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Walk With God Ministries


04 05月

神とあなたの未来 個人預言について  デニス・クレーマー 5月4日


神とあなたの未来
           デニス・クレーマー

個人預言とは、個人に対する可能性、起こりそうなことーそれを私は御国のオプション(選択肢)と呼んでいますがーを語るものである、ということを聖書は明確に教えています。 それは必ずしも保証されたことや確実に起こること、又、必然的なことをあらわすものではありません。預言は、それが実際に成就するかどうかに関係なく、神の最良のもの、神の理想、神の究極の目的、神があなたに対してもっている完全な目標を表しています。別の言い方をすれば、個人預言は神の条件つきの御心を示しているもので、必ずしも神が今すぐに何かをされるという言葉ではないということです。

例えば、神はイスラエルの子たちに預言され、皆が約束の地を所有するといわれましたが、主はそのとき2百万の民の中でただ二人だけしか約束の地に入れないことをご存知でした。 それにもかかわらず、主は預言され、主の意向を表されました。又神は、サウロが王になると預言されましたが、彼の治世は恥辱のうちに本来の時を待たずに終わってしまうこともご存知でした。それにもかかわらず、主は預言され、主の意向を表されたのです。神はへゼキヤは死ぬと預言されましたが、彼が生き続けるということもご存知でした。それにもかかわらず主は初めの意向を示され、それからヘゼキヤに憐みをかけられ、15年の猶予をあたえられました。神はニネベを滅ぼすと預言されましたが、ご自分は滅ぼさないこともご存知でした。それにもかかわらず、神は語られ、神の最初の完全なる意向を預言されたのです。神は、祭司職はエリの家を離れないと預言されました。主は主の意向をあらわされたのです。しかし、神はエリの子孫が早くも次ぎの世代にこの約束を失ってしまうことをご存知でした。しかし神は語られ、主の完全な預言的意向を表明されたのです。

もし、個人預言が必然的に起きることだけを表しているとしたら、イスラエルの子たちはみな彼らの不信仰にもかかわらず約束の地を所有していたことでしょし、サウロ王は彼の不従順な行為にもかかわらず、王として君臨しつづけたでしょう。ヘゼキヤは死んでいたでしょうし、ニネベは即刻滅んでいたことでしょう。祭司職はエリの邪悪な家にいつまでもとどまったでしょう。 しかし、これらの預言はみな成就しなかったのです!なぜでしょうか。

神は完全な予知能力があるにもかかわらず、個人預言をその予知で制限されることはないのです!主は、結末は預言の通りにならなかったり、あるいは預言とは程遠かったりするのをご存知であるときでさえ、ご自分の計画と目標を預言をもって明らかに示されるのです。すべての個人預言は大きな条件つきであり、それが完全に成就されるためには、その預言の中心的人物たちと周りの状況が相伴ってうまく預言の成就に協力して働かなければなりません。


預言は制限つきの賜物であり、その適用にも制限があるとうのが本当のところです。神は預言者に語られるときはこれを知れ」ということだけを話されます。主は隠された預言の目的をいつも明らかにされるとは限りません。 聖書には、「事を隠すのは神の誉れ(箴言25:2)」とか、「隠されていることは、私たちの神、主のものである。(申命記29:29)」とありますし、エリシャは「主はそれを私に隠され、(II列王記4:27)」といい、パウロは「預言することも一部分だからです(Iコリント13:9)」といっています。 神は神の預言者たちから物事を秘密にされます。 預言者たちに表されない神の秘密があるのです。神は隠されます。神は預言者たちに「一部分」だけを見たり話したりすることを制限つきで許されます。 その意味で、預言というものはそれにかかわるすべてのものにとって、リスクを伴うものであるといえます。 預言を発信する神にとっても、又、神の代理人としてそれを語る預言者にとってもリスクがあるのです。

それでは、クリスチャンが受ける真実な預言のすべてが、この地上で完全に成就されるのを私たちが経験できることはあるのでしょうか。多分それはないでしょう。そうだからといってそれは誰かの責任でしょうか。誰かの落ち度でしょうか。必ずしもそうではありません。それは預言者の落ち度でもなく、神の落ち度でもありません。これは個人預言がもつ本質なのです。

