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Walk With God Ministries


31 12月

暗黒と神の国の輝き リック・ジョイナー  12月31日


暗雲と神の国の輝き(1)

リック・ジョイナー (訳者:渡橋 喜代佳)


 2005年8月22日、私は夢を見た。夢の中で、感じのいい静かな通りを歩いていた。突然、西の方から大変な危険が自分の方に向かって来るのを感じた。振り向くと、非常に不気味な暗雲がこちらに迫っていた。その雲ははるかかなたまで一直線に延びており、すぐそこまで接近している。私はすぐそばの家に避難した。中に入りさえすれば、安全だった。しかし、ドアを開けようとするが、開かない。鍵は私のポケットにある。鍵に手をやるが、恐怖のあまり身動きできなくなった私は、ドアを開けようにも、ポケットから鍵を取り出すこともできない……夢はそこで終わった。
 この夢ですさまじい恐怖を覚えて、私はひどく苦しんだ。数日間その解き明かしを主に求め、預言者である友人のボブ・ジョンズにも尋ねてみた。そして、この雲がアジアから(私たちのいる西側に)もたらされる死のウィルスだということが示されたのだった。この夢のメッセージはこうだ。私たちにはこのウィルスに対して安全な場所があるし、そこに入る鍵も与えられている。それは神の国の鍵である。ところが、恐怖のあまりそこに入れないということもありえる。この暗雲がどんなに接近していたとしても、避難所である神の国もまたすぐそばにあるのだ。

道を備えよ 
まず確認しておきたいが、もし私たちクリスチャンが岩の上に家を建てているなら、この地上に来ようとしているどんなものをも恐れる理由はない。主のことばを聞いてそれに従うことで、私たちは岩の上に家を建てるのである(マタイ7:24~27参照)。主のことばを聞いたことのない、あるいは、聞いても従わなかった愚かな人々にも、悔い改めるための時はまだあるにはあるが、あまり残されていない。時が迫っているからだ。夢の中で暗雲が非常に接近していたのは、このタイミングのことだった。
 私たちには揺らぐことのない神の国があり、この地上を襲うどんなものからもまったく安全で確かな避難所がある。すでに述べたように、この安全な場所に入るための鍵は、主がご自身の教会に与えてくださった神の国の鍵である。けれども、クリスチャンだと言いながら、実際は、神の国のやり方ではなくこの世のやり方に従い、主のためではなく自分のために生きている人たちには、悔い改めの時はわずかしか残されていない。

 聖書は、この時代の終わりに世界がどのようになるかについて、非常に明確に語っている。
1テサロニケ5:2~6からは、励ましと警告の両方が与えられている。
 「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知している
からです。 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
  しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」


 この先世界がどのような事態にいたったとしても、クリスチャンは驚くべきではない。この地上を何が襲っても驚かない、終わりの時代の預言的なミニストリーが起こされることだろう。主の羊たちは、主の声を知っていると言われている。彼らはそうした事態に対する備えがなされて、主の囲いの中で安全に過ごすことができるのだ。主の声を知らないか、主の声に従わない人々は、たちまち、もっとも過酷な危機的状況にさらされるようになるだろう。
 何であっても、否定的だとわかると、それを受け入れることが教理的にできなくなっているクリスチャンが多い。彼らは、上記の引用箇所にあるように慎み深くしているのではなく、霊的な酩酊状態にある。すぐに酔いから覚めるのでなければ、次は昏睡状態に陥るだろう。繰り返すが、この世界がどのようになるかについて、聖書は非常に明確に語っている。

問題は何なのか?
  
