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Walk With God Ministries


02 05月

「時をあがないなさい」坂 達也 2010年5月2日


「時をあがないなさい」

坂 達也


 エペソ5:16「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」
コロサイ4:5「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。」というみ言葉があります。どちらも同じ原語から「機会を十分に生かして用いなさい。」と訳されておりますが、それを直訳すれば「時をあがないなさい」です。英語では redeem the time、ギリシャ語ではexagorazo kairos です。(Kairos=カイロスの時)

私はアメリカでクリスチャンになり、英語の聖書から読み始めたものですからこの語句 redeem the timeの意味が、一般に解釈されている訳とか意味ではもう一つ合点が行かず、頭を傾げながら30年余が過ぎて来ました。ところが、最近「永遠の時とは何か」と言うことを学んでいた時に、主に改めてこの redeem the timeの意味を問うたところ、今朝主がその答えを下さいましたのでご参考までにお分ちする次第です。

英語の聖書では日本語の聖書の意訳(上記)と違って、そのまま素直に直訳の redeem the time と書いてありますから「時をあがないなさい。」です。一体「時をあがなう」とはどういうことなのか、字づらの意味は簡単ですが、その意味するところが理解出来ずに考え込んでしまっていたのです。

この redeem「あがなう(贖う)」という言葉はクリスチャンなら誰でも知っている、そして最も重要なイエスキリストによる「罪のあがない=贖罪の救い」を表す言葉です。その意味は、

1 代価を払って買い取る、買い戻すこと
2 枠がはめられ、窮屈で、苦しめられていたもの、何か益にならないもの、あるいは捕われていた状態から、代価(身代)を払って解放する(救い出す)こと
3 罪の結果とその報いから解放する
4 悪い影響(例えば借金でがんじがらめになっている状態)に対してそれを解消するだけの支払いをして相殺にする

です。つまり redeem the timeとは、代価を払って「時」を買い取って時を無くする、あるいは、時と言う窮屈な「たが」「制約」から解放され timeless 時のない状態になる、もどる、と言う意味です。

ご存知のように、元々神は全く時に縛られない「時のない」世界におられ、今もその世界に存在されている方です。時の無い世界の経験が無い人間には適当な言葉がないため、やむを得ず「永遠」と言う言葉で表しましたが、聖書で言う「永遠」とは「時が永遠に続く」ということではなく、「はじめも終わりもない状態、永遠の今が無限に存在する」と言うことです。
従って、時の移り変わりのない神は絶対に変わらない、「イエスキリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」(ヘブル13:8)と言われます。

神の創造は、時が存在しなかった有史以前に神の心の中で、神のいのちの一部として完成されていました。そして、その後も絶対に変わらないのは神が時の無い方であるからです。「私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何をつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神はそれをなさる。人は神を恐れなければならない。今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。…」
(伝道者の書3;14,15)

時とは神が宇宙(天と地)を創造した時点で加えられた「被造物」の一つです。天地創造をされて以来、この宇宙は時の一方向の流れに乗って(縛られて)いますが、神の国、天では「時」はあっても、それに縛られることはないのです。(難しいことを言ってすみませんがご理解いただけると信じます。)

その意味で厳密に言えば、神は元々、全く時を超越した存在ですが、天地を創造した後、 現在は「時のある天国」におられる。その天国の時とは、自由自在に過去とか未来に行ける、しかも流れている「時」も存在する、といった世界であって、地上の「一方向の時という枠にはめられた状態」とは違うようです。
ややこしい話で、私もよく分からないのですが、これを区別する意味で、神は最も高次元の世界を持っておられる方、天は4次元+時間の「霊の」世界、そして地球上は3次元+時の自然界の世界と言うことにしたいと思います。

何故こんなあまり要領を得ない話を私が敢えてするかと言うと、実はこの「永遠の次元で生きる」ことがこれからの私たちクリスチャンの生き方として最も重要な鍵になるからです。

イエスキリストは肉の人間に生まれて来ましたが、「第二の人は天から出た者です。」(1コリント15:47)とパウロが言うように、天の人でもあります。(Son of God で Son of Manと言われる)
と言うことは、イエスは肉の3次元世界と霊の4次元世界の両方に同時に住んでいる方であると言うことです。

