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Walk With God Ministries


14 11月

クワイヤー誕生    坂 柚実子  11月14日



クワイヤー誕生

数ヶ月前、私たちの教会に一人の新しい人がきました。
小さな集まりでお互いに自己紹介をしました。

主人 「たつやとゆみこです。2年前にオレゴンから来ました。」
ティム「ティムです。 ワシントン州から来ました。ところで、たつやさん、オレゴンのどこですか?」
主人 「レイク・オスエゴです。マウンテン・パークという教会に行っていました。」
ティム「えっ、私はその教会で歌を歌ったことがありますよ。」
主人 「へーっ、そうですか。」

集会のあとでまた話しました。
主人 「ところで、ティムさんの苗字はなんですか?」
ティム「ショルツです。」
主人 「そうですか、私たちはルー・ショルツという方を知っていましたが…」
ティム「えっ、それは私の母です!母をオレゴンに訪ねて行ったときにその教会で歌ったのです。」

主人と私は本当に驚きました。私たちとルーさんは以前同じ教会のメンバーで、しかも、同じ小グループに属していました。その上ルーさんと私はクワイヤーでいつもとなり同士に座って仲良くしてもらっていました。その息子さんとハワイのこの教会で出会ったのです。本当に神様のご計画は不思議です。ルーさんは少し前に病気でお亡くなりになったそうですが、天国できっと喜んでいてくださると思います。

ティムさんは音楽の先生で、学校で教えたり教会のクワイヤーを指導したりしている方です。彼はハワイに来て一年になりますが、今まで教会をあちこち探した挙句に、私たちの教会に決めたのだそうです。今まではいつもクワイヤーのある教会を探していたのですが、今回は何故か神様が小さな私たちの教会に彼を導かれたのでした。

私たちの教会にはクワイヤーはありませんでした。でも、オダ牧師は、ブルックリン・タバナクルをこの春訪れて、クワイヤーのすばらしさを体験していましたし、みんなの気運も高まって、この秋からティムにクワイヤーを始めてもらうことになったのです。日本からもどって私もすぐに参加しました。

クワイヤーのある教会には、たくさんの楽譜がすでに整っているわけですが、うちには何もありません。ゼロからの出発です。伴奏者もおりません。楽譜の読めない人がたくさんいます。ティムさんは「白い音符は黒いのより長くのばしてくださーい。」とか言いながらやさしく指導してくださいます。私は一応そのくらいはわかるので、みんなから「ゆみこは、すごい!」などと言われるのです。

今はクリスマスにむけての練習です。「久しく待ちにし、主よとくきたりて」 を男性が歌いはじめ、女性が「生けるものすべて、かしこみて拝め」(勿論英語ですが)と途中から入っていきますと、まるで一つの歌のように上手くとけあいます。「なんて素敵なんでしょう。」と私の心は喜びで一杯になりました。私たちの礼拝はいつもはプレイズ&ワーシップの曲で賛美しますが、こんな讃美歌のコーラスも素敵ですよね。

久しぶりに、プロの音楽の先生に指導してもらう幸せをかみしめました。ティムさんを私たちに送ってくださった神様に感謝します!(終わり)


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09 11月

師のようになるための代価  フランシス・フランジパン 11月9日


師のようになるための代価
フランシス・フランジペン

霊的訓練

「クリスチャンは訓練された者とされていない者との2種類に分けられる。」とは、私が最近出会ったある牧師の言葉ですが、この意見に私は全く賛成します。残念ながら多くのクリスチャンは、救われたらそれが到達点で、それでよしと考えてしまっています。確かに救いは一つのゴールではあります。しかしそれは同時に、救われた者がキリストに似る者となるために歩み始める出発点でもあるのです。救われて生まれ変わることは、暗やみから光に入ることであり、そこからあらゆる忍耐、信仰、霊的訓練を用いて真の目標に近づくために歩みを始めることなのです。

主イエスは私達をただ助け出すだけではなく、訓練したいと思っておられることを先ずはっきりと認識してください。そして霊的訓練を受けるためには代価を払う必要があります。霊的成長をするためには、そのために時間を使わねばなりませんし、神に従っていく栄光ある道を会得するためには、いつも従順に主に従うという決意がなければなりません。そうすれば私たちにトランスフォーメーションがおこります。主イエスも次のように言われています。

ルカ6:40 「弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。」
私の人生の最大の願いは、「完全に訓練されること」です。すべての面において私の師、主イエスキリスト、のようになることを私は熱望しています。

訓練の方法

霊的訓練を受ける方法にはいろいろあります。しかしどの方法を選ぶにせよ、霊的成長を遂げるための根本的な条件は、トランスフォームされたいと真剣に求めるあなたの心です。例えば今この瞬間でもあなたは聖書を手にとって聖霊に教えてくださいと請うて、あなたの霊的訓練を進めることができるのです。イエスが次のように言われたのを思い出してください。