 この時代の終わりに世界を襲う艱難や苦難は、基本的には、人間が神を無視して生きようとしている結果引き起こされるのだ。創造主との調和の中にいなければ、どんな被造物も、うまくいくことはありえない。この時代が終わると、すべての被造物が、そうした愚かなことは2度としてはならないことを永遠に証しするだろう。
 最大規模にまでおよぼうとしている暴風雨や他の自然災害さえも、その原因は人間側にある。人間にはこの地を治める権限が与えられたにもかかわらず、みずからが神の支配に服していないため、正しく治めることをしてこなかったからだ。しかしながら、神との根本的な関係が回復されて、神に従って生きているクリスチャンは、世界にもたらされようとしている事態を恐れる必要はないし、そうした事態に対しても権威を行使して、地域全体を大災害から守ることも可能である。
 主に従順な人々と従順でない人々には、はっきりした違いが見られるようになる。といっても、従順で「岩」の上に自分の人生を築いた人々が守られるのは、自分たちが大災害を免れたことを誇るためではない。主を無視して生きようとしてきた愚かな人々を助けるためである。私たちは、主がすべての人の救いを望んでおられ、いつもさばきよりもあわれみを示したいと思っておられることを、けっして忘れてはならない。マタイ5:44~46で、主はこう語っておられる。
 「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。」

 主は、すべての人々を愛しておられる。主を憎み、主や主のやり方に反逆する人々をも愛しておられる。愛情ある父親のように、たとえその反逆する子どもたちが悔い改めないとわかっておられても、主はその子どもたちのためにもよいことをしてくださるのだ。したがって、来たるべき破壊的状況のただ中にあっても、反逆する人々にも力を尽くしておられる神のあわれみや恵み、優しさが見られ
15 12月

「主の家」  フランシス・フランジペイン  12月14日



主が家を建てられる時
                        フランシス・フランジペイン


キリストの教会が天と完全に一致調和する時、主の霊が私たちの町を覆っている暗闇の力を除き去ってくださることが、実際起こりうるのです。主の臨在がどれだけその町を守るかは、教会が神とどれほど密接に結び合わされているかの度合いによって決まります。犯罪も不道徳なことも、神との結びつきが強いほど減少し、リバイバルが自然に起こり始めます。しかし、あらかじめ警告しておきますが、主の家を建てるのが主である時にのみ、主が私たちの町を守ってくださるのです。(詩篇127:1)

集合的な町の教会
「神殿は、建てるとき、石切り場で完全に仕上げられた石で建てられたので、工事中、槌や、斧、その他、鉄の道具の音は、いっさい神殿の中では聞かれなかった。」 I 列王記6:7
過去数年の間、神様は教会を「石切り場」におかれました。そこで、リーダーたちの形を削り、彼らが主の家の一員となるにふさわしい心を持つようにと砕き整えられました。キリストという御言葉の金槌で、多くの牧師や信徒たちは、今まで持ってきた岩のようにコチコチの宗教的、教義的な見解を打ち壊されました。神様は彼らの持つキリスト教の定義を、シンプルで、純粋に、キリスト個人への熱愛だけを問題にすると言う、本来の聖書的教義へと変えてこられました。(IIコリント11:3参照)

それと同時に、主は、人間の本質であるねたみと利己的野心という根源に斧を置かれました。(ヤコブ3:16参照)世界中で、男性でも女性でも神の聖徒である者たちは、生ける主の神殿となるようにぴったりと組み合わされつつあります。 彼らの心に燃えているのは、一つの町の総ての教会が一致して一つの教会になるという新しいヴィジョンです。
それぞれの教会の信徒たちが集まることによって、神のしもべたちは一つの町の教会を建て上げようとしていますが、それは、アメリカ流の自分を売り込んだり人間的に事業を拡大したいという思いからではなく、町全体の教会の合同の祈り会と、(純粋に)クリスチャンの愛を土台として、その「町の教会」を築き上げているのです。大きな熱情と深いへりくだりをもって、彼らはただ一つのことを目標としています。それは、キリスト御自身が教会(キリストのからだ)の中に形造られることです。(ガラテヤ4:19参照)
そうすることによって、彼らは主の家の基礎を築いているのです。これらの「生ける石」 が、いかに互いに愛をもって受け入れ合い、いかにぴったりと組み合わされているかという事実は、キリストの知恵と力がどれほどすばらしいかを証明しています。それはちょうど、ソロモンが主の家を建てた時「工事中、槌や、斧、その他、鉄の道具の音は、いっさい神殿の中では、聞かれなかった。」とあるように静かに進められているのです。

