WWGM

Walk With God Ministries


04 09月

エリエゼルの役目 リック・ジョイナー(モーニングスター・フェロシップ)        2018年9月5日


エリエゼルの役目

 

リック・ジョイナー(モーニングスター・フェロシップ)

 

 主イエスはご自分の花嫁を迎えにこられますが、花嫁が「来てください。」というまでは来られません。今日誰でも受けることの出来る最も大きな油注ぎは、「エリエゼルの油注ぎ」であり、「エリエゼルのミニストリー」が最も必要とされています。エリエゼルはアブラハムの全財産を管理している最年長のしもべでした。アブラハムは息子イサクの嫁を捜すためにエリエゼルを遣わしましたが、その結果、彼は輝かしい任務を成し遂げたと思います。彼は遠い地に行き、そこに住む一人の娘リベカを主の導きにより見出しました。そして彼女が生まれてから今まで経験したすべての事やすべてのもの、すべての愛する家族友人を後にして、まだ会ったこともない若者と結婚するために彼について行くことを彼女に承諾させたのです。彼女はフェイスタイムでイサクと話すことも、彼のウエブサイトを見てチェックすることも出来ませんでした。しかしエリエゼルは大いなる主の油注ぎを受け、この娘がまだ見ぬ人を恋するようにさせたのです。彼は沢山のプレゼントを持っていきました。聖書学者たちはエリエゼルは聖霊の働きを最も顕著にあらわしていると言っています。彼はプレゼント、賜物を持ってきますが、それは自分からのものではなく、主人からのものだと告げました。彼はすべてのことが花婿なる主人をさし示すようにしたのです。それでリベカは生まれてからずっと親しんできた環境や家族のすべてを捨て去る決意をするに至ったのです。恐らくもう二度と帰れない、もう二度と家族に会えないにもかかわらず、彼女は決心したのです。

 

エリエゼルの油注ぎは、今私たちにも用意されています。それは花嫁が花婿に恋をするように導くミニストリーです。すべてを捨て、花婿と一つになれるならどこにでも行き何でもするという真の情熱を持つ花嫁を育てるのです。今こそその時が来ています。

主イエスを愛する花嫁について私は主から長年にわたり示され教えられてきました。「これは地上で最も偉大なミニストリーであり、人から人へと伝染し広がっていくものである」と主は言われました。

 

イエスは十字架に架かる前の晩、ヨハネ17:23で「わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それはあなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたことを、この世が知るためです。」と祈られました。

イエスが祈られた祈りは必ず聞かれます。御父がイエスを愛された愛と同じ愛を私たちも受けているのです。私は毎日「御父がイエスを愛された愛をください。そしてその愛が人々に伝染していきますように。」と祈っています。それは私たちが行くところすべての場所で、人々がイエスへの愛で満ちて行き、イエスの花嫁となる願いからです。

 

花嫁は自分自身を整え婚礼の準備をします。けれどもその動機が「しみやしわがあったら花婿に打たれるから。」と言うのでは律法主義になります。「花婿を情熱的に愛するあまり、彼のために完全な花嫁になりたいと切望する」というのが本物です。そして私たちがイサクの花嫁リベカのように主を愛する時が来ているのです。私は自分のためにも、また皆さんのためにもそのように祈っています。エリエゼルのように人々がイエスを情熱的に愛するようにするのです。それが私たちに与えられている最高のミニストリーであり人生の目的であると信じます。

 

単なる訪れ Visitation ではなく主が住まわれている Dwelling になる

 

主はしみやしわのない完全な花嫁を迎えるのにふさわしいお方です。私たちが完全な花嫁になるためにはどのようにすればよいのでしょうか。主を愛してやまない、主のためには何でもしたいと願う者にどうすればなれるのでしょうか。

 