神の言葉は言っています、「この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、(彼らは信仰があり神に認められてもいたということに注意してください!)約束されたものを手にいれませんでした。(ヘブル11:39 新共同訳)」ですから皆さん、一日一日を信仰で生きましょう。そうすれば、神から受け入れられるのです。 アーメン!(終わり)



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28 04月

火のバプテズマ         ショーン・ボルツ  4月28日


火のバプテスマ  
                                     ショーン・ボルツ
  
  私は最近ある都市を訪れましたが、そこで一人の牧師と会う機会が与えられました。彼はこれまで20年間、その地域で開催される多くの重要なカンファレンスを主催したりして、神に大いに用いられていました。また、多くの教派の牧師たちからも、主のために燃えている人として認められていました。彼の牧する教会は大きく、彼のヴィジョンも果てしなく広がっているようでした。 しかし今回私が会ったときには、彼も彼の教会も以前の栄えある姿とは、まったくかけ離れた状態になっていました。彼はその地域の聖会を主催するどころか、もうそれに参加することもしなくなっていました。 彼はまだ牧師をやめてはいませんでしたが、私のような預言者に会うということは、彼にとっては非常に気が重いことのようでした。 しかし、そういう気持ちにもかかわらず彼は私と会ってくれました。

  この神の人である牧師と会う前に、この都市の別のリーダーと話す機会がありました。 彼は私がこれから牧師に会うことを知って、次のように言ったのです。「ああ、彼はもう疲れ果てて幻滅を感じているんですよ。彼はもう落ち目ですね。神様は彼のマントルをもう誰か他の人に与えてしまったと私は思いますよ。」

  このリーダーがどうしてこのような評価をこの牧師に下すか、その理由はよくわかりますが、それは非常に心の狭い、身勝手な考え方だと私は思います。 それは神の御国の考え方ではなくて、西洋的ビジネス界の考え方であり、私にはうれしいものではありませんでした。

  私がこの神の人である牧師と会ったとき、私は主からヴィジョンを見せられました。ヴィジョンの中で私は、おびただしい数の世界中の聖徒たちを見せられました。彼らは神に大きく用いられてはいましたが、約束されているさらに大きなわざ(ヨハネ14:12)の領域にはまだ踏み込んでいませんでした。これら多くの聖徒たちは、かつてないほど困難な、しかし同時にすばらしいシーズンを今通らされているのだと私は信じます。 今という時は、自分の中にある罪を取り除き、キリストのご性格を自分のうちに形作っていくシーズンです。

火のバプテスマのための溶鉱炉


  人が火で精錬されるとき、自分では良いと満足していた外側の部分をすべて焼きつくされ、イエスに愛されている部分だけが残ります。そして自我から解放されます。次の聖句が私に示されました。 
  第二ぺテロ3:14-15 「そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。…」

  この火による精錬期間は、時には非常に長期にわたりますが、そのシーズンの中で、神は聖徒たちを真の勝利者となるように訓練し、彼らが知恵と理解を得て、これから神の御国に入ってこようとしている人々の良い指導者になることができるようにされているのです。 主は忍耐をもって御自分の目標を完成させられます。私たちは、ペテロやパウロのように永遠の尺度で物を見なければなりません。そうすれば、私たちも主の目標が達成されるまで忍耐強くのぞむことができます。

  私はここで、罪を犯して不道徳に陥ってしまった人たちのことを言っているのではありませんし、ミニストリーをしていて間違いをおかして堕落した人のことを言っているのでもありません。それとは全く違った事です。ここで言っているのは、教会の中で勝利者となるようにと選ばれている人たちのことであり、今神に愛されているゆえに荒野を通らされている人たちのことです。イエスもこれと同じ荒野と試練を経験されました。これはイスラエルの子たちが不従順であったために受けた荒野の試練ではありません。(試練にはこの2種類があることを理解することは大切です。)

  神が求めておられるのは、キリストの聖なる愛に全面降伏することに基礎を置いている従順さです。これこそ主があらかじめ選ばれた人々の持つ特徴です。彼らはキリストの友であり、自分の日々の生活の中でキリストの十字架と復活を実際に味わっているので、頭だけではなく身体でその実体を把握している人たちです。

