WWGM

Walk With God Ministries


09 11月

師のようになるための代価  フランシス・フランジパン 11月9日


師のようになるための代価
フランシス・フランジペン

霊的訓練

「クリスチャンは訓練された者とされていない者との2種類に分けられる。」とは、私が最近出会ったある牧師の言葉ですが、この意見に私は全く賛成します。残念ながら多くのクリスチャンは、救われたらそれが到達点で、それでよしと考えてしまっています。確かに救いは一つのゴールではあります。しかしそれは同時に、救われた者がキリストに似る者となるために歩み始める出発点でもあるのです。救われて生まれ変わることは、暗やみから光に入ることであり、そこからあらゆる忍耐、信仰、霊的訓練を用いて真の目標に近づくために歩みを始めることなのです。

主イエスは私達をただ助け出すだけではなく、訓練したいと思っておられることを先ずはっきりと認識してください。そして霊的訓練を受けるためには代価を払う必要があります。霊的成長をするためには、そのために時間を使わねばなりませんし、神に従っていく栄光ある道を会得するためには、いつも従順に主に従うという決意がなければなりません。そうすれば私たちにトランスフォーメーションがおこります。主イエスも次のように言われています。

ルカ6:40 「弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。」
私の人生の最大の願いは、「完全に訓練されること」です。すべての面において私の師、主イエスキリスト、のようになることを私は熱望しています。

訓練の方法

霊的訓練を受ける方法にはいろいろあります。しかしどの方法を選ぶにせよ、霊的成長を遂げるための根本的な条件は、トランスフォームされたいと真剣に求めるあなたの心です。例えば今この瞬間でもあなたは聖書を手にとって聖霊に教えてくださいと請うて、あなたの霊的訓練を進めることができるのです。イエスが次のように言われたのを思い出してください。

ヨハネ14:26 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

聖霊は私たちを導き、慰め、力を与えてくださいます。聖霊は私たちに「すべてのことを教え」てくださる生涯の友であられます。聖霊をあなた個人のトレイナーとしてお迎えしてください。聖書を開き、聖霊が洞察力や啓示を与えてくださるように、また、様々な力を与えあなたをトランスフォームしてくださるようにとお願いしてください。そして何かの真理や奥義が示されたらそれをすぐに書きとめてください。ベッドのそばにもノートとペンをいつも用意しておいて、寝ているときに主が与えてくださる重要な夢や考えを記録してください。(詩篇127:2)

このように私たちは主に救いだけではなく、霊的な訓練や見分け、洞察力をくださるようにとお願いするべきなのです。霊的訓練を受けていないクリスチャンは、自分の周りで何かが起こったとき、それを霊的洞察力で見分けたり理解したりできません。しかし霊的訓練を受けているクリスチャンは同じ状況の中でも、聖霊によって導かれ、物事を霊的に識別して対処することができ、すべての場面で効果的に働くことができます。


聖書には次のように書かれています。

ヘブル5:12-14 「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。」
5:13 まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
5:14 しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。

14節「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」という言葉に耳を傾けてください。「おとな」「経験」「見分ける感覚を訓練された」という鍵となる言葉があるのがわかります。

未熟で乳飲み子のようなクリスチャンは、効果的に機能することができません。しかし経験をつんでおとなになったものは、「キリストのみこころ」を持ち、すべてのことをわきまえることができるのです。(Iコリント2:15、16) 訓練によって彼らは人生のあらゆる場面で勇敢にうまく機能して働くことができるようになっているのです。


よいミニストリーから訓練を受ける

このように私たちはみんな聖霊から個人的に訓練を受けますが、主はまた他のミニストリーを用いて私たちを訓練され教育されることもあります。神はクリスチャンが孤立するのではなく相互扶助の関係をもつようにと計画されました。私自身も、主から直接教えられるのではなく、他のクリスチャンから教えてもらうように主が計画されることがあることを経験してきました。

コルネリオが神を求めていたとき、み使いはペテロを招いてキリストに関する真理を聞きなさいと指示しましたが、これは非常に重要なことです。どうしてみ使いは自分で直接コルネリオに話さなかったのでしょうか? それは、コルネリオにとって他の人から神のことを聞くことが重要であり必要だったからなのです。私たちはへりくだって神に立てられたリーダーを敬い教えを受ける必要があるのです。