このモーニングスター教会でも「主の訪れ visitation」は過去に何度か起りました。それは素晴らしいものでした。しかし、私たちはその「訪れ」よりももっと高レベルのものを求めています。ふたりの弟子がついてくるのを見たイエスは、ヨハネ1:38で「あなたがたは何を求めているのですか。」と訊ねたとき、二人の弟子は「ラビ。今どこにお泊まりですか dwelling と聞き返しました。これは今の私たちにとっても最も重要な「問い」なのです。神はご自分がそこに住んでおられない事でも祝福はしてくださり、お住みにならない場所にもちょっと訪ねてはくださるのです。この教会で「油注がれたすばらしいワーシップ」や「油注がれた最高の説教」「油注がれたものすごい奇蹟」がなされるならば、人々はここから出て行くときに、「モーニングスター教会は素晴らしかった」と言うのではなく、「主はなんと素晴らしいお方でしょう!」と言うことでしょう。ワーシップや説教のことではなく、どれほど主の臨在が素晴らしかったか、自分がどれほど主をもっと愛するようになったかを話すでしょう。

 

神殿の中に主が住んでおられないならば、人々は神殿の素晴らしさを話すしかありません。しかし主がおられるならば、私たちは神殿のことではなく、主のことを話さないでしょうか。私たちの教会が求めているのは、まさにそれー「主の臨在、主のあらわれ」です。私たちは今までにヴィジテイションを通じて、それを少し味わった経験がありますが、本当に「主が住まわれるところ」になりたいのです。それはこの部屋だけとか、集会のときだけではなく、24/7、常にそうあるべきところです。教会とは24/7常に主の臨在が住まわれるべきところであるのです。なぜなら教会は「私たちが行くところ」ではなく「私たち」が教会であるからです。

人々の神への愛がこれから大いに増し加わってくるのを皆さんは見るでしょう。そのように人々が礼拝に集まって真に主を慕い求めることは非常に大切です。

今夜皆さんはこのように礼拝に集っておられますが、残念ながら世界的に見ればクリスチャンの多くは最早集会に参加しておりません。

しかし間も無く「礼拝にどうしても行きたい!」と人々が切望する時が来ようとしています。この教会でも以前数週間に渡って主の訪れがあったときは、皆が毎晩「どうしても教会に行きたい、主に会いたい」という気持になりました。そこに主がおられたからです。主がそこに住まわれる教会になることが、私たちの切なる願いです。そうさせるのはエリエゼルの油注ぎを豊かに蓄えた、霊的に実った人たちを主が起こされるからです。(以上リック師のメッセージ終り)

 

 

上記のメッセージについての後書き    坂 達也          

 

 ニューヨーク州近辺の5つ、6つの日本人中心の教会が集まって2年に一度の修養会を持っておりますが、私たちは昨日までの3日間、その修養会に初めて参加させていただきました。200人以上が集まりましたが、お招きした講師は、私たちがハワイに住んでいた時に親しくしていただいたホノルル・キリスト教会の関 真士(せきしんじ)先生ご夫妻で、師が語られた題名が「無限に拡がる神の愛」でした。

今回関師が語られたメッセージは、関ご夫妻、特にご主人が育ったご家庭での経験と共に、現在第4期の癌と宣言されながらも癒されつつある奥様の壮絶な闘病生活を通して経験された「神の愛」の深さと、考えられないような素晴らしい奇跡についてでした。まさにその聖霊の実を生きておられるお二人の上に輝く「神の愛」を目の当りに見させていただいたすばらしい集会でした。

 