これら男女の聖徒たちは、しばしば非常に異なった教会のバックグランドを持っているのですが、お互いの教会へと出かけて行って、ともに肩を並べて祈り合うようになっています。彼らの共通の祈りは、全能の神が自分たちをキリストにあって一致させ、主の家を完成させてくださること、そしてそれによってキリストご自身が彼らの町を癒してくださることです。
神様は彼らの祈りに答えてくださるでしょう。 町のすべての教会が一致して祈るところに今、主の家は姿を現しはじめているのです。金槌でたたかれ、寸法通りになるように削られた困難な時代は終わろうとしています。霊的な力の時代が近づいています。

キリストの従順
この働きは妥協で生まれるものではありません。 このムーブメントの目標が一致であると考えるのは間違いです。そうではなく、私たちの目標は従順なのです。
すべての者が神に従順になり、キリストに似たものになりたいという願いを持ち、祈るとき、「一致」という言葉に新しい意味が与えられました。私たちの焦点はキリストにあるのです。パウロは、「すべてのはかりごとをとりこにして、キリストに服従させ」るようにと、教会に教えています。(IIコリント10:5)
私たちの思いの中で、まだキリストのとりこになっていない領域というのは、地獄との戦いに負けつつある領域です。しかし、私たちのヴィジョンが主にだけ焦点が向けられ、従順によって主に似るものとなってくると、パウロが語っている結末が達成されます。 「また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。」(IIコリント10:6)

この箇所が意味することを全部説明しようすれば、それは単なる憶測の域を脱しないものになると思います。パウロが血肉のことをここで言っているのではないことは確かです。彼は血肉によって戦っているのではないからです。(エペソ6:12参照) ここで言われているのは、教会の従順が完全にされた暁には、この世がまだ見たことがないほどのものすごい(超)霊的な力が現われるであろう、と言うことです。
この超レベルの霊的な力はパウロの時代には実現しませんでした。確かに十字架によりこの世の君が裁かれ、無力にされ、武器を取り上げられたことは起こりましたが、すべての不従順は一世紀には明らかに罰せられるには到りませんでした。主ご自身にお聞きしてみましょう。「従順が完成された教会が霊的邪悪さや不従順を裁くことが出来ることは分かりますが、それ以外にも、多くの都市が開放されると言うようなすばらしいことがそのような教会から生まれて来るのでしょうか。」と。

主が都市を守られる時
「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」 詩篇127:1
この箇所を調べる前に、ヘブル語の聖書の特徴を説明することが大切だと思います。旧約聖書の著者は多くの場合、真理を伝えるために同じ意味のことを2回繰り返しました。特に詩篇と箴言によく使われる手法です。 例として、「人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。」 箴言18:20  ここでは、同じ内容が二つの言い方で2回表現されています。 もうひとつの例です。「私は、口を開いて、たとえ話を語り、昔からのなぞを物語ろう。」 詩篇78:2 ここでは美しくかつ機能的な詩的リズムで真理が伝えられていますが、 2つの関連した考えを一つの慣用句にまとめてあります。
それと同じように、詩篇の作者が「主が家を建てるのでなければ 、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」 と言うときは、同じ真理を2つの言い方で言っているわけなのです。 
この2つを繋げているのが、主の働きです。即ち、「主が建てる家は立ち、主が守る町は守られる」のです。主はどのようにして町を守られるのでしょうか。主の家は「祈りの家」です。とりなしの祈りが神の臨在を町の中に招きます。言い方をかえれば、「主が家を建てられるときに、主が町を守られる」のです。 主の建築計画には、主の民が主の油注ぎによって力を得て、祈り、町を愛し、町のためには労を惜しまない、ということが必要とされています。 主の家が建つことによって私たちのコミュニティーは変えられて行きます。
イエスご自身も「・・・わたしの教会を建てます。 ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:18)と約束されてこれを裏づけされています。つまり、主の家が主の御言葉にしたがって建てられるとき、個人や町に対する敵の要塞は打ち砕かれると主は言われているのです。
ひとつの町にリバイバルが起こると、天にあるもろもろの悪霊どもの力はどうなるのでしょうか。答えは、その地域の教会に満ちる神の霊がそれに置き換えられるのです! パウロはエペソ3:10で、天にある支配と権威に対して神の豊かな知恵が示されるのは、「教会を通して」であると言っています。 それでは、霊的領域では何が起こるのでしょうか。教会はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって祝福されています!(エペソ1:3) この場合、地域社会に及ばされるすばらしい影響力は天から来ます。主が町を守られるのです!