しかし、主は私たちが盲目的に人に従うことを望んでおられるのではありません。まずそのリーダーの心の中にキリスト御自身がおられるかどうかを見極めなければなりません。あなたの牧師の心の中に大牧者キリストの愛が顕われているかどうか見てください。説教者の声の中に大預言者キリストの義の導きがあるかどうか聞いてください。そのリーダーが伝道者、牧師、預言者、教師、あるいは使徒のいずれであったとしても、その人の中にキリストというお方をあなたは見なければなりません。そのときは、あなたは信仰をもってそのミニストリーのプログラムに参加して訓練を受けてください。

あなたはつねに主にのみ目を留めるのですが、主の次の忠告も忘れないでください。
マタイ10:41 「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」

「預言者を受け入れたり」「義人を受け入れたり」する者 も彼らの「報い」 を受けると書かれています。ある人を「預言者(あるいは義人)だというので」受け入れるという意味は、その人の持つ霊的権威と彼が神から霊的召命を受けていることを認めることです。つまり、その人はあなたに必要な霊的資質をもっていることを認めることであり、その人からあなたは霊的分与を受けて成長したいという願いを表明することでもあります。(霊の分与impartationは、新約の聖書的慣わしであり、聖霊を通して行われます。マタイの10章に説明されています。ローマ1:11、Iテサロニケ2:8も参照してください。)

リーダーたちは決してキリストの代わりにはなれない

勿論、あなたを訓練するために神が一時的に用いられるリーダーは、決してキリストの代わりにはなりません。ある訓練のために主があなたのためにその人を用いられたにすぎません。ですからあなたが尊敬し教えを受けたいと思う人と出会ったら、主に従うようにその人に従ってください。そしてキリストを見つめ続け、主があなたをそのリーダーを通して訓練してくださるようにと祈ってください。聖書には次のように書かれています。

エペソ4:11-12 「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」あなたの目標は人間のあとについていくことではなく、「奉仕の働き」のために訓練され整えられることであることを忘れないでください。

弟子の訓練


マタイの10章にもどりますが、イエスは預言者や義人にむかって次のように言われています。「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなた方に告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(42節)

リーダーたちには、毎日多くの責任と仕事が課せられます。 しかしイエスは彼らにむかって「群集の中から真の弟子を見分けよ。」と言っておられるのです。すなわち、まだ霊的に子供(小さな者)であっても、彼らがあなたのところに「一人の弟子として(学びたいといって)」来るならば、彼らのために時間を使いなさい。それによって彼らの渇きをほんの一時でもいやすことができるなら(水一杯でも飲ませるなら)あなたは決して報いに漏れることがないよ、と主は言われているのです。

今は、一つの家に何冊も聖書はあるけれどそれを学ぶ時間は人々には一分もないような時代です。しかし主は、私たちが霊的訓練を受けることを真剣に求めるようにと願っておられます。私たちの年齢や経歴はみんな違いますが、すべての者に次のような主の約束があるのですから。
「しかし、十分訓練を受けたものはみな、自分の師ぐらいにはなるのです。」 (終わり)


トップページへ戻る
01 11月

後悔からの開放    チュック・ピアース   11月1日


後悔からの解放
チャック・ピアス


私の妻であるパムが最近グローリー・オブ・ザイオンで「後悔」に関する素晴らしいメッセージをしてくれました。パムは後悔を次のように定義しました。「起こったことに関する悲しみや自責の念。何かをしてしまったとか、しなかったとか、なくなった物とかいなくなった人に関する悲しみ。」 このような悲しみは、もし正しく取り扱われないと心の傷となって残ります。 後悔には2種類あります。一つはあなたがしてしまったことに対する後悔であり、もう一つは誰か他の人があなたにしたことに関する後悔です。パムは後悔のいくつかのレベルを説明してくれました。

1.クリスマスとかのお祝いで食べすぎて太ってしまったとか、洋服を買ったらそのすぐ後でそれがセールで安くなっていたとかいうもの。 あなたの人生に深い影響のない一時的表面的な後悔。

2.自分の健康に十分気をつけなかったとか、退職後の生活に関して賢明な計画を立てなかったというような後悔。

3.誘惑に負けてしまってよくない選択をしてしまったというようなことで、あなたの現在と将来の人生にそれが悪い影響を与えてしまったという深い後悔。

4.神に自分の人生をお捧げするのが遅すぎた、とか、なくなった親戚や友人に福音を伝えなかった、という後悔。

5.あなたの神との歩みや人々との関係に影響を与えるような霊的後悔。

どのように重大なものであれ、また小さいものであれ、すべての後悔に関して一つのことが言えます。 敵はそれを使って私たちを必ず攻めてくることです。パムは後悔に打ち勝つ方法を語ってくれました。

