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24 05月

神との真の結びつき(その一) ショーン・ボルツ( Bolz Ministries) 2019年5月24日


神との真の結びつき(その一)

 

ショーン・ボルツ( Bolz Ministries) 

 

今日はキリストと一つになって生きることについてお話したいと思います。主イエスはヨハネ17章で御父に祈られたとき、この事に関する真理を私たちに垣間見させてくださいました。それは主が祈り方を弟子たちに教えたのではなく、ご自分の祈りの人生をありのままに見せてくださったからです。ヨハネ17:21で主は「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。」

 

「一つとなる」とは、単なるロマンティックな感情のことではありません。「一つとなる」と聞くと、多くの場合私たちは何かふんわりと詩的な言葉だと思い勝ちですが、主は、「ご自分と御父が実際に持っておられる結びつき」のことを話しておられるのであり、私たちにとっても大変重要なことであるのです。聖書の中でイエスやパウロが言及された多くのことが、今の神経学や心理学で言われ始めています。そして「一つとなること」が、事実、科学的に可能であることが言われています。

実際のところ、あなたの心理的精神的機能は始めからあなたの中に造られ組み込れています。神経学的に見ても、人間の中には人間同士だけではなく、あなたと神とが一つとなり繋がることができるように最初から造られているのです。これはこれからますます科学的研究によって証明されていくでしょう。しかし、私たちは人間がそのように造られていることをあまり認識しておりませんので、これをもっと知ることは私にとってとてもわくわくすることです。

 

第一テサロニケ5:9−10「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったのです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに( union with Him )生きるためです。」

 

私たちが主と一つになって復活のいのちを得るように、主はご自分のいのちを与えてくださったのです。 主と一つになる(union with Jesus)という主題を理解するのは非常に大切です。それは聖書で結婚に関して用いられる言葉と同じだからです。

私と妻とは似たところも少しはありますが、大部分は本当に違います。ですから私たちが一緒に暮らして本当に幸せであるために、中間地点までお互いに歩みよるようにいつも努力しています。一緒に人生を歩むとき、自分の考えを犠牲にしてあるところで折り合いをつけねば、非常に惨めな人生になってしまいます。

 

でも二人が歩みよって一緒に歩くならば、一人よりももっとすごいことができるようになります。妻のシェリーと私は結婚して6年経ちましたが、私はそれ以前独身だった時よりも、この6年間で自分のアイデンティティーに関してもっと理解し、ミニストリーやビジネスにおいてももっと発展することができました。二人が一つになったとき、どれほど幸せになるか、どれほど力が与えられるかには、本当に驚かされます。結婚だけではなく、他の関係においても、同じことが言えると思います。

 

長寿の秘訣

 

心理学者であるスーザン・ピンカー氏が「結びつき」に関して言っていることをご紹介したいと思います。彼女は科学者ですが、すばらしい神経学者であり、長寿の研究の先駆者でもあります。皆さんも、長寿のためには大酒をしない、タバコを吸わない、とかはご存知だと思いますが、ピンカー氏の長寿のためのリストの一番目をお話しましょう。それは「人々とのふれあい」です。つまり、あなたが長生きをするための一番の道は、社交的なふれあいなのです。

2番目も似ていて「親しい関係」です。ですからタバコをやめると少し寿命が伸びるけれど、もし誰かと親しい関係を持つならば、いやそれ以前に社交的な言葉を人々と交わすならば、(例えば郵便配達の人に挨拶したり、スタバでコーヒーを入れてくれる人に「お元気?」と声をかけるならば)そんなに親しくなくてもあなたの寿命は伸びるのです。

ピンカー氏はイタリヤのサルデーニャ島にすむ167万人ほどの住民で百歳以上生きる人が、世界平均の10倍もいることを調査しました。彼らの社会ではいつも人とのふれあいがあり、お互いに面倒を見て、見過ごしにされる人は一人もいないのだそうです。

また、他の神経科学者は次のように言っています。ある情報をデジタル(テキスト、ライン、Eメール等)で受けた時と、電話とか顔と顔とを合わせて聞いたときではインパクトが違うのです。直接肉声で聞いたときは、録音とかEメールにくらべて75%もインパクトが強いのです。ビジネスであれ個人的なことであれ同じです。誕生日パーティーに直接電話をしたり、会って誘うならば、Eメールで誘うより75%その人が来る可能性が高まるのです。

私たちは今デジタルの時代に生きていますから、これは重要な事実です。クリスチャンとして、私たちが神とどのようなコネクションを持つかが考えさせられますね。

もし神の御霊が私たちに働いていないで、ただ情報だけを得ているのならば、神が私たちのために意図されたいのちを十分には生きていないことになります。そして聖霊の考えや思いを知らずに、聖霊と一つになることも出来ないのです。

私たちは豊かだと思っていますが、ただ情報を持っているだけなのです。神と顔と顔を合わせて話すならば、75%更にインパクトを受けることができます。「顔と顔とを合わせて」と言っても、それはモーセのような経験をしなければならないということではありません。神がリアルな方であることを知り、リアルな神と実際にコネクトし、その神と時間を過ごしてインパクトを受けるということです。もう一つ興味あることをピンカー氏は言っています。

「私たちが生存するためには、食物、水、睡眠が必要なように私たちには純粋な人間とのコンタクトが必要です。デジタルは情報を交換するためにはいいですが、人間関係や繋がりを深めるためのものではありません。サルデーニャ島のようの人々のように、私たちはもっと顔と顔を会わせて人と繋がる必要があるのです。それは長生きの秘訣です。」

 

英国人の実態

 

英国の研究報告によると、英国人はどの年代層であっても、睡眠を除く他の何よりもデジタル器具やスクリーンに時間を費やしているそうです。そして多くの場合一人でそうしています。訓練された教師に一年習ったり、家族でいつも一緒に食事をすることによって得られる益よりすばらしい効果のあるアプリなど存在しません。英国人の四分の一は、人々と感情的な繋がりはないと言っています。

又、三分の一の人は、広いコミュニティーと繋がってはいないと感じています。もし男性が女性くらい長生きしたければ、又、都会の人が地中海の村人くらい長生きしたければ、近所の人と話ができる場所に住む必要があるのです。幸せに長生きしたかったならば、人との交流が必要です。

私は「Happy」という映画を見たのですが、それは地球で最も幸せな人たちをさがして世界中を旅する映画でした。それは人々同士が交わり繋がって生活しているコミュニティーに住んでいる人達でした。彼らは互いに気をつけ合っているので、安心して暮らしていました。彼らは孤独ではありませんでした。彼らは原住民で貧しい人達でしたが、幸せだったのです。

 

私の体験

 

私は2000年に、それまでしていた多くのミニストリーをすべて止めて旅にでました。回りの人たちは、私が何か問題にぶつかったのか、と考えたようです。というのは、毎週のように世界中で大きなミニストリー集会をしていたのに、急に全く世間から姿を消したからです。でもそうではなく、私は自分と神との関係をはっきりと見出したかったからなのです。

私は二代目のクリスチャンで、教会で育ちました。そして16歳のときミニストリーを始め、その道をまっすぐに歩いてきました。その中で私が尊敬していた多くのミニスター達が道徳的、また感情的失敗を犯すのを見ました。又、ミニストリーにありがちな「駆り立てられるような」ミニストリーに私も陥っていきました。今の社会はどの分野においてもそうですね。

しかし、神が大きく動かれる時のことを調べると、それはいつも神が人の心の中に働かれて救いを与え、その結果として教会が成長しています。ですから、私は人の心にどのように神が現れ、どのように人が神を愛するようになるのかを見つけ出したかったのです。

