならないと言うことが私には示されました。

それは先ず、昨年まで一日一時間祈っていた人は二時間、二時間祈っていた人は四時間祈り、熱心に主を求めることです。主により忠実であること、そして、この世的な生き方を出来るだけ排除し、聖く生きることです。そして愛を増すことを示されました。これには相当な決意と「やる気」が必要です。本当に信仰が問われる年であると思います。そうすることによって初めて今年を「やりがいのある年」「何かが起こる年」「勝利の年」とすることが出来ると確信します。

私たちの教会は大人100人余りの小さな教会ですが、祈りを強調する教会の一つであると思います。毎朝二時間以上祈る人が牧師以下、片手の指の数ほどおります。中に毎朝夜明け前の三時から三時間祈る方がおられ、その方は静かに異言で祈るのですが、聞いてみると、内なる聖霊様に「今日は何をすべきか語って下さい」と祈るそうです。そうしていつも主の御声を聞いているそうです。一つの例を語ってくれましたが、或る時、主が今日はどこどこの病院に行って、こうゆう人がいるからその人のところに行って癒しを祈りなさい、と言われたので、行って祈ったら、助からないと言われていたその人が癒されて、今はその人は私たちの教会員になっております。これこそ100%聞かれる信仰の祈りです。私はその方から大変大きな励ましを受けました。

総てが主を求めることから始まります。そして主と親しくなればなるほど、主がより多くより細かいことまで示して下さいます。主の御声を聞く、そのために今年も一層主に近づき、親しく主と共に歩こうではあり
31 12月

新しい年を迎えるにあたって   坂 達也   12月31日


新しい年を迎えるにあたって


 イエス様のご誕生をお祝いする日が、どうして12月25日になったかについては古来色々な議論がなされて来ました。しかし最近、私はクリスマスの7日後に新しい年の元旦を迎えることには大きな意味があるように思えてなりません。
 
 それは新しい年を迎えるにあたって、その直前に主イエスキリストの誕生というクリスチャンとしての一つの重要な原点に立ち返り、そこから改めて自分の置かれた現状において悔い改めるべきことを悔い改め、新しい年に対する主のご計画を祈りを通して信仰で受け取る機会が与えられるからです。今年のクリスマスはその意味において私は大変重要な新年に対する指針を主からいただきました。

 それは主のご誕生の6ヶ月前に生まれたバプテズマのヨハネに就いての新しい霊的理解が得られたことです。
 いつもクリスマスを迎えるとルカの最初の2章を読みます。今年もクリスマスのメッセージをいただくために私は幾度も主の前に出ましたが、ある時ふと私の心に疑問が浮かびました。それは、何故聖書はイエス様のご誕生の前にヨハネが誕生する物語をこれ程詳しく伝えねばならないのかという疑問です。(ルカ伝1章)又、主が宣教を開始するにあたっても、先ずヨハネがイスラエルの人々の前に現れたことに関しても同じ疑問(その必然性に対する再認識を求める気持ち)を持ちました。(マルコ伝とヨハネ伝は冒頭からヨハネのことで始まり、マタイ伝も3章で詳しく触れています。)とどのつまり、何故バプテズマのヨハネという人物がそれほど重要なのかということを再確認したいという気持ちに駆られたのでした。

 勿論それに対する多くの答えはマタイ3章に書かれていますが、特に2-3節にご注目下さい。
[「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。]

 ここでバプテズマのヨハネとは『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐに(する人)』であることが分かりますが、具体的にそれがどう言う意味なのかに関して、私は今回、特に下記の三つのことが示されました。 

 その第一は、彼がイエス様に洗礼を授けたことです。そもそもヨハネという人は「悔い改めの洗礼」をイスラエルの人々に施すためにこの世に生まれて来たといっても差し支えないと思いますが、彼がこの世に遣わされた重要な目的の一つは、イエス様ご自身に洗礼を授けることであったと私は信じます。

 しかし、罪の無いイエス様が何故ヨハネから洗礼を受けられたのでしょうか。それは、イエス様が私たちと同じ洗礼を受けることによって、罪人の私たちと一体となる、一体であることを示すためであったと考えられます。それは同時に、主の後を追うべき私たちがイエス様を見習って洗礼を受けるようにと、先ず主ご自身が洗礼を受ける見本を示されたと思います。
 これについて言えることは、私たちクリスチャンとは、信仰でイエス様の十字架に架かることによって既に罪赦された聖なる「からだ」であるのですから、めぐみによって罪の無いイエス様と同じ立場にあるということです。その私たちが「霊的な洗礼」を改めて受けることを、イエス様は望んでおられると私は理解します。