しかもこのジョイナー師のメッセージは、図らずも修養会直前に家内が選んで訳したものでしたが、その内容が「たまたまではなく」あまりにも関先生が語られたメッセージと一致していました。そして語られた関ご夫妻の上に起こったすべてのことが有史以前から、神がこの日に語るために用意された「本日までの人生の証し」の集大成でした。創造者の神が人間のために計画された一人ひとりの人生は、「神の子供に対する神の無限の愛を分かち合う証し」ができるように造られていると私は確信します。従って私たちの人生は、どんな惨めな荒野を歩く人生であっても、いやそうであればあるほど、神はそれにも増して、そのどん底から完全に回復できるに充分な「めぐみの力」を与え備えてくださっていると信じます。従って私たち人間は信仰によりどんな惨めな人生からでも回復できることを証しする責任を持っていることをひしひしと感じされました。(イザヤ書60:1、2をご参照ください。)すなわち神の無限の愛とは、人間をそのように造られた創造者の御業そのものであることに私は改めて驚いた次第です。

 

それに加え、実はリックジョイナー師は、この9月20日から4日間、師の教会で終末の時代に最も必要な上記の「エリエゼル」を養成するための「使徒的リーダー」を育てるための集会を計画していて、私たちも招待されました。

それは終末の時代に、イエスとの深い個人的交わりを共有した複数の信徒が「コイノニア」の関係を持って聖霊の助けを受けた信仰の行動をする「スモール・グループ形成」を目的とした訓練のセミナーです。それが「主と共に歩む」ことであるとリック師は言われます。私たちのミニストリーは出発当時に主から「神と共に歩く WWGM」という名称を与えられています。そして私たちはリック師の教会のパートナーメンバーですから、その集会にぜひ出たいと願っております。しかし折から私は1週間ほど前に、医師からMRI検査の結果として軽い脳梗塞が起きていた事実をいい渡されました。加えてその前に再発した帯状疱疹の影響が未だ顕著で、回復しながらも、身体全体が免疫力が落ちて弱っている状態にあります。ぜひ皆様のお祈りをお願い申し上げる次第です。(終り)


27 08月

あなたは本来、預言の賜物を持っている! ジョン・ヴィール         2018年8月27日


あなたは本来、預言の賜物を持っている!

 

ジョン・ヴィール

 

1コリント14:1「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」

 

ご存知かどうかわかりませんが、もし御霊に満たされたクリスチャンであるならば、あなたは本来預言的であるのです。「本来」とは、「基本的な性質として備わっている」ということです。預言の賜物はあなたが人々を祝福するようにと、神が与えられたものです。

 

預言の賜物はあなたの遺伝子の深い霊的レベルの中に文字通り埋め込まれているのです。それはあなたに属し、あなたの中に存在し、あなたからスーパーナチュラルに無理なく天然的に流れ出るべきものです。神から与えられている自分の中の預言的賜物をずっと知らずに放っておくと、それは発達せずに忘れさられてしまいます。

 

預言の筋肉を活性化する方法

 

主のことばを預言的に話すことは、「預言者」だけがすることではなく、神がすべてのクリスチャンに与えておられる正当な特権です。預言者や預言的な人のそばに長く留まると、あなたもその影響を受けるのです。

 

そして彼らと真近に接触すると、あなたも預言をするようになります。預言の霊は人から人に簡単に伝染することを私は見てきました。すべての人の内には預言の霊によってだけ埋められ完成されるのを待っている一つの空間があるのです。私たちすべての内にある予見者の種が、預言的活動によって水を与えられるや否や、発芽し始めます。

 

預言的遺伝子を働かすためには、それを活性化し使わねばなりません。あなたの内にすでにある預言の賜物を、刺激し揺り動かして活性化すればよいだけなのです。これはウエイト・トレーニングによって筋肉を鍛えるのに似ています。

 

ある筋肉にウエイトを長くかけるばかけるほど、その筋肉はもっと発達し強くなります。預言の賜物もそれと同じように反応するのであって、使えば使うほど強くなるのです。

 

活性化はこのプロセスで一番重要なものであり、それは賜物を大きくするだけでなく、その鋭さや強さをも増し加えてくれます。預言の賜物の活性化は、あなたが誰かに頼るのではなく、自分自身で神に聞くことができるようにしてくれます。あなたが持っている「自分で神に聞く本来の能力」を増し加えます。そしてあなたの霊の耳を主の周波数に合わせ、あなたが本来持っている預言的性質にアクセスできるようにしてくれるのです。