1.後悔は罪の当然の結果であることを認めること。何かをしてしまったときも、するべきをことをしなかったときも。

2.敵が後悔の念をつかってあなたをなじるとき、すぐに敵に「その通りです」といいなさい。あなたが後悔の念の中ですごしているなら、あなたの良心が聖霊に敏感に生きているということです。

3.後悔を悔い改めへと転換しなさい。自分の罪を認め父なる神の赦しを受け取りなさい。ヤコブ5:16を読みなさい。「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。」 私たちが後悔する事柄は、往々にして根底にある罪を暴露します。

4.ロマ書8:28を思いなさい。「神を愛する人々、すなわち、神の御計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを(後悔さえも)働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

5.堅く立ちなさい。信仰によって敵にむかって「私のすべての過去はイエス・キリストの血潮によって覆われている。私のしたこと、また出来なかったことのすべては神によって贖われている。」と宣言しなさい。

とどのつまり、最後に問題となりえる後悔はただ一つだけです。それは、あなたが敵の偽りを信じてしまい、信仰による歩みをやめてしまうことです。なぜならば、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づくものは、神がおられることと、神を(熱心に)求める者には、報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。 (ヘブル11:6)」とあるからです。

今は「長引いた期待」を打ち破るときです。箴言13:12には「期待が長引くと心は病む。」と書かれています。何かを損失したことによって打ち負かされてはいけません。 確かに損失はあなたを揺さぶります。しかし、損失が喜び、変革、復活の力をもたらす可能性があることを忘れてはいけません。私たちには敵を縛り上げる力が与えられています。私たちを告発する者を縛るのです。告発者はあなたがしてしまったすべての失敗に対してあざけることでしょう。 しかし、あなたは自己憐憫、疑い、不信を打ち破らねばなりません!

トラウマや失敗から抜け出す

トラウマは記憶の中に刷り込まれています。また、脳の組織(プロセッサー)の奥深くに吸収されてあなたの思い(こころ)に影響をあたえます。トラウマはあなたがまわりの世界を見るためのスポットライトとなり、あなたが何をどう見るかに影響を及ぼします。 トラウマは正しく処理されないと、その事件を原点にした物の見方であなたの世界を形成してしまいます。トラウマによって、恐怖心、失敗を恐れる心、心配、不安にさいなまれるようになり、身体の器官(脾臓、腎臓、すい臓)に負担がかかります。

トラウマを捨て去りなさい! トラウマが敵によって使われると、どうせ失敗するだろうとか、混乱して物事をはっきりと把握できないとか、鈍感、無感覚、絶望、無関心、無感動というような状態に私たちを追いやってしまうからです。(終わり)



トップページにもどる

20 10月

ダビデとエリアブ   ビクトリア・ボイセン  10月20日



ダビデとエリアブ

                                  ビクトリア・ボイソン

ダビデは兄たちのいる戦場に行ったとき、ゴリアテがイスラエルを嘲笑している言葉に憤りを覚え、その事態を何とかしたいと願いました。しかし、ダビデは巨人と戦う前に、自分の兄であるエリアブからの攻撃に打ち勝たねばなりませんでした。
.
Iサムエル17:28-30 をお読みください。

私は息子のコールとこの聖書の箇所を読んでいたのですが、私が「ダビデとエリアブ」というタイトルを読むやいやな、彼は「違うよ、お母さん、ダビデとゴリアテだよ!」と直してくれました。確かに私たちはみんなダビデが巨人ゴリアテを倒した話を聞いてきましたが、その少し前に、兄エリアブがダビデを言葉で攻撃してきたのです。 ですから、ダビデはゴリアテと戦う前にエリアブの激しい叱責に打ち勝つ必要があったのです。

ダビデは神の力を信じていました。しかし、エリアブはそうではありませんでした。彼はダビデの言動の動機を疑ってダビデを諌めるのは、自分に知恵があるからだと思ったのです。自分の心におこったダビデにたいする非難の思いは、ダビデの人生を洞察することができる自分の賜物だと勘違いしました。自分は弟が分かっている、と思ったのです。ダビデが生まれてからずっと一緒に暮らしてきました。面倒もみてきたことでしょう。しかし彼はダビデの心を本当には悟ることができなかったのです。