 

救いとは人が神を恋い慕い愛することです。しかし、「救い」は結果としての「実」であって、あなたと神が一つとなる「根の組織」で起こることではありません。枝に実る実が救いですが、根がなくてはそれは起りません。

ハイディ・ベイカーの夫であるロン氏の言っていたことを私はよく覚えています。彼は5代目のクリスチャンですが、彼の祖父は中国の宣教師で、そこで本物の神のムーブメントを体験しました。それは孤児達が毎日神とすばらしい出会いをするようになり、それが何ヶ月も続くこともあったそうです。

孤児たちは読み書きができなかったにもかかわらず、聖書の箇所を沢山話すようになりました。子ども達はイエスや天使等に出会いました。

ロンの祖父が属していた宣教団体は福音派で、救いに直結していない霊的、超自然的な出会いに心を閉ざしていたので、祖父は本部への報告書にそれを書くことを控えました。

「このような神との出会いで人々は救われ、教会は成長する」と私たちは結論づけますが、ロンが注目したのは、そこではなく「子ども達がイエスと出会い、イエスがご自分の心の秘密を子どもたちに話した」ということでした。

イエスが初代教会の人々と持っていたのと同じ関係を子どもたちは持っていたのです。そしてイエスというお方、実際には会ったこともないユダヤ人であるイエスを愛し恋いこがれました。その出会いを宣教師が導く必要はなかったのです。

 

子どもたちは教会や村で、自分が読んだ事のない聖書を教えました。それまで福音に堅く閉ざされていて、ロンの祖父が何十年も実を得ることができなかったその地方に、ものすごい御国がもたらされたのです。神が介入された故に多くの実がなりました。私はこの話を聞いて、このような歴史的事実が教派の教義の故に握りつぶされたことが他にも沢山あったのではないかと思いました。

このようにイエスと直接出会うことによって、多くの魂が救われ、多くの教会が生まれました。この話を聞いたのは私がマイク・ビクル師のところで彼の「キリストの花嫁」研究の手伝いをしていた時でした。私は世界中のキリストの花嫁に関する記録を調べましたが、そのほとんどは極く初期の教会、あるいは初期のカトリック教会の信者たちの体験によるものでした。彼らは神への愛に捉えられ、心と霊において神と同じ空間にいることを感じ悟ったのです。

 

それは私の心を真にとらえました。なぜならば、カトリック教会が出来る前からこのような人々の流れがあったからです。宗教の縛りから自由になって「神よ、私はあなたを知りたいのです。あなたがそれを望んでおられますから。」と言った人たちがいたのです。そして私も「神が私たちに知られたいと思われるように、私は神を知りたい」と思いました。それは神の霊である聖霊を通して可能です。イエスご自身が聖霊が来られることを弟子たちに3度約束をされました。

ヨハネ14:16には「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。」とあります。聖霊は来て、話されるのです。聖霊は御父から聞いたことを直接あなたに話されるのです。又、第一コリント2:10に「御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれる」とあります。聖霊が御父と私たちの心の深みを結びつけてくださるからです。

 

脳という素晴らしい器官

 

私は脳という器官が大好きです。というのは脳は身体の中で唯一他と交わりを持つ器官だからです。あなたの脳は人々と交わることによってのみ発達します。あなたには神経可塑性と呼ばれるものがあり、それは脳が発達し変ることが出来る能力のことです。心臓や肝臓と違って脳がすばらしいことは、脳に損傷が起こったり、又は何かの中毒になったり、PTSD(心的外傷後ストレス障害)がある時、あなたの脳は神経可塑性により新しく造られたり、変ったり、癒されることができるのです。

脳だけがそういうことができます。けれども脳だけではできません。あなたが何を考えるかにより、又人との交流によって変るのです。それは神が私たちの脳に与えられた本当に素晴らしい能力であり、「他の人の霊の真似をする」という働きです。そして脳が人との交流によって発達するとき、特に小さいときに時を過ごした人々、あなたを育てた人(普通は両親ですが)が脳の発達に及ぼす影響が一番大きいのです。あなたが小さいとき最も世話をしてくれた人が、あなたの神経生物学的機能を形造り始めますが、それは聖霊の業と似ています。

 

 私たちが神にどうやって繋がるかと言えば、それはまず第一に、私たちには神のマインドが与えられているからだと思います。第一コリント2:16には「いったい『だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。』ところが、私たちには、キリストの心(mind)があるのです。」とあります。ですから、私たちが神と共に過ごす時、クリスチャンとして形造られ、キリストの心(マインド、物の見方、理解)によって形成されていくのです。(続く)


20 05月

癒しについて(そのニ) ジャック・ディア 2019年5月20日


癒しについて(そのニ)

 

ジャック・ディア

 

 

 

神はすべて癒されるか

 

 ここで申し上げておきたいのですが、私は神の癒しを信じていますが、すべての人が癒されるのが御心だとは信じていません。そのように信じている友人も沢山いますが、彼らはイザヤ53:5の「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」を、その根拠としています。確かにこの言葉は本当です。イエスの十字架の死によって、私たちは癒されたのです。

しかしそれは身体の癒しだけではなく、私たちが与えられる祝福のすべては十字架を通して来るのであって、十字架なしに来るものはありません。しかしここで一つの問いがあります。それは

「すべての人がすべての身体の癒しをこの世で生きている間に受けることを、十字架は保証しているか?」という問いです。私はその質問に対して「いいえ、十字架はそれを保証していません。」と答えます。

 

「十字架は、私たちすべて主を信じる者が天国において究極的に癒しを受け取ることを保証しているが、この世で生きている間に受け取ることは保証していない。」と私が言う理由は、そういう確実な約束は聖書の中にないからです。新約聖書には癒されなかった人の例を見ることができます。例えば、パウロはテモテに「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。」と言っています。

パウロはテモテのために何度も祈ったに違いありませんが、彼は癒されず、それでパウロは胃等にたびたび起きる病のために薬として少量のぶどう酒を飲むように勧めたのです。それでパウロはテモテを叱責していません。

私たちの教会でもそのようにしています。すべての人の癒しを祈ります。そして祈りが答えられて癒されるまで、あるいは神が「もうその人の癒しのために祈るのはやめなさい」と言われるまで、祈るのです。祈っても癒されないときに、「神は癒す力を持っています。あなたのために祈った私も信仰を持っています。でもあなたは癒されませんでした。あなたの人生に何か罪があるに違いありません。」とは決して言いません。それは非情なことです。

 

病気になった人は、もうそれだけで落ち込んでいます。ですから更にその上に罪責感を与えるのは最悪のことです。私たちは「どうして癒されないのかわかりません。でもあなたのために祈り続けますよ。」と言って、私たちはすぐに癒されることもあり、時には何週間も祈り続けて癒されることもあります。

 

憐れみ(compassion)の意味

 

神は「憐れみ」によって人を癒されることが多いのですが、新約聖書の「憐れみ」という言葉を調べてみると非常に興味深いことがわかります。それは「腸、はらわた」という意味があるのです。なぜでしょうか?それは私たちが誰かの痛みを感じ、心から同情し憐れむならば、私たちはその深い感情をお腹の底で感じるからです。

しかし、旧約聖書で使われている言葉を見ると、さらに興味深いものがあります。神の憐れみを表すヘブル語は 「rachemラケム」ですが、それは「子宮 womb」という意味を持ちます。神の憐れみを表すとき、彼らは「子宮、胎」という言葉を選び、神の永遠の母親のような憐れみを表したのです。どうしてでしょうか?