そのイエスが「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子(Son of Man)の上を上り下りするのを、あなたがたは今に見ます。」(ヨハネ1:51)と言われました。これで思い出すのはヤコブが見た夢で「一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」(創世記28:12)ですが、イエスキリストは天と地にはしごをかけて行き来する、どちらにも存在している人(人の子)であるのです。

そして、私たち人間もそうであるべきだと言うことをくどい程強調しているのがヨハネ伝を書いたヨハネです。彼がしきりに言う「永遠のいのち」がそれです。永遠のいのちとは時間に制約されない4次元の力が自由に使える状態を指し、そのような人を御使いは常に助けてくれるのです。
ヨハネ自身がその二つの次元に生きていて主イエスを最も理解していた弟子であることがヨハネ伝からうかがえますし、またこの福音書が他の三つと違うユニークな書であるゆえんであると思います。
その一つの例をあげれば、ヨハネは「真の礼拝者たちが霊とまことによって礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」と言いました。(ヨハネ4:23、24)彼の言わんとすることは、礼拝とは時間の長さとか量ではなく、時間の無い「永遠の今」という私たちの過ごす時間のどこを切っても常に「父を礼拝する真心」しか出て来ない状態を言っていると信じます。

ところで、「時間の無い」と言うのはどんな世界であると思われますか。考えてみれば実にやりきれないような気がします。例えば、あなたが誰かに腹を立てて、絶対に赦せない気持ちに
31 03月

井の中の蛙、大海を知らず  坂 達也  3月31日


井の中の蛙、大海を知らず

                               坂 達也(/font>


私たち人間は、神を知らない人だけでなく、知っているはずのクリスチャンですら、ほとんどの人が、所詮「井の中の蛙」であることに気がついていないようです。そこでクリスチャンが「井の中の蛙である」可能性を二つの観点から考えてみたいと思います。一つは人間の持つ「自由意志」の観点から。二つ目は信仰の面からです。この二つは相互に深く関係しています。

 創造者なる神が人間を神に似せて造り、神の最もすばらしい特質である「自由意志」を人間に与えた理由と意図は何だったのでしょうか。それは人間が最大限に自由意志・意欲を発揮して、すべてに「自分の中にある最高の可能性を追求する」ことを期待しておられたからであると思うのです。少なくともクリスチャンは、神から自由意志なるものを与えられていることにもっと責任を持つべきではないでしょうか。
人間は自分の「自由意志」が脅かされるとき、つまり、自分が好き勝手に生きることが制約されそうになると、自分の「自由」を主張する傾向があるようです。それでいて、本当の自由とは何であるかをよくは知らないのです。自分の小さな狭い井戸の中で自分の好きなように泳いでいる限り、それが自由であると思い込んで、満足して暮らしています。大海があることを知らず、又特に知ろうともしないのです。

私はクリスチャンの話をしているのです。クリスチャンであっても、なぜそうなるのかと言えば、人間は元来「自分中心」で「自分には甘く」簡単に「自己満足」し、その上始末の悪いことに、自分の考えに頑固に固執する「プライド」だけは大きいのです。これは人間の生まれ付きの罪の性質ですが、クリスチャンになってもそのライフ・スタイルを捨てようとしないからです。
クリスチャンは、信仰を得た最初の出発点である洗礼式で、「自分に死に、よみがえって霊の世界に生まれ変わる」ことに同意したにもかかわらず、何故それを真面目に実行しようとしないのでしょうか。その「死んで生き返る」ことが「井戸を出て、大海に入ること」であることに本当には気づいていないのです。

「新生」しないて、罪の人間のままでは大海に出て真の自由を探求することは出来ません。最初の人間アダムとエバは自らの意志で神に背く罪を犯し、それ以来人間は皆罪人になりました。しかしそれは最初からの神のご計画でした。「神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を(先ず)不従順(=罪)のうちに閉じ込められた」(ロマ書11:32)のです。そして、その中から、自分の意志で主キリストを信じるめぐみを得た者だけが、神への不従順という罪から解放され、自由に神の世界(霊の世界)に入って、神と共に自分の無限の可能性を追求して楽しめるのです。

神は、聖書を通して徹頭徹尾初めから終わりまで「自分に死ね」と言っておられます。それは「自分に死ぬ」ことが霊の世界という大海に出て真の自由を獲得する最初のステップであるからです。にもかかわらずクリスチャンは「すべて主に従う」ことがまるで自分の自由意志が損なわれるとでも思うのでしょうか、心からそうしようと思わない人が大半です。

