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Walk With God Ministries


09 12月

ヘンリー・グルーバー師の天国の話  坂 柚実子   12月9日


ヘンリー・グルーバー師の天国の話

以下はヘンリー・グルーバー師が天国へ行ったときの証です。

「1988年に、オレゴン州ポートランドで、私は私のためにとりなしをしてくださる人たちと共に祈り会をしていました。それは私がヨーロッパでの祈りの歩行の旅を終えたときで、その報告と感謝をするために皆さんに集まっていただいたのでした。妻のジュディスが、賛美を導いていました。彼女は、私の留守中に主から与えられた賛美の歌を歌っていたのですが、その時、私は天井から黄金の雲が降りてくるのを見ました。それが主の臨在であることがすぐにわかりました。

私は主を畏れて床にひれ伏そうとしました。 私の膝が床に着いたと思った瞬間、私は自分が黄金の道の上に立っているのを発見しました。黄金の道は透き通っていて、ほんのうっすらと赤みをおびていました。黙示録21:21に「都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。」とあります。自分の足が透明な道の中に沈むのではないかと、思わず一歩足を後ろに引っ込めました。でももう一方の足が沈まないのを見て大丈夫なことがわかり、私はその道を歩きはじめました。

すると、右側からよい香りがするので、見るときれいな花が咲いていました。私は口には出さずただ心の中で、「なんてきれいな花なんだろう。」と思ったとき、花たちは一斉に葉っぱを合わせて手をたたき、「すべての栄光、誉、力が主にあるように。贖われたものに仕えるためにふさわしいものとして私たちを創ってくださったことを主に感謝します。」と歌いはじめたのです。その歌声は目に見える虹色の波となり、山の向うにある主の御座の方へと流れていきました。 向う側に主の御座があることが私には分かりました。その歌にはビートはありませんでしたが、それは天国には時がないからでした。

私がうっとりと聞きほれていますと、同じような歌声が私の前方からも起こりましたのでそちらを見ますと、前を歩いていた白い衣を着た男の人が、黄金の道からそれて、草の上を歩いていきます。一本一本の草の葉は彼の足に踏まれて、また起き上がってくるときにこの歌を歌っていたのです。私はそれまで、彼はもしかしてイエス様かと思っていたのですが、草が「贖われたものに仕えるにふさわしく創られたことを感謝します。」と歌うので、彼が「贖われたもの」、すなわち、クリスチャンであることがわかりました。男の人が歩を進めるたびに歌声はどんどん増えていき、あたり一面に主への賛美の歌が広がり、それは虹色の光の波となって山の向うの御座の方へと流れていきました。

男の人は一本の木に近づきました。その木にはいろんな果物がなっていましたが、彼は一つの果物の下にそっと手をさしのべました。すると木はその手の中にポトリと果物を落として、「すべての栄光、誉、力は主にあるように。贖われたものに仕えるのにふさわしく私たちを創ってくださったことを感謝します。」と葉と葉を合わせて打ち鳴らしながら歌いはじめました。彼はまた黄金の道に戻ってきました。果物を半分食べて、それを捨てました。私ははっとしましたが、食べかけの果物は地面に落ちるや否や蒸発してしまいました。天国には腐敗も死もないからでした。

私はその人に近づいていきました。私の目は彼の衣に吸い寄せられました。その衣は見たことがないほど白く輝き、まるで生きているようでした。そして織られている糸が私に語りかけてくるのです。私が彼の衣の右肩のあたりに注意をむけると、そこにはその人が地上で生活をしていたときに、ある悲しそうな顔をしている人とすれ違い、その人にむかってにっこり微笑んだ、ということが記録されていました。これは後になって黙示録19:8に「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」とあるのを読んで理解ができました。彼の衣には彼が地上で行った正しい行いが織り込まれていたのです。

次に気がついたとき、私はもとの祈り会の部屋にいました。
天国は主への賛美で満ち溢れ、愛で満ちあふれていました。天国を一言で表すと、すべてのものは仕えることを愛し、愛するゆえに仕えていたということです。(love to serve and serve to love) それ以外の動機でなすことは、天国ではまった価値がないことを私は感じました。この経験を通して、私のミニストリーの仕方が変えられました。何が主に喜ばれることであるか、何が永遠の世界で価値があるのかが、分かったからです。」終わり


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06 12月

恵みを受けた者の軍隊 ダニー・ステイン 2007年12月6日


恵みを受けた者の軍隊

ダニー・ステイン


「ダニーさん、『堕落した者の回復』に関する主からのメッセージを心から感謝いたします。私はそれを読んで本当に祝福され、あなたが私のために扉を開いてくれたことを大変うれしく存じます。」――という言葉がいろんな人から私に届きました。
しかし、それはまだ自分の罪を悔い改めないまま、罪に捕えらえられていた人々からだったのです。私はすぐに彼らに「あのメッセージはあなたのためではありませんでした。」と返事をしました。なぜならば、神が罪人を回復するためには、その人が悔い改めをすることが必要だからです。

