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Walk With God Ministries


19 05月

とりなしの祈りとは   ジェームス・ゴール  5月19日


とりなしの祈りとは  

ジェームス・ゴール


アメリカでも著名なとりなし手の一人であるジム・ゴール師の著書Exodus Cryから抜粋して要約したものを下記にご紹介します。(坂 達也)
           
X X X X X X X X X

 ゴール師はある時、主から導かれて、英国ウエールスにあるスワンジー・バイブル・カレッジを訪ね、とりなし手として世界的に有名なリース・ハウエル師の只一人生存する息子さんに会いました。そして、第二次世界大戦の末期に、ドイツ軍の攻撃の情報を、リース・ハウエルがどうして事前に知ることが出来たのかを訊ねました。ハウエルはそれをとりなすことによってナチの攻撃を何度も未然に防いだと言う有名な歴史的事実があるからです。その質問に対して息子さんは答えてくれなかったそうです。

しかしゴール師はあきらめず執拗に同じ質問を繰り返し、三度目にゴール師に同行したケロー師がひざまずき「アメリカは今重要な事態を目前に控え、本当にあなたのお父さんやあなたがされたようなとりなしを必要としています。ぜひ教えて下さい。…」と懇願した結果、息子さんは頬に涙を流しながらやっと、「あなたがたは、主のしもべである父が、完全に神によって所有された人であったことを理解すべきです。」と答えました。

彼は「私たちは主が代価を払われて、主ご自身のものとして所有されています。私たちはもはや私たちのものではないのです。私たちは神によって所有されるように召されています。」と言われたそうです。

 ゴール師はグスタフ・シェラーが「とりなしintercessionとは祈りではない、激しく祈ることでもない。誰でも、人のために、あるいは何かのために心から祈ることは出来る。しかしその祈りの結果に対しては、どのような代価を払っても決して取り消すことの出来ない責任を取ると言うことはしない。しかし「とりなし」とはその 責任を取ることである。とりなしにおいては、その祈る相手、あるいは対象が、自分と同一であることを認めることidentificationである。とりなし手はその祈る相手の立場に自分が喜んで取り代わり、その人の必要を自分の必要とし、その人の苦しみを自分のものとして苦しみ、それが答えられるまで産みの苦しみとすることである。
主イエスはまさにそのように『そむいた人たちのためにとりなし…』『そむいた人たちとともに数えられ…』(イザヤ53:12)『私たちのそむきの罪のために傷つかれた』(イザヤ53:5)のである。 
イエスは私たち罪人と同一人となり、その罪を自ら負って、その私たちの負い目の代価を払われた。」と言った言葉を引用して、「とりなし」の何たるかを説明し、私たちクリスチャン、あるいはとりなし手は、主の完全な所有物にならなければならないことを強調しております。(終わり)


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10 05月

教会には三種類の人がいる  グラハム・クック  5月10日


教会には三種類の人がいる

グラハム・クック (彼のメッセージテープより) 

 どの教会にも三種類の人たちがいます。 第一のグループは、教会の中で事を初めて推進していく人たち(イニシエーター)です。 第二はそれを助けていく人たち、(エンネイブラー) そして第三は教会で何が起こっているのかよく知らない人たちです。(レヂスター)
 つまり、新しいプロジェクトを提案して始める人、それに協力して助ける人、そしてそれを妨げる人たちです。

 新しい事を始める人たちは教会を動かして行きます。彼らには父親役の人が必要であり、弟子訓練をして成長させていかねばなりません。多くの場合、この種類の人たちは、教会の現状にフラストレーションを感じていて、牧師に難しい質問をしたりして、ちょっとてこずらせるような人達です。彼らの中のフラストレーションというのは、多くの場合、神が次に何をしようとされているかを知る鍵となります。

 たとえば、あることに関して憤りを感じるというのは、神がそのことを解決しなさいと言っておられることが多いのです。 例えば、モーセはイスラエス人がエジプト人に虐待されているのを見て憤りを感じましたが、後にモーセがイスラエル人をエジプトから解放しました。あなたが情熱を持つこと、非常に悲しむことなどはすべて、神があなたにこれからさせようとすることを知る鍵なのです。神は、「こういうことは仕方がない、これが現実なのだから。」と、いい加減にあきらめる人ではなくて、絶対にどうにかして解決しようとする真の戦士、事を実行して成し遂げる人を求めておられるのです。

