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Walk With God Ministries


01 10月

危機(クライシス)の目的 グラハム・クック Oct. 1, 2012


危機(クライシス)の目的

グラハム・クック(Reclaiming Your Inner Territoryの講演より抜粋)

 

私たちは危機的状況におかれたとき、神のもとにいくのです。そこから「神とともに歩む」ことを学ぶプロセスが始ります。即ち、「神はどのように考えられるのか、どのように語られるのか、どのように事をなされるのか」を学び始めるのです。イザヤ55:8に「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。」とあります。私たちは神がどのように考え、どのように事をなされるかを知るまでは危機的状況から抜け出ることはできません。

 

神は私たちを余りにも愛しておられるので、私たちを何の成長もなく現状のままにしておくことはされません。それ故に神は私たちに危機を与え、私たちに次の段階の霊的領域を与えられるのです。あなたが信仰の道を歩み続けるためには必ず危機を通らねばなりません。信仰の歩みとは私たちにチャレンジを与え成長させるものです。私たちの信仰は単に私たちの必要を満たすためのものではなく、周りの人を助けることができる信仰を持つようになることを神は望んでおられます。

 

ですから神は私たちをいろいろと異なる方法でチャレンジを与え成長させるのです。第一サムエル記1章で、ハンナは危機的状況にありました。彼女には子供が出来ませんでした。同じ家に住む彼女のライバルは子供を産み、ハンナを苦しめました。ハンナは預言的な祈りを神にささげました。子供を授けてくださったならばその子を主に捧げると約束したのです。そしてやがてハンナは妊りました。

 

危機は私たちの内に霊を確立させます。私たちは危機に立たされた時、主により頼むようになり、その中で神は新たな霊の場所を作られます。それは私たちがそのプロセスの中で主の臨在ともっと親密になることです。主は私たちが弱さの中にある時私たちを呼んでくださります。もしあなたが弱さをおぼえたならば、喜んでください。あなたの仲間が沢山いますから。(笑)神は私たち弱い者を召してくださり、私たちには絶対出来ないことをするようにと言われるのです。理屈に合わないこと、とんでもないこと、神が助けてくださらねば絶対不可能なことをするようにと召されているのです。

 

ですから、神があなたを新しい領域へと召してくださる時には、必ず危機が含まれます。なぜならば危機は私たちに「自分は弱い」ことを明確に教えてくれるからです。あなたは自信がなく、不確かであるべきです。あなたは神からの課題をこなすには不十分であるべきなのです。

 

しかし、そのまま不確かで不十分でとどまっていてはいけません。もしそうならばあなたは何もしないでいるしょう。その場所で「自分は何もできない」とぶつぶついうだけでしょう。しかし聖霊が来られ、あなたを不確か、不安な者(insecure)から、か弱い者、影響を受けやすい者(vulnerable)へと変えてくださるのです。両者はあまり差がないように思うかもしれませんが、実のところこの差はとても大きいのです。

 

「不安  insecurity」の中では、あなたは固まってしまってあなたを成長させる機会となるチャレンジを受けることができません。しかしあなたが「か弱く影響を受けやすい者 vulnerable」になることを学ぶならば、「私にはできません。でもあなたはお出来になります。」と告白することが出来ます。これこそすばらしいスタンスであり、安全なところです。神にむかって完全にか弱い者になり、私に力があるからこの召しを受けたのではないことを感謝できるのです。神は私が弱いからこそ選んでくださったのです。「神よ、あなたが何かをしようとされていることを信じます。」と告白して下さい。

 

私は神がどのように人選をされるのか不思議に思うことがあります。例えば、異邦人に初めて福音を伝えるのを誰にするか、どのように決められたのでしょうか。どうしてペテロが選ばれたのでしょうか? 神が天使たちに「異邦人に福音を伝えるのは誰がいいだろう?」と訊かれたとします。そして「弟子たちを舟に乗せ、イエスに水の上を歩かせて、最初に舟から足を出した者にこの仕事を与えよう」と言われたかもしれないのです。(笑)私には分かりませんが、これがもし本当であったとしても私は驚きませんね。(笑)

 

神は危機を与えられ、そこからプロセスへと私たちを導かれます。危機はあなたが魂(soul)ではやっていけないように圧倒してしまうためのものなのです。それによって魂が自分が握っていた権限をあなたの霊の人(spiritual man)に明け渡します。その時私たちの内に次のことが起ります。

 

私たちの魂(soul)と霊(spirit)が戦いはじめます。私たちの魂も確かに神を愛しているのですが、あくまでの自分のやり方で愛するのであり、魂は常に実権を握っていたいのです。救われる前、あなたはずっと魂で生きていました。私たちはみんな魂的soulishだったのです。あなたは神を求めて霊的なことを探求をし始めました。しかしすべてのことを自分中心で自分の方法でしていたのです。そして聖霊によって新生した時、私たちの中で死んでいた私たちの霊が突然生き始めました。そして私たちの霊と魂は、どちらが主権を握るかを競い始めます。そしてついには外なる魂の人ではなく、内なる霊の人として生きることを学ぶのです。

 

神は私たちを危機に突き落とされます。それはそれによって私たちの魂が霊の人に支配を明け渡すからです。私たちは内なる人に退くことを学びます。イエスは「その人の心の奥底から(innermost being)から生ける水の川が流れ出るようになる」と言われました。神があなたを全く新しい霊的次元、霊的領域に追いやるとき、神はあなたを危機に突き落とすのです。あなたの魂が圧倒されて降参するからです。魂が「私には出来ない」と言う時、内なる霊の人が立ち上がります。そして神が私たちのために物事を開き始めて下さるのです。