あまり預言的でなかった人が活性化されることによって預言的になった例を私は多く見てきました。活性化は彼らの中にある預言的賜物を喚起するだけではなく、その活発な動きによってその人が持つ他の賜物にも刺激を与えてくれます。

 

活性化のミニストリーを受けたある女性が、手が熱くなるのを感じたと言いました。それは癒しの賜物のしるしであると思ったので、彼女にそう告げました。そしてしばらくすると彼女は癒しの賜物を用い始めました。このようなことは私が活性化のミニストリーをするとほとんどの場合起ります。預言の活性化から多くの素晴らしい預言的覚醒のあかしが生まれています。

 

使わないものはやがて弱くなる

 

活性化のクラスをしている時、私はある啓示を受けました。一人の女性に手を置いて彼女の預言的賜物を活性化していると、彼女の中に3つの大きさの違う賜物があるのが見えました。実際それらはきれいに包まれリボンで飾られたプレゼントのように見えました。

そのうちの一つが他のものより大きく、それが彼女の一番主な賜物のようでした。すべての人は幾つかの賜物を持っていますが、普通そのうちの一つが主で他のものより大きいと私は思います。彼女に関して言えば、預言の賜物が一番大きいとわかりました。他の賜物、例えば、癒し、信仰、見分け等は比較的小さく、それは多くの場合、全く、或いはたまにしか使われていない結果なのです。

 

このことも又、人間の筋肉と非常に似ています。長い間ずっと放っておくと、筋肉は退化したり小さくなったりします。運動不足で小さくなればなるほど、筋肉は弱くなります。あなたの神からの賜物も、それと同じで、あまり用いないと小さく弱くなるのです。しかし神があなたに与えた賜物は決してなくなりません。

ローマ11:29「神の賜物と召命とは変わることがありません。」

 

主はあなたに何かを与えてから「返せ」と要求するようなことはなさいません。しかし賜物は用いられなかったら弱くなっていくかもしれません。使わないものは何でもだんだん弱くなっていくのです。天からあなたに与えられた能力は、誰かの打ち破りの鍵となるものです。その能力があなたの内にはっきり表れるのを多くの人が待っているます。あなたはすべての人の打ち破りのために召され遣わされるのではないかもしれませんが、ある人のためには絶対に召されているのです。

 

霊の賜物の食べ物

 

預言者になろうとしている人や預言的な人へのアドバイスは、「預言的賜物を出来る限り使いなさい」ということです。使えば使うほど、それは強くなります。考えてみてください。何でも長く続けるほど、上達しますね。あなたの賜物は訓練され強くなるのです!

そしてそれがいつも押されたり引っ張られたりして訓練されると、奥深さを増していきます。あなたの賜物の重さが増し、長い間食べ物を与えられるので賜物は肥え太っていくのです。

イザヤ10:27「その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。(欽定訳:

これは牛があまりにも太った(油注がれた)ので、くびきが壊れることを言っています。「御ことばを食べる」のと似ていますが、あなたは自分の賜物を用いる毎に賜物に食物を与えているのです。毎日聖書を読む事を怠ると霊的に弱くなっていくのが分かると思います。

マタイ4:4でイエスは悪魔に「『人はパンだけ生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」と言われました。聖書は神の生けることばであり、私たちの健康を維持し霊を肥やすために毎日食べる必要があります。太ることは重くなるということであり、霊的には良いことなのです。同じように、私たちが一週間食事をしなければ、疲れ、消耗し、気力がなくなります。あなたの預言的賜物の霊的な面と実践的な面との相乗的レベルを保つためには、あなたは肉体的にも霊的にも栄養を取らねばならないのです。(終り)