 但し、この場合の「悔い改めの洗礼」とは、普通未信者であった私たちがイエスをキリストと信じた時に受ける水の洗礼とは違う性質のものであると思います。それはむしろクリスチャンとして生きて来た私たちが、それまで本当に主の御心を理解せずに、御心から外れた生き方をして来たという罪に対する心からの悔い改めであって、もっと霊的に深い悔い改めの決意でなければならないと思うのです。そしてこの洗礼を私たちが受ける時には、ちょうどヨハネの洗礼を受けられたイエス様の上に神の御霊が鳩のように下って来たように、私たちにも特別の御霊の力が授けられると信じます。

「整えられた民を主のために用意する」(ルカ1:17)という使命を持って既に現れたヨハネは、主の再臨を目前に控えて生きている今の私たちに「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と叫んでいるのです。今こそなまぬるい不信仰を振り捨てて、主に忠実な花嫁となる時が来ました。そして、人々の心だけでなく、主のご計画に従って村を、町を、国をまっすぐにして王をお迎えする準備をしなければなりません。まさに私たちがバプテズマのヨハネになる時です。

 この重要な御国のミニストリーを行うためにはそれだけの御霊の力が必要です。従って主は私たちの上に、初代の使徒たちがペンテコステの時に受けた力以上の前代未聞の超自然の力を今下さろうとしていると信じます。私たちはそれを信仰で受け取ることが出来るのです。

 第二に示されたことは、ヨハネが授けた洗礼とは「悔い改めの洗礼」ではありましたが、それが「死んでよみがえる」ことを意味しているということでした。ヨハネは主が現れる前に先ずこの世に来て「主の通られる道」をまっすぐに整える使命を持っておりました。そうであるなら、イエス様がこの世に来られた最大の目的が、総ての人を救うための「いけにえ」として十字架にかけられて死ぬことであったのですから、先駆けのヨハネ自身が先ず「いけにえ」として自分の命をささげることが「イエス様の通られる道を用意する」ことにふさわしいのではないでしょうか。この「いけにえとして死ぬ」ことこそが、バプテズマのヨハネがこの世に現れた最大の目的であったことを私は示されました。彼は荒野にとどまり、この世から離れた生活をすることによって出来る限り自分が「聖いいけにえ」となる準備をしました。

 ヨハネが「いけにえ」となったことは彼の死に方が物語ってくれます。彼は当時のヘロデ王によって首をはねられ、その首は盆に載せられて会衆の前に披露されました。それはあたかもヨハネが「キリストの花嫁になるには自分の頭はいらないから世に返す。」とでも言っているようです。
 そして、首のないヨハネの遺体は弟子たちのよって引き取られ葬られました。(マタイ14:1-12)これは一体何を意味するのでしょうか。
 「首のないヨハネの死体」とは「キリストのからだ」引いては「キリストの花嫁」を象徴していると私は信じます。とすれば、自ら花嫁の姿をとって「いけにえ」として死んだヨハネは、私たちクリスチャンに対し「キリストのからだ」になるためには自らをキリストの十字架につ けて死に、キリストと共によみがえること(霊的に)が必要であることを身をもって示してくれたことになります。そればかりではなく、ヨハネはキリストという花婿を心から愛するがゆえに、私たち花嫁を花婿に導く霊的マッチメーカーとしてこの世に送られて来たのです。

 それが三番目に示されたことなのですが、バプテズマのヨハネとは「花婿の友人」として私たちのために現れてくれたという事実です。

「あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。』と私が言ったことの証人です。花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。」(ヨハネ3:28-29)

 ここで「花婿のことばに耳を傾けているその友人」とはヨハネを指しています。ヨハネが花婿であるイエス様の友人と呼ばれる理由は、ヨハネは常に花婿の御声に耳を傾け、その御声を聞いて大いに喜ぶ人であるからです。そして、彼は友人として花婿が花嫁を迎えるために現れることを誰よりも待ち望んでいるのです。
 
 先程私はヨハネが私たち「キリストのからだ=花嫁」の形をとって死んでくれたと申し上げましたが、実は、花婿と花嫁を愛するヨハネは、私たちの地上での花嫁を指導する者でもあるのです。と言うのは、ヨハネは私たちに花嫁となるための一番大事なことを少なくとも一つ教えてくれたからです。