ヘブル人の男性は妊った妻が胎の子に抱く感情が、自分が抱くものとは全く違うことを知ったのです。母親が胎児に抱く感情は男性の理解を越えて犠牲的であり、献身的であり「何としてもこの子を守る」という思いです。

 

妻の祈り

 

私は25歳の時、1973年5月18日にテキサス州で結婚ました。妻とはヤング・ライフというミニストリーで一緒に働いた時に知り合い、翌年に結婚しました。私が神学校でドクターコースで学んでいる時でしたが、ある日、彼女は帰宅してにっこり微笑んで、「赤ちゃんができたわ。」と言いました。

私もうれしくて幸せでした。でも経済的にはどうしようか、と思いました。幸い、私が学んでいた神学校から教えるように招かれて、その健康保険で出産もできることがわかりました。ところが、妻が流産する可能性が出てきました。出血が始まり、知り合いの医者に見てもらうと、「私はお二人をとても愛していますが、『赤ちゃんは大丈夫ですよ。』となまじっかな希望をもたせたくはないのです。お薬をあげますから、家にかえって安静にしていてください。でもあなたのお腹の赤ちゃんは多分助からないでしょう。あなたはまだ若いし、またすぐ子供はできますよ。」と言われました。

それで私たちは小さなアパートに帰り、黄緑のソファに座って二人で泣きました。妻はあまりに激しく泣いたので、目が腫れて開かないほどになってしまいました。私は色々なことを思い巡らしていました。「神様、あなたは私たちに赤ちゃんを与えてくださって、それでもってこんな風に又取り上げるんですか?なぜですか?」と。

 

そして別の医者の意見も聞いてみたいという思いが浮かび、親友のお兄さんのジョーが医者だったので、早速彼に電話をしてみました。「ジョーさん、妻が流産の確率が高いと言われたのですが、、」と言って妻の症状を話すと、

彼は「最初の医者の診断は正しいと思います。80%その赤ちゃんは助からないでしょう。それに、ジャックさん、もしその赤ちゃんが生まれたとしたら、一生育てるのに苦労をしますし、経済的にも大変でしょう。流産はかえって祝福かもしれませんよ。」と言いました。その時、私はその言葉に慰められました。(今なら決してその言葉を受け入れたりはしないでしょう。でも当時私は神は癒される方であることを知らなかったのです。)そして妻のところに行き、ジョーの言葉を伝えました。

でも妻は泣き続けました。私はもう一度少し大きな声でジョーが言ったことを繰り返しましたが、彼女はそのまま泣き続けました。私は少しばかりいらいらして彼女の肩を抱いて自分の方を向かせようとしました。すると彼女は私をつき放して言いました。「初めからちゃんと聞こえていますよ!ジョーが言ったことなんか、私はどうでもいいのです。神様が与えてくださる赤ちゃんならどんな障碍があっても私はいただきます。そしてこれから一生涯面倒を見ます。この赤ちゃんを失うことだけは絶対いやです!」それを聞いて私は黙りました。「一体どのようにして彼女はそんな風に思えるのか、お腹の中にほんの短い間存在し始めたばかりの赤ちゃんに対して、どうしてそのように強い愛情を持つことができるのか、どうしてこの赤ちゃんを失うことが最悪のことだと思うのか」と私は考えていました。

「どこからこのような感情が母親には生まれるのだろうか。彼女は妊ってから気分が悪くなったり、命まで脅かされたというのに、この子を失うのは最悪のことだと言っている。」と思い巡らしているときに私は「racham 胎」という言葉を聞いたのです。「そうか、これがそういうことか!これが優しい母親の愛なのだ。神よ、あなたが私たちに感じておられるのはこのような愛なのですね!」と私は心の中で叫びました。

「私たち人間は本当にお腹の赤ちゃんのようで、私たちがしたことと言えばあなたを傷つけ、あなたの息子の命を奪ったことなのに、あなたはこのような小さな者の一人でも失うのは世界で最悪のことだと言われるのですね!」

 

それからも妻のリサは祈り続けていましたが、本当に恥ずかしいことですが、私は赤ちゃんが助かるようにと祈ることができませんでした。それは、神は最早癒されることはないと信じていたからです。「神は新約聖書の正当性を証明するために当時は癒しを行ったのだ」と信じていたのです。

しかし、妻は毎日祈り続け、出血も収まってきたので、先生の助手の仕事に戻りました。皆彼女が切迫流産の兆候があることを知っていました。流産の経験のある人が、「大丈夫よ、また子供はできるわよ。私もそうだったわ。」と慰めてくれるとき、彼女は心の中で「でも、私はこの子がほしいのです!」と叫んでいました。

そして妻はずっと祈り続けました。 彼女は診察に行く度に、もしかして心音が聞こえるかもしれないと期待しました。4ヶ月目には聞こえるはずでした。

医師は「リサさん、心音は聞こえません。子宮掻爬をする必要があります。」と告げました。でも妻は「いいえ、しません。」と答えました。医師は「リサさん、今しないとあなたが病気になったり、将来もう子供が出来なくなるかもしれませんよ。」と繰り返しましたが、リサは「いいえ、しません。」と答えたのです。医師は言いました。「わかりました。一歩譲ってあと一週間待ちましょう。来週の金曜の朝10時に来てください。その時心音が聞こえないならば、掻爬を施します。いいですね。」リサはそれでも「はい、わかりました。」とは言いませんでした。そしてそれから7日間、昼も夜も祈ったのです。

そして次の金曜の朝医師のところに戻りました。彼が聴診器をあちこちにあてはじめたとき、リサは「神様、お願いします!神様、お願いします!」と祈っていました。「このあたりでは聞こえませんね。」と医者は言って、少し下のほうを調べてから微笑んで「弱いですけど、心臓が動いています。赤ちゃんは生きています。」と告げました。けれども彼は「すべて大丈夫」という保証はしませんでした。

 

長男の出生

 

1976年6月28日、私たちの長男スティーブン・ディアはまったく健康な身体で生まれました!彼は決してあきらめなかった母親の祈りの翼にのってこの世に生まれたのです。彼の母は彼が胎の中にいた時、神の憐れみ(compassion)を心に抱き続けていたのです。

もし「神は今は癒されない」と言う人があるならば、私は「じゃ、神の憐れみがどこに消えたのか教えてください。私たちの痛みを神がいつから感じなくなったのですか?いつから私たちの祈りに答えてくださらなくなったのですか?

どうして神は1世紀には奇蹟によって憐れみを表現されたのに、今はそうされないのですか? どうか納得のいく説明をしてください。」と言うでしょう。

 

私が誰かのために祈るときは、「主よ、あなたがこの人のために感じているように私にも感じさせてください。」と祈ります。又、神は「ジャック、あなたはあれもこれも怠りましたね。昨日あなたがしてしまったことを覚えているでしょう?私がするなと言ったことをしましたね?」とチェックするような方ではないと信じます。私はそのような神に仕えてはいません。

又、私が仕えている神は私たちに癒される資格や権利があるから癒す方ではありません。神は弱く、未熟で、しっかりしていない人々を癒してくださる方なのです。どうしてわかりますか?