 ですから「いい加減に妥協しないで徹底的に戦う人たち」を私たちは必要としているのです。この人たちは艱難、苦労、自己犠牲を厭わず、ゆるぎなく目的に立ち向かいます。「人当たりのいい人」ではありませんし、又、そうであってはならないのです。私たちが教会を変えて行きたいと思うならば、この「イニシエーター」は誰なのかをしっかりと把握せねばなりません。教会はこの種の人たちの上に建て上げられて行くのですから。 神の次の御計画を推進していく力となる人たちです。
 
次のグループは「協力者」です。 この人たちは信仰が確立されていて、忠実に人を助けていく人たちです。 彼らはいつも新しいことを学ぶ姿勢があり、人に喜んで仕えます。
すごくカリズマがあるとか、賜物がある訳ではないかもしれませんが、 常に忠実に仕え、いつも聞く耳をもって人の注意や導きを受け入れます。

 第一のグループ「イニシエーター」とこの第二グループの「協力者」を合わせれば、すばらしい槍を手に持っていることになります。 イニシエーターだけでは、矢じりだけです。矢じりに協力者という棒をつけねば物を突きぬく力は出ません。
 
教会の中でイニシエーターの名前のリストと協力者の名前のリストを作るべきです。この人たちを土台として教会を建てるのです。どの教会においても、この二つのグループの人たちが教会の中心となります。彼らを失ってはなりません。彼らが教会の他の人たちに影響を与えるようにするのです。これらの人を弟子の見本として育てて行くのです。

どの教会にも「妨げる(手間を取らせる)人たち」がいますが、又、いなければ困るのです。その人たちに二種類あります。 手間を取らせる良い方の種類の人は、新しく救われてくる人です。 しかしもう一つの悪い方の種類の人たちは、何もする気のない人、成長する気のない人たちです。今の教会の問題は、このような人たちを相手にし、それを標準にして教会活動をしていることです。私たちはほとんどのエネルギーを、こういう低級なクリスチャンが次の日曜までかろうじて生き延びていけるように励ますことに費やしてしまっているのです。そう言うことばかりしていると、リーダーたちは、疲れ果て、希望を失い、燃え尽きてしまいます。  正当な「妨げる人」は救われたばかりの人です。 彼らは真理と義の道を歩むことを学びはじめたばかりの人で、キリストを第一として生きることを実践し始めたばかりなのですから、彼らが私たちのエネルギーを消耗させるのは当然であり、大変すばらしいことです。教会の門が広く開けられているならば、こういう人はいつもやって来ることでしょう。

それに反して正当でない「妨げる人」は、あなたに自分の人生のすべての責任を負わせるのに、あなたが彼らを変える権威を与えようとしません。彼らは教会に自分のための祝福がある時には群がってきますが、状況が困難になると去って行きます。

 ある教会に招かれた時の事ですが、その教会で何が起こっていて、私は何をするべきかを主に訊ねました。主は私に船の幻を与えて下さいました。 「この教会はこの船のようです。今から私は、水面下に二つの大きな穴を開けて水が入るようにします。船は沈み始めます。船底にいたねずみが全部逃げ出した時に、私はその穴を塞いで船が正常に航海出来るようにします。」と主は言われました。

 その教会でねずみを見つけるのが私の仕事だったのです。教会はその後変革の時を迎え、大変な試練を通りましたが、主が支えて下さいました。多くのメンバーがどんどん出て行きました。600人いたメンバーが150人になってしまったのです。随分ねずみがいた船だったのですね。処が、残された150人の人たちはほとんどが第一と第二のグループ、つまり、イニシエーターと協力者だったのです。

 出て行ったのは不正な「妨げる人達」でした。彼らはイエスを信じて救いのもたらすすべての祝福を受けるだけで、イエスを主とすることをしない人たちです。自分の好き勝手に生きながら、イエスを保険のように考えている人たちです。 彼らは礼拝には出席しても、ほとんど献金もしないで、いつもミニストリーを受けたがり、何か自分の益になることだけを求めて、もしそうでなければ悪口雑言をいって出て行くのです。彼らは信仰ではなく感情で動いています。過去の荷物をぶら下げたままで信仰生活を続け、それを捨てることもしないのです。僅かなことですぐ腹をたて、信仰で歩むことを学ぼうとはしないのです。怠け者です。成長したいという気もなく、ただ手を置いてもらって祈られるのが好きなのです。いつも助けて欲しい、救って欲しいと思っています。

