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Walk With God Ministries


01 01月

世界のニュース ヒーリング・ルーム・ミニストリー 2006年1月1日


ヒーリング・ルームが世界中に広がっている

祈りにより癒しとか、手を置いて祈ることを認めるかどうかについては、ある教会の中ではまだ意見が分かれているようですが、世界中でヒーリング・ルーム(癒しの家)が急増していることは否定できない事実です。

現存しているもので、一番よく知られているのは、アメリカのワシントン州・スポケーンにあるヒーリング・ルームです。これはもともとカナダの伝道者であるジョン・G・レイクが80年以上前に創設したものですが、1999年に、カリフォルニアで不動産開発の仕事をし、又、教会の長老でもあるカル・ピアスという人によって再開されました。

スポケーン・ヒーリング・ルームは週4日オープンしていますが、誰でも予約なしで行って、無料で癒しの祈りをしてもらうことが出来ます。スポケーンのヒーリング・ルームが始まってから多くの癒しが起こりました。その癒しの証言を聞いた多くのミニストリーの団体が、自分たちの街や地域でもヒーリング・ルームを開設し始めました。このムーブメントはカナダやアメリカにすばやく広がり、今は世界中へと広がっています。

カナダ全体のヒーリング・ルームのディレクターであるスティーブ・スチュワートさんは次のように語っています。「癒しに関して懐疑的な人に対して、私は神様が癒されるのをこの目で見てきたので、そのような疑いはずっと前にとりさられてしまいましたと、いつも話します。 私は北アメリカ、オーストラリア、インド、ロシア、韓国であまりにも沢山の奇跡を見てきたので、神様の癒しの力を疑うことなんてもう出来ないのです。

私は、これは信仰による癒し(faith healing)ではなく、神による癒し(Divine healing)です、と皆さんに申し上げています。つまり、私たちが癒しを求めるとき、主の力と主の御臨在が主ご自身の命と共に私たちを訪れてくださるのです。
それでは、私たちの信仰は癒しに関係がないのでしょうか。勿論、あります。イエス様も人々を癒されるとき、人々の信仰を求められました。それは、その人自身の信仰であったり、中風の男を連れてきて屋根からつりおろした友人たちのように周りの人の信仰であったり、又、時にはイエス様ご自身の信仰であったりしたのです。」

カナダのディレクターという立場上、スチュワートは多くのヒーリングの集会に出席しますが、韓国での癒しについて、次にように話しています。「聾唖者の耳が聞こえるようになったり、長年苦しんできた痛みから解放されたりしています。ある男の人は明暗が少し判別できるくらいの視力しかなかったのですが、聖書がはっきり読めるようになって帰っていきました。ある車椅子に乗った人の両腕にはいつも痛みがあったのですが、それがすべて消えました。そればかりでなく、彼は車椅子から立ち上がり、今まで長い期間5歩以上は歩けなかったのに、その建物の幅を歩いて往復することができたのです。

癌の腫瘍が、癒しのチームが見ている目の前で小さくなっていきました。又、別の癌患者は祈ってもらった翌朝、腫れがすっかりなくなり、痛みも全くなくなったといい、自分は完全に癒されたと信じるといいましたので、私たちは医者に見せて確認することを勧めました。
背中や膝の痛み、神経痛、足の痛みや腫れ等が、あまりにも沢山即座に癒されるので、私たちは追いつかないほどでした。 ある症状の人たちを呼び、彼らのために祈ると、癒される人が続出して、彼らの証がどんどんと語られるのです。」とスチュワートさんは言っています。

新しいヒーリング・ルームの場所としては、カナダのカルガリー、ニュージーランド、ザンビア、ケンヤ、ジャマイカなどがあります。世界中のヒーリング・ルームのリストは、国際ヒーリングルーム協会のサイト www.healingrooms.com で見ることができます。   (終わり)


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01 01月

クリスマスの信仰  坂 達也  12月31日



クリスマスの信仰
 
 主のご誕生をお祝いするクリスマスがやって来ますと、ルカの福音書1-2章に親しむ機会が与えられます。この二つの章は何度読み返しても、その都度新しい真理と恵みが与えられ、そのことを主に心から感謝申し上げます。
 今年私が特に示されたことは、この世で起こった最大のイベントであるイエス・キリストのご誕生が「主によって語られた御ことば」と、それを聞く当事者の「必ず実現すると信じきった」信仰によって実現したと言う事実でした。私はこの主によって語られる御ことばと信仰の相関関係が、私たちの信仰生活を成功させる鍵であると思います。