エリアブは、ダビデの神への信頼を傲慢、うぬぼれと誤解してしまいました。ダビデがみんなの前でただ大口をたたいているだけだと思い、怒ったのです。ずっとダビデと一緒に暮らしては来ましたが、父の牧場で羊を飼うしか能のない弟としてしか彼を見ることは出来なかったのです。ダビデが羊を飼っているときに巨人をも倒すことができる勇士として神が彼を訓練しておられたことを、エリアブは知らなかったのです。

Iサムエル17:34-37をお読みください。

誰も知らないうちに神はダビデを信仰の勇者として訓練しておられました。信仰の勇者とは自分の力や知恵に頼るのではなく、神の力と知恵に頼る者です。神はダビデに人間のやり方ではなく、神のやり方で戦う方法を教えました。 神は彼に信仰と石投げを使うようにと教えられました。 人々からよろいや剣をすすめられましたが、ダビデはそれらに慣れていませんでした。(Iサムエル17:39参照)


神による訓練

私たちが望みさえすれば、神ご自身が私たちを訓練し神のやり方で生きる方法を教えてくださいます。神は他の人たちの経験を使って私たちを訓練されることも多々ありますが、神が私たちと一対一になって教えたいと願われる特別のときがあるのです。(ヨハネ16:13参照) 私たちが試練の中を通っているときに、ご自身で一歩一歩導きたいと願われます。主から教えを受ければ受けるほどもっとそれを受けとる力が与えられます。

エリアブは時代にふさわしい勇士になりたいと願ったでしょうし、確かに人々の目にエリアブは立派な勇士と映ったと思います。彼は自分こそ戦いに必要な腕を持っているという自信があり、ダビデでは駄目だと思ったのです。サムエルさえ、エリアブこそイスラエルの次の王として神が選ばれたものだと思ったほどでした 。しかし、神はサムエルに「エリアブの容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。」といわれました。「主は人が見るようには見ないからだ。人はうわべをみるが、主は心を見る。」(Iサムエル16:7)

エリアブは羊飼いにすぎないダビデが、巨人ゴリアテと戦うことが出来ると思ったということだけでも猛烈に腹が立ちました。ダビデが強い信仰をもって語るのはうぬぼれだと思ったのです。兄弟の中で一番年長で背も高い自分でさえゴリアテと戦うなどとは考えもしないのに、一番チビの弟がそんなことを考えるとは、何というあつかましさであろうと思ったのです。ダビデの話はうぬぼれにすぎず、その動機も絶対に悪いものであるに違いないと決めつけました。エリアブはゴリアテに焦点をあて、ゴリアテにかなうものはいないと決論づけました。しかしダビデの焦点は神に当てられていたのです。エリアブはダビデが自分自身を高く評価しすぎていると思いましたが、実際のところは、エリアブこそ主をあまりにも小さく考えていたのでした。


告発者から遠ざかれ

ダビデのような立場に立たされことがありますか? あなたの意図したことは良いことであり、動機も正しかったのに、周りの人があなたの言動を誤解するというようなことです。あなたが神に全幅の信頼を寄せているのを、「それはプライドだ。」といい、あなたに自分の分をわきまえるように忠告しなければならないと彼らは思うのです。 エリアブがダビデにおまえはただの羊飼いにすぎない、と言ったようにです。「荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。」(Iサムエル17:28)


エリアブのような人は、自分の口に疑いや不信仰を語らせてしまいます。「神からの召命をあなたは決して成就することはできない。」と、様々な理由を駆使してあなたに伝えようとします。「神が約束されたものをあなたは決して手に入れることはない。」と、彼らは自信をもって言うのです。エリアブは自分はダビデを熟知していて、彼に何か特別な才能などない、と信じ込んでいました。しかし、ダビデが野原で羊の番をしていたときに神がダビデの心を主のこころにかなうように形作り、彼の信仰を建て上げていたのですが、エリアブはその場にはいなかったのです。