それは人間はすべてそのような者、即ちあなたや私のような者だからです。又神は信者か信者ではないかによって決める方でもありません。未信者のために祈る人があれば、神は信者と同じスピードで癒してくださいます。

 

誰かがあなたのために祈り始めるとき、あなたは自分の罪を想起するかもしれませんし、このような声を聞くかもしれません。「確かにメッセージは本当だろうよ。神は人々を癒すさ。でもそれはあなたのような者ではなくて、もっとキチンと生活している人を癒すんだよ。だからお前ももう少し生活をちゃんとしてから癒しを願った方がいいよ。」これは告発者であるサタンの声です。私たちを非難し責める声であり、その目的は私たちが「神の善意は私たちが善であることを条件としている。あなたが善でなければ神の善を経験することはできない。」と思わせることです。

けれどもそれは全く逆だと私はわかりました。17歳のとき神が私の寝室に来て私を見つけてくださったとき、私は良い人間ではありませんでした。私はスコット・マンリーというすばらしいメンターを持つ資格など何もありませんでしたし、私の人生の光である息子を持つために私は何もしませんでした。

実際私は彼の命が保たれるようにという祈りさえしなかったのです。私が持つすべての良いものは、思いがけない贈りものでした。私がそのために何かをしたのではありません。

確かに私は人生における苦しみ、痛みも経験しましたが、痛みに関する小さな秘密を教えましょう。苦しみの中を神と共に通るならば、あなたはその苦しみをも神が良いものへと変えてくださると感じるのです。つまり、神はあなたの破れの中であなたをもっと強くし、あなたに力を与え、その破れ故に誰か他の人を助けることができるようにしてくださいます。そして神の喜びをもっと知るようになるのです。

私はある人たちのように「人生はつねに素晴らしいはずだ。私たちが祈ればすべての人は癒されるはずだ。」とは思っていません。人生はそのようではありません。時には信じられないほどに激しい痛みがあります。しかし神はそれを乗り越える恵みを与えてくださいますし、あるいは奇蹟を起こしてくださるのです。

神はどちらにせよ常に恵みを下さいます。「お前には資格がない。」という声を聞いたならば、「その通り、私には資格がない。でもサタンよ、ここから出ていけ!」と言えばよいのです。

私は良い人間だから祈るのではありません。私はいつかお返しが出来るから奇蹟をお願いするのではありません。私は血潮によって贖われた生ける神の子供であり、私はただイエスの血潮を通して神の御前に行き、決してお返しができない奇蹟をお願いするのです。

 

ジョン・ウィンバーから学んだこと

 

私は20世紀の偉大な指導者の一人であるジョン・ウィンバーから癒しの祈りを教えてもらいました。一つのポイントはそれをあるフォーミュラ(定式、方式)にしてはいけないということです。先週起こったことが今週も起こると思ってはいけないのです。又、彼は決して「癒しが起りそうなムード作り」もしませんでした。人々に癒しを約束もしませんでした。

彼はただ静かに神の導きを待ちます。神はどこで何を癒しておられるか、どこから始めればよいのかを聞くのです。それはヨハネ5:19に基づいていることです。イエスは「わたしは父がしておられるのを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。」と言われました。その日イエスはベテスダの池(そこには多くの病人がいました)に行かれましたが、そこではただ一人だけを癒されました。どうしてでしょうか?それは御父が一人だけ癒されていたからです。

ウィンバー師はいつもチームを用いていました。自分が「癒し手、ヒーラー」であるとは決して言いませんでした。常にイエスが癒す方であり、主の力と憐れみが多くの人を通して流れ出るようにされるのです。彼はいつも言っていました。「教会の中で私が最も癒しの賜物を持っている者ではありません。自分より人々のために癒しの祈りが出来る人たちが少なからずいます。」ですから今日もそのようにチームで祈っていきたいと思います。(終り)


13 05月

癒しについて(その一) ジャック・ディア 2019年5月13日


癒しについて(その一)

 

ジャック・ディア

 

 

私は神学校に入るとき癒しを信じていませんでした。

神学校を卒業する時も、本当に癒しを信じていませんでした。

その神学校の教授になったときには、本当に全く癒しを信じていませんでした。

 

私が信頼していた著名な教授たちがそう教えてくれたのです。けれども、もし現在において癒しはないとするならば、何故神が昔は癒しを行ったのかを解明する必要があります。

 福音書を見るとほとんどすべての章に癒しの業が書かれています。書簡を見ても癒しに関する記述で満ちています。ガラテヤ3:5でパウロは「とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行われた方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。」と問いかけています。

この言葉は、紀元49年にガラテヤ教会では当然のように奇蹟が起こっていたことをパウロが認識していたことを示しています。

 これは非常にパワフルな事実です。

このような言葉が聖書にあるのを私が知らなかったのは、私がガラテヤ書を読んでいなかったからではなく、教授たちが「神はそのような奇蹟はもう起こされない。」と言うのを聞いて私の目に覆いが掛かっていたからなのです。

 

使徒行伝とは何か

 

使徒行伝のすべての章で癒しや 超自然的なことが書かれているのを、皆さんはご存知でしょうか。

そもそも使徒行伝とは何でしょうか。ただ新聞記事のようなものでしょうか。「当時はあの事やこの事が起こりましたよ」という報告でしょうか。違います。なぜならば、それでは聖書の原則に合わないからです。

 

第二テモテ3:16には「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」と書かれています。

使徒行伝は新聞記事ではなく、「教会のあるべき姿のブループリント」なのです。それは教会形成のための情報であり、そのすべての章で何か超自然的なことが起こっているのです。

 私は以前「でも使徒行伝17章は例外だ。何も超自然的なことが書かれてない。」と思っていました。パウロが哲学者たちに話していますが、そこでは奇蹟は起こっていません。しかし、パウロの話を聞いて信仰に入った人たち「アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々」がいたのです。誰かが福音を信じたということは、奇蹟ではありませんか!確かに全ての章で預言、奇蹟が起こっています。どうか使徒行伝28章を通して読んでみてください。そして各章で超自然的な出来事が起こり、あるいは超自然的な出来事が報告されているのを見てください。

福音書でも奇蹟が語られ、使徒行伝でも語られ、書簡ではそれに関しての記述があり、黙示録ではそれが預言されているのです。

 

現在の癒しの欠如

 

それでは、今日そのような超自然な出来事がほとんど起こっていないことをどう説明すれはよいのでしょう。人々は次のようにそれを説明しようとします。

「イエスが奇蹟を行ない、また、使徒たちが奇蹟を行った理由は、使徒たちが信頼すべき教義の教師であることを示すためであった。

しかし現在、我々は教義を聖書の中に与えられているので、もはや奇蹟は必要ではない。」

確かにこの議論は「神学的」ですし、納得できます。しかしながら、聖書の中にそれを裏づける言葉は一つもないのです。

 これに関しての私の経験は次のようなものです。私が神学校ですでに10年ほど教えていた頃のことです。私は博士コースの学生を指導し、又ヘブル語の授業も受け持っていましたが、ある時、癒しを信じているだけではなく実際に病人のために祈って癒しを起こしている人からチャレンジを受けたのです。

 その人はジョン・ホワイト博士と言いましたが、私は彼の著書はすべて読み、それを教会で教材として用いてもいました。ある時私は彼に電話で話していた時に、癒しを実際に見たことがあるかどうかを訊ねました。

彼はすぐさま2つほど奇蹟的な出来事を話してくれましたが、私はそれがうそでないことが分かりました。

そこで私は「癒しの賜物は現在もう与えられないこと」を 、いつも学生たちに説き納得させてきた議論を用いて彼に証明しようとしました。

 

 私はフォートワースの西部にある教会の牧師をしていましたが、私の議論は教会ではいつも成功していました。私の議論を打ち負かした人は今までいなかったのです。どうしてかお分かりでしょうか?それは「もはや神は癒しを行わない。」とすでに信じている人達と話をしていたからです。