 私たちは人々を神から救うというのが仕事ではありません。人々を神のみ心に従うようにするのが私たちの任務です。ある人が苦しんでいる時に、それが神から与えられた必要な苦しみであるこ
05 05月

他人の上着の裾と主の衣のふさの違い ダニー・ステイン 5月5日


他人の上着の裾(コートテイル)と主の衣のふさ(ヘム)の違い

ダニー・スタイン

人の上着の裾に乗る(他人の力にたよる)

息子が父親のようになるとは限りません。イスラエルの父祖たちは、約束の地で受け継ぐべきものを勝ち取るために、どんどん前進していきました。しかし、その子供たちは父祖からの遺産を受け継ぎはしましたが、自分たちに神から約束されていたものを、必死になって追い求めたわけではありませんでした。彼らの多くは、神から与えられた自分のゴールに、完全には到達できなかったのです。彼らは、父祖が勝ち取ったものの上で、胡坐をかいていたのです。彼らには土地も家も建物も仲間も金もすでにありましたし、自分たちが以前持っていた目標は、自分の今の生活に合わせて調節すればそれで済んだのです。子供たちの世代は、親に働いてもらった成果の上で気を抜いてしまったのです。

彼らの問題は心の中にひずみが起こることでした。自分が置かれている安易な立場を見て、自分にはすでに権利と特権があたえられていると勘違いをし、神が私たちに与えてくださった恵みを謙虚に感謝して受けるという感覚をなくしてしまったのです。

今日これと同じ問題が、教会の多くの側面に影響を与えています。「あなたが持っているものは何であろうと私も持つ権利があります。あなたがそれを得るのにどれだけ苦労をしたかなんて、知ったことではありません!」という空気が教会の中にあるのです。 この態度は預言的な働きの中にも侵入し、ただ人が聞いた声を真似するだけの「こだま」ばかりが蔓延し、自分が直接聞いた真の「声」はほとんどないという結果を生じています。 この現象が各地で起こっているのを私は知っています。ある一部の人たちが非常な努力をしているのを見て、自分たちもあたかも彼らと同じように成長したかのように感じてしまっているのです!

私たちは人の上着の裾に乗っているのです。その人たちが波の高い沖まで泳いでいってくれたので、彼らのサーフィンの板に便乗していた私たちも一緒に波に乗ることができるのです。私たちは自分で苦労して泳ぐ必要も感じなかったし、別に波に乗りたいと思ったわけでもないのですが、すでにここまで連れてきてもらったのだから、波乗りの名人と同じようにしてみたいと思うのです!
これは昔からあった問題です。ルシファーも心の中に同じ問題を抱えていました。 彼は神がされたことをずっと見ていました。そして彼の心に変化が起こりはじめ、高慢になり、その結果として彼は失墜してしまいました。

イザヤ14:13-14「あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』ルシファーは神の上着の裾に乗って王座にまで上ろうとしたのです!

ハマンとヘロデ

自分に自信がないので、他人の力によってもっと高い地位に着き、自我を満足させようとした人たちが他にもいました。ハマンはその一人です。彼は人からの称賛を非常に求めたゆえに、プライドのわなに陥り、失脚しました。

エステル記5;7-13「エステルは答えて言った。「私が願い、望んでいることは、 もしも王さまのお許しが得られ、王さまがよろしくて、私の願いをゆるし、私の望みをかなえていただけますなら、私が設ける宴会に、ハマンとごいっしょに、もう一度お越しください。そうすれば、あす、私は王さまのおっしゃったとおりにいたします。」 ハマンはその日、喜び、上きげんで出て行った。ところが、ハマンは、王の門のところにいるモルデカイが立ち上がろうともせず、自分を少しも恐れていないのを見て、モルデカイに対する憤りに満たされた。 しかし、ハマンはがまんして家に帰り、人をやって、友人たちと妻ゼレシュを連れて来させた。 ハマンは自分の輝かしい富について、また、子どもが大ぜいいることや、王が自分を重んじ、王の首長や家臣たちの上に自分を昇進させてくれたことなどを全部彼らに話した。 そして、ハマンは言った。「しかも、王妃エステルは、王妃が設けた宴会に、私のほかはだれも王といっしょに来させなかった。あすもまた、私は王といっしょに王妃に招かれている。 しかし、私が、王の門のところにすわっているあのユダヤ人モルデカイを見なければならない間は、これらのことはいっさい私のためにならない。」