 その一つのこととは、花嫁は常に「花婿のことばに耳を傾ける」ということです。そのためにヨハネは花嫁の目を花婿の方に向けさせる役目を買って出たのです。それが「花婿の友人」としての役目です。そしてその人は「キリストの花嫁」とは友人である以上に花婿と親密な関係に入る者でなければならず、常に花婿の声を聞いて喜びに満たされている人であるべきことを私たちに示してくれたのです。

 ヨハネは弟子を訓練しました。しかし、その弟子を決して自分のものと考えず、むしろイエス様の弟子となることを薦め、彼の二人の弟子がイエス様の後を慕ってイエス様の最初の二人の弟子となった時に心から喜びました。彼が弟子に徹底して教えたことは、彼らの真の教師は自分ではなくイエス様であること、そのイエス様に常に目を向けることを示したのでした。

 バプテズマのヨハネから私は、クリスチャンとは「キリストの花嫁」にならねばならないことを改めて教えられました。そして又、私たちは花嫁であると同時に「花婿の友人」にならねばならないことも教えられました。それは私たちが、私たちより後にクリスチャンになった人を花婿と個人的に親密な間柄になることを最重要事として導き、その方法を教え、又、そうなる過程においての困難さを分かち合い、必要な時に励ます友人になることです。

 私たちクリスチャンは、一日も早く主を「花婿」である「夫」として意識して、毎日を貞節かつ忠実な「妻」として仕えながら生きる生活に入らねばなりません。このクリスマスを通して、それが新しい年の最大の目標であることを確認することが出来た次第です。

 2007年は皆さんが、ヨハネのように主の御声を聞く度に大いに喜び、毎日が喜びに満たされた年になりますようにお祈りしております。(終わり)


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19 11月

秋の日本旅行で感じたこと   坂 達也    11月19日


2006年秋の日本旅行から帰って

9月26日から5週間にわたり日本の各地の教会(主に聖霊派)を回って参りました。
今回の旅行で感じたことは、今は神の御国をいただく最高の時に来ているということでした。ルカ12:32に 「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」とあります。
日本の教会といえば、教会員が100名を越すところは見渡しても数えるほどしかありません。みな小さな群れです。その小さな群れがそれぞれ何とかして「大きな群れになりたい」と苦心し、その方法を一生懸命模索しながら色々なことを試しておられる様子が痛ましいほどよく分かります。

そこで思い出すのはマルタとマリヤのお話です。ルカ10:38-42に「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

私はこの話を今の教会に当てはめてみることが出来ると思います。つまり、マルタが私たちの今の教会の姿であると言うことです。
イエス様を喜んで家に迎え入れたのはマルタでした。しかし、マルタはイエス様のご臨在の中で「いろいろなことを心配して、気を使って」忙しく働いていますが、イエス様のお話は聞いていませんでした。その気になればマルタは、マリヤと同じように先ず座ってお話を聞くことが出来たと思います。それによって食事の用意が少し遅れたとしてもイエス様はお怒りにならなかったと思います。あるいは、必要なことをしながらでも、主のお話に耳を傾けることは出来たかと思いますが、マルタはそうしませんでした。その気が無かったように思えます。

そこで、もし私たちの今の教会がマルタのようであるならば、イエス様は私たちに、「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。」とおっしゃられると思います。
そのポイントは、私たち教会が真っ先にしなければならないことを私たちはしていないと言うことです。私たちはマリヤが選んだことをすべきなのです。マリヤは、イエス様を待ち受け、イエス様のご臨在される時には、イエス様の前で集中して主を見つめ、聞き、そして礼拝しました。
マリヤは本当に一つのことだけを求めました。しかし、この一つのことだけを求めた人は他にもおります。それはダビデです。ダビデは叫びました。

わたしは『一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。…… あなたは仰せられました、「わが顔をたずね求めよ」と。あなたにむかって、わたしの心は言います、「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。』(詩篇27:4,8、口語訳)

クリスチャンであるならば、私たちも同じように常にイエス様を親しく求め、イエス様の御声を聞いて、主と交わりつつ一日を過ごすべきではないでしょうか。なぜなら私たちの救いはイエス様個人にしかないからです。本当に頼れる人はイエス様しかおりません。ちょうど3-4歳の子どもが常に母親の足にまとわり付くように、私たちがいつもイエス様の御そば近くにいれば恐れるものは一つもありません。イエス様が道であり、真理であり、命です。(ヨハネ14:6)