ですから、ホワイト博士のように聖書を熟知していて、しかも違う意見を持っている人と私は議論をしたことがなかったのです。

私は懸命になって反論しました。「ホワイト博士、曲がった骨が真っすぐになったり、赤ちゃんのアトピーの皮膚が目の前できれいになったのは、確かに本当だったでしょう。それを疑っているわけではありませんよ。でもそれは癒しの賜物によるのではありません。神はもうそういうことはされないからです。」と言って、私はいろいろな根拠を並べました。「あなたは心理学の教授かもしれませんが、何といっても私が聖書の教授ですからね」と、心の中で思っていました。

 

私は一番目の論点を彼にぶつけましたが、彼はすぐにそれを打破してしまいました。「えっ!こんなことは初めてだ!」と私は驚きました。

私は自分の正しさを立証するあと4つの論点を頭の中で考えながら、ふと思いました。「ホワイト博士は私が10年以上尊敬してきた人だ。彼の著書は全部読んだし、彼は聖書のことをよく知っているし、敬虔な人だ。私は彼の友達になりたい。そうだ、彼を私たちの教会に招こう。」

それで私は「ホワイト博士、私たちの教会に来て癒しについて教えてください。」と言いました。彼は「いいですよ。でもジャックさん、あなたの教会に行くならば、その時病人のための祈りもしたいです。」と言いました。

私は「えっ!教会でですか!? 本当に教会で癒しの祈りをする必要があるんですか?」と驚いていいました。(笑)

私たちの教会では病人のために祈ったことは一度もなかったのです。

私たちが礼拝の中でしたことは、報告の時に病気の人のリストを読み上げて「これらの人々のために祈ってください。」というだけでした。それで誰も癒されなくても、別に何とも思いませんでした。

病院に見舞いに行った時も、「癌よ、去れ!」とか、「お腹が癒されるように」とは祈りませんでした。

ただ「神よ、医師の手を導いてください。病人を慰めてください。」と祈っただけでした。「もしホワイト博士が教会で病人の癒しを祈ったならば、癒しは起こらないだろうし、それを見て人々は信仰を失うだろう。」と私は考えました。

 

確かに他にも祈ってもきかれなかったことは沢山ありました。それで私の信仰がなくなったということはありませんでしたが、なぜか病気の癒しは特別だと思いました。

彼は言いました。「実際に癒しの賜物をデモンストレートせずに、ただ話だけすることはしたくありません。」

私は「どうしてですか? 神学校ではいつもそうしているではないですか?

学生たちに『人々をキリストに導かねばなりません。』と教えても実践はしません。教えるだけではいけないのですか?」と言いました。

彼は「駄目です。人にやり方を見せなければなりません。」と答えました。

 

私は教会のリーダーたちと相談をしました。彼らも又「教会でですか?」と驚きました。(笑)私たちは2時間話し合った末、ホワイト博士に来ていただくという結論に何故か達しました。決まったのは1月でしたが、博士が来るは3ヶ月後でした。

私はその3ヶ月間、毎日次のことをしました。

私は新約聖書に書かれている癒しをすべて調べました。そしてそれぞれの癒しに対して一つの同じ問いをしました。「イエスよ、あなたはなぜ、この癒しの奇蹟をされたのですか?」という質問です。使徒に対しては「あなたが教義を教える資格があると私たちにわかるように、癒しを行ったのですか?

それが聖書で言っていることですか? それが理由ですか?」と訊きました。

 

その結果は驚くべきものでした。癒しがなされた理由は1つだけではなく、12以上あったのですが、「新約時代への移行のため」をその理由として説明している箇所は一つとしてありませんでした。

というのは「新約時代への移行のため」が私の神学校が用いていた理由だったからです。つまり「歴史上、人々は新しい神の言葉、新しい本(即ち新約聖書)へと移行しようとしている時であったから、神は癒しをされた。即ち新しい本は権威があり信頼できるものであると認定される必要があったので、神はイエスや使徒たちによる癒しの奇蹟でそれを実証された。そして新約聖書は、今やその権威を認められたので、歴史上の移行は完成された。故に最早癒しを起こす必要はなくなった。」というものです。

 

しかし私が聖書にある癒しの記事を一つひとつ詳しく調べた結果、それが起こった理由が「歴史的推移、移行のため」であるものは一つもなかったのです。

癒しの奇蹟は、神の変ることのないご性質、又神の人々に対する思いに根ざしていました。例えば使徒行伝9章には2つの奇蹟が書かれています。一つは中風で8年間床に着いていたアイネヤが、ペテロの言葉で立ち上がりました。そして、「ルダとサロンに住む人々はみな、アイネヤを見て、主に立ち返った。」と書かれています。次にドルカスが死んでいたのに生き返り、それが「ヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた」のです。

これによって、神が人々を神に導くために奇蹟を用いられることがわかります。しかしながら奇蹟が福音伝道にいつも繋がるとは保証されていません。例えばパリサイ人はいろいろな奇蹟を見ましたが、彼らの心はかたくなになりました。しかし奇蹟は人々の興味を引き、彼らの心が神に触れられる機会をつくり出します。

又、神は信仰に応答して癒されます。12年間長血をわずらった女がイエスの着物の房にさわって癒されたとき、主は「娘よ、あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」と言われました。

「イエスは善き方、イエスは御ことばを成就する力がある方、イエスは信頼できる方」と確信する信仰をもって私たちが行動するとき、癒しの力は解き放たれるのです。

中でも私の注意を一番引いたのはマタイ14:13です。

「イエスはこのこと(バプテスマのヨハネがヘロデに殺されたこと)を聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。」

イエスは一人になりたかったのです。人々のために祈ることもしたくなかったのです。弟子たちだけと静かなところに行きたかったのです。しかしイエスは「舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された」のです。

 

イエスは人々をさけたかったのですが、病気の赤ちゃんを抱えた母親や、悪霊につかれた人の手をひいている男の人、皮膚病の人がご自分の方に来るのを見て、主は「彼らを深くあわれんで」癒されたのです。

主は人々の痛み、苦しみを見て動かされ、ご自分の必要を後回しにして、人々を受け入れ、癒したのです。それでは主はなぜ人々を癒されたのでしょうか?

憐れみの故でしょうか? しかし、その人が癒されても癒されなくても、

主はその人に対して同じように憐れみを持っておられます。そしてある人には病に耐える恵みを、ある人には奇蹟の恵みを与えられるのです。どちらの場合にも主の憐れみは変わりません。しかし新約聖書において主は、非常に多くの場合癒すことによってご自分の憐れみを表しておられます。そして主が「主の憐れみ」の故に癒された例は数多いのです。(続く)


29 04月

私を変えた3つのみ言葉(その2) ジャック・ディア              2019年4月29日


私を変えた3つのみ言葉(その2)

 

ジャック・ディア

 

 

二つ目の祈り

 

このように私は、「神への情熱」を持つための実践的な道を見出しました。次に私が出会った二つ目の祈りは、ヨハネ15:15にあるイエスの言葉「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。...わたしはあなたがたを友と呼びました。」によります。

このみ言葉によって衝撃を受けたのは40代の時でしたが、すでに私は友情に関しては知り尽くしていました。というのは、私の育った家には愛というものがほとんどなかったので、家の外に愛を求めるしか道がなかったからです。それで私は小さいときから必ず一人か二人は親友を持っていたのです。

 