ヨハネ14:26 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

聖霊は私たちを導き、慰め、力を与えてくださいます。聖霊は私たちに「すべてのことを教え」てくださる生涯の友であられます。聖霊をあなた個人のトレイナーとしてお迎えしてください。聖書を開き、聖霊が洞察力や啓示を与えてくださるように、また、様々な力を与えあなたをトランスフォームしてくださるようにとお願いしてください。そして何かの真理や奥義が示されたらそれをすぐに書きとめてください。ベッドのそばにもノートとペンをいつも用意しておいて、寝ているときに主が与えてくださる重要な夢や考えを記録してください。(詩篇127:2)

このように私たちは主に救いだけではなく、霊的な訓練や見分け、洞察力をくださるようにとお願いするべきなのです。霊的訓練を受けていないクリスチャンは、自分の周りで何かが起こったとき、それを霊的洞察力で見分けたり理解したりできません。しかし霊的訓練を受けているクリスチャンは同じ状況の中でも、聖霊によって導かれ、物事を霊的に識別して対処することができ、すべての場面で効果的に働くことができます。


聖書には次のように書かれています。

ヘブル5:12-14 「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。」
5:13 まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
5:14 しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。

14節「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」という言葉に耳を傾けてください。「おとな」「経験」「見分ける感覚を訓練された」という鍵となる言葉があるのがわかります。

未熟で乳飲み子のようなクリスチャンは、効果的に機能することができません。しかし経験をつんでおとなになったものは、「キリストのみこころ」を持ち、すべてのことをわきまえることができるのです。(Iコリント2:15、16) 訓練によって彼らは人生のあらゆる場面で勇敢にうまく機能して働くことができるようになっているのです。


よいミニストリーから訓練を受ける

このように私たちはみんな聖霊から個人的に訓練を受けますが、主はまた他のミニストリーを用いて私たちを訓練され教育されることもあります。神はクリスチャンが孤立するのではなく相互扶助の関係をもつようにと計画されました。私自身も、主から直接教えられるのではなく、他のクリスチャンから教えてもらうように主が計画されることがあることを経験してきました。

コルネリオが神を求めていたとき、み使いはペテロを招いてキリストに関する真理を聞きなさいと指示しましたが、これは非常に重要なことです。どうしてみ使いは自分で直接コルネリオに話さなかったのでしょうか? それは、コルネリオにとって他の人から神のことを聞くことが重要であり必要だったからなのです。私たちはへりくだって神に立てられたリーダーを敬い教えを受ける必要があるのです。

しかし、主は私たちが盲目的に人に従うことを望んでおられるのではありません。まずそのリーダーの心の中にキリスト御自身がおられるかどうかを見極めなければなりません。あなたの牧師の心の中に大牧者キリストの愛が顕われているかどうか見てください。説教者の声の中に大預言者キリストの義の導きがあるかどうか聞いてください。そのリーダーが伝道者、牧師、預言者、教師、あるいは使徒のいずれであったとしても、その人の中にキリストというお方をあなたは見なければなりません。そのときは、あなたは信仰をもってそのミニストリーのプログラムに参加して訓練を受けてください。

あなたはつねに主にのみ目を留めるのですが、主の次の忠告も忘れないでください。
マタイ10:41 「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」

「預言者を受け入れたり」「義人を受け入れたり」する者 も彼らの「報い」 を受けると書かれています。ある人を「預言者(あるいは義人)だというので」受け入れるという意味は、その人の持つ霊的権威と彼が神から霊的召命を受けていることを認めることです。つまり、その人はあなたに必要な霊的資質をもっていることを認めることであり、その人からあなたは霊的分与を受けて成長したいという願いを表明することでもあります。(霊の分与impartationは、新約の聖書的慣わしであり、聖霊を通して行われます。マタイの10章に説明されています。ローマ1:11、Iテサロニケ2:8も参照してください。)

リーダーたちは決してキリストの代わりにはなれない

勿論、あなたを訓練するために神が一時的に用いられるリーダーは、決してキリストの代わりにはなりません。ある訓練のために主があなたのためにその人を用いられたにすぎません。ですからあなたが尊敬し教えを受けたいと思う人と出会ったら、主に従うようにその人に従ってください。そしてキリストを見つめ続け、主があなたをそのリーダーを通して訓練してくださるようにと祈ってください。聖書には次のように書かれています。

エペソ4:11-12 「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」あなたの目標は人間のあとについていくことではなく、「奉仕の働き」のために訓練され整えられることであることを忘れないでください。

弟子の訓練


マタイの10章にもどりますが、イエスは預言者や義人にむかって次のように言われています。「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなた方に告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(42節)

リーダーたちには、毎日多くの責任と仕事が課せられます。 しかしイエスは彼らにむかって「群集の中から真の弟子を見分けよ。」と言っておられるのです。すなわち、まだ霊的に子供(小さな者)であっても、彼らがあなたのところに「一人の弟子として(学びたいといって)」来るならば、彼らのために時間を使いなさい。それによって彼らの渇きをほんの一時でもいやすことができるなら(水一杯でも飲ませるなら)あなたは決して報いに漏れることがないよ、と主は言われているのです。