自分に自信が持てないと、人間は往々にして権力のある人の「上着の裾」に対してこのように反応してしまうのです。もし私たちが自分ではっきりした神からの啓示をもたないと、他の人の思いつきに振り回され、人間の考えを絶対的なものとしてしまいます。 その願うところは人から認められることであり、名声であり地位です。神は私たちがへりくだりの場、即ち、自分のための名声など全く関係のない神の恵みの中にとどまることを望んでおられます! 歴史の書によれば、歴代のヘロデ王たちは、自分の地位を守るために兄弟や子供を度々殺害しました。ヘロデ家はその地位と権利を、血統と生き残ることによってのみ保ったのです。それは真のミニストリーが取るべき道とは全く正反対です。

マタイ14:6-12「たまたまヘロデの誕生祝いがあって、ヘロデヤの娘がみなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。それで、彼は、その娘に、願う物は何でも必ず上げると、誓って堅い約束をした。 ところが、娘は母親にそそのかされて、こう言った。「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい。」 王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令した。彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。 そして、その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。 それから、ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。」

他人の上着の裾に乗ることの例は次のようなものです:有名な教会やミニストリーに所属していることに頼る、家柄を誇る、霊的父親からもらったタイトルや地位に頼る、著名な人と親しい故に自分も何か立派だと感じる、素晴らしい預言を受けたことを誇る。 誰かの上着の裾に乗っているだけの人生は、単に「こだま」として生きるだけで終わってしまいます。 つまり、自分で神を求めて神に出会った人の油注ぎのおこぼれを受けるだけの人生になってしまうのです。

エリシャはエリヤの外套(マント)を受けるだ
28 04月

激しい悔い改めによって栄光の津波が起される ビル・ヨント 4月28日


激しい悔い改めが天地を揺るがす時、栄光の霊的津波を解き放つ

ビル・ヨント 


津波のヴィジョン

ヴィジョンの中で私は巨大な海岸線から潮が引いていくのを見ました。引いていく潮は主の御霊でした。今は潮が引いていくシーズンです。キリストの身体(教会)が水の中にほとんど浸かりながら立っていました。潮がだんだんに引いていくと、今まで水の中に入って隠れていた身体の部分がどんどんとあらわにされていきました。引き潮の中で私たちは霊的に裸にされて立っているようでした。

潮が海岸線から引いていくと、神の民を縛っているチェーン(くさり)や縄が沢山見えてきました。 人々は縛られていたので、御霊の後を追っていくことができなかったのです。御霊はだんだんと人々から遠ざかっていきました。御霊によって彼らは罪や弱さをあらわにされたにもかかわらず、御霊は彼らから遠ざかっていくのでした。

ある者たちは、御霊の後を追って少し遠くまで行くことができました。しかし、引き潮はその速度を増したので、彼らを置いていってしまったのです。そして選ばれた者、義人さえもが、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?」と叫びはじめたのです。キリストの身体は、疲労困憊し、大いに落胆してそこに立ちすくんでいましたが、その立っている場所は干からびて、砂漠のような土地になってしまいました。

教会は波がずっと遠くへ行ってしまったのを見ることができるだけで、もはや御霊の動きを経験することはできませんでした。それどころか、彼らに残されたのは、彼らの罪であり、束縛であり、無力さだけでした。 教会はその姿をあらわにされ、裸のままで立っていると、水に触ったこともない人々が海岸のうしろで大きな声であざけっているのが聞こえました。
彼らはこの世を表していましたが、彼らは教会の罪と恥を見、神をあざけっていました。それは神の民にとって永遠とも思えるような長い時間でした。神と引き離されたままで、もうこれからは全く悪いこと(敗北・失敗すること)しか起こらないように感じられたのです。

多くの者は、遠くに行ってしまっている波のほうを見るのもやめて、彼らが以前いた場所である岸にむかって歩きはじめました。彼らはあきらめてしまったのです。待っても待っても来ないー待つことに疲れ果ててしまいました。そして、もう神は自分たちを見捨てたに違いないと確信するようになりました。

