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Walk With God Ministries


14 10月

うなじのこわい民   坂 達也  2010年10月14日


うなじのこわい民 坂 達也  「うなじのこわい民」という言い回しは、出エジプト記32:9の他にもくりかえし出てくる聖書独特の御言葉で、明らかにイスラエルの民を指しています。その意味は「神(キリスト)のくびきに素直に架かることができない」、「頑固に神の言うことを聞かない民」ということなのですが、英語ではstiff-neck(首の硬い)と言います。 律法は人を殺す  さて、2コリント3:6に「神は、わたしたちが新しい契約に仕えることができる者にして下さいました。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。」と書かれています。    旧約聖書では「文字」といえば、石の上に神ご自身が文字で書かれてモーセに渡した「律法」を指します。パウロもここはその意味で書いたのでしょう。つまり「律法は人を殺し、霊は人を生かす」のです。  この文章では「文字に仕える者」と「霊に仕える者」とが対比されておりますが、それで思い浮かぶのは、Ⅰコリント 15:46に書かれている「最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。」という御言葉です。これを当てはめてみれば、最初(旧約の時代)は「石に書かれた律法に仕える者」が、後(新約の時代)の時代には「霊に仕える者」すなわち「同じ律法を、石ではなく心に書かれる(神の)霊に仕える者」ということが出来ると思います。つまり、最初は「目に見える肉の形のもの」、後に来るものは「目に見えない霊のもの」である訳です。  石に書かれた律法といえば、神は二度、二枚の石の裏表両面にご自身の指で文字で書いた律法の書をモーセに渡しております。最初のセット(二枚)は神ご自身が石も造られ、それにご自身で文字を書かれたという大変貴重なものでした。  モーセはそれを抱えて急いで山を降りたのですが、そこではイスラエルの民がアロン以下「金の子牛」を作ってその前でドンチャン騒ぎをしていました。その光景を見て、烈火のごとく怒ったモーセは、その貴重な二枚の石の板を地面に叩きつけて粉々に壊してしまいました。考えてみれば本当にもったいない話です。  ところがその前に、神は、山のふもとで民が子牛を作って祝っていることを知っていて、烈火のごとくモーセに怒ってみせたのです。興味あることにその怒り方の形容(32:9)がモーセの怒り方(32:19)とまったく同じ原語“charah”で形容されております。これから分かることは神とモーセは心が一致していることです。  このへブル語を英語では “wax hot”と訳しておりますが、まさに「烈火のごとく」なのです。突然、金の子牛を作って踊り出した民に対してカンカンに怒った神は「うなじのこわい民」と叫んだのですが、これを見てモーセは神の怒りをなだめようと一生懸命でした。とにかく神はモーセに直ぐ山を降りて民のところに行けと命令しました。  ここで再び石の話にもどりますが、貴重な石の板をモーセが叩き壊したのを見て神が怒るかと思えば、何もとがめず、改めてもう1セット造ってくれたのです。但し二度目は、同じような石を二枚、今度はモーセが作って持って来なさいと言われました。「あなたが壊したのだから今度はあなたが石の板を作って持って来なさい」というのは当然であって、それが罰といえば罰であったかもしれません。  でも私はモーセが石を叩き割ったのを見て、神はにやりとされたと思うのです。なぜなら、モーセは分かっていたのです。石の上に書いた律法は何の役にも立たない、むしろ害になることを。そんなものは叩き割れ!なのです。本来、律法は「心に書きいれるもの」だからです。あるいは、石を心に置き換えれば、律法を心に刻めないような「石のような心」stony heartであるなら(イスラエルの民の心はそうでした。)そんな心は叩き割って取り除けという意味であったかもわかりません。  エゼキエル書36:26に「 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、・・・」とある通りです。   書かれた御言葉は人を殺す  ところで上記の「文字」letterという原語は「律法」lawという意味と「書かれた御言葉」 scripture という意味の両方に取ることができます。新約の時代に生きる私たちにとって「文字」と言えば「律法」よりも、むしろ「書かれた聖書の御言葉」と取った方がより重要な教訓になるように思えます。    それはどういうことかと言いますと、新約の時代に住むクリスチャンは書かれた文字の御言葉を何度も読んで慣れ親しむのはいいのですが、傾向としては、頭で読んで理屈はこねるが、本当に心に刻み込まれていない聖書の読み方をしていないかと言うことです。そのような聖書の読み方は「人を殺す」と言うのです。  とどのつまり、私たちは旧約の時代のイスラエルの民と同じで「うなじのこわい」「キリストのくびきに素直に架かることができない」「頑固に神の言うことを聞かない民」になっていないかと言う問題提起です。いかがでしょうか。残念ですが、それがどういう意味かも分からないクリスチャンもいます。  私がクリスチャンになりたての頃、今から35年以上前のことですが、私が大変尊敬していたクリスチャンの鏡のような人がワシントン州のタコマという処に住んでいました。彼は地元新聞社に勤める傍ら、時間と機会があれば公園であろうが道端であろうが、見知らぬ人に声をかけて優しくキリストを語り、多くの人を導きました。教会には夫婦で熱心に奉仕し、仕事の関係で一時タコマに住んでいた私たちにも大変よくしてくれました。  その後25年程経って、私たちが仕事を止めミニストリーに専念し始めたとき、真っ先に毎月の献金してくれていたのですが、その年の暮れに突然手紙が来て、「実は私たち夫婦は数年前に離婚し、私は、今全く教会にも行っていない。あなた方に献金して来たのは長年の親友であるからで、今は一人住まいで経済的に余裕がなくなったので献金はこれで打ち切るので申し訳ない。」という長い手紙でした。  これは私のクリスチャン生活の中で最もショックを受けた事件でした。あれ程熱心に模範的クリスチャンとして奉仕してきた人が「クリスチャンを辞める」ことは全く考えられなかったのです。その人は大変優しい誠実な人柄なので、私が彼は霊的な人であると思い違いをしていたのでしょうか。長い間、肉でクリスチャン生活を過ごして来たのでしょう。その人は努力してクリスチャンをやり続けたのです。霊は人を生かすが、律法は人を殺す、いや、肉が中心の努力のクリスチャン生活は人を殺すのです。本当に聖霊にゆだね、聖霊に生かされていなかったのです。 私たちは旧約聖書から本当に学んでいるか  1コリント10:11に「これらのことが彼ら(イスラエル人)に起こったのは、戒めのためであり、それが(旧約聖書に)書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」と書かれています。「これらのこと」とは40年かけて荒野を渡った大部分のイスラエルの民は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされた、と言う事実(10:6)です。  律法をイスラエルの民に与えた神は、律法を守ることを口にするときは、必ずと言ってよい程「御声を聞いて従うこと」を真っ先に教えられたことを思い起こして下さい。神がくどいように言われたこの「御声を聞いて従うこと」こそが、「文字は人を殺す」から「霊は生かす」に変える働きをするのです。今でもそうであることに変わりはありません。  一つ質問があります。異邦人クリスチャンは律法を守らなくてよいのでしょうか。多くのクリスチャンはそう思っています。しかし、へブル書8:6-10(口語訳)にはこう書いてあります。  「ところがキリストは、はるかにすぐれた務を得られたのである。それは、さらにまさった約束に基いて立てられた、さらにまさった契約の仲保者となられたことによる。 もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、あとのものが立てられる余地はなかったであろう。 ところが、神は彼らを責めて言われた、/「主は言われる、見よ、/わたしがイスラエルの家およびユダの家と、/新しい契約を結ぶ日が来る。 それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、/エジプトの地から導き出した日に、/彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約にとどまることをしないので、/わたしも彼らをかえりみなかったからであると、/主が言われる。   わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立て/ようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、/彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう。」  キリストが律法の完成者であり、私たちクリスチャンはそれを完全に行う者にならねばならないのです。新約における神の方法は「わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、/彼らの心に書きつけよう。」です。これが「文字は殺す」危険性のある律法的な生き方において「霊が私たちを生かす」唯一の方法なのです。   クリスチャンである私たちは、本当に聖霊に示され、導かれながら聖書を読んでいるでしょうか。特に旧約聖書を含め、聖書全体を「文字」として単に頭だけで読み過ごしているとすれば、イスラエルの民と同じように、この世という荒野でクリスチャンの大部分も、あるいは滅びる可能性があるという戒めです。  私たちも「うなじのこわい民」になってはならないのです。これが終末の教会への重要な警鐘であることを十分に心してください。(終わり)
08 10月