 

人生は常に「あなたの人生を支配しているのはあなたの魂か、それともあなたの霊か?」という点にかかっています。私たちは魂からでも何かとても良いように見えるものを生み出すことが出来ます。でもそれには何の力もないことが多いのです。スタミナがありません。魂は直ぐにやめてしまいます。魂は支配したいのですが、責任はとりたくないからです。魂も神を見出すことはできます。しかし霊の人は神と常につながっています。それによってあなたの心の奥底から生ける水の川が流れるのです。あなたの魂が渇いてしまうその時、霊の人はどのように水を飲めばいいのかを知っているのです。

 

もし私たちが魂にだけとどまっているならば、それは「肉(flesh)」を起き上がらせてしまうことになります。肉とは、魂が単独で行動することです。その時私たちは周りのあらゆるものから影響を受けてしまいます。霊の人は外からの影響は何も受けず、神からの影響を内に受けるだけなのです。何かが起こったとき、あなたの前には「反射的に行動するか(react)」、それとも「応答するか(response)」の二つの道があります。人生の中では色々な事が起こりますが、その時、あなたはreactすることもできます。即ち、「悪いことをされたら 仕返しをする、パニックになる、怒る、恐れる、苦々しく思う」というような反応です。それは魂が自分だけで立ち上がり自分で自分を防御しようとするからです。しかしあなたは別の道として「神がその時されていることに対してresponseすること」もできるのです。霊の人はresponse する道しか知らないのです。魂はreactすることしか知りません。その人が人生の出来事にどのように対処するかを見れば、その人がどこにいるのかがよく分かります。

 

「その人を落ち込ませたり、いらいらさせるためにサタンがどれほど努力をせねばならないか」によって人の成熟度を計ることができます。もしあなたが容易にいらいらしたり怒ったりするならば、あなたの中には誰が住んでいるか考えてみてください。あなたは成長する必要があるのです。魂から生きるのをやめねばなりません。魂からではなく霊から生きることを決断する時です。神に応答してあなたが霊に中に退き、あなたを攻撃してくる霊と全く反対の霊にならねばなりません。例えば「怒り」があなたにむかって襲ってきたならば、「平安」があなたから流れ出ます。あなたは敵と反対の霊で動くのです。「何が起こっているか」にとらわれるのではなく、「神は今なにをしておられるのか」にとらえられなけねばなりません。そうしてあなたは神の高きやぐらへと退くのです。そこは安全で平安です。「神というお方」の中へと退いて、そこで待つのです。周りの状況にreactしないで神にresponseするのです。

 

そのようにあなたの霊が神の中に退いて最初にすることは、神を礼拝し始めることです。神に感謝し始めることです。なぜならば今あなたにすばらしい機会が訪れたからです。それが何であるかを悟るためには、あなたはまず平安の中に入らねばなりません。あなたが出かけて行って物事にチャレンジするのではなく、神の臨在の中にとどまり、ただその中にいるのです。いつでも神に届く場所から私たちは戦うのです。神の憐れみ、慈しみ、恵みの中で生き、そこから生ける水の川が流れ出るからです。

 

霊の人は何が起ころうともキリストの内に確立されているのです。危機の中で私たちがどれだけ神の内にとどまることができるかというキャパシティーを、神は見ておられます。危機は「あなたが何者であるか、どのような者であるか、これからのシーズンにどれだけ神のために働くことができるか」を計る大きなテストです。危機によって私たちは神にしか助けられない所へと連れていかれるのです。危機の目的、ポイントはまさにそれです。私たちが弱くなり神に全くより頼むという所へと私たちを再び引き戻してくれるからです。

 

あなたが霊から生きることを学んだならば、危機はやがて減少していきます。あなたが魂から生きて物事を自分でしていた時、あなたは自分ですべてを支配していました。しかし、霊の人はすべてを神にささげ、神に仕えるだけで幸せなのです。魂は「御父よ、今の状況を感謝します。この厳しい状況を克服できるようにあなたが私に力を与えてください。それによって私が何々と何々と何々が出来るようにしてください。」と祈ります。よい祈りのように聞こえますね? しかし霊の人は全く違う祈りをします。「御父よ、今の状況を感謝します。あなたが来てくださらなければ、私はこの中で何の力もありません。どうか私のところに来て私の力となってくださるようにお願いします。それによってこの困難な中であなたが私を通して働かれますように。」と霊の人は祈ります。

 

魂は「自分で働くことができるように力をください」と祈るのです。でもこれは正しい祈りではありません。神があなたを危機に突き落としたのは、あなたに何かをして欲しいからではなく、神があなたのために何かをしたいからなのです。魂は自分が力を受けて自分で何かを成し遂げたいのです。霊の人は「私は何もできません。私の内に来て私の中であなたがされたいことをしてください。」と言うのです。自分で出来るための力を求めるのではないのです。神はずっと長い間あなたを弱くするために労してきたのですよ。だから今さらあなたに力を与えることはなさいませんよ。(笑) 神はあなたのところに来られて、あなたの源となりたいのです。あなたの中で生き働きたいのです。霊の人は神に実権を渡すのですが、魂は神が与えた仕事を自分の支配のもとでしたいのです。ここに大きな違いがありますね。

 

私たちがより良いものへと変えられるために危機を通され変革されるときには痛みを伴います。しかし、何も変らないで成長しない苦しみの方がはるかに大きいのです。(終り)


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