考えてもみて下さい。人間の持つ自由(意志)とは何と小さくて限られたものでしょうか。人間の思考の世界がいかに小さく偏ったものであるかは、子供を例にとれば明らかです。人間は赤ん坊でも自由意志を持っています。しかし、生まれたては、お腹がすいた時とお尻がむずがゆくなる時に泣くことしか知らないのです。それが彼らの持つ自由意志の限度です。
そこで親は子供の意志を尊重しながらも、足らないところを親の意志(良識)で補いつつ子供の面倒をみないでしょうか。天の父も同じです。全知全能で最高の愛の持ち主である神なる父は、子供である私たちをいつも愛し、私たちの自由意志が一番よい形で発揮できるように助けて下さろうとしておられるのであって、私たちの自由と自由意志を損なおうなどとは全く考えてはおられません。

それが証拠に父なる神は、最愛の一人子を罪だらけの私たちの身代わりとして死なせ、そのキリスト・イエスを信じた人に、もう一人の助け主である聖霊を「永遠の後見役」として送り、その人の内に住まわせて下さっているのです。この内住の聖霊が私たちを狭い井戸から、無限の可能性を追求できる自由意志の大海に連れ出して下さるのです。つまり、内なる聖霊が私たちの大海です。


真理はあなたを自由にし、大海に解放する

上記で申し上げて来たことが神の真理の真髄であると私は思います。こうして自分の浅はかな考えで生きることが愚の骨頂であることに気が付き、そんな自分に死んで、神に自分の人生の一切を委ねて生きることこそ、自分の自由意志を最大に発揮することになることが納得ゆくはずです。パウロはこの生き方を次のように言いました。
「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。・・・」(ガラテヤ2:20)

そうと決まれば、私たちの人生は常に聖霊に従って生きることに徹すればよい、という結論になります。それは取りも直さず、毎日「神の御声を聞いて従いつつ生きる」ことです。そして、この生き方が、あなたのこれからの人生における最も重要な課題となるはずです。この真理を知ることがあなたを自由にします。

「・・・わたし(イエス)は真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」(ヨハネ18:37)

「・・・もしあなたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたを自由にします。」(ヨハネ8:31−32)

「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。・・・・神から出た者は、神のことばに聞き従います。・・・」(ヨハネ8:43、47)


大海の信仰

クリスチャンは自分の持っている信仰が、やはり井戸の中の蛙で、大海の信仰ではないことに気づくべきです。
先日ハワイの集会に来られたカル・ピヤース師が言っていましたが、人間の脳は通常全体の一割しか使われていないそうです。なぜそうなのかご存知でしょうか。ピヤース師は、神は人間の脳の9割を無駄にするようには造ってはお られない、その未使用の部分は神の御心と思いが入るスペースで、神の思いがその人の思いとして用いられるためにある、そして、今使われている一割は人間自身の思考であり、神に差し出すべき十一献金のようなものであると言われたのです。

 これからの時代は、「キリストの思いが私たちの思いに」(1コリント2:16)ならねばならないのです。そのようなクリスチャンが中心となって、主の多くの終末のご計画が実行されて行くでしょう。そのためには私たちの今持っている信仰は抜本的に変えられなければならず、まさにロマ書12:1−2が実現される必要があるのです。

私たちがもし弱い信仰しか持っていなければ、人間の常識を外れるようなこと、すなわち超自然の奇跡が日常茶飯事で起こることは考えられません。超自然の世界とは霊の世界で普通に起こることなのですから、私たちが霊に生まれ変わった以上、当然その霊の世界での現象が自由に自分のものに出来るはずです。主は今それを私たちに期待しておられます。

しかし現実には、それがなかなか実現していません。その最大の原因は、結局のところ「自分に死ねない」ことにあるように思えます。自分に死ねないから「キリストの思いが私たちの思いに」ならないのです。それは、根本的に「自由意志」に対する私たちの考え方に原因があると私は思います。

皆さんはクリスチャンが「霊的に成熟する」ことをどのようにお考えでしょうか。
「私たちが早く霊的に成熟する目的は、丁度子供が大人に成長して自立するように、早く自分で少しでも多く神の御心が行えるようになることである」とお考えになっていないでしょうか。