しかし、わずかに残った者たち(レムナント)はそこにとどまり、主を待ち望み、自分の罪を告白し悔い改め、全世界のためにとりなしをし、すべては権力や能力ではなく神の霊によってなることを悟って、じっとそこに立っていました。そのとき地は動かず、引いていっていた潮もそこでとどまり、不思議な静けさがあたり一面を覆いました。そして主が語られました。「潮がもどり始める。今、引いた潮がターンし始める。潮はもどって来るのだ。もっと大きく満ちるために!これはわたしの地が待ち望んでいたわたしの栄光の津波なのだ!」と。

詩篇24:1-2「地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは、主のもの。主は、大海の上に地の基を置き/潮の流れの上に世界を築かれた。」(新共同訳)
詩篇24:7-8「城門よ、頭を上げよ/とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。 栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。」

解放の大波が神の民にくる

潮が満ちてきました。最初に来るのが見えた聖霊の大波は、神の民の上にくる解放の力強い波でした。ヨエル2:32に「しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる。」とあります。 神の民に大いなる解放のミニストリーが与えられます。この大波がやってくると、神の指によって悪霊の力がはじき出される大いなるときが始まるのです。

次に来る大波は「回復」と呼ばれるものです。この大波はバックスライドした者や信仰の破船にあったものたちを大勢連れてきます。神が「私はバックスライドした者と結婚している。」と言われます。

海はあたかも死んだ者たちを諦めたかのようだ!しかし被造物の総てが待ち望んできた天の津波がいよいよ来る!
次に来たもっと大きな波は「救い」の波でした。 この波は一回ではなく、あとからあとから押し寄せてきました。これらの波は失われた人たちー救われようがないと思われていた人たちーを持ち運んできました。地のどん底から失われた人々を連れてきました。海は死者を吐き出しているようで、奈落の底から魂が上がってくるようでした。

その中には不道徳なスターたち、大勢の人を殺した殺人者たち、魔女やオカルト、東洋の宗教をしていた者たちがいました。おぞましい恐ろしい犯罪を犯した者たちもいました。まるで、地獄そのものがこれらの魂を吐き出しているようでした。地獄は彼らが出て行くのをそのままにしていました。地獄の門が開き、これらの魂が放免されていました! これら最後の救いの波は海のどん底をさらってくる力があったのです。

波はどんどんと高まり続け、その救いの波は岸から奥に向かって多くの陸地を覆い始めました。主の御霊は洪水のように押し寄せ、主の旗印が地上に高く掲げられました。救いの波が文字通り地を覆うにつれ、大勢のものが救われて行きました。これらの波がどんどんと大きくなり、巨大な津波のようになったときに主が言われました。「わたしが生きているかぎり、水が海を覆うように、わたしの栄光が全地に満ちるであろう。」
さあ、共に悔い改めましょう。(終わり)


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19 04月

望みの門  フランシス・フランジペン   4月19日


望みの門

フランシス・フランジペン

私たちは往々にして、信仰の力は強調するけれども希望の大切さは過小評価してしまいがちです。
しかしながら、「信仰とは望んでいる事がらの実体(ヘブル11:1)」とあります。 ですから、まず神に対して強い希望を抱かなければ、私たちの信仰は役に立ちません。実際、私たちがトランスフォームされるための最初のステップは、私たちの中の希望が目ざめることです。

私たちはキリストを信じた後でもなお、失敗をします。私たちが罪を犯してしまうと、自分は有罪であるという思いに縛られ、その思いが希望の声を窒息させてしまいます。イスラエルがカナンを征服したときの話を考えてみてください。主はカナン人の富でイスラエルを繁栄させようとされました。しかしそのためには、一番初めのエリコの戦いの勝利品はすべて神にささげることを条件とされました。残念なことに、アカンという男が主の命令に背き、金、銀、シヌアルの外套をとり、テントの中に隠しました。その彼の罪の結果として、次の戦いで36人のイスラエル人が小さなアイの町に負かされ侮辱され死にました。

主がアカンが犯人だと示されましたので、ヨシュアは彼と彼の家族を、全財産と共に谷に連れて行きました。聖書に次のように書かれています。「『なぜあなたは私たちにわざわい(trouble)をもたらしたのか。主は、きょう、あなたにわざわい(trouble)をもたらされる。』 全イスラエルは彼を石で打ち殺し、彼らのものを火で焼き、それらに石を投げつけたーーーそういうわけで、その所の名は、アコルの谷と呼ばれた。今日もそうである。」(ヨシュア7:26,26)