それには毎日少なくとも時間を決めて、マリヤのようにイエス様を個人的にお迎えし、イエス様と親密な時間を過ごすことが、クリスチャンとしての必須最低条件であると思います。そしてそのイエス様と共に一日を歩むのです。これを英語でintimacyと言います。
思い出してください。私たちはボーンアゲインして、既に霊に生まれ変わった者であることを。私たちの実在は霊の存在であり、肉で生きているこの世の存在は、もはや仮の一時的な姿でしかありません。つまり「霊の人間」が「霊の主」と直接「霊で交わる」ことをしなければ、全く、どだい、話しにもならないのです。

私たちクリスチャンが皆そのようになる時に、私たちの「教会」に対する考え方が変わってくると思います。と言うのは、私たちが所属し奉仕している教会とは、実は、イエス・キリストが唯一主であり、ただ一人の師である「天の御国教会」と言う「霊の教会」であるからです。
今こそ私たちは、天におられる私たちの唯一、真の牧師を仰ぎ見て、その牧師と深く交わり、その牧師から総てを教わる時が来ています。そのために主は私たちの内に聖霊様を送られました。
私たちがこの世にいる目的とは何でしょうか。それは、私たちが「キリストのからだ」として建て上げられ、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられる」教会(エペソ1:23)になる霊的な弟子訓練を受けるためです。

そうであるとすれば、たまたま私たちが現在地上で属している地方教会とは、聖霊様によって振り分けられ配属された「天の御国教会何々支部」兼「弟子訓練教習所」とも言うべき、「兄弟姉妹の地上集会場」であると言うことが理解できると思います。

多くの人は今自分が属する地方教会に失望し、指導者に不満を抱いています。ある人たちは良い教会探しに余念がありません。しかし考えてみれば、この世では未だ完全な教会は一つもないのです。なぜなら私たち自身が完全でないのと同じようにどの教会の先生方も指導者も完全ではないからです。主ご自身がそのことを一番よくご存知です。だからこそ主は、私たちが至らない者同士助け合い、お互いを建て上げ、「組み合わされた建物全体が成長し、主にある聖なる宮となる」(エペソ2:21)ことを望んでおられます。

教会が今のような肉の人間の集団である限り、決して御国の教会にはなりえません。しかし、今こそ、真の御国の教会を求めるべき時が来ました。そ
17 11月

イラク戦争は神の御心であったのか 坂 達也  11月17日


イラク戦争は神の御心であったのか

 今回のアメリカの中間選挙では、民主党が共和党を抑えて圧勝し、両院とも過半数を勝ち得ました。今回の選挙はブッシュ大統領に対する、ひいてはイラク戦争に対する国民の判決が下ったと言うのがメデイヤ一般の見方です。

ブッシュ政権がイラク戦争に踏み切ったことは、国益に反して間違いであった、という判断をアメリカ国民が下したことは、それなりに理解できます。しかし、それでは「イラク戦争は神の意思には反した行為であったのかどうか」ということを、この際私たちクリスチャンは改めて問う必要があると思います。皆さんはクリスチャンとしてどう思われますか。

創世記を読みますと、イラクを含むアラブ諸国がどのようにして生まれたかが書かれています。アブラハムには二人の子どもがおりました。最初の子は、主の約束が待ちきれなくて、人間的な判断と方法でサラの女奴隷ハガルに産ませた子どもであるイシュマエルです。そのいきさつは創世記16章に書いてあります。その14年後に、主は約束通りにサラから奇跡の子イサクを生まれさせました。

勿論アブラハムは父としてどちらの子どもも愛しておりました。神の愛の偉大さはここにあります。神は、アブラハムとサラの信仰の至らなさのゆえに神の御心ではなく生まれて来たイシュマエルに対しても、同じように愛と憐れみを持たれたのです。神はアブラハムに忠実な方であられたので、イシュマエルの子孫も大いなる国民にすると約束されました。(創世記17:20,それに21:12,13、18)
勿論総てのことに神は最初からご計画を持っておられますから、アブラハムとサラが待ちきれないで人間的な子どもを先に生むことは当然知っておられました。このアブラハムの子、イシュマエルは主の御使いによって次のように預言されました。
「彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」(創世記16:12)
この預言はイシュマエルに対して与えられましたが、それは彼の子孫に受け継がれて行きました。これによってアラブとイスラエルが後にお互いに相容れない怨念の仲となっていることは皆さんよくご存知のことです。この宿命的確執は初めから神のご計画であり、今までの歴史ではその通りになっています。