教会がキリストの指示通りに建てられず、利己的で分裂した状態にとどまるとき、暗闇の主権や力は町の人々の魂により大きく影響を及ぼす権利を手にいれます。このような町では、悪の霊が町を見張ります。これが本当かどうかは霊的識別力があまりなくてもすぐに分かります。郊外から車を走らせて、ある都市に行く機会があれば、その都市に入るときにそこに重苦しい雲がかかっているのにはっきり気がつくでしょう。この目に見えない壁が、この地域を圧迫して支配している悪霊の影響力の縄張りの境界なのです。その都市のサタンの力は「十分に武装している強い人」であり、「自分の家を守っていて、その持ち物は安全なのです。」(ルカ11:21)しかし、町のすべての教会がキリストに従順になるとき、すべてのクリスチャンがひとつにされ、地獄の力によってもその一致は阻止されることはありません。 教会の祈り、愛、行動を通して、主が町を守られるのです。

何でもあなたがつなぐものはつながれる
霊的世界と人間の思いや行動との相互作用について御説明しましょう。 霊的領域は天使、あるいは、悪霊によって占領され、それがどちらになるかは地上にいる人間がとる態度によって決定されるのだと、私は考えます。地は主のものではありますが、主はすべてのものを人間の足もとに、つまり、人間の責任下に置かれました。
サタンがイエスにすべての世界と栄光は「私にまかされている」 と言ったのは、半分だけ真実でした。世界は確かにサタンに渡されましたが、それは神によってではなく、人間が渡してしまったのです。
「サタンは私たちの家の近所や町を攻撃する許可を神から受けている。」という間違った考えを私たちは持ってしまっています。確かに、サタンは暗闇の領域へ侵入することはできますが、そこを占領できるのは、人間が罪を犯すことによってサタンにそうすることを許してしまう時だけなのです。
イエスはそれ故に次にように言っています。「何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイ16:19、マタイ18:18) この2つの箇所は、一見異なった状況の中で同じことを教えていることに注意してください。マタイ16:18-19では、サタンを取り扱っており、マタイ18:15では罪を取り扱っています。 この二つの領域は相互に関係しています。人間の罪―悪い考え、言葉、行動―そのものがまさに私たちの町を支配するサタンの要塞になっているのです。ですから、教会の義が増し加われば加わるほど、サタンの隠れ家を奪うことができ、霊的領域からサタンを追い出すことができるのです。サタンは忍び込もうとするかもしれませんが、居座ることはできません。 教会が真に神に近づくとき、サタンは逃げ去るのです。

新しいヴィジョン
私たちが主の家を建てるために共に働くならば、私たちの力は減少するのではなく増大します。私の町のある牧師が、中絶クリニックとアダルト・ショップの前でデモをして神様のために働いていました。町にある多くの教会が共に祈る前は、このデモに参加する人は一番多い時でも120人でした。しかし、多数の教会が彼と祈りを合わせるようになった時、4000人以上が中絶反対のデモに参加したのです。その後は、テレビや新聞の胎児(の命)に対しての見方は、もっと理解の深いものとなりました。

町の教会が一致すると、ティーンエイジャーが受ける恩恵はすばらしく大きくなります。町全体のユースグループに大勢のクリスチャンのティーンエイジャーが集まって一致している様子を想像してみてください。 年長のティーンエイジャーは若い者に対してリーダーシップをとったり、牧会的な世話をする訓練をそこで受けることができます。
海外へのミッションが大切なことに変わりはありませんが、牧師たちはまず自分たちの町が第一のミッションの地であり、それをサポートすべきだと言うことが分かり始めて来ました。地域の牧師たちが協力して信徒たちを訓練し、同じ町の他の教会を建て上げるためにそこに派遣するようになって来ています。はっきり言って、一体現在の教会と「主の家」との違いは何なのでしょうか。過去において確かに主は教会をリバイバルで訪れて(visit)くださいましたが、主の家では主は力をもって住んで(dwell)くださるのです。癒しと開放は当たり前のことになるでしょう。聖さと恵みが満ちます。 主の家が建てられると主の守りがそこにあるのを人々は感じるのです。