もしそうであるとすれば、それは「律法的な生き方」であると思いませんか。この生き方は「自分で出来るだけ御心にそって生きる努力をしてみますが、うまく行かない時は助けて下さい。」という考え方に立脚しています。ほとんどのクリスチャンは、大なり小なりこの考えで「何も悪くない」と思って頑張って生きているのではないでしょうか。その結果自分がぴんぴん生きています。それが人間に自由意志が与えられた理由であると思っておられませんか。

私たちが霊的に成熟することとは、パウロがピリピ3:7−9、その他のところで言うように「イエスキリストを個人的に知ることと主の信仰で生きることのすばらしさに比べたら、肉の自分の一切のこと(自分の名声も考えも、それで生きることも)全く何の価値もない。」という境地に先ず到達することであると思います。そのような「自分で生きる」などとは思いもよらないというへりくだりの境地に達した時、イエスが「わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに・・・・」(ヨハネ8:28)と言われる父への愛と従順にとりつかれた情熱で生きる姿になれるのであると思います。まさに「あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるため」(1コリント2:5) にあるのです。このような生き方だけが主の期待しておられる「霊的成熟」であると信じますが、いかがでしょうか。さもなければ、神は私たち人間の中に聖霊ご自身が住まわれ、自分にトータルに死になさいなどとは決しておっしゃらないはずです。

主と共に大海に出る信仰を目標に掲げ、主にそれを毎日願い、自分の自由意志で「自分で生きる権利」を放棄することを宣言し、毎日私たちが主を見上げ、主の御声を聞いて従う、主の御心で生きる努力をし続ける時に、たとえそれが今は不完全であっても、主はあわれみをもって私たちに力を与え、信仰を引き上げて下さると確信します。やがてはそのような私たちを、神は超自然の奇跡を起こされるべき器に育て上げ、大いに用いられることを信じて疑いません。そのようなクリスチャンを今主は求めておられます。(終わり)


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11 02月

いのちの木に総てを委ねる生き方 坂  達 也  2月11日


いのちの木に総てを委ねる生き方

                                    坂  達 也

私たちの人生は神に気に入られるかどうかで大いに違ってきます。常に主に喜ばれることをしている時に、私たちは有り余るような主のご好意(祝福)にあずかれます。そうして神様の「お気に入り」になると、神は私たちのところに来て離れなくなられます。つまり明らかな神の臨在(英語でmanifest presence)が私たちの上に顕れて被うのです
そして神の祝福は周りの人たちにも及んでいきます。そうなったら人生、楽しくてしょうがなくなるのではないでしょうか。それでは、どうしたらそうなれるのでしょうか。
それは言うまでもなく、私たちが主イエスを愛して愛して、愛しぬくことです。

「イエスは彼に答えられた。『だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。』」 (ヨハネ 14:23)

 イエスが言われている意味は、わたしを愛する人はわたしと出来るだけ多くの時間を過ごし、わたしの言うことば(現在形)をいつも聞きたいと願う人であり、わたしのことばを聞くことを最上の喜びとする人であるから、そのような人は「わたしのことばを守ります。」、あるいは、「守れるようにわたしが力(めぐみ)を与える」と言われているのではないでしょうか。

いのちの木

 エデンの園の中央には「いのちの木」と「善悪の知識の木」が植えられていました。(創世記2:9)これはテスト・ツリーと言われますが、エバは悪魔の誘惑に負けて魅力的な「善悪の知識の木」の実を取って食べ、アダムにも勧め二人で食べてしまいました。テストに合格できなかったのです。その後生まれる人間は、皆「善悪の知識の木」の実を取って食べる、生まれながらの罪人としてこの世に生まれて来るようになりました。

「いのちの木」はイエス・キリストを指します。そして、イエスに総てを頼って生きる生き方を表しています。それはヨハネ15章でイエスがご自分をまことのぶどうの木に譬え、私たちはその枝であるといわれたことに通じます。 一方、「善悪の知識の木」とは自分で何でも判断して自分で生きる生き方を表しています。イエスはぶどうの木である「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)と言われました。
確かに私たちが木にしっかりついた枝である限り、総ての養分は100%ぶどうの木であるイエスから与えられますが、問題は、私たちはどちらの木からも自由にその実を取れる状態でクリスチャンになったことです。