本当の友情がどう言うものであるか、お話ししましょう。「その人のために何かをしてあげるのが友情」では決してありません。「その人に忠誠を尽くすのが友情」ということですらありません。友情とは、その人と一緒にいるときに私が感じる喜びです。友情とはその人から愛されていると感じる時に自分の重要性、存在価値を感じることです。

そしてこの友情こそ、ずっと神が私たちに求めてこられたものです。アブラハムやダビデ、ヨセフ、ダニエルの話を読んでみてください。このような友情こそを神は求めておられたのです。神は人々が「神を喜び楽しみ、又神も自分を喜び楽しんでいてくださると感じること」をずっと願っておられたです。

そしてイエスはそのことを公言されました。「わたしのあなたたちへの愛を感じてほしい。わたしを喜び楽しんでほしい。」と言われたのです。

 

マイク・ビクルが再び、私の前に現われて言いました。「ヨハネがイエスの一番の親友だったことを知ってるね。」と。私はちょっと考えてから答えました。「ああ、本当にそうですね。ヨハネの福音書を数えきれないほど何回も読み研究してきたけど、ヨハネがイエスのベストフレンドであったことは確かですね。」

 

他の福音書の筆者たちはヨハネを「使徒ヨハネ」と呼んでいますが、ヨハネは自分が書いた福音書で自らを「イエスが愛された弟子」と呼んでいます。自分のアイデンティティーを「神に愛されている者」と言うことをどう思いますか?

「自分がどのような立場や地位のものか」とか、「どれほど豊かであるか」とかではなく、「神に愛されていること」を自分のアイデンティティーにするのです。

ヨハネは自分の真のアイデンティティーを「神が愛されている者」としたのです!ヨハネは主イエスのベストフレンドであり、それはヨハネの福音書全体を通して見ることができます。例えば最後の晩餐のことを見てみましょう。

 

イエスは弟子たちが周りに座っていたとき、「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」と爆弾宣言をされました。皆は「それは一体誰だろう?」と心の中で思いまどいました。

彼らは多分ペテロが何か言うかを待っていたでしょう。ペテロはいつも最初に口を開くのですが、このときは何も言いませんでした。そしてみんなは「ヨハネならイエスに聞くことができるだろう。」と思ったのです。そこでペテロはヨハネ(イエスが愛しておられた者)に「だれのことを言っておられるのか、知らせなさい。」と言いました。ヨハネはイエスにそれを訊ねるのを恐れないと知っていたからです。

あなたはベストフレンドになら何でも恐れずに聞けますね。ヨハネはどこに座っていましたか?イエスのすぐ横でした。ですからヨハネはイエスに向いて「主よ、それは誰ですか?誰があなたを裏切るのですか?」と訊ねたのです。

イエスは「ヨハネ、それはわたしがこのパン切れを浸してから与える者だよ。」と言われ、それをユダに与えられました。そこでヨハネはベテロに「それはユダだよ。」と教えました。簡単なことです。それがベストフレンドということです。ベストフレンドなら何でも訊けるのです。

 

ときどき私は神学者の友人たちにこのように話すことがあるのですが、彼らはいらいらしたように「イエスが他の使徒たちよりヨハネをもっと愛したなんてことはない!」と言います。私は仕方なく「全くあなたの言う通りですね。」と言うのです。

 

 しかし、友情とは愛することだけではありません。愛だけで友情を保つことはできません。あなたの親友のことを考えてみてください。ただ彼らを愛していくだけではなく彼らを信頼していますね。

信頼がなければ親友にはなれません。信頼がなければお互いの心を明け渡すことはできません。私が私の息子スコットを愛した以上の愛で愛した友はいません。しかし私とスコットは友達になることはできませんでした。それは私たちがお互いを信頼することができなかったからです。スコットは22歳で自ら命を断ってしまいました。

イエスがヨハネを信頼していたことは、主の十字架の苦しみの時に見ることができます。天地の主である方は十字架の上からあまねく全地を見渡されましたが、唯一イエスを見捨てなかったのは、母マリアと数人の女性、そしてヨハネだけでした。

私は目を閉じるとイエスがご自分の母親を見下ろしているのが見えるのです。主は母マリヤの顔に浮かんでいる深い苦悩と戸惑いを見ておられました。マリアは天使ガブリエルが告げた偉大な約束と今見ていることとの矛盾をどう理解すればよいのかわからなかったことでしょう。

私には母マリアを見ながらイエスが考えておられたことが分かるのです。「私の弟たちは駄目だ。彼らは私を信じてもいないのだから。他の使徒たちも駄目だ。みんな私を見捨てていった。ヨハネ、ヨハネ、お前だけがわたしにためにいてくれる。」

 

イエスはそしてこう言いました。「お母さん、今からヨハネがあなたの息子です。」次に主はヨハネに「さあ、この人はあなたの母親です。」イエスは地上で最も大切な人を唯一信頼できるベストフレンド、ヨハネに託したのです。

 

マイク・ビクルはこう言いました。「あなたもイエスのベストフレンドの一人になれるように祈ったらいいんですよ。確かにそれは突飛で途方もない祈りですよ。でも神は突飛な神様ですよね。目指すなら最高を目指すべきですよ。」

そこで、私はそのように祈り始めました。「父よ、あなたが主を愛するように私も神の御子を愛せるように、どうか聖霊の助けをお与えください。」という第一の祈りに加えて、「主イエスよ、どうかあなたのベストフレンドの一人になれる恵みを私に与えてください。私もヨハネのようになりたいのです。」と祈りました。

 

三つ目の祈り

 

この二つが私の人生の切なる祈りとなりましたが、次に今から5年前、私の心は3つ目の祈りにとらえられました。それは詩編27:4です。

「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさ(beauty)を仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」

そこで、私は「父よ、今日あなたの麗しさを仰ぎ見る恵みを私にお与えください。」と祈り始めました。

友人の中になにか麗しいものを見る度に、私のその友人に対する愛が増し加わります。ですからもし神の、そしてイエスの中に麗しさを見ることが出来るならば、私の主に対する愛も増し加わると私は考えました。それによって心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛することが出来ると思いました。

私の人生の夢は心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛することです。でもそれが夢で終ってほしくはないのです。これは私に与えられた課題であり、成就させたいのです。

 

私たちがこの世を去る時に、天に持って行けるものは私の心の中にある神への愛だけです。地上でのミニストリーや私が書いた聖書の解説書や本を天国に持っていくことはできません。それで、私は毎日祈り始めました。「主よ、あなたの麗しさを見せてください。」と。ダビデがこの祈りをしたとき、彼は「主よ、あなたの全知能力に関する新しい真理を見せてください。」とは祈りませんでした。また、「神に関する神学的知識をもっとください」と祈ったのでもありません。彼は神を体験することを願ったのです。

 

トマス・アキナスは「美とは、我々に喜びを与えるものである。」と言いました。又 現代の彼の弟子は「美とは、まぶしくて目がくらむようなものである。」と言いました。ですからダビデの祈りは「主よ、あなたの麗しさ、美しさで私の目がくらむほどにしてください。私の目がくらむような、あなたの愛、あなたの憐れみ、あなたの親切さ、あなたの全知、あなたの知恵、あなたの全能を私が経験できる恵みをどうかお与えください。」と言うものだったのです。

 

5年前、私は教会で24/7の祈りをスタートさせたいと思い、「神の麗しさによって目がくらむとはどういうことか」を巧く説明できるものを捜していました。私は聖書解説書や聖書辞書を調べたり、いろいろな訳の聖書を調べました。