生きた証
私たちの教会はアイオワ州のシーダー・ラピッズという町にあります。私たちがこの町の他の牧師やとりなし手と共に祈り始めたとき、アイオワ州全体では、凶悪犯罪が11%も増加していました。 しかし同じ時期にシーダー・ラピッズでは、
03 12月

聖霊は今御国の精鋭を用意しておられる  12月3日



   卵をひなに孵すめんどりのように
            今私たちを覆って下さっている主のご臨在
                                           ウエード・テーラー


  「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。」(ルカ13:34)
 めんどりは、次の世代を生み出すために、本能的に卵の上に坐って卵を温めます。それと同じように、主が私たちをより高い霊的領域と使命へと生み出したいと思われる時には、聖霊がその人を卵を抱くように静かに覆われるのです。特に今の時代にそれが起こっています。

 「 勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。」(ヨハネの黙示録2:26,27)
 世の中は一段と混乱とフラストレーションの様相を呈しています。しかし、その間にも主は、主のご計画の時が満ちた時に、政府の高官となって「鉄の杖」で世を治める者たちを今静かに準備されています。
 卵の殻の内側で命が形作られていくのと同じように、今、聖霊によって命を与えられて胎動を始めた私たち一人一人の内に、新しい時代への生きた希望が形作られています。
 たとえ、私たちが自分に一体何が起こっているのか、又何のために自分が整えられているのかが分からなくても、聖霊の取り扱いを内に感じそれに呼応していく時に、聖霊は私たちを覆うことによって、私たちが主に取り扱われる過程を完成させて下さっているのですから、その聖霊の働きを妨げないで、積極的に協力していくことが大切です。その過程を経て初めて、私たちは終末の時に主の協力者として活動する者となる用意が出来上がるのです。

 「万軍の主は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない。しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。また、あなたがたは悪人を踏みつけ、わたしが事を行う日に、彼らはあなたがたの足の裏の下にあって、灰のようになると、万軍の主は言われる。」(マラキ書4:1-3)
 この聖霊の内面的な深い取り扱いは、私たちの存在の中核に作用し、私たちを変え、それによって主のより高い使命(目的)にかなって用いられる者としてくれます。そうなってはじめて、主がこれからの時代に与えようとされている力を私たちが正しく使えると言う信頼を主から受けることが出来るのです。
 
 すべての被造物が終末の贖いの顕れを待ち望んでうめき始めています。イエス様は私たちに命を得させ、もっと豊かに得させようとこの世に来てくださいましたが、この世はまだイエス様のもとに来ようとはせず、むなしく探し続けています。それゆえに聖霊は、ご自分のしもべたちの上を静かに覆って、主が力をもって来られる時に効果的に働くことができるようにと今、備えをしておられるのです。
 主は今、ご自分が懐に抱いて暖め育てている人々にこう言われます。-「私をいまだに拒絶しているすべての者たちを、私は愛し、慈しんでいる。彼らが感じているフラストレーションを私も共に感じているのだ。」と。
 それ故に、主は今、聖霊によるひなに孵す覆いの臨在に喜んで応える者たちの内側を整える準備の作業を急ピッチでしておられます。これらの人々は、主がなさろうとしている準備の作業に、自分の存在、身体、魂、霊のすべてを無条件で差し出すことが要求されています。この主の働きに反するすべてのものを、私たちのうちから取り除かれようとする主の作業に私たちは一切を委ねなければなりません。

 「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」  (ロマ書12:1)
 主はご自分のしもべたちを今召しておられます。それは召された者が今の時に主への忠実な信仰で立つだけではなく、その生き方によってこの世の中で真の命を表現し、実演・実証してゆく者となるように召しておられるのです。この真の命こそ、主が、傷つき迷っている世の人々に与えたいと心から願っておられるものです。
 