そのことに関して私は最近主から一つのテストを受けました。それはホノルルの私たちが属しているミニストリーで、今新しくミニストリーの集会を立ち上げようとしていますが、そのリーダーの人がコンピューターを必要としており、加えて、私のコンピューターがたまたま壊れてしまい、二人してすぐにも新しいコンピューターが必要となりました。そこでそのリーダーが3年ほど前から知っているという、ある有力者に頼もうという提案を受けました。その方はクリスチャン・ミニストリーに必要な機材を安く分けてくれる奉仕的団体(会社)の責任者で、そこからはかなり安くコンピューターとかカメラ、サウンド・システム、オフィス機具から集会用の椅子やテーブルまで分けてもらえる、しかも、ものによっては市価の一割位の値段で提供してくれると言うのです。そんなうまい話はないと、私もすかさず飛びつきました。

しかし、実際には、その責任者の人との連絡がなかなか取れず、取れたときは責任者が会社を辞任した後でした。そこで後任の人を紹介してもらったのですが、その人が多忙で、やっと一週間ほど前にその人と直接話をすることが出来て、助けてくれると言う確約を得たのですが、その後又なしのつぶて、この間3ヶ月近く経つのに未だに要領が得ないのです。

私はあまりに時間がかかるので、主に祈ってみました。実はそれまでは、出発時の教会を助けてくれるという相手ですから、当然主の御心と思い込み、主にはっきりとは尋ねてもみませんでした。すると「時間がかかるのを覚悟しなさい」、いや「これは全き主の御心ではない」 かもしれないという警告の声らしいものが聞こえてきました。私ははっと気が付き主の前で悔い改めました。

教会のリーダーと私は二人とも、一割で買えるのなら一番よいコンピューターにしようと言う欲が出て、アップルの最高クラスに近い2-3千ドル級のものに夢が膨らんでいたのです。支払いについては、私は元々コンピューターを買い換える時期に来ていたのでその積もりで予算を用意していたこともあり、いずれ資金がない教会の現状からして、一割で買えるのならリーダーの分も含めて二台分を私が支払うつもりでおりました。

しかし、本当に気が付かされたのです。私は、自分は「いのちの木」にだけつながっているつもりでいて、実際は「善悪を知る知識の木」の魅力に負けて、その木にも飛びつき、自分で買おうとしていたのです。この話が出たとき、それが主からのものかどうかを私は確かめなかったのです。

主は、大きなものから小さなものに至るまで私たちが必要とする一切のものを主ご自身が選ばれ、主の方法とタイミングで私たちに与えて下さる方であることをよく知っているはずなのに、私は今まで多くの場合に、勝手に安易に両方の木に手を出して来たということに気が付いたのです。

その辺りは実にいい加減で、時には勝手な理屈をつけては主の御心であると自分に言い含めて曖昧にごまかす、巧妙でずるい、とまで言える私の性格に気が付かされたのです。
もっとも正直な話、セールとか大バーゲンで値段が半額になっているものを『主の御心』と半分偽って時に慌てて飛びついてしまうのは私だけではないとは思いますが、だからといってそれは決して言い訳にはなりません。

神のご好意(祝福)を勝ち取ったヤコブ

 そのような策略を講ずる者の一人にヤコブがおりました。しかしイサクの子であるヤコブは、神の祝福を得ることにおいては誰にも負けない貪欲さと執拗さを持っておりました。ヤコブは父のイサクと双子の兄のエサウを騙してまでも長子の権利とその祝福を得ようと画策し、まんまと成功しました。

後になって、ヤコブは神のみ使いの訪れを受けたとき、夜明けまで格闘しました。彼はもものつがいをはずされても相手にしがみ
18 01月

霊的な礼拝とは  坂  達 也  2010年1月18日


霊的な礼拝とは

                                            坂  達 也

 
礼拝を含めた色々な集会において、濃厚な主の臨在を経験したことのないクリスチャンはほとんどいないと思います。しかし皆様は、主の臨在とは先ず個人的に毎日経験すべきものであるということを信じておられるでしょうか。

私の場合は、毎朝主とお会いしたくて一人で主の前に出ます。主の御前に出て静まり、主と共に時を過ごし始めると、主の平安と愛に包まれていきます。そして顕著な主の臨在が現れてくださることも多くあります。一昨日の朝がそうでしたが、主が来られてお傍近くで直々に親しくお会い出来たときは、本当にうれしくて感激と喜びで一杯になります。