ダビデが人生の中でもっとも重要な決断の一つをしたのはこの時でした。彼はエリアブに背をむけて他の人に話しかけたのです。


敵は、私たちはミニストリーをする力もなく適してもいないと考える人たちを私たちの回りに探して、彼らを使って私たちの人生の目標を台無しにする言葉を話させます。彼らを使って私たちがどれほど力不足であるかを指摘させ、大したことは絶対できないという理由の数々を述べ立てさせるのです。

しかし、神もまた声をもっておられるのです。主は私たちの将来や心の動機を見通すことができます。私たちは耳を主に向けねばなりません。そうすれば主からのすべての命令に聞き従う勇気を主は私たちにくださいます。 今まで私たちが一緒にいた人から離れて自由になり、神の与えてくださった使命の中を私たちが歩きだすのを主は待っておられます。


あなたは巨人を倒せる

愛する皆さん、神はあなたを巨人を倒す勇者として見ておられます。 主はあなたを勝利者だと見ています。主はあなたにやってみなさいと薦めておられます。敵の偽りには耳をふさいで、主があなたを見ているように自分を見てください。主はあなたのユニークさをキリストの身体を立てあげるために用いたいと思っておられるのです。


神はあなたの人生の目標は非常に偉大であることをあなたが確信するようにとずっと働きかけてこられました。しかしそれと同時にあなたの周りの人たちはあなたは大した器ではないとみなしていたのです。彼らはたしかにあなたには油注ぎがあることは認めても、神があなたのために立てている大きな計画を想像することはとてもできないのです。彼らにあなたの人生のゴールは絶対に見えないのです。ですから彼らにわかってもらおうとするのはやめなさい。それはあなたと神との間のことなのですから。主は御計画が実現してくるまでは人には秘密にしておきたいのです。


もしダビデがエリアブの言うことを聞いていたならば、ゴリアテを倒してはいなかったでしょうし、王にもなっていなかったでしょう。私たちの人生目標がうまれ出るのを待っている間、人の意見に背を向けて神の声を聞かねばなりません。神はダビデにイスラエルの王座をすでに約束されていましたが、ゴリアテを倒すまではダビデは人々にほとんど知られていませんでした。ダビデが信仰でこのように一歩踏み出したことにより、神は彼の名を広めました。やがて王になるための基盤を神が与えたのです。信仰と主に従順なる行動の一歩一歩が主によって与えられた目標へと私たちを近づけるのです。ここでデビデが一歩を踏み出していなかったならば、イスラエルの王座には着かなかったかもしれないのです。

今あなたの人生の中でのゴリアテは何でしょうか。神はあなたに何をせよといわれていますか。それが何であれ必ずや「おまえには出来るはずがない」、と責め立てる敵の声が聞こえてくるでしょう。 敵は主が備えられたあなたの人生の目標を壊したいのです。負けてはいけません。敵があなたを落胆させようとしたならば、かえってそれによって勇気づけられなさい。敵はあなたがその目標を達成することが出来ると思うからこそ、わざわざ時間をかけてあなたを失望させようと攻撃してくるのですから。

次のように祈りましょう。

愛するお父様、敵の声ではなくあなたの声が聞けるように助けてください。私のヴィジョンを変えてください。あなたが見てくださるように自分を見ることができますように。他の人たちをあなたの恵みの光の中で見ることができますように。私のまわりのすべての人の中にあなたのご計画を見ることができますように。(終わり)

トップページへ戻る



11 10月

主のみ言葉を信じる    JP ジャクソン   10月11日


主の御言葉を信じる

ジョン・ポール・ジャクソン

自分がどのくらい成熟した大人になったかを知りたいならば、問題を一つ見つけて見ればすぐにわかります。 人の徳(新しい性質)というものは、平穏なときにはぐくまれますが、それが真に身につくか着かないかは、問題が起こったときに私たちがどう対処するかにかかっています。誰かに感情を刺激するボタンを押されると、内的感情の温度は急上昇し、私たちは自分の「肉」をどのように扱うかという大変重要な選択を迫られる情況に置かれます。

この選択をせねばならないときには、一人の人が必ず肉に死なねばなりません。 そして、その一人の人とは常にあなたなのです。 あなたは感情の嵐の只中で軽率に行動してしまった後にその過ちを自覚して肉に死ぬか、あるいは、神に従ってその場ですぐ死ぬことを選ぶこともできます。どちらにせよ、あなたは死なねばならないのですから、出来るだけ早く済ませてしまったほうがいいのではないでしょうか。