しかし、人間として生まれてくる者がみな救われることを神様は望んでおられ、イエス様は総ての人間の罪を赦すために十字架にかかられました。それにはアラブ人も含まれ、神は彼らが悔い改めるのを待っておられます。
そうであれば神は、彼らに西洋諸国と同じようにその悔い改めのための福音を聞く機会を与えたいと計画しておられても当然であると思います。
しかしながら歴史的に見て、今まではそのような機会があまり与えられてはいないように見受けられます。とすれば、この終末の時が押し迫る現在において、今こそアラブ諸国に大々的なリバイバルの機会が与えられなければおかしいと言う気がするのです。つまり、アラブ諸国にも他の国と同じようにリバイバルが来ないままで世の終わりが来るとはとても考えられません。

その意味において神は、その福音の使者としてアメリカを、特にブッシュ大統領を先駆けとして起用されたと私は信じております。イラクはフセイン大統領と言う悪魔的な暴虐専制君主によって長い間抑圧されておりました。この専制弾圧政治から国民を解放することが歴史的に見てどれ程重要なことであったかは、これからの歴史が証明すると私は確信します。それは単に大量破壊兵器が発見されたとか、されなかったからと言うような議論のレベルの問題ではないと思います。 

ところが解放後のイラクは、今内乱によってその民主化安定政権の誕生は一見絶望的に見えますが、実際は報道陣の報道以上に民主化は進んでいると言われています。少なくともイラク国民がどれ程デモクラシーを望んでいるかは、選挙の投票に多くの民が命の危険を犯して参加したことからもはっきり見えたと言われます。又、あまり報道はされませんが、福音が一般市民の間で伝えられ始めております。
安定政権樹立の道は決してなまやさしいものではないにしても、世界が忍耐を持って支援をし続けるならば、かならずイラクの民主化は成功すると言う信念を持つブッシュ大統領の政策は、神のご計画にそって行われていると信じるクリスチャンも少なからずおります。その一人がリック・ジョイナー師です。

彼は神の御心についてイザヤ書19:19-25を挙げています。この預言は歴史的に未だ実現していないと師は言われますが、多くの聖書学者も同意見です。
「その日、エジプトの国の真中に、主のために、一つの祭壇が建てられ、その国境のそばには、主のために一つの石の柱が立てられ、それがエジプトの国で、万軍の主のしるしとなり、あかしとなる。彼らがしいたげられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる。 そのようにして主はエジプト人にご自身を示し、その日、エジプト人は主を知り、いけにえとささげ物をもって仕え、主に誓願を立ててこれを果たす。 主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。
23(節) その日、エジプトからアッシリヤへの大路ができ、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人とともに主に仕える。その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真中で祝福を受ける。 万軍の主は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。」


先ずエジプトについての預言がなされ、最後の23-25節ではエジプトとイラクがハイウエイで結ばれ、真ん中のイスラエルと共にこの三国が主の御名を共に称える時が来ることが預言されています。ここに出てくるアッシリアとは現在のイラクです。しかも歴史的に見てイラクこそ文明の発祥地であることも注目に値すると思います。
ここにおいて、神がアブラハムに約束された「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:3)が実現されるのではないでしょうか。
この預言が実現するためには、今こそイラクの民を独裁政治から解放することが神のご計画であると言っても、それは充分納得できるように思えます。

世界、特にアメリカ
27 07月

トランスフォーメーションとリバイバル  坂 達也 7月27日


トランスフォーメーションと言うリバイバル

 ダッチ・シーツ師が「祈りにおける権威」と言う本を最近書かれたことを先日ご紹介しましたが、それによれば権威という輪は、一番小さい中心点(的)から始まります。その中心の点とは一人の人間を表わし、その権威と責任は自分と言う一人の人間に与えられていることを意味します。それから輪が少し大きくなって家族、次に町、そして県、国というように段々大きくなります。権威の輪が大きくなるにつれその輪には人数が加増されますから、その分個人当たりの権威は減ります。しかし、その権威は全体の人間で分かち合わねばなりません。そして、権威には責任が付きものであることを忘れてはなりません。