 私たちが生み出され、より高い霊的領域で機能し始めるためには、「天が開く」ことを堅く信じ、又、それを勝ち取っていかねばなりません。私たちはその「開かれた天」の下で主を待ち望み、すべてをなさしめ、そのための力を与える主の恵みを受け取るのです。
 この終末のミニストリーを生み出すために、主が私たちの上を今はぐくみ覆っていて下さるのですから、私たちは主に対する愛と、又、聖霊が私たちの内に働いて私たちを変えようとしておられることを心から受け入れると共に、それへの感謝の念を常に言い表さねばなりません。それは、終末に主が解き放そうとしておられる王国の権威を私たちが正しく扱えるようにと今聖霊が私たちを整えていて下さるからです。
 聖霊様の覆いが続けられ、私たちがその聖霊の働きを受け入れて従う時に、主が私たちを整える準備の作業を必ず完成させて下さると言う望みを抱いて、私たちは安息に入ることが出来るのです。(終わり)



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27 11月

アメリカからのメッセージ 11月26日


キリストの内にある宝を受ける時
                ポール・キース&ワンダ・デイビス

                 (WhiteDove Ministries)

2003年の終わり頃は、私にとって、今までで一番すばらしい啓示を与えられた幸いな時となりました。私は天の宝の部屋へ行くという驚くべき旅をしたのです。この経験を私は“Books of Destiny”という本に著しました。

使徒パウロはコロサイ人への手紙2:2-3で、我々がキリストにあって受けることができる豊かな遺産に関しての、励ましの言葉を書いております。

「それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって、結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」

私たちが得るのは、この世の富ではなく、キリストのうちに隠されている知恵と知識という極めて貴重な宝です。啓示の御霊の助けによって、私たちがキリストの心の深みを探り求め、この膨大な富の価値を知ることができるのは、クリスチャンの特権であり、恵みです。

私たちが生かされている今という時代には、イエス・キリストのうちに隠されている神の奥義と秘密を知る機会が、以前よりずっと多く与えられています。預言者ダニエルはこのことを予知していました。ダニエル書12:3-4には次のように書かれています。

「賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって、永遠にいたるでしょう。ダニエルよ、あなたは終わりの時まで、この言葉を秘し、この書を封じておきなさい。多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう。」(口語訳)

神の国とその偉大な真理が、キリストのからだなる教会に回復されることが、終末の時代の特徴でしょう。それは啓示の時代であり、真理が回復する時であり、またそれと共に、闇の力の策略があらわにされる時ともなるでしょう。

神の真理がどのように私たちに知らされるか

真理は神の御言葉を通して啓発され、様々な手段で伝達されるでしょう。天からの啓示を受けた神の息子や娘たちによる美術や文学がおこってくるでしょう。創造者なる神の御心を知る、油注がれた芸術家たちによって、絵画や詩はもっと崇高なものへと引き上げられるでしょう。 天から新しい技術を授けられるクリスチャン建築家によって画期的な青写真が引かれることでしょう。

科学はものすごい進歩を遂げるでしょう。 細胞や分子の構造が、以前よりもっと明らかに解明されるでしょう。

真の教師イエスに出会って、彼から直接教えを受けた教師たちが、教会に真理をもたらし、その真理によって教会は、エゼキエル書44章にあるように「聖なるものと俗なるものとの違い、汚れたものときよいものとの区別」ができるようになります。偉大な奥義は神の御心の中に蓄えられていますが、それが終末の教会によって、探し求められ、発見されるでしょう。

教会の歴史の中で、非常に重要な節目に置かれている現在のクリスチャンが受ける分とは、このようなものなのです。この世代は、神のスケジュールのなかの「時が満ちた」という部分に突入し、扉を大きく開いたのです。 今はまさにカイロス、神が定められた特別の時であるのです。

もっとも重要な事は、神の力と栄光が、具体的な形で地上に現されるという点です。私たちの中におられるキリストが、栄光の望みです。神にすべてを委ねた人生の価値や、キリストの性質を持つことによって与えられる霊的な富のすばらしさは、到底量ることができないほど偉大なのです。

一つの実証

私はアイダホー州のカンファレンスで、コロサイ2章の宝の部屋について語ったのですが、そのあとでエリヤ・ハウス・ミニストリーの理事であられるジーン・ニーデルクラインさんから、私の話を実証するすばらしい証を聞くことができました。彼は私の話を聞いて、私に手紙と新聞の切り抜きを送ってくださいました。その記事には、このような子供は世界で一人しかいないと専門家たちが口を揃えて言っている、詩と絵画の天賦の才を備え持った10歳の女の子のことが書かれていました。