世界的預言ムーブメントのために祈る ジェームス・ゴ-ル 10月8日 


世界的預言ムーブメントのために祈る

ジェームス・ゴ-ル
 



ニ倍のわざを行う

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。(ヨハネ14:12)」とイエスは預言されました。私はこれを「ニ倍のわざを行うこと」と呼んでいますが、私たちは「さらに大きなわざ」を行うようにと召されている時代に今生きていると私は信じます。聖霊の声に耳を傾け、聖霊が私たちに告げる場所に網を投げることによって、私たちは驚くほどの魚を獲ることができるでしょう。

今の世代のクリスチャンは、立ち上がって伝統という制限の箱を打ち破り、次のような性質をあらわします。

*へりくだりを伴った信仰
*チームで働く大切さを知っている(男女をとわずに)
*人間関係を大切にし、傷ついたものを癒していく
*父なる神を強調する(御子イエスの啓示だけではなく)
*油注ぎの多様化、創造的な聖霊の働き(預言者、予見者)が放たれる
*力、明瞭さ、正確さが増し加わる
*目標を明確に見る能力が増し加わる


教会は 訓練の場であり、世界は私たちが実際に活動する場所です。 共に助け合って御霊の声に聞き従うならば、私たちはイエスが地上におられたときになされたわざよりも、さらに大きなわざをすることができるようになるでしょう。そして主のわざが何倍にもなって、さらに多くの領域が主の王国へと変えられていくのです。 御国が天にあるようにこの地にも来るようにしようではありませんか!