  現在のキリスト教会の動きや教えを、これこそ主との深い関係だと思ってしまっているベイビー・クリスチャンにとっては、キリストの十字架と復活は理解できないことかもしれません。成熟した大人としての深い歩みをしているクリスチャンは、聖会とか本とかテレビやラジオのクリスチャン番組とか、さらには教会にも依存してはいません。それらは非常に深く個人的な信仰にとっては、まあ、せいぜい補給剤として少しは助けになるかもしれない程度のものに過ぎないのです。
  神に今成長させられている多くの人たちは、今の教会に真の喜びを見出すことはできません。というのは今の西欧の教会は新しい信者や初心者を引きつけ教えることに重点が置かれているからです。しかし、神は「残りの者」(レムナント)を集めようとされていて、人々を救うだけではなく、もっと主の心の奥深くまで彼らを導きたいと思っておられます。

  多くの教会はこのことに焦点を当ててはいませんが、これこそが御国の焦点です。 神は大人に成長した愛人を求めておられるのです。神はヘブル5:14に書かれている神のご性質という堅い食物を食べる者を求めておられます。

「わたしは深みにいるもの者をもっと深いところへと招いている」

  私は昨年、心の中に主のはっきりとした御声を聞きました。 主は「わたしは深みにいる者たちをもっと深いところに連れて行く」と言われました。 それは、すでに主のこころの奥深いところで主との交わりを持っている者たちを、全く新しいレベルの深みにまで主は連れて行こうとされているのだ、と私はわかりました。
  第二コリント3:18 「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

  教会の中ですでに成長して大人になっている人たちは、今、次のレベルへとトランスフォームされて、もっと栄光に輝くようになるのです。 私たちは栄光から栄光へと変えられていくことができるのです。もし私たちがあるレ
20 04月

イースターに思う      グラハム・クック     4月20日


イースターにあたって  
                    グラハム・クック

世界中のクリスチャンが毎年イースターに祝う十字架の奇跡は、私を驚嘆させてやみません。それは、私たち「キリストのからだ」である教会が持つ、信仰の真の根拠であり土台です。そして、それは私たち人個人にとっても、同じように大きな力を持っています。

私たちは、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、神を愛するようにと召されています。イエスはこのすべてを包括する愛を、私たちの模範となるように十字架の上ですでに示してくださいました。イエスは私たち一人一人を、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして愛してくださっています。主のその愛は十字架の業において明らかに証明されているのです。

イエスの私たちに対する御心は疑う余地がありません。主の御心は、私たちへの愛で満ちております。主は私たちが「よい子」 の時でも「悪い子」のときでも、全く変わらない愛で愛してくださいます。事実、私たちがまだ罪の中にいた時に、主は私たちのために死んでくださったのです。
主は、私たちが、その主の愛に果たして応じるだろうか、と案じてはおらられません。主は私たちのためにご自分を犠牲にすることだけに心を注いでおられました。そして私たちへの愛を2000年前に十字架の上で表してくださったのです。

父なる神も、思いを尽くして私たちを愛しておられます。エレミヤ29:11にあるように、神は私たちのために想像もつかないほど素晴らしい御思い、御計画を持っておられるのです。また、ダビデも詩篇の中で、神の愛を次のように詠っています。

「わが神、主よ。 あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。」 (詩篇40:5)
「神よ。あなたの御思いを知るのは、なんとむずかしいことでしょう。それを数えようとしても、それは砂よりも数が多いのです。私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。」 (詩篇139:17,18)


ダビデは自分に対する神の愛の思いを悟ったのです。それは彼に大きな平安を与え、その愛は彼の思いの中に反映されました。

イエスはまた、私たちを精神(soul)を尽くして愛してくださっています。イザヤ53:10で、イエスのいのち(soul)は罪過のためのいけにえとされた、と書かれています。イエスが十字架にかかられた暗黒のとき、神はご自分をイエスから引き離され、それによって、私たちが決してイエスから引き離されることがないようにしてくださいました。

主はまた私たちを、力の限り愛してくださっています。私たちが直面するあらゆる問題というものは、それから主が私たちを必ず救い出し守ってくださる方であるという主への信仰を強めるために与えられるものです。

私は、このことをよくあらわしている夢を見たことがあります。私は夢の中で、私が以前主と共に歩いていなかったとき、即ち、主に反抗し不従順であった頃に戻されていました。それは20年以上も前のことでしたが、私はひどい状況の中にいる自分の人生を再び夢の中で繰り返したのです。
私の目の前で、私が罪を犯している姿が映しだされましたが、そのとき、信じられないようなことが起こりました。あたかも神が時間を止めてしまったかのように、すべてのものが動きを止めました。まるで映画がある場面で突然止まってしまったようでした。