その子の名前はアキアンといい、彼女は4歳の時、超自然的に天国に行き、主にお会いして、主から芸術の賜物をいただいたというのです。彼女は「私は神様に会って天国に連れて行ってもらったの。」と言ったと、記事には書かれていました。

その体験をしてから、彼女はすぐに肖像画やスケッチを描き始めたのですが、それは明らかに4歳の子供の域を超えたものでした。彼女は詳細ネ天使の絵を描いたり、驚くべき霊的真理を表す詩を書いたりしたのです。彼女の家庭は無神論で、神に関しての知識はなにも教えられていなかったのですから、まったくそれは驚くべきことだったのです。

これから来るべきものの前兆

アキアンは、まさに、これから天の宝庫に招かれて、キリストのうちにかくされた知恵と知識の富を受け取ることが許される人々の、最初のしるしなのです。彼女は「神様が私にビジョンを与えてくださるので、私はただそれを描くだけなの。夢のようなかたちで私はそれを受け取るのよ。」と言っています。

彼女は毎日祈りの時を持つのですが、多くの場合、その祈りの時に神からのインスピレーションを受け取るようです。彼女の絵の多くは、今の時代の霊的状況を反映する深い意味を伝える寓意に満ちています。

彼女は神様から、すべての人類の顔を描きなさい、と言われたということです。その結果、彼女の作品の中で一番印象的なものは、一人のアジア人の女の子のものと、アフリカ人の兄と妹を描いたものです。 彼女の体験や作品は驚くべきものなので、彼女はオプラ・ウィンフリーの番組やCNNにも出演しました。彼女のゴールは「自分の絵を通して人々を神様に近づけ、自分の詩を通して人々の心を神に引き止めておくこと」だと言っています。

CNNのルー・ドブスは感歎して、彼女について次のように語りました。「彼女の絵が他の天才少女、少年のものを引き離しているのは、彼女のものは本当にリアルで、感情にあふれていることだ。普通、天才と言われる子供たちの絵は、抽象画が多い。子供でありながら、このような高度のリアリティを持つ絵を描くことができるのは、まったく驚くほど珍しい。彼女の細密な描写やセンスのよさはまったく信じられないほどだ。これは天賦の才だ。驚くべき才能だ。なんと
18 11月

Creative Truth  創造的真理


キム・クレメント

イエスの力が最も顕れたのはいつだったと思われますか? それは主がサタンに面した時だったのです!それと同じように、あなたが手強い敵や厄介な問題に遭遇しそれに打ち勝つ時に、最もあなたの力は発揮されるのです。ですから、敵や逆境が襲ってきたときには、今までとは違う角度でそれを見なければなりません。

エペソ3:20に「(主は)私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを超えて豊かに施すことが出来る方(である)」と書かれています。

墓の中の真理は胎の中の真理のような力はない

真理には二つのレベルがあります。すでに確立された真理とまだ確立されていない真理です。後者は、まだ成熟しきっていない、まだはっきり見えない、ぼんやりとその辺りに浮かんでいる感じのものです。私が「真理」というとき、それは真理の発見を意味しています。あなたの人生に何かが起ころうとしている、今まさに自分はそこに踏み込もうとしていることが分かっている、けれどもまだ生まれ出てはいないもの、その「新しい真理」をあなたがはっきりと見出していくとき、あなたの力は最も発揮されるのです。あなたの人生の中には「まだ分らないもの」があるべきなのです。次に何が起こるのかが分らないとき、人は非常にフラストレーションや怒りを覚えます。しかし、もし、あなたの人生で次に何が起こるのかみんな分かっていたら、退屈するのではないでしょうか。はじめから分かっていたら、あなたは邪魔なものは取り除くし、厄介なことからは身を避けることでしょう。ですから神様は少しだけは教えて下さいますが、あとは暗やみの中を手を取って導いてくださるのです。それは、あなたに将来起こることのすべてを知って欲しくないからです。暗やみの中にこそ宝が隠されているのです。奇妙に聞こえるかもしれませんが、あなたは暗やみの中にいるときに信仰の一番頂点にいるのです。