預言的(御霊の指示を聞いて行う)伝道

「舟の反対側に網をおろしなさい。」というシンプルな言葉が、即ち預言的な伝道です。それはただ御霊に聞いてそれに従って行動することにより、あなたのまわりの世界に御国を来らすことなのです。

600年以上前に起こった宗教改革の時から伝道が強調されてきましたが、預言的伝道はその流れの中で起こっています。 1904年に ペンテコステのような御霊の傾注が起こって以来、100年以上も預言ということが強調されてきたのです。初期のホーリネス・ムーブメントがペンテコステ・ムーブメントに移行し 、やがてそれがカリスマッテック・ムーブメントへと移行して行き、現在の使徒的ムーブメントの基礎を作ったのでした。

すべてのクリスチャンが祭司である(万人祭司)という考えは、キリストのからだ全体が神とともに未踏の新領域へ探検に乗り出すことを可能にしました。 教会が 花嫁として成熟し 花婿なるイエスとまことの 親密さを持つことと、神の民が持つ統治力(花嫁の統治)をもっとはっきりと理解することが出来たことによって、預言的伝道はますます力を増し加えられました。

私たちは皆、預言的な伝道者であるべきです。それはメガチャーチや大きなスタジアムの大会の中にいる時も、あるいはホームレスの人を裏路地で助けている時でも変りません。コンゴのジャングルで宣教師をしていても、あるいはスターバックスでコロンビアコヒーを飲んでいてもです。 私たちがどこへ行こうとも同じ聖霊が語りかけてくださるのです。聖霊は私たちを他の人々と繋ぎ合わせ調えて、お互いの賜物を合わせ用いる方法を教えてくださいます。それによって私たちを通してしるしと奇跡を行ってくださるのです。その時、神が実際に働いておられるのだということを人々は否定できないでしょう。私たちの力と愛と一致が、失われた世界に主を顕していくのです。

預言的祈りを激しく降らすあらし

預言的伝道と、それが前進する道を切り開くための土台となるものは、預言的とりなしの祈りです。私自身のミニストリーでしたもう一つのことは、「祈りのあらし」と私たちが呼ぶものです。

今から2世紀前、ドイツのへランフットにあったモラビアンというグループは24/7の祈りをしていました。そのモデルを私たちは現代化し、インターネットを使って世界的なとりなし手のグループを作りました。彼らとりなし手は、教会、若者の覚醒、イスラエル、そして危機への神の介入を、一週間に一時間祈ることをコミット(確約)するのです。今世界中で起こっている緊急事態に対して 聖霊は素早く詳細に教えてくださるので、私たちのヴァーチャルな(インターネットと言う虚像的連絡網によってつながる)祈りの家は力づけられ今も天を激しく襲っています。

常になされる情報の更新や、報告、ウェブキャスト等の方法によって、祈りの戦士たちは今までなされたことのない新たな試みのパイオニアになっています。それは世界を預言的とりなしで四六時中覆うことであり、一つの場所に限定されない祈りの家です。私たちは モラビアンの光を再び回復してこの世に放っているのです。それは「火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせねばならない。消してはならない。(レビ記6:13)」という神の律法の言葉を土台としています。あなたも祈りのあらし−世界を変える時—に参加することができます。 私たちは共に過去の偉大なリバイバルの時のように世界に福音が広まるのを見ることができるのです。

私たちがとりなしをするときは(祈りのあらしのときだけではなく、常に)聖霊に聞かねばなりません。聖霊の絶え間ない導きなしには、私たちはすぐにつまずいてしまいます。聖霊に助けられ協調して、私たちは はっきりとした結果を見るまで祈り続ける 忍耐力とエネルギーと正確さを持つことができるのです。

世界的な預言のムーブメントにもっとインパクトを与えるように祈ろうではありませんか。 次の預言の波が放たれて様々な成果をもたらすように願おうではありませんか。預言的な伝道と預言的とりなしを願い求めることによって、主イエスがご自分の受難の報酬を受け取られるのを見ようではありませんか。 さあ、アドベンチャー(冒険)を始めましょう!(終わり)

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