愛は赦す

何年も前に、私はある貴重な学びをしました。私は「愛は多くの罪をおおう」(第一ペテロ4:8)という聖句を信じ、また実践していました。私の周りには罪を犯し続ける人たちがいましたので、私は「彼らの罪をおおう」必要を感じました。なぜならば「愛はおおう」と私は信じていたからです! 
しかし、私は、愛がおおうのは「告白した罪」だけだということを学んだのです。 神は人を罪から回復させるために、まだ告白されていない罪は、明らかにされたいのです。

私が人々の罪を明らかにせず「おおって」いたことは、彼らに罪を犯し続けさせるという結果を招いていたのです。イエスは姦淫の場で捕えられた女に「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)と言われました。人々に罪を犯すのをやめなさいというのは、律法的なことではないのです!

もし、人々に真実を語ることを怠るならば、私たちは彼らに道を誤らせてしまいます。十字架のイエスの贖いの力は、人々が自分の罪を認めて赦しを受け取るときにのみ発揮されます。もし、不従順のうちを故意に歩み続けるならば、私たちは主に赦されて歩んでいるという確信を持つことはできません。「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためにいけにえは、もはや残されていません。」(ヘブル10:26)

回復は悔い改めを土台としています。そして悔い改めには実があるのです。パリサイ人は自分たちの教義や考えに合うように、真理をたくみに曲げる方法を知っていました。自分たちはいつも正しいと自認していたパリサイ人に対して、バプテスマのヨハネは次のような言葉を投げかけました。彼の言葉は剣のように鋭いものでした。「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(マタイ3:8) 恵みがあるから聖い生活をしなくてよい、ということはありません。恵みとは、私たちが自分の正しくない行いを告白したときに、キリストが愛の赦しでそれをおおってくださることなのです。

しかし、それと同時に、悔い改めはクリスチャンが互いを責めることによって起こるのでもありません。正義と報復を振りかざすことによって起こるのでもありません。それは裁きを通して起こるものではないのです! 人々を悔い改めに導くのは裁きではなく神の慈愛です

「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」
(ローマ2:4)

私たちが聖霊を消したり悲しませたりできるのと同じように、神が神の子どもたちを取り扱われるときに、私たちはそれを見てそのなさり方を馬鹿にしてしまうことがあるのです。神は慈愛と忍耐と寛容をもって人々に豊かな恵みを注いでくださるのですが、もし私たちがその場に介入して過酷な主人のように振る舞い、神の恵みの域を超えた裁きを下すならば、私たちは天の父とは全く異なる心を持っていることを暴露することになります。

私は「罪を犯し続けている人」でも回復されると信じているわけでは決してありません。
「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対そんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」(ローマ6:1-2)
「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。」(第一ヨハネ3:9)

しかし、人にたとえ罪があっても、私たちは神の子として、その人を赦し、彼らが召された務めへと解放せねばなりません。恵みが人の人生を変えます。そして、人々は変わることができるのです。すべてのことは新しくなります! もし私たちがこのことを信じないならば、福音の力を本当には信じてはいず、私たちを贖ってくださった方を本当には理解しないまま、ただ頭に叩き込んだ教義によって生きているだけと言えましょう。

私もこれまで周りからさまざまな攻撃を受けてきた者の一人です。それは私自身に対するものや、あるいは、妻や娘、息子という家族に対するものでした。けれどもつまるところ、イエスの贖いのいけにえは、私を傷つけた人々を主が赦されるに十分であるばかりか、私が彼らを赦すためにも十分であると、主は信じておられるのです。

恵みを受けた者の軍隊

聖書に書かれているのは、神が不完全な人々を恵みによって変えられ、用いられていくという話です! 人々が悔い改めたならば、私たちは彼らを神が与えた当初の召しへと呼び戻さねばなりません。そして、彼らが実を結ぶことによって、恵みによって彼らがどのように変えられたかが証されます。

「人を罰し恥を与えること」と、「懲らしめ矯正すること」とは全く別なことです。一方は死をもたらす律法の文字によって執行されますが、もう一方はいのちを与える聖霊によって執行されます。イエスは、姦淫の場で捕えられた女に対して「律法が要求すること」を「恵み」によって圧倒できることを示し、この真理をよくあらわされました。
「イエスは身を起して、その女に言われた。『婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。』 彼女は言った。『だれもいません。』そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』」(ヨハネ8:10-11)

畑は色づいています。2日ほど前に主が私に、もっと働き人が必要だと言われました。主との会話を通して私は、主がもうじき大変重要な預言的な召集を主の軍隊からの脱走兵にむかってかけようとしておられるのを知りました。退場させられて洞
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