神と結ばれた心

悔い改めには必ず自分に死ぬことが要求されます。自分が悪かったことを認めて赦しを請うことは、文字通り自分のたましいを死刑に処することです。 ナイフが自分と罪を切り離すために入ってくるとき、私たちのたましいがびっくりして息を止めるのを感じます。こんなひどい仕打ちを受けるようなことをしたのでしょうか、とたましいは泣き言をいい、注意をしないと私たちはたましいをかわいそうに思い、CPRを始め、息を吹き返させようとしてしまいます。 悔い改めは自分が正しいとする権利をとりさり、コントロールする権利をうばいます。それはあるときには不公平だと思えることもあります。あるときには問題の解決から後退しているように感じることもありますが、そうではありません。

自分の成熟度のテストを受けて失敗した場合、神は私たちが成功することよりも、努力をしたことを喜んでくださっているのだということを、私たちは忘れがちになります。失敗したことで自分が嫌になり、イライラし、自責の念にかられ、恥と思い、人から拒絶されたと思ってしまい、神からも見捨てられたように感じてしまうのです。 最悪の場合は自分と神との関係が薄れてしまったかのように考えてしまい、自分がよくならなければ、神は自分に近づいてくださらないと思ってしまうのです。 神は私たちの内に住んでおるのですから私たちが感じることを神も感じておられるのだ、ということを忘れてしまうのです。

主は私たちの感情を感じることができるお方です。主は無感情な神ではありません。主は感情で満ちておられ、私たちのために感情を動かしてくださる方なのです。主は私たちが何をしているかを見られ、物事が私たちの思うように行かなかったり、私たちが傷ついたりすると悲しまれます。私たちがストーブに触って火傷をしたり、友達に笑われたりすると、主は悲しまれます。主はすべてを見ておられ、私たちが流す血の一滴一滴、すべての心の痛みを、私たちと一緒に感じていてくださるのです。

霊的成長を遂げるためには、イザヤ63:9を言葉通りに信じて受け取らねばなりません。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、」とあります。主は私たちの悲しみをご存知なだけではないのです。私たちの悲しみを見て、それは大した問題ではないといって、すぐに私たちに悲しみから立ち直ることを要求する方ではないのです。主は実際に私たちの悲しみを経験されるのです。たとえそれが疫病のように嫌うべきこと、即ち、私たちが故意に犯した罪のための悲しみであったとしてもです。

御ことば通り信じる

私たちが霊的に「うまく」やっているときには、神が愛していてくださることを信じるのは難しいことではありません。しかし、失敗したあとにそう信じるのは困難です。自分が穢れていると感じるときに、主は私を美しいといってくださることを信じるのはほとんど不可能です。敵は私たちの思いの中に侵入してきてささやきます。 自分は人間のくずだ、まったくもう救いようがないほどどうしようもない人間だ、と感じるのです。そしてそのときに又、自分に死ぬかどうかの選択を迫られることになります。

その選択とは次のようなものです。主の御ことばとおりに信じるか、それとも自分の頭で物事を捉えてしまい、「もしかして主は聖書の中に書かれている通りに実際に慈しみ深い方であるかも知れない。」という可能性を無視してしまうか、という選択です。 私たちが自分を愛するようにではなく、「もしかして」主は「わたしはあなたを愛する」 という主の御ことばとおりに私たちを愛してくださっているかもしれないのです。

私たちが痛みの中で呻いているとき、たとえそれがどのような痛みであったとしても、主はひざまずいて私たちの足を洗い、傷を包帯で包み、そっとキスをして「大丈夫だよ」と言ってくださるのです。
そのときに私たちの徳(新しい性質)が懐妊されます。それは、私たちが完全な時にではなく、「主は私を愛していてくださる!」と心の底からわかったときにです。(終わり)

トップページへ戻る
05 10月

静まることの大切さ    グラハム・クック   10月7日


静まることの大切さ(Crafted Prayer より抜粋)

グラハム・クック 

静まることこそ天と私たちの間のコミュニケーションのチャンネルを開くものです。私たちはみな絶えず頭の中で何かを話しています。私の友人のイギリスの心理学者ジム・マックニーシュ氏は、これを「頭の中の騒音 ヘッド・ノイズ」と呼んでいますが、それは内部の声であり、私たちの生活のサウンド・トラックです。絶えず流れている一方的な意識の流れ的な会話で、私たちの人生の一時一時にコメントを言っているようなものです。