  するとイエスがその場面に現れて、私を見ました。私は自分が罪を犯している場面にイエスが来られたので、びっくりし、また恥ずかしくもありました。でもイエスは私に伝えたいメッセージがあったのです。

  「グレー(イエスがグラハム師を呼ぶときの愛称)」と主は優しく私に声をかけられました。「わたしを悲しませたのはあなたの不従順とか反抗ではないのだよ。息子よ、それらの罪はもう十字架の上でわたしが処理したのだから。わたしが悲しかったのは、あなたのためにわたしができたことを、あなたがミスしたことなのだよ。わたしがあなたに与えたかったものがあることをあなたは理解できなかった。あなたのためにわたしがしてあげられることをあなたが分かっていたとすれば、あの時の状況はこうなっていたんだよ。」

  そういわれた主は、やさしく私の注意をもう一度夢の場面にもどされました。それからは夢全体が、あたかも私が完全に主に従ったかのように進行していきました。その瞬間に、その場面は本来ならこうなるはずだったのだ、ということが分かったのです。私は心が清められ新しくなったように感じながら目を覚ましました。そしてその瞬間に、私に対する神の愛の深さを悟ったのです。

  この夢を見て以来、自分の置かれた状況の中に神をお招きすることによって、素晴らしい神の力が得られることを私は体験し始めました。どのような状況に置かれていても、神の視点で物事をとらえ、そのときの自分にもっと神のご性質を与えて下さるようにと願うならば、この世で起こることで、私にとってマイナスになることは一つもないことが分かったのです。人生で起こるすべての事態において、それを興味深く、しかもエキサイトしながら受け入れ、そこで私たちが学ぶべきことを神が示してくださることを期待できるのです。

  私がミニストリーを始めたころは、神は私を、神の愛の「高さ」を知る旅路につかせてくださいました。そして神は、想像もできなかったような神の栄光、栄華を私に見せてくださったのです。しかし今の私は、神の愛の「深さ」を発見する旅路をたどっております。これが十字架の真の喜びです。それは、どのような状況に置かれても、主に感謝をささげることができるということです。
  私は今までの私の人生で起こったことを詳細に思い出してみました。私が主にひどく反抗していたり、罪を犯したりしていたときも含めてです。そして神に、私の人生のあらゆる段階において起こったすべてのことを感謝しました。私を傷つけた人をすべて赦しました。私の人生に起こったことで神に感謝をささげられなかったことは一つもありません。

  イースターにあたって、皆さんも私と同じように今までの人生を振り返って考えてみてください。あなたが前進するのを引き止めている事柄を、十字架のところに持っていってください。あなたに対する神の愛の深さを探り求めてください。神が
13 04月

主から五年間の目標をいただく  パトリシア・キング  4月13日


今、明確な目標を定め、
       これからの5年間に多くの収穫を得よ 


      パトリシア・キング

3月22日の朝、私が目を覚ましたとき、主が私に次のように語られました。「今あなたが明確な目標を立てるならば、これからの5年間に大きな収穫を得るであろう。今という時は、去年や一昨年に与えられたヴィジョンを持ち続けるだけでなく、 今のシーズンに対する主の御霊の明確な指示を受け取ることが非常に重要である。明確な目標を定めないとあなたの収穫は非常に限られたものとなり、あなたは後になってそれを後悔することになるであろう。」と主は告げられました。主の語調には切迫感がありました。

聖書の中の人物も主から明確な目標を受けた

モーセは、荒野の中に主の幕屋を立てるという明確な目標を与えられました。 神はモーセに詳細な青写真を示され、彼はそのプランを実行に移しました。その結果として、イスラエルは荒野を旅するときにその幕屋によって祝福され、そのあとも、今日に至るまで、その幕屋に隠されていたキリストの啓示のゆえに人々は祝福されています。