20 08月

ゴリアテには兄弟がいた フランシス・フランジペイン           2018年8月20日


ゴリアテには兄弟がいた

 

フランシス・フランジペイン

 

このような場面を思い浮かべてください。あなたは病気や鬱と戦っています。あなたは神を求め、神のめぐみがあなたに触れてくださったと感じます。その勝利は誰かの言葉や祈り、また励ましを通して与えられたかもしれませんが、あなたは主ご自身が救い解放してくださったと確信しています。あなたは「5つのなめらかな石」という神のめぐみを用いて、あなたのゴリアテを打ち負かしたのです。

しかし、それから数週間、あるいは数ヶ月か数年経ってから、突然昔の症状がもっと激しく、まるで仕返しでもするかのように、襲ってくることがあります。もしあなたが何かの病いと戦っていたのだとすると、今までで一番ひどい症状があらわれます。もしその戦いが人間関係、あるいはある罪に関することならば、今までの進歩はすべて無に帰し、振り出しにもどったように感じます。

 

このようなネガテイブな経験はあなたの心から信仰を少しずつ取り去っていきます。期待と信仰を失い、霊は麻痺してしまい、あなたの魂は生気と自由さを失います。まだ教会には通っているかもしれませんが、信仰は鈍っています。

人の癒しや解放の証を聞いても「彼らもいずれ癒しを失うかもしれない」と密かに心配するようになります。

このような否定的な経験は多くの人の信仰を揺るがし幻滅感を抱かせる結果となります。箴言13:12に「期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。」とありますが、「心が病む」とは、霊的に病むことであり、神との歩みを妨げ無力にします。思い出してください。信仰は望んでいることがらの保証、実体なのです。もし希望を失うならば、信仰もうつろになり実体のないものになります。もし神があなたの期待を裏切ったのだとしたら、もはやあなたは神を信頼することができるでしょうか。

「私はブレークスルー(打ち破りの勝利を得た経験)を失ったのだろうか、それともただ自分を騙していただけであって本当はブレークスルーなんて初めから無かったのだろうか。」とあなたは訝しく思うのです。

 

愛する皆さん、今経験している困難、苦しみは、あなたが神の祝福を失ったのではなく、全く新しい霊の戦いに遭遇している可能性が大きいのです。新しい戦いは、非常にずる賢く戦略的な惑わしであり、救いを受けた人たちの中にサタンが再びじわじわと入り込もうとする常套手段です。

 

繰り返し起こるこの戦いについて私はずっと祈っていたのですが、ある時聖霊が私の心に「ゴリアテには兄弟がいた。」と語られました。私はすぐにダビデがペリシテの巨人と戦ったときのことを思いました。ダビデが神に信頼しゴリアテに打勝ったことは誰でも知っています。

 

しかし、第二サムエル21章では状況が変っているのがわかります。

2サムエル21:15−17「ペリシテびとはまたイスラエルと戦争をした。ダビデはその家来たちと共に下ってペリシテびとと戦ったが、ダビデは疲れていた。時にイシビベノブはダビデを殺そうと思った。イシビベノブは巨人の子孫で、そのやりは青銅で三百シケルあり、彼は新しいつるぎを帯びていた。しかしゼルヤの子アビシャイはダビデを助けて、そのペリシテびとを撃ち殺した。...」(口語訳聖書)

 

少年ダビデがゴリアテを倒してから長い年月の後、ダビデ王は別の巨人たちと直面せねばなりませんでした。第一歴代誌20:5によれば、ダビデと戦った者のうち少なくとも一人はゴリアテの兄弟であり、4人は彼の子どもでした。

 

1歴代誌20:5「ここにまたペリシテびとと戦いがあったが、ヤイルの子エルハナンはガテびとゴリアテの兄弟ラミを殺した。そのやりの柄は機の巻棒のようであった。」

2サムエル21:22「これらの四人はガテで巨人から生まれた者であったが、ダビデの手とその家来たちの手に倒れた。」

これらの巨人たちはゴリアテの血筋であり、多分ゴリアテに似ており、高慢で、同じような格好で、同じ臭いを発していたと想像できます。2サムエル21:15には、ダビデがゴリアテの子孫と戦ったとき「疲れていた」と書かれています。