それは私がいつもする方法でした。しかしその日には神は本の中にはご自分の麗しさをひとかけらも潜ませてはおられませんでした。

2時間ほどで、私は本の中に主の麗しさを捜すのをあきらめました。そして書斎から出てゲストルームに行き、ベッドに横になり言いました。「主よ、あなたの麗しさで私の目がくらむまで、絶対ここから起きません。」

私は自分の人生の出来事をあれこれと思い出し、その中に何かまぶしいばかりの神の麗しさの体験があるに違いないと考えました。神の赦しや憐れみ、親切などの記憶をノートに書き出しましたが、「まぶしくて目がくらむ」ほどのものは一つもありませんでした。私は天を見あげて「神よ、何かもっとお出来になるはずです!」と嘆息しました。そう言った途端、スマホがチンと鳴ったので、ポケットから取り出して見ると、それはビデオが送られてきた報らせでした。

私は早速そのビデオを見ました。わずか18秒のものでしたが、私はそれを繰り返し見続けたのです。「あと一回だけ見てまた祈りに戻ろう。」と思うのですが、どうしても又繰り返し見たくなるのでした。そういう自分に可笑しくなってしまうほどでした。止められなくて、何度も何度も何度も見続けたのです。

 

それは生まれて2ヶ月になる私の初孫のレイチェルのビデオでした。寝ているレイチェルに向かって母親のリンデイとその母親のメラニーが「レイチェル、グーグーと言ってごらん!」と話しかけ、レイチェルが笑いながら「グーグー」と言っているビデオでした。

私はそれを見ていたのですが、突然「自分は今神の麗しさを見ている!」という思いが来ました。「11ヶ月前にレイチェルはたった一個の細胞だった」と思いました。その細胞もない以前には彼女は永遠の麗しさである神の思いの中に存在していたのです。そして今このような赤ちゃんとして私の目の前にいるのです。「私は今、まぶしいような麗しさに目もくらむほどだ!」と思いました。これはレイチェルの全人生を形成する時間の中のほんの一時に過ぎませんが、私にとってその18秒間は私の霊を大喜びさせる特別のものでした。

そして私は「声」を聞いたのです。「わたしがあなたを愛する思いは、あなたがレイチェルを愛する思いと全く同じです。」私は泣くじゃくり震えながらビデオを繰り返し見ました。やっと物が言えるようになったとき、私は「ありがとうございます、ありがとうございます。」と何度も言い、再び泣き続けたのです。

 

神は、感謝のない少年だった私を、赤ちゃんがグーグーと言うのに感動し感謝する老人へと造り変えてくださったのです。神はご自分のまばゆい麗しさで私を圧倒してくださったのです。この経験はもう一つの声にも語る機会を与えました。それは人生の多くの場面で私を陥れてきた悪の声でした。その声は「神がそんなことを言うはずはない。お前が勝手につくりあげた偽りだ。お前がレイチェルに対して感じるのと同じように神がお前を愛しているなんて、あり得ない!お前はあまりにも悪すぎる!」と言いました。

でも今回はその暗闇の声を聞いても、私はただ微笑み、その声に影響されることはありませんでした。それは、自分でつくりあげた嘘によって私が感動し泣きじゃくることなどありえないことがわかったからです。

 

皆さん、 神はすべての人にむかって「わたしはあなたを喜び楽しんでいるのですよ。」と告げたいと真に願っておられます。神は私たちに神の愛を毎日体験し感じてほしいのです。もし私たちが、「パーフォーマンス/自分の業」ではなく、「神が御子を愛するように御子を愛すること」に焦点を当てるならば、それは可能だと私は信じます。

 

祈り「父よ、どうか聖霊の助けにより、私たちがあなたのように御子イエスを愛するように、又、御子のベストフレンドになり、あなたの麗しさを仰ぎ見て、あなたの憐れみとあなたの愛を経験できるようにと毎日祈る恵みを与えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」(終り)

 

あとがきー坂 達也

 

二十年も前だったでしょうか、私たちがマイク・ビクル師のカンサス・シテイーの集会を訪ねた時に、このデイア師が講師の一人でした。その夜集会が終わって私たちがホテルの部屋に帰ろうとしてエレベーターに飛び乗ると、目の前に講師のデイア師が立っていて、にっこり笑って初めて会う私たちに二言三言親しく話しかけてくれたのですが、その笑顔がとても印象的で今でも忘れません。恐らくその集会で買ったのでしょうか、彼の書いた Surprised By the VOICE of GOD という本が二十年後の今でも私の本棚にあるのを見て懐かしく取り出して見ました。「神のみ声を聞く本」といえば、多くの預言者が書いておりますが、この方の本は技術的な方法論ではなく、むしろ神との親密さが鍵である事を強調していますのでそれをご紹介したいと思います。

「聖書でイエス程、御父の御声を聴ける人はいないと思います。それは子イエスが常に愛する御父の言われる事だけは絶対に聞き漏らさないと、24時間常にワクワクしながら待機しているからで、そういう人には父も最も多く語られるといいます。(ヨハネ5:19)するとそれは不公平だ、神は誰のいうことも公平に常に語るべきだと文句をいう人がいますがそれは誤解です。その証拠に「神は豚の前には真珠を投げない」と書かれている。申命記4:29に『主を慕い求め、主に会う。』とも書かれています。」とデイア師が書いている処に私は線を引いていました。どちらかといえば愛の少ない堅物の私は、理屈抜きにこのジャック・デイアの大ファンです。ー以上ー


23 04月

私を変えた3つの御ことば(その1) ジャック・ディア 2019年4月23日


私を変えた3つの御ことば(その1)

 

ジャック・ディア(Surprised by the Power of the Spirit 著者 Wellspring Church 牧師)

 

 

「というのは、律法はキリストによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」 (ヨハネ1:17)

 

神は教会を恵みで救われましたが、それ以後ずっと教会は、律法によって自分のアイデンティティーを見出そうとしてきました。神は私たちが喜び楽しむように「ひとりのお方」を与えてくださっているにもかかわらず、私たちは「律法」を守る道を選びとっているのです。

人の心は、放っておけば律法に頼るようにセットされています。私たちは律法に自分の保身・保証を置いているのです。律法を守る道は筋道が決まっています。自分でコントロールがききます。しかし「そのお方」がされることは、予想がつかず、コントロールもできません。

私は17歳のときに恵みにより救われました。それは1965年12月18日のことでしたが、それ以後四半世紀もの間、私の信仰生活のフォーカスは、その完全なるお方にではなく、自分のパーフォーマンス(クリスチャンとしての良き業)に置かれていました。今朝、そのような私がどのように変えられたかをお話ししたいと思います。それは聖書に書かれているたった3つの簡単な祈りの話なのであり、それを皆様にお薦めしたいと思います。

 

神への情熱

 

皆さんは「神への情熱 Passion for God」という言葉を聞いたことがありますか?私は当時38歳で、教会の牧師として成功していました。又私は福音主義神学校の教授でもあり、ヘブル語とギリシャ語を教えていたのですが、この言葉は聞いたことがありませんでした。私が最初にそれを聞いたのは、カンサスシティーのマイク・ビクルという33歳の人からでした。彼はIHOP (International House of Prayer)と呼ばれるムーブメントのリーダーですが、彼ほど世界中の人々に「心をつくし、思いをつくし、力をつくして神を愛すこと」を示し教えた人を他に知りません。

私はカンサスシティーで彼に会ったのですが、彼が「神への情熱」という言葉を口にした時、私は「えっ、何のことですか?」と聞き返しました。彼は「『神への情熱』ですよ。知ってるでしょう?」と言うので、私は又「何ですか、それは?」と言いました。マイクは再度「神への情熱ですよ、知ってるでしょう?」と言いました。でも私は「何のことかさっぱりわかりません。」と言うしかありませんでした。

