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Walk With God Ministries


02 03月

心の聖い者  キャシー・ペルトン    3月2日


心のきよい者
キャシー・ペルトン


「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。マタイ5:8」

過去数ヶ月、この聖句が私の心に何度も響いてきました。私は主に「心のきよい者とはどのような人のことですか?」 と尋ねはじめました。

しかし、本当はそのような質問をするのではなく、素直に「主よ、きよい心をどうか与えてください。」と主にお願いするべきだったのです。しかし、神は常に誠実であられ、私たちが自分の思いを口にする前にすでにご存知な方です。 主は私がきよい心を持ちたいと願っていることをわかってくださり、すぐに私の心を取り扱い始めてくださいました。ほとんどの人がそうだと思いますが、私も毎日の生活の中にストレス、問題、苦難を歓迎したいとは思いません。しかしながら、それが私の心をきよめるための熱い精錬の火として、まさにその時必要なものであったということが、後になってわかるのです。私たちが大きな艱難を通るときには、自分が内に持っている最高のものと最悪のもの両方が、たちまち表に現れてくるようです。

人生のプレッシャーがきよさを生じる

私は最近、様々なところを通らされてきましたので、それをお話したいと思います。それらの体験は私の心に侵入してきて、私の神を見る視野を塞いでしまったのです。

過去6ヶ月のうちに、私の身辺で多くの変化とチャレンジがありました。まず私たち家族は主の導きに従って、カナダでのミニストリーを後にしてカリフォルニアに戻りました。主からそのように示されたのですが、その理由ははっきりとは告げられませんでした。カナダからアメリカに国を超えて引っ越し、主人はミニストリーではない普通の仕事につきました。私は二人の子供をホーム・スクールで教えながら、ミニストリーで海外にも出かけていました。そういう時にいろいろな事件が起こり始めたのです。私は肺の病気になり、2ヶ月間はかなり重い症状でした。(今もまだ治療中です。)次に、私たちのとても親しい友人が自殺をしました。そして3週間前には私たちの家が家事で燃えてしまいました。確かに試練の火は非常に熱く、きよめがすばやく起こったといえるでしょう。

心の中の不純なものというのは、道徳的な罪だけではありません。人生上のストレスや困難は、往々にして私たちの心の中に不信仰、落胆、失望という思いを起こさせます。このような思いは神をはっきりと見るための私たちの視野を塞いでしまうので、それを神は非常に案じておられます。これらの否定的な思いは、道徳的な罪(根本的な心の問題を解決しないときに起こることが多い)と同じように私たちの心の目を塞いでしまうのです。

私の場合、カナダのミニストリーを引き上げたことは、私が持っていた自分のアイデンティティーの問題を浮き彫りにしました。私はキリストにしっかりと根ざしたものではなく、個人的にどれだけ事を成し遂げたかとか、自分の仕事を人がどのくらい評価してくれるか、というところに自分のアイデンティティーを見出していたのでした。また、ホーム・スクールは私の完全主義を露呈し、私は自分や周りの者をコントロールしようとしてしまいました。親しい友人の自殺は、私の心の中に残っていた失望感、罪悪感、絶望感を新たに浮かび上がらせました。そして家の火事は、キリストの身体なる教会に対して私の心にしのびこんでいた批判の思い、裁く心を表面化させたのです。

霊的な目をくらませる根

皆さんは、火事がどうして教会に対する批判(裁き)の心を呼び起こすのかといぶかしく思われるかもしれません。恐れとかパニックなら分かるけれど、どうして批判を呼び起こすのか、と。その理由はこうなのです。

ミニストリーに携わっていた数年の間に、ある人たちが非常な困難の中で緊急に助けを必要としているにもかかわらず放っておかれているのを見てきました。そして深い悲しみを覚えていました。困窮生活を送っているシングル・マザーを助けようとはしないで、巡回してきた預言者に何千ドルも教会は献金しているのでした。勿論ミニストリーに献金するのは悪いことではありません。ただ私は、やっとの思いで毎日の生活を送っている主に忠実な人々(往々にして彼らがもっとも献金をしているのですが)がひっそりと孤独を感じているのを見て、悲しみを覚えていたのです。

私が教会に対して幻滅を感じていたもう一つのことがあります。4年間私は祈りの家のディレクターをしていましたが、そこには多くの「祈りのミッショナリー」が訪れてきました。彼らは自分のものを全部ささげて国々のためや失われた人々のために祈っていました。しかし、彼らは十分な献金のサポートを受けることが出来ずに非常に貧しい生活をしていたのです。彼らの母教会は、「残念ながら経済的サポートはできませんが、あなたのために祈っていますからね。」ということが多いのです。

これらのことに対して腹を立てるのは、決して正しいことではありませんが、私の心の中に教会に対する裁きの根が張り始めたのが分かりました。私は教会を裁きの思いを通して見るようになりました。意識的に「裁く」とある時点で決意したというわけではないのですが、裁きの思いが徐々に静かに私の心にしのびこんできて、気がついた時にはしっかりと根を下ろしていたのです。けれども、我が家が火事になったときの教会のすばやい愛の対応により、裁きの思いは私から振り落とされてしまいました。私の心がきよめられるために火事が必要だったのです。

カリフォルニアに引っ越したときも、私はあちこちとミニストリーで旅行をしていたので、大変忙しく、主人も私も借りた家に対して「賃貸人保険」に入ることを不注意にも怠っていました。ですから火事になったときにすべての持ち物に保険はかかっていませんでした。火事から一時間くらいたったとき、私は自分の車の中に座り、ただ涙を流し、神に助けを呼び求めました。

神は助けてくださいました! どのようにしてでしょうか。それは主の麗しい「身体」を通してでした。いろんな教会、町、そして外国からも、火事のことを聞いた人たちが助けてくれたのです。まず数時間のうちに人々は私たちがとりあえず必要なものを持ってきてくれました。毛布、食べ物、水等です。特に長女は火事で持ち物すべてを失ったのですが、人々は彼女を買い物に連れて行ってくれて、新しい洋服を買ってくれました。

しかし、「キリストの身体」に連なる人たちの親切はそれだけではありませんでした。火事のあとの家
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