勿論いつも主のはっきりとした臨在が来てくださる(感じる)とは限りません。しかし、たとえ顕著な主の臨在感がなくても、平和で平安な気持ちで満たされていれば、それは御霊の実の顕れですから、主の御霊がそこに臨在されている証拠です。
私たち御霊の内住を受けているクリスチャンは、いつも御霊の臨在と共にあり、その臨在の導きで歩んでいなければなりません。(ガラテヤ5:16)この霊的事実は信仰で受け取ることであり、私たちの肉の感情とは無関係のはずです。

最近の私にとっては毎朝御霊とお会いし、御霊に満たされること、それが大いなる楽しみとなっております。それは主の御声を聞くためというより、主と静かで楽しい時を過ごしたいという気持ちからです。 

ジョン・ベルトという人が詩篇23:2「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」を引用して、最近次のように語っています。「私たちは騒々しい音(音楽も含んでの意味であると思います。)の中で暮らすことにあまりにも慣れ過ぎているが、この騒音中毒症状を打ち破らねばならない。私はむしろ、神と共に過ごす「静かな時」を愛することのリバイバルが起こるべきであると願っている。私たちはこの神と共に過ごす「静けさ」にこそ中毒となるべきだ。神は私たちの心の奥深い場所に住まいたいと思っておられ、私たちに静かで平安の場所を約束して下さっている。この心の奥深い静かな場所において私たちは神を知り、親密な関係を築く。そこで主は神の栄光を私たちに顕わして下さる。」

「静かな時を愛するリバイバル」とはすばらしいではありませんか。実のところ、私は誰かがこれを言ってくれることを待っていたように思いました。

私はダビデによる詩篇23を読む時はいつでも、この詩だけが持つ独特の「音色」と言いましょうか、それはダビデの心そのものが溢れるように伝わって来ます。恐らくそう感じるのは私だけではないと思います。

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」


 私はクリスチャンになった頃は英語の聖書に親しんでおりましたので、最初の二節The Lord is my shepherd;Ishall not want. He makes me to lie down in green pastures; he leads me beside the still waters.の方に今でも親しみが湧きます。特に1節でIshall not want は「乏しいことがありません」の意味で全く間違いではありませんが、むしろ「私は主が私の必要な総てを与えてくださるので心から満ち足りており、私自身は何も欲しくはありません。」という英語訳のニュアンスが好きです。又、2節を読みますと、水のほとりにある緑の牧場の光景が「神の平安」に包まれたすばらしい場所であると同時に、神にあっての「静けさ」が伝わって来ます。邦訳にある「いこいの水」とは、多くの英語の聖書で「静かな水still water」と訳されていますが、それは怖い急流でも、よどんで死んだような水たまりでもない、安全で静かな清流のほとりという意味でありましょう。

この詩篇は神をこよなく愛したダビデが、神と自分との関係を表した心からの主への愛の讃歌であり、主への信頼、感謝、喜びに満ち溢れたものです。このダビデの心はまさしく主キリストの心と一致しております。

主の心、思いと一致する

今の私たちに最も必要な「主の御前に立つ祈り」とは、私たちの心と思いが主の心と同じになる、主の思いと一つになることにあると思います。そうなってこそ心が通じ合い、主の心の思いと「静かな小さな声」が伝わってきます。これが主と親しい間柄になるということです。

私たちの身体の総ての細胞が声を持っている

心が一つになるとはどう言うことでしょうか。ジェシカ・ジョーンズ師は次のように言っています。
「私たちは皆声を持っています。しかし、神が聞かれる音というのは、その声と私たちのすべての細胞が造り出す声が合わさったものです。・・・すべてのものが音を出します。この音の振動がすべての人、すべてのものから発せられているのが私には見えます。すべてのものは物体ではなくて音なのです。・・・創世記にはすべてのものが神の言葉によって創られたとあります。・・・私たちが話したり歌ったりする言葉には力があるのです。しかし私たちの身体の一つ一つの細胞が語ったり歌ったりする言葉にも力があります。・・・私たちは自分が造り出している音(サウンド)のバイブレーション(振動)に責任を持たねばなりません。・・・すべての音はそれぞれ独特の色彩を持っていて、それは肉の目を通して見る色とは違います。・・・この音の振動が発せられて、他の全ての人が発する音の振動と一緒になることを想像してみてください。その音の振動は(大きな)力 forceとなります。ふたりの人が一致するならば、言葉の大きな力 forceを生むのです。その音は神の御座にまでとどき、神はふたりの霊、心、思いの一致によって動いてくださいます。・・・ 一致の色は白です。白という色は実はすべての色が(一致して)合わさったものであり、反対に黒はすべての色が無い(一致した色の欠如)ものです。白は義の衣の色です。 この一致した音の振動はパワフルな力です。
10 01月