ヨシュアは、イスラエルの人々を約束の地に導きいれるという明確な目標を主から受け取りました。 彼は主の指示に忠実に従い、その地を所有し、そこに住んで地の収穫物を食べることができました。
バプテスマのヨハネは、主の道を備えるという明確な目標を持っていましたし、イエスは、神と人との間の永遠に変わることのない契約を確立するという明確な目標を持っておられました。初代教会は、全世界に出て行きすべての造られたものに福音を宣べ伝えるという明確な目標をもっていました。

あなたはもう紋きり型の今までしてきたことを繰り返すだけの生活をする必要はないのです。 主はあなたに新しいヴィジョンを与えようとされていて、そのヴィジョンはあなたが前進していくのを助けるゆるぎない基盤となるでしょう。今あなたは、過去に自分が蒔いてきたものの結果の中で生きています。それと同じように、あなたが今蒔くものを、これからの年月の中であなたは収穫することになるのです。 これからの5年間に収穫するもののために、今計画を立てなさい。

これからの5年間には、あなたの蒔く種は今までよりも、もっと早く、もっと大きく育ちます。あなたは自分で蒔いたものを刈り取るのです。肉に蒔くならば滅びを刈り取りますが、御霊に蒔くならば命を刈り取ります。主はこれから5年の間は、蒔かれた種は今までよりもっと早くもっと大きく育つと言われるのです。今悪い種(分裂、憎しみ、敵意、争い、嫉妬…等)を蒔くならば、これらの種から生じる大きな産物の刈り取りを5年間することになります。しかし、同じように良い種、即ち御国の種、を蒔く者は、祝福という大いなる収穫を刈り取ることになります。ですから、今こそ良い種をまく絶好のチャンスなのです。あなたはそこから大きな見返りを受け取ることでしょう。 どんな種を蒔くか注意しなさい。今はあなたの人生の新しい明確な目標を立てるのに最良の時です。それによってあなたの想像をこえる素晴らしい結果を見ることになるのです。

神が承認の印を押すことが重要

あなたが定める目標には、神が承認の印を押さなければなりません。神は目標の定め方を知っておられ、神もご自身のために目標を定められる方です。神は目標を定められる名人であられます。例えば、神はご自分の目標を人の救いにおかれました。また、キリストの再臨に定められ、栄光の教会の成就に定められました。そして神はご自分の目標を必ず達成されるのです。ですから、神はご自分のやり方を用いて、私たちが目標を定めそれが成就されるようにと、助け導いてくださるのです。あなたが主の御前で静かに待つとき、主はあなたに語りかけ、あなたに目標を示してくださいます。成功する目標は、あなたの肉、即ち人間的な願望から生まれるのではなく、主の御霊によって定められるものなのです。主の臨在の中で時を過ごしてください。主があなたに新しいヴィジョンを与えてくださるのを期待して待ってください。主は必ず与えてくださいます。全知全能の方だからです。

主が語られるのを信じて期待して待ってください。 「私の心に明確なヴィジョンを与えてください。」と祈ってください。 私はそういう時は、紙とペンを用意して待つことにしています。主が必ず語ってくださるという確信と期待を持って待ってください。私はいつも次のように祈って、神からの声を聞くための心の備えをします。

「お父様、今御前に出ています。私の中にまだ告白していない罪があるならば、それを明らかに示してくださるようにお願いいたします。あなたの御声を聞くことを妨げるものを、そのままにしておきたくありません。 私の思い、言葉、行いであなたが喜ばれないものがありましたら、どうかお赦しください。私は悔い改めますから清めてください。 自分の肉的な思いや欲望、妄想を主イエスの名によって打ち捨てることを、私は選びとります。 主イエスの名によって私は敵の声を縛ります。私は、ただあなたの声だけを聞くことを決意いたします。あなた以外の者の声には耳を貸しません。あなたの声にだけ私は従います。今あなたの尊い聖霊であらたに満たし、あなたの声が分かるようにしてください。主よ、感謝いたします。 アーメン」

この祈りが素晴らしいのは、これがすべて必要な事柄を網羅していることです。まず罪の問題を取り扱って障害物がないようにします。次に自分の肉的な傾向を捨て去ります。 敵が邪魔してくるのを縛り、聖霊があなたを満たし、あなたの心に語ってくださるようにお願いします。 これで神があなたの心に語られる言葉を聞くのを妨げるものはみんな無くなったわけです。この祈りをしたあとは、あなたの心に浮かぶ思いは神からのものであると確信して、ただ信じればいいのです。