 そこで、国とか地域とか町にリバイバルが起こるためには、そのために祈らねばなりませんが、その祈りにおいての権威と責任はその町、地域、国のクリスチャン全体に与えられているということになります。つまりリバイバルを起こすことは、その地域の教会の共同の権威と共同責任となる訳です。と言うことは、これからのリバイバルはその町の教会が全員一致して祈るときに一番大きな権威によって祈ることになりますから、最もパワフルにリバイバルが起こる可能性を持つことになるのです。

 今までのリバイバルのパターンは色々ありますが、ほぼ共通していることは、神がある人(たち)に救いに対する特別の飢え渇きを与え、その人たちが熱心に渇望して祈ることによって、神はその町とか地域にリバイバルを起こされました。
 これをたとえてみれば、今までのリバイバルとは私たち教会が霊的に未熟で幼年期から一人立ちする前の青年期にいる状態であるため、親である神が一方的に起こし、子どもに見せて学ばせると言う未だ「義務教育期間中」でのリバイバルであったと言えないでしょうか。しかし終末の今の時代は、私たち教会がいよいよ霊的に大人に成熟し、何でもかでも親の丸抱えの時代は過ぎて、「自分でやってみる」時に入ったと言うことができます。とすれば、これからのシーズンにおいては、主はその町の教会全体に「リバイバルに対する権威と責任を与えるので、全員一致して共同でリバイバルを起こしなさい」と言われているような気がします。

 つまり、肉の私たちが子どもから大人に成長するに従って、親は段々に「自分の事は自分でできるだけやらせてみる」と言うのと同じです。天の父は私たちが霊的に成長するにつれて、リバイバルにおいても「今度は自分たちでやってみなさい」と言うことになっても不思議はないはずです。それは私たちの最終目標である「教会=キリストのからだ」にまで成長するためのプロセスと一致します。
 教会はキリストの身丈までに成熟していかなければならないはずですから、主は人を救う仕事(リバイバル)も教会全体が共同で一致して行うことを期待しておられるのです。

 これが主のお考えであることのはっきりとした裏ずけがあります。それはマタイ28章にあるいわゆる「大宣教命令」です。その内容を考えてみてください。

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても、地においても、いっさいの(いっさいを統治する)権威が与えられています。 それゆえ、(その権威をあなたがたに与えるから)あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。(救われたクリスチャンを個人的にトランスフォーメーションするための弟子訓練を行う)見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(主が統治される王国、キングダムの時代)』」(マタイ28:18-20)[括弧内は筆者注]

 大宣教命令の趣旨とは「地球上のすべてを統治する王であるイエスの王国において教会が地球上のあらゆる国の人々を、救いから霊的成熟に至らせるまでの全過程でトランスフォーメーションし、全員を真の『キリストの弟子』にすること」であることが分かります。それは政治家も経済人も総て含まれます。
 別の言い方をすれば、マタイ28章のみことばの中には、「世界中の人間を救う権威と責任」と共に、その新生したクリスチャンを弟子訓練して「キリストの身丈にまで」成長させ、「キリストのからだ」として完成させる権威と責任が私たち主の教会に与えられていて、それは主からの厳粛な命令であると言うことです。ここにおいて私たちが「リバイバル」をトータルなトランスフォーメーションに発展成就させねばならないのです。

 これだけ大きな仕事の権限を与えられているのですから、私たちは「自分たちの力ではとても出来ない」ことを先ずはっきりと自覚しなければなりません。過去において主が起こしてくださったリバイバルを持続することすらできなかった自分たちの霊的未熟さを心から悔い改める必要があります。
 勿論、真にボーンアゲインしたクリスチャンならそれが当然自覚できているはずです。なぜなら、主が「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」ることを強調されたように、キリストを信じる者がバプテズマを受けることとは、キリストと共に死んで、キリストと共によみがえって生きる(霊の人間にボーン・アゲインする)ことを意味するからです。(ロマ6:3,4、8)
 主の王国に仕える私たちは「自分を捨て、自分の十字架を負い、イエスについて来る者」(マタイ16:24)でなければ絶対に主の「大宣教トランスフォーメーション命令」を受けて立つ勝利の戦士にはなれないのです。このことを私たちはもう一度心からへりくだってわきまえ、これからは総てを聖霊さまの指示に従って動くことを肝に銘じる必要があると信じます。

 今の時代は、天の父の御心以外には何も行わないと言う固い決意をしたクリスチャンが各地にどんどん立てられつつあります。ハレルヤ!(終わり)


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