今は、一つの家に何冊も聖書はあるけれどそれを学ぶ時間は人々には一分もないような時代です。しかし主は、私たちが霊的訓練を受けることを真剣に求めるようにと願っておられます。私たちの年齢や経歴はみんな違いますが、すべての者に次のような主の約束があるのですから。
「しかし、十分訓練を受けたものはみな、自分の師ぐらいにはなるのです。」 (終わり)


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01 11月

後悔からの開放    チュック・ピアース   11月1日


後悔からの解放
チャック・ピアス


私の妻であるパムが最近グローリー・オブ・ザイオンで「後悔」に関する素晴らしいメッセージをしてくれました。パムは後悔を次のように定義しました。「起こったことに関する悲しみや自責の念。何かをしてしまったとか、しなかったとか、なくなった物とかいなくなった人に関する悲しみ。」 このような悲しみは、もし正しく取り扱われないと心の傷となって残ります。 後悔には2種類あります。一つはあなたがしてしまったことに対する後悔であり、もう一つは誰か他の人があなたにしたことに関する後悔です。パムは後悔のいくつかのレベルを説明してくれました。

1.クリスマスとかのお祝いで食べすぎて太ってしまったとか、洋服を買ったらそのすぐ後でそれがセールで安くなっていたとかいうもの。 あなたの人生に深い影響のない一時的表面的な後悔。

2.自分の健康に十分気をつけなかったとか、退職後の生活に関して賢明な計画を立てなかったというような後悔。

3.誘惑に負けてしまってよくない選択をしてしまったというようなことで、あなたの現在と将来の人生にそれが悪い影響を与えてしまったという深い後悔。

4.神に自分の人生をお捧げするのが遅すぎた、とか、なくなった親戚や友人に福音を伝えなかった、という後悔。

5.あなたの神との歩みや人々との関係に影響を与えるような霊的後悔。

どのように重大なものであれ、また小さいものであれ、すべての後悔に関して一つのことが言えます。 敵はそれを使って私たちを必ず攻めてくることです。パムは後悔に打ち勝つ方法を語ってくれました。

1.後悔は罪の当然の結果であることを認めること。何かをしてしまったときも、するべきをことをしなかったときも。

2.敵が後悔の念をつかってあなたをなじるとき、すぐに敵に「その通りです」といいなさい。あなたが後悔の念の中ですごしているなら、あなたの良心が聖霊に敏感に生きているということです。

3.後悔を悔い改めへと転換しなさい。自分の罪を認め父なる神の赦しを受け取りなさい。ヤコブ5:16を読みなさい。「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。」 私たちが後悔する事柄は、往々にして根底にある罪を暴露します。

4.ロマ書8:28を思いなさい。「神を愛する人々、すなわち、神の御計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを(後悔さえも)働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

5.堅く立ちなさい。信仰によって敵にむかって「私のすべての過去はイエス・キリストの血潮によって覆われている。私のしたこと、また出来なかったことのすべては神によって贖われている。」と宣言しなさい。

とどのつまり、最後に問題となりえる後悔はただ一つだけです。それは、あなたが敵の偽りを信じてしまい、信仰による歩みをやめてしまうことです。なぜならば、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づくものは、神がおられることと、神を(熱心に)求める者には、報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。 (ヘブル11:6)」とあるからです。

今は「長引いた期待」を打ち破るときです。箴言13:12には「期待が長引くと心は病む。」と書かれています。何かを損失したことによって打ち負かされてはいけません。 確かに損失はあなたを揺さぶります。しかし、損失が喜び、変革、復活の力をもたらす可能性があることを忘れてはいけません。私たちには敵を縛り上げる力が与えられています。私たちを告発する者を縛るのです。告発者はあなたがしてしまったすべての失敗に対してあざけることでしょう。 しかし、あなたは自己憐憫、疑い、不信を打ち破らねばなりません!

トラウマや失敗から抜け出す

トラウマは記憶の中に刷り込まれています。また、脳の組織(プロセッサー)の奥深くに吸収されてあなたの思い(こころ)に影響をあたえます。トラウマはあなたがまわりの世界を見るためのスポットライトとなり、あなたが何をどう見るかに影響を及ぼします。 トラウマは正しく処理されないと、その事件を原点にした物の見方であなたの世界を形成してしまいます。トラウマによって、恐怖心、失敗を恐れる心、心配、不安にさいなまれるようになり、身体の器官(脾臓、腎臓、すい臓)に負担がかかります。

トラウマを捨て去りなさい! トラウマが敵によって使われると、どうせ失敗するだろうとか、混乱して物事をはっきりと把握できないとか、鈍感、無感覚、絶望、無関心、無感動というような状態に私たちを追いやってしまうからです。(終わり)



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