これらの巨人と戦った時、ダビデがどう思ったかについて聖書は何も語ってはいませんが、恐らく彼は「ゴリアテは倒したはずだ。なぜまた戻ってきたのだろう?」と訝しく思っていたのではないでしょうか。しかしゴリアテが戻ってきたのでありませんでした。彼は死んだのです!ダビデは彼の血縁者たちと戦っていたのです。しかしそれはあたかも同じ戦いのように思えたのです!

 

同じように、あなたも今まで多くの勝利を勝ち取ってきたのです。今あなたが直面している巨人は、まるであなたが過去に倒した巨人のように見えるかもしれません。しかし「お前は最初の戦いにも本当には勝利していなかったのだ」という敵の偽りを信じてはいけません!

神のめぐみの力により、あなたは万能の神を信頼し、あなたのゴリアテに勝利したのです。最初の巨人は死んだのです。

 

サタンはあなたの以前の敵に見せかけ、あなたの信仰の盾を通り抜けて、あなたの人生の中へと又入り込もうとしているのです。サタンに抵抗してください。「あなたは決して解放されたことなどないのだ」という偽りを受け入れてはいけません。信仰に立ってください。信仰は世に打勝つ勝利の力です。(1ヨハネ5:4)あなたがゴリアテに勝利するのを助けた生ける神は、彼の兄弟にも勝利する力を与えてくださいます。

 

祈り「天の父よ、今、私はしもべとして御前に出ています。ダビデのように、すでに負かしたと思っていた敵と戦うことに疲れています。しかしあなたの聖霊の力により、『これは以前に克服したはずの敵が再び現れたのだ。』という敵の偽りをあばきます。イエスの御名により、敵を叱責します。主よ、どうか天使がイエスを度々力づけたように、私にも天使を送って超自然的に強めてください。イエスの御名により祈ります。アーメン」(終り)


07 08月

神からの教えを受け入れる大切さ スチィーブ・ポーター 2018年8月7日


神からの教えを受け入れる大切さ

 

スチィーブ・ポーター

 

「誠実さは、人生がばらばらにならないようにまとめる接着剤です。私たちは常に誠実さを堅く保つように努力せねばなりません。富を失っても、あなたは何も失いません。健康を失うと、何かが失われます。しかし人格を失うと、あなたはすべてを失います。ビリー・グラハム」

 

心の奥底で私たちの霊は、 「もっと真摯で深いクリスチャン生活を送りたい」と願っています。このような願いを持つ霊は、大いなる富や珍しい宝石、

或いは素晴らしく偉大な能力よりもっと尊く価値があるのです。それは「教えを受け入れる霊 teachable spirit」です。

 

指示や教訓を尊ぶ

 

常に更なる深みを目指したいと願う勇士は、教えを喜んで受け入れます。アブラハムの人生を学ぶならば、彼がなぜあれほどまで祝福されたかが明白です。彼は何よりも教えを尊び、神の戒めを喜んで守りました。それはただ「喜んで聞く」だけではありません。「知恵を得たい願望」が「安楽への願望」より大きくなったとき、私たちは「教えを受け入れる」心を持つことができます。

私たちは教えを喜んで受けいれる心を持っているでしょうか? 主から、また人々から知恵を受け取る謙虚さがあるでしょうか?