私が今話そうとしている「静まること」とは、どこか静かな場所に行くことではなく(確かにそれはしばしば助けにはなりますが)、あなたのこの頭の中の声を黙らせることなのです。その声を黙らせるには訓練が必要ですが、神の御心を知るためにはどうしてもそれが必要ですし、主が共にいてくださいますから、あなたにも出来ます。

私たちが性急にとりなしの祈りを始めてしまうと、このヘッド・ノイズをそのまま祈りにしてしまいます。主の御前で「静まる」ことをせずに自分の力で祈ってしまい、自分が直面している状況のプレッシャーやパニック状態の重荷を負ったままで神のドアの前に来てしまうのです。私たちはごちゃごちゃと沢山の言葉を祈り、静かになることはほとんどありません。これは全く神のなさることと正反対なのです。

神はいつも静かにしておられ、めったに話されません。主が私たちのうちで話されること(speak in us)と主が私たちにむかって話されること(speak to us)とは違います。「主が私に語られた。(spoke to me)」という表現を私たちはよく使いますが、実際にはそれは私たちの霊の中に蓄えられた言葉、考え、思い、会話、聖句などの中から神がそのときに選んであなたの意識の中に思い起こさせてくださるものなのです。コンピューターの中にファイルを導入するように、私たちの中にすでに蓄えてある宝を主が引き出してくださるのです。「ああ、本当にそうだ。主が語ってくださったに違いない。」と私たちは思います。それが内なる声(speak in us)です。

神は静まった心の中で時々語ってくださり、主が語られるときは重大事なのです。主があなたに語られる(speak to you)ときには、神はあなたに何かを確かに分与されます。そしてそのとき主の臨在感は深いのです。主が一度話されると地が創造されました。神が語られると確実に何かが起こり、何かが揺り動かされ、何かが創造され生み出されます。主が私たちに語られるとき、主の臨在のダイナミックな剰余が私たちのうちに必ず残り、それは全く特記すべき事件となります。

詩篇46:10で神はダビデに「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」といわれました。困難な状況におかれていたダビデに語られたこの言葉は、深い主の臨在をもたらしました。46篇が地震の描写で始められ、「静まれ」で終わっているのは興味深いことです。神だけが地震の最中に静けさについて語ることができるお方です。あなたの人生が足元からガタガタと崩れていくときに、神だけが「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」と語ることができるのです。

神を知ることは平安と静けさを通して与えられます。神は私たちを戦士として戦場に送ることを望まれますが、もしそれに先立って静けさを見出していなかったならば、戦場でどうやって平安を見出すことができるでしょうか。敵に対する一番の武器は安息です。なぜならば安息により私たちは神のうちの秘密の場所に隠れることが出来るからです。サタンは想像を絶するほどの敵意と悪意をもって私たちを憎んでいますが、バカではありませんから、あなたを至聖所の中までは絶対に追いかけてはきません。そこは主の臨在の場でありそこに行けば主と対決しなければならないことをサタンは知っているからです。私たちは主ご自身を避難所、砦、秘密の隠れ場とすることによって、敵が私たちに触れることができないようにする方法を学ぶ必要があります。敵があなたを見つけられなければ、あなたに害を加えることもできないのです。神はあなたのためにご自分の中に秘密の場所を備えていてくださいます。

主と共に歩むためには、あなたはパニックになってはいけないのです。主と共に歩むためには、心配したり不安になったりすることがあってはなりません。秘密の隠れ場が私たち一人ひとりのために用意されています。たとえどんなことが起こっても、主とともに生きることができる場所を、主は愛であるゆえに愛をもって備えていてくださいます。主はそれがどこにあるかを私たちに教えたいのです。なぜならば神の子たちが秘密の場所に入ったならば、その時こそ人生を心から楽しむことが出来るからです。どんな困難が襲っても彼らはそのチャレンジに立ち向かうことができます。静まることなしには私たちの神の経験は限られたものになります。(この神の前で)静まることは主に安息するための先駆けとなる準備であり、それは主の臨在の中に絶えずとどまるための霊的訓練を意味します。この安息、この静けさ、この神のうちにある秘密の隠れ場こそが、主との絶えざる交わりを与えてくれます。これが聖書のいう絶えざる祈りなのです。(終わり)


トップページへ戻る

 Page 123 of 131  « First  ... « 121  122  123  124  125 » ...  Last »