 先ずイエス様の誕生に当たってルカ1章での登場人物は、ザカリヤとエリサベスそしてマリヤ、それに御使いのガブリエル、その後2章の最初で登場するのが羊飼いたちです。
 
 不妊の女であったエリザベスには子供が無く、長年子供が与えられることを祈って来た夫のザカリヤは、既にかなり年老いていました。しかし「その願いが聞かれた」と御使いに言われた時に、彼は、彼らの肉体的現状にだけ目が向いていて、神の偉大な力を信じることが出来なかったと言うところに彼の不信仰さが現れているように思えます。「祈りは必ず聞かれる」と云うことを信じているつもりでも、実際には「必ず実現すると信じきった」確かな信仰で祈っていないと言う(私も含めて)典型的なクリスチャン像を彼に見ることが出来ないでしょうか。

 神様がご計画を進める時に、そのような信仰の無さは邪魔になります。そこで神様は彼がそれ以上不信仰の言葉を口にしないように、一時的にものが言えないようにしました。これは主による愛の「しるし」であり、又愛の懲らしめ(ヘブル12:10)でありました。これによってザカリヤは悔い改め、無言のままで主に心からの祈りと感謝をささげ続け、彼の信仰は本当のものになったと思います。
 一方妻であるエリザベスは、すばらしい信仰の持ち主であったことがうかがわれます。それがゆえに主はマリヤをエリザベスのところへ送り、三ヶ月ほど時を過ごすことを許されたのであると思います。

 ここで重要なことは、御使いガブリエルが直接現れてはっきりとメッセージを伝えたことです。御使いが話す言葉を聞くこととは神様からのおことばを聞くことです。つまり「神の御声を聞く」ことと同じです。

さて、同じガブリエルから声をかけられた時、マリヤは何のことかよく分からず、とっさに戸惑いましたが、それは不信仰からではありませんでした。ガブリエルがさらに説明を加えたことに対して、恐らく完全には理解出来なかったと思いますが、「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(1:38)と答えました。この答えこそが、常に主に従順でありたいと願うクリスチャンの持つべき理想的な信仰の態度であると思います。そこには100%主を信頼し、主に委ね、主のなさることに大いに期待して生きる信仰者の姿があります。

そのことを、聖霊に満たされたエリサベスが「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(1:45)と称えました。まさに主によって語られたこと=御声を聞いて、それが必ず実現すると信じきる信仰によって主はことを運ばれるのです。

私はここに最も重要な信仰の法則があると信じます。それは先ず「主の御声を聞くこと」(主の命令、御心の表示を直接聞く)によって、それが実現することが心から信じられるようになる信仰が与えられると言うことです。

ペテロが水の上を歩いたのも、この法則によるものでした。
[弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」 イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」(マタイ14:26)


 私はこのお話から学ぶところは非常に大きいと思います。ペテロは水の上を歩いておられる主を見て、とっさに自分も同じように水の上を歩いて主のところまで行きたいと言う思いを持ちました。しかしそれを実行する前に、先ずそのことが本当に主の御心であるかどうかを確かめたいと思ったのでしょう。そこで、改めて主ご自身の口から、「水の上を歩いてここまで来い」と具体的に命じられることを求めたのでした。主から直接みことばを語っていただきたかったのです。

 私たちは日常生活の中で何かをしたいと言う思いがよく来ます。しかしそれが主から与えられた思いであることがかなりの確かさで信じられる時でも、もう一つ確認をしたいと思うことが多くあるのではないでしょうか。そのような時に「もし(この思いを下さったのは)あなたでしたら、今私が実行したいと思っていることを『しなさい』と私にはっきりお命じになってください。」とペテロのように主にお願いすることによって主からの確認がいただけると思います。しかもそれだけではありません。はっきりと御言葉(御声)で命令を受ける時に、それを実行する上で必要な確かな信仰もいただけることを私自身も経験しております。
後はペテロが回りの状況に眼が行って不信仰になってしまったことを教訓として、私たちがあくまでも「疑わない」信仰を持続することです。

 実はこのペテロのお話で主は、マリヤの持つ「主によって語られたことは必ず実現すると信じきる」信仰の実地訓練を弟子にされたのであると思うのです。主からの命令を聞いて、それを「疑わずに」「必ず実現すると信じきって」実行すれば、たとえそれがどんなに超自然、不可能と思えることであっても実現することを、主が先ず肉の形で弟子たちに見せたのです。それは、主が昇天された後、弟子たちが同じことを霊の形で行う、つまり霊で御声を聞き、それを実行するための信仰の訓練でした。(1コリント15:46)

もう一つの例を挙げたいと思います。それはマタイ8:5 -13です。
『イエスがカペ
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