時として私たちは教えを受け取る心を失い、健全なアドバイスを拒否してしまいます。

このような時私たちは、ルールに従うよりルールを曲げることを望んでいるのです。しかし、それは決して私たちを祝福の場所へとは導かず、むしろ人生を破壊してしまいます。聖書に「高ぶりは破滅に先立つ」とあるように、私たちは危険な場所で孤立してしまうのです。

 

私はナアマンのことを思い出します。彼は肉体を蝕む癩病が癒されるのを願いましたが、神のメッセンジャーにヨルダン川に行って7回身を洗うようにと言われたとき、怒ってそこを去りました。確かにそれは一見奇妙で馬鹿げた指示であり、ナアマンの肉の思いには意味をなしませんでした。自分の地にはもっと良い川があるのに、どうしてヨルダンで身体を洗わねばならないのでしょうか?

 

しかし、彼の本当の問題はヨルダン川ではありませんでした。指示に従い癒されるために必要な謙虚さを、彼のプライドが阻んだのです。最終的に彼の癩病は癒されましたが、それは彼が知恵の言葉に耳を傾け、心を変えて謙虚になり、油注がれた神の人のシンプルで明瞭な指示に従ったからでした。

 

肉を十字架につける

 

同じように、私たちも深い信仰生活を送るためには、肉を十字架につけ、たとえそれが自分の考えとは違うときでも謙虚に従う必要があることを悟らねばなりません。そのためには御ことばを求め、聞き、学ぶことを常に追い求めていく姿勢が大切です。謙虚になると私たちはプライドをはぎ取られ、心が柔くなります。そして教えを受け入れるようになり、自分のしたい事を一人で勝手にするよりも、神への親密さを慕い求めるようになります。

 

教えを受け入れるようになるにはプロセスが必要です。私たちは教えを素直に受け入れる者でしょうか? 学んでいるでしょうか?

たとえ辛くても自分の人格や誠実さを一番大切に守っていきたいと強く望んでいるでしょうか。

箴言8:32「子どもらよ。今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守るものは。」

 

主に近づいて聖霊のかすかな細い声に耳を傾ける者を神は祝福されます。しばしば私たちは聞くことを拒否し、主の御声、主の警告、そして主からのはっきりした危険信号さえも無視します。もし主に聞いていないなら、私たちは学んでいません。もし学んでいないならば、成長していないのです。このサイクルは決して止まることがありません。ですから今私たちが立ち止まり、「見張り、待ち、聞き、従うこと」を始めなければ、祝福は決してやってきません。

 

箴言8:34−35で、神は私たちに「見張り、待ち、そして主を

見いだせ」と教えておられます。これらはすべて私たちが毎日実践すべき「行動を表す動詞」であることに留意してください。実際、私たちは主が教えたいと願っておられる事に、いつも油断なく注意を払っているべきです。そしてそれにただ気がつくだけでなく、熱心に知恵と真理を捜し求めねばなりません。エレミヤ29:13に「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」とある通りです。

 

神の御声を聞くことを学ぶ

 

ホセア4:6「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう。」

 

「聞くこと」は神にとって非常に重大なことです!聖書には「もし私たちが神のおしえを退け、知恵を無視するならば、神は私たちを祭司(神の御国の代表者)にはされない」と書かれているのです。私は「神が誰か役に立つ者を捜しておられる時、見過されたくはない!」と願います。私は「神の御心の真ん中のいる」以外のことは何も望みません。

 

箴言8:32−36「子どもらよ。今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守る者は。訓戒を聞いて知恵を得よ。これを無視してはならない。幸いなことよ。日々わたしの戸口のかたわらで見張り、わたしの戸口の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただくからだ。わたしを見失う者は自分自身をそこない、わたしを憎む者はみな、死を愛する。」

 

聖書は神に聞く重要さを強調していて、この短い箇所にも三度「聞く」という言葉が出てきます。

エゼキエル3:7にはイスラエルの民は「鉄面皮で心がかたくなである」とありますが、もし私たちが神に聞かないという悪癖をつけてしまったならば、この言葉は私たちに直接当てはまるのです。 (終り)


30 07月

40週の厳しい労苦は今終る ダグ・アディソン 2018年7月30日


40週の厳しい労苦は今終る

 

ダグ・アディソン

 

今週は多くの人にとって転機となる非常にエクサイティングな時です。今から40週間前に、あなたの一年のデスティニーが明らかにされましたが、それが今週産み出されるのです!