「見るところによってではなく信仰によって歩く。」(IIコリント5:7)

この暗やみというのは、罪の暗やみではありません。次に何が起こるのか全く分からない場所、という意味です。暗やみの中でつまづく時、私たちは一番大きな力が発揮できるのです。(勿論、その経験は決して喜ばしくは感じられませんが)暗やみの中にいる時ほど私たちが強くされる、そして勿論フラストレーションのある、時はありません。将来のことはチラッとは見えるかもしれませんが、詳しくは全く分りません。神様は詳細は語られないからです。というのは、もし詳細が分ったら私たちに信仰は必要ではなくなりますし、「信仰がなくては神を喜ばせることは出来ない(ヘブル11:6)」のです。

もし、あなたの人生に何が起こるのか、はじめから全部分かっていたならば、あなたは神を喜ばせる信仰を持つことができないのです。

集会で人々に預言をし始めるとき、私は彼らについて何の知識もありません。それは私にとって最も危うい場所なのですが、それと同時に最もすばらしい、力のある場所でもあるのです。なぜならば、そのとき私の信仰は頂点に達するからです。私の信仰は当惑させられ、激しく揺り動かされます。主が私を激しく揺さぶり、私の中のまだ生まれていない「信仰」が突然胎動を始めるのを私は感じるのです。

あなたの中にまだ生まれていない信仰が宿っているのをご存知でしょうか。神様があなたを窮地に追いやり、信仰という泉から水を飲むしかあなたには方法がなくなるとき、あなたの中の信仰は胎動を始めるのです。「分からない」というのはあなたにとってよいことなのです。多くの人が私に電話をかけてきて、神様が自分の将来に何を計画しておられるのかを教えてくれ、と聞くのですが、私はほとんどの場合、「私にも分かりません。神様は私に何も語られていませんよ。あなたがまだわからないようにと主は望んでおられるのです。」とお答えします。主があなたのために次に計画されていることは、必ず、あなたが十分に対処できることです。それにあなたが出会う時、あなたの信仰が始動し、神はあなたを新しい境地へと進ませてくださるのです。

神様がアブラハムに語りかけたときは、彼の国、父の家から出て行くようにと言われました。アブラハムは神に従い、言われたところへと出かけて行きました。それによって彼は「信仰の父」と呼ばれ賞賛されました。
アブラハムは自分の行き先を知りませんでしたが、何か偉大なことが起ころうとしていることは分かっていました。行いのない信仰は死んでいます。

「墓の真理」では役にたちません。それはいつも葬られては復活させられるものです。ある時代に一つの真理が確立されると、しばらくは生きていますが、その後、教義や信条によって葬られてしまいます。教会は真理の周りに垣をめぐらします。すると次の世代の者がそれを見出し、また命を与え、前の世代の二倍の価値をその真理に与えます。

しかし、どの世代にも預言的な人たちがいます。彼らはパンだけを食べて生きていくことに満足しないのです。すでに作られたパンを食べるだけでは満足せず、彼らは神様の口から出るパンを求めるのです。人々は使い古された真理に飽き飽きしています。多くの説教者たちは、そのような古い真理に「自分の考え」や「自分の確信」をどんどん付け加えて完璧にしていきます。ですから、それを聞く者には自分の信仰を働かせる余地が全く与えられないのです。確かに確立された信仰、真理は大切です。しかし、創造的な新しい真理こそが、あなたの信仰を生まれださせるのです。

預言、このフラストレーションを引き起こすもの

この預言というフラストレーションを引き起こすものは、どのように捉えたらいいのでしょうか。聖書にはすべての人が預言をすると書かれています。

「しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者が入って来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなによってさばかれ(ます。)」(Iコリント14:24)

「あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。」(Iコリント14:31)

神があなたに語られるのは、まだ起こっていないことに対する信仰(預言的信仰)をあなたに与えたいと思われるからなのです。まだ起こっていないにもかかわらず、その事に対する信仰をあなたは得るのです。神からの言葉を受け取るとき、それが実際に起こる前に「それは必ず起こる」という信仰を神はあなたに与えてくだ
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