新しい年に期待する 坂  達 也 2010年1月10日


新しい年に期待する
                            坂  達 也



2010年はどんな年になるのでしょうか。新年を迎えて早々にアメリカでの良いニュースをお伝えします。
昨日のモーニング・スターのインターネットの番組でリック・ジョイナー師がトッド・ベントレー師と共に映像に現れ、この5日MSU(モーニングスター大学)の授業が開始された日の若者中心の集会で予期しなかったアウト・ブレークが起こり、これが12時間続いた後、翌日の夜も同じような癒しと奇跡を伴うアウト・ポアリングが起こったそうです。従って、急遽これから少なくとも2週間は火曜日から土曜日まで毎夜集会を持つと発表しました。

既に謹慎の身から解かれて、モーニングスターでの集会にミニスターとして参加し始めていたトッド・ベントレー師のところへ、年明けにボッブ・ジョーンズ師が訪れました。その目的はジョーンズ師が主からの特別の「訪れ」を受け、トッド師の上にあるのろいを打ち破るように指示を受けたからでした。そこで師は3日のモーニングスターでの日曜礼拝において、トッド師に按手して祈りました。その時彼の上にあったのろいが解かれ、フロリダのアウトポアリング時に受けていた癒しと奇跡の霊に立ち返ったような「天が開いた状態になった」とトッド師は語っています。
尚、ジョイナー師は、今回のアウト・ブレークはベントレー師だけによるものではなく、モーニングスターのリーダーチームと学生たちの中からも主に立てられた人たちが出て来ていることを強調しています。これをリバイバルと名づけるのは早すぎるが、何か大変なことが起きる始まりであることをひしひしと感じていると言い、二人とも大変興奮しておりました。

それ以前に、既にご存知の方も多くおられると思いますが、昨年から同じような学生(IHOP大学)中心のアウトブレークがマイク・ビクル師のIHOPでも既に起こっております。ここでは既に毎週水曜日から日曜日の夜まで午後6時から12時までの集会が持たれており、顕著な癒し、救い、開放が起こっております。最近IHOPを訪ねたヘンリー・グルバー師によれば、「すばらしいことが起こっている、会場には多くの日本人・東洋人(多分韓国人)が来ていた」と言っておりました。詳しくはIHOPのインターネットHPをご覧ください。

さて日本では、2010年はどのような年になるのでしょうか。既に日本でもあちらこちらでリバイバルの兆しが起こり始めていることを昨年来聞いて参りましたので、私たちも大いに期待しております。
新年はブレイクスルーの年であると多くの方が言っておりますが、たまたま私個人がジェシカ・ジョーンズ師から受けた預言においても、今年日本に大きなブレイクスルーが起こり、日本を被う頑固なサムライ・スピリットが打ち破られ、そのサムライ軍団の刀は地に落とされること、そのためのブレイクスルーという言葉が何度も何度も強調されておりました。期待します。


一方2010年への政治情勢への不安もこのところ一気につのって来ております。昨年末クリスマスの日にデトロイトで未遂に終わったアルカイダの飛行機爆破事件と、12月30日にアフガニスタンの米軍基地で起きたCIA工作人による自爆テロ事件が世界中を再び2001年の9/11当事のテロへの恐怖に引き戻し、特にアメリカでは緊張した年明けとなりました。
テロとの戦いはこれから益々激しくなると予想されますが、昨年12月初めにキム・クレメント師が今年の中頃に米国大統領暗殺事件が起こると預言しています。(この預言はジャンポール・ジャクソン師も預言しておりました。)これにより大統領自身と共に、アメリカの情勢は一変すると預言されていますが,良い方向に変革されることを切に望んで止みません。ぜひ大統領とその救いのためにお祈りください。(終わり)


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