仮庵の祭りの最終日はホシャナ・ラバー(Hoshana Rabbah)と呼ばれ、神がこれから一年のあなたのデスティニーを明らかにする日です。今私たちはモーセの律法のもとにはありませんが、私たちのデスティニーを解き放つとき、神はユダヤ暦に従って働かれます。

 

ユダヤ暦の新年(ロシュ・ハシャナ)に、主は私たちを吟味し始めます。それから10日後の贖罪の日(ヨム・キッパー)に、新しい年のデスティニーが決められますが、それが最終的に啓示されるのは仮庵の祭りの最後、ホシャナ・ラバーの日であり、それは2017年10月11日でした。

 

私に関して言えば、すべてのことがその日から上向きになりました。戦略的な啓示を沢山受けましたし、更に深い主との出会いを体験するようになりました。しかしそれと同時に、かつてないほどの激しい霊的戦いも起こるようになりました。戦いの間、私は自分に与えられていた預言の言葉をしっかり握りしめていなければなりませんでした。数ヶ月の間、次から次へと戦いをせねばならず、それは終りそうもないように思えました。

 

新しいものを産み出す

 

赤ちゃんは通常40週間、胎の中で育ちます。2018年7月18日が私たちの昇進とデスティニーが啓示されてから、即ちホシャナ・ラバーから丁度40週目に当たりました。主が私に、「あなたのこれまでの40週間の労苦は、新しいものを産み出すためにあったのだ」と語ってくださいました。

これから起きようといているリバイバルをもたらすためには同じように 出産の困難なプロセスを要するのです。

 

イエスを妊っていたマリアとバプテスマのヨハネを妊っていたエリサべツの出会いは、生れ出ようとする神のムーブメントの表れでした。エリサべツがマリアと胎の中のイエスに会ったとき、彼女の胎内でヨハネが喜び踊りました。(ルカ1:41)

その時マリアの口から自然に主への讃美がほとばしり出ました。その讃美に目を留めるようにと主が私を促されました。マリアの言葉は現在社会で起こっていることをあらわしています。

ルカ1:52(主は)権力のある者を王位から引き降ろされます。低いものを高く引き上げ(られます。)」

2017年10月以来40週の間、私たちは厳しい労苦をしてきました。主はその労苦を、権力者や敵を王位から引き降ろすために用いられました。へりくだって主を求め続けた者たちは、今高く引き上げられようとしています。

 

声の回復

 

バプテスマのヨハネの父であるザカリヤはエリサべツが子を妊っている間、声を失っていました。(ルカ1章)これは私たちが経験していることの預言的なしるしでした。私たちはこの世に対する声を失い、まわりにいる多くの人から拒絶されました。しかし私たちが天からの主の新しい歌をしっかり受け取るので、主がこの状況を変えようとしておられます。マリアとザカリヤは即興の(スポンテニアスな)歌を歌い、それが霊的環境をシフトさせたのです。

 

即興的(スポンテニアス)な歌は天を開く

 

今、スポンテニアスな歌や祈りに大きく油が注がれています。もしあなたがこの40週間、困難や労苦を通って来たのならば、今は即興的な歌と祈りを内から涌き上がらせ声に出す時です。それは霊的環境をシフトさせます。

励まされてください!あなたの経験した困難な時は無駄ではありませんでした。私たちは苦しみと忍耐を通ることによって、霊的な驚くべき新しい事をまさに産みだそうとしているのです。

あなたの上に主が天を開こうとされていますから、その備えをしてください。夢、ヴィジョン、超自然的な出会いや深い知恵、啓示が増加わってくるのを、見逃さないように注意深く見ていてください。(終り)


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