普通神は、その御心をあなたの考えや思いのなかに入れられます。ですから、あなたの心や思いの中にくる夢を振るい落とさないでください。「ああ、これは単に私の思いに過ぎない。」と考えてはなりません。 あなたはすでに自分の肉的な性質から来るものを捨て去る祈りをしたことを思い出してください。敵を縛る祈りもしました。もうあなたは聖霊に服従し、すべてを委ねたのです。ですから、神があなたに語っていると信頼しなさい。疑ってはいけません。なぜならば二心のある人は、その歩む道のすべてに安定を欠いた
06 04月

6,7,8月に来るパーフェクトな嵐  デニス・クレーマー  4月6日


6,7,8月にくるパーフェクトな嵐
                               デニス・クレイマー

アモス3:7 「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」

 正直なところ、この有名な聖書の言葉を聞くと、預言者として私はちょっと居心地の悪い気分になります。いや実のところ、預言者としてとても神経質になるのです。 人々は、「預言者は、神が今世界中でされていることを、全部知っているはずだ。」と思っているようなのです。何という誤解でしょうか!世界はずいぶん広いんだ、ということを忘れないでほしいものです。

 「ところで、デニーさん、今神様は何をしておられるのですか?」とよく人から聞かれるのですが、それに対して私は「さっぱり、私にも分かりませんね。」と答えるのです。私からのこの返答は彼らの期待を裏切るものですが、それが全く本当のところなのです。

 はっきり申し上げますが、私は預言的に「全く何も分からない」時の方が皆さんが想像される以上に多いのです。神が見せてくださらなければ、私は見えないのです。 その意味では、私は大方のクリスチャンよりもっと聖霊の啓示に頼っているといってもいいでしょう。皆さん、預言のスイッチが切られているときは、切られているのです! でも主がスイッチをつけてくださると、私も時々は力強く預言的なことを見ることができます。

預言的に私はすごく強力なものを見た!

 2006年の夏に関して私が見た預言を皆さんにお話しますので、吟味していただきたいと思います。勿論これと同じ時期に、私には知らされていない沢山のことを神は世界中でなされるでしょう。もう一度言いますが、これは私がチラッとだけ見たことであり、それを今日皆さんにお分かちできることが嬉しくて私はわくわくしています。 ですから、皆さん、どうかこの預言を吟味しながら読んでください。

暑い、暑い、暑い

 私が今月いただいた「時の預言のことば」とは、実際には非常に短くてスイートなのです。主は今年の夏は焼けるように暑い、本当にジュージューと音と立てて焼けるほどに暑い夏となると、私に言われました。それは 超自然的なことで燃える、と言われたのです。「今から90日後の90日間(6,7,8月)に、前代未聞の超自然的な活動が世界中で起こるであろう。」と主が言われたと私は信じます。

備えよ、備えよ、備えよ!

 今から約90日経た時、天から超自然的なことが地上に降り注ぎます。それは90日間(6,7,8月)にわたる聖霊の大いなる降り注ぎで、ペンテコステの日に起こった聖霊降臨の様子に似ているでしょう。「天からの激しい風」が世界中の教会に90日間、次のことをもたらします。
  空前の世界中のいやし!
  空前の世界中のしるし!
  空前の世界中の不思議!
  
 そのいやし、しるし、不思議の降り注ぎよりももっと偉大なことが起きます。それは世界中で起きる前代未聞の奇跡であり、90日の間、あらゆる種類の大小、様々な奇跡が起こります。2006年の夏は、空前の、前代未聞の、無比の奇跡が世界中で焼けるように起こる季節なのです。
   空前の奇跡が世界中にやってくる!
   前代未聞の奇跡が世界中にやってくる!
   無比の奇跡が世界中にやってくる!

 主は「世界中に空前の奇跡が起こるだろう。 すべての国々は私が神であることを知るであろう!」といわれるのです。

パーフェクトな嵐がやってくる

主に愛されている皆さん、ですから、これからの90日を楽しんでください。 それは嵐の前の「静けさ」のときなのです。そのあと超自然的な90日が始まり、奇跡の嵐が地上に吹き荒れます。パーフェクトな嵐が来ようとしているのです。人々は変えられ、町は変えられ、国も変えられるでしょう! 今備えをしてください!(終わり)



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