私は神学的な環境でずっと学んできたので、「情熱」はよいものではないと教えられてきました。神学校の2年目、ギリシャ語のクラスで、教授が「自由主義者たちは物事を感じる。でも我々は考えるのだ。」と言ったとき、クラス中が拍手喝采して、「そうだ、我々は頭がいいのだ。自由主義のようではない。彼らは皆感情に操られている。我々の敵だ。」と口々に言いました。

ですから、感情は良いものではなく、かえって排除すべきものだと教えられてきたのです。

しかしこの考え方の問題点は、知識、知能を発達させるために心を犠牲にしてしまうことです。マイクは続けました。「神への情熱ですよ。神は私たちが神に従うことよりも、もっと神を愛することを願っておられるのです。私は神を愛する方法を見出しました。」

何ということでしょう、私は四半世紀のあいだ、 感情をほとんど除外する訓練をしてきたのです!例えば「神を愛するとは神に従うことだ。」と私たちは言うのです。でも、愛していない人にでも従うことが出来ることは誰でも知っています。確かにもし私たちが神を愛しているならば、神に従うでしょう。しかし、「愛」とは「従うこと」をもっと越えたものではないでしょうか。

マイクは神への情熱について語り続け、「ああ、私はもっと神への情熱を持ちたい!」と言いました。私は心に中でこう思いました。「今までの人生ではずっと情熱を持たないようにしてきたのに、今突然に変へられるものだろうか。」と。私は非常に問題だらけの家庭に育ちました。ですから何も感じないほうが生きやすかったのです。

マイクは 「それはね、ただ『神への情熱を下さい』と祈ればいいんですよ。」と言いました。私は何かの感情をくださいと祈ることなど考えたこともありませんでした。感情といえば、それをどのようにして押さえるか、それだけが焦点でした。でもマイクは違いました。感情を与えてくださいと祈れと言うのです。

「どこにそんなことが書いてありますか?私は聖書をよく知っています。神学校では原語で聖書を教えていたんですよ。あなたがいうような事はどこに書いてありますか?」マイクはすぐに「ヨハネ17:26ですよ。イエスの大祭司の祈りの最後のところを見てください。」と答えました。

そこで私はその箇所を数えきれないほど読みました。でもわかりませんでした。イエスは「わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らのなかにあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」と言われています。

 

私は「主よ、どうしてあなたは御父がどのような方かを私たちに知らせたかったのですか?」と訊ねました。主は次にように答えてくださいました。「父がわたしに対して持っておられる愛を、人々も持つためです。彼らが父と同じようにわたしを愛するようになるためです。そしてわたしが彼らの中にいるためです。」イエス・キリストは御父の横に座って今日もあなたと私のためにそのように祈っていてくださるのです。

ヘブル7:25「....キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」

ローマ8:34「...死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」そして御父が御子に持っておられる愛があなたや私の中にあり、主をそのように愛することができるようにと祈っていてくださるのです。クリスチャンの信仰生活のゴールは、ただ服従するだけではなく、それをはるかに越えたものであるのです。

 

信仰生活は「正しいよい業」をはるかに越えたものです。もうお分かりになったと思いますが、私たちの業は十分ということは決してありません。ですから自分の業に希望を託すのは、最初から失敗するに決まっているのです。落ち込むための確実な方法です。しかし一人のお方を喜び楽しむのは、それとは全く違う話ですね。そのお方を喜び楽しむ方法の一つは、御父に「どうか神の御子イエスを、あなたと同じように愛せるようにしてください。」とお願いすることです。

 

マイクは「神を愛することが出来るのは神だけだ。」と言います。勿論そうです。でも私は38歳になるまで誰かがそう言うのを聞いたことがありませんでした。マイクは続けました。「だから『御父よ、どうか私に聖霊を注ぎ、あなたが神の子を愛するように私も愛することができるようにしてください。』と祈ればいいんですよ。」

この祈りを毎日して、自分では絶対に出来なかったことを神にしていただくのです。それは神の恵みと憐れみに他なりません。私たちが持つものは、すべて神の恵みと憐れみによるのです。神はいつも憐れみによって私たちを救い出してくださいます。そして神の憐れみを受ける方法の一つが祈りです。

 

素晴らしい娘や息子はその父親にとって大きな誇りですね。私も子どもの自慢話を始めたら止まりません。子どもたちは私のヒーローですが、御父の右座に座っている方も御父にとってヒーローなのです。ですから私が御父に「あなたのようにイエスを愛する者にしてください。あなたと同じ御子への愛をください。」と祈るならば、それは神の御子を私のヒーローにすることであり、私がいつも話し、いつも自慢し、いつも考えている方にすることです。

皆さんによいお知らせがあります。この祈りは本当に聞かれます。でも皆さんに悪い知らせもあります。それはその効果はとてもゆっくり現われることです。でも絶対にそれは聞かれ、正しい方向へと私たちを導いてくれます。

 

神の憐れみの訓戒

 

この祈りを4、5年続けた頃、私はテキサスから引っ越してカリフォルニア州のアナハイムにあるヴィンヤード・チャーチで働いていました。ある日私は教会に向って運転していたのですが、非常に幸せな気分になって歌を歌っていました。私は歌はうまくないので、車の中で一人の時にしか歌いません。私は自分自身にこう話しかけました。「ジャック、なんか幸せそうだね。どうしてそんなに楽しそうなんだい?」と。というのは私は普段は沈んだ気分のことが多いからです。

 

私はこのよい気持を持続させたいと思い、どうしてこんなに幸せな気分なのかを考えました。そして自分に語りかけました。「そういえば、今まですごく祈る方ではなかったけど、今までより沢山祈ってるよね。それから聖書もよく読んでいるね。それも説教の準備のためじゃなくて、読むのが楽しいから読んでるね。それに今まで大嫌いだった断食もしている。」

「そうか、だからお前はそんなに幸せな気分なんだ!お前は祈ってるし、聖書を読んでるし、断食までしてる。だから幸せなんだ!」と自分を誉めてやりたくなりました。「その調子、その調子!」という風に。

その時、私は声を聞きました。「あなたの『イエスへの献身』を喜んではなりません。イエスを喜びなさい。もし自分のイエスへの献身を喜ぶならば、必ずあなたは自己義認に陥ります。」

突然、私の人生のヴィジョンが目の前に映し出されたようでした。自分が山に登っていて、「わあ、すごいなあ、高くまで登ったものだ。すばらしい経験だ。」と言いながら、周りを見渡します。そして「随分高いところまで来たぞ。あそこの人たちより随分高い!」と言うのです。

次の瞬間、私は荒野に移されていました。神が「ジャック、又同じ間違いをしていますね。わたしはあなたに荒野に戻ってほしくないのです。あなたはわたしの息子を愛し始めました。そこに留まっていてほしいのです。」と語られました。

 

神がこのように「あなたの業ではなく、わたしのようにわたしの息子を愛することですよ。」と私に 思い起こさせてくださったのは、実に神の憐れみでした。

 

神は本当に驚くべき素晴らしい方です。神は私たちの心を懸命に守ってくださいます。神は私たちが神を喜び楽しむことを本当に願っておられるのです。神は私の心の中に芽生え成長し始めたばかりのその愛を守り、御手を私の心の上に置いて「もう同じ間違いをしてはなりません。」と言われたのです。(続く)


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