アコルという言葉は「troubling 悩ませる 困らせる」という意味で、一人の人の罪が多くの人の上に困難と苦痛をもたらすことを表しています。勿論アカンにとって一番辛かったことは、自分の犯した罪のために妻と子供たちまでが死に追いやられたということです。彼らが抱き合って恐ろしい刑罰を待っているとき、自責と後悔の念がアカンの心には耐えがたいほどにあふれたことでしょう。

個人的な失敗

後にアコルの谷は、最悪の刑罰を表す象徴となりました。それは死と荒廃の場でした。勿論、今日私たちは罪を犯した者や無責任な行動で他の人を悲しませた者を、石打ちにはしません。しかし、罪にはその結果が必ずあります。 私たちの身体は石打にはなりませんが、公に有罪であると判決を受けることは、石打の刑と同じくらい人間の心を打ち砕きつぶしてしまいます。 事実、私たちの多くの者はアコルの谷を個人的に経験しています。そこでは私たちの不道徳な行為や、賢明でない行動が他の人に苦しみを与えてしまったのです。

もしかしてあなたは姦淫を犯してしまったかもしれません。それはあなたの配偶者や子供たちに非常な苦しみをもたらしました。また、あなたはイライラして不注意な運転をしていたために事故を起こし、他人に怪我をさせたり、最悪の場合は人を死なせたりしたかもしれません。あるいは、あなたがクリスチャンとしてよい見本を示さなかったために、あなたの子供たちが神から離れていってしまったかもしれません。私たちが失敗を犯す可能性は無数にありますが、その結果はほとんどいつも同じです。それは、あなたの人生の上にのろいがかぶさったかのようになることです。

自分の心が自分を責めることだけでも苦しいのですが、あなたの失敗を知っている人たちが、「あなたにはもう希望がない。」と声を合わせてあなたに言うときは非常に辛いものです。あなたに対する世間の反感や冷たい目、批判的な態度は、アカンが肉体に受けた石と同じくらい、あなたの魂に鋭く突き刺さるのです。 確かにあなたの肉体が死ぬことはありませんが、その代わりにあなたの希望が死んでしまうのです。今まで希望と期待をもって将来を眺めることができたのに、今や心痛や後悔があなたの将来への視野を塞いでしまいます。

私たちが真に悔い改めることによって心が清くされ強められることだけが、自責の重荷から解放される唯一の方法です。ですから、失敗や罪、その結果ののろいからあなたが解放される唯一の道は、聖霊によって私たちがトランスフォームされることです。
  
残念なことに、敵は多くのクリスチャンを不信と自責の思いの中に閉じ込めてしまっています。彼らは自分のしたことが悪かったことは自覚し、そのことを憎んではいますが、その罪の意識の重荷から自分を解放することができないでいるのです。私たちの贖い主はとりこの解放を宣言するために来られたことを思い出してください。(イザヤ61:1参照) 主は監獄に入っている人たちのことだけを言っておられのでしょうか? そうではなく、主は過去の失敗のとりことなってしまっているすべての人のために来てくださったのです。神は私たちが過去の失敗から学ぶことを望んでおられますが、そのとりこになることは望んでおられません。イエスは、アコルの谷に夢が埋もれてしまっている人たちを解放し回復するために来てくださいました。

個人的な悲劇

私たちが負っている重荷は、自分の道徳的な失敗の故ではなく、人生のなんらかの惨禍から来ていることもあります。

人間の魂が受ける最大の試練の一つに、愛する者の死があります。そのような損失は非常な重荷を私たちに与え、私たちを過去のとりこにしてしまいます。アブラハムの父、テラの物語は、愛する者の死から離れられなかった人物を深い洞察をもって描いています。

テラには3人の息子がいました。アブラム、ナホル、ハランです。聖書には「ハランは父テラの面前で彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。(創世記11:28)」とあります。息子を失うことは非常な痛みをもたらします。特に自分の腕の中で息子が死ぬのを見るのは、全く打ちのめされるような経験です。

その後しばらくして、カナンに新しい土地を見つけようとして、テラは家族をつれてカルデヤ人のウルを離れました。 しかしその途中で、テラは死んだ息子ハランと同じ名の町を通らねばなりませんでした。テラはカナンへの旅を続ける代わりに「ハランに着いてそこに住んだ。(31節口語訳)」のです。

愛する者の死を悼み、その人を慕わしく思うのは当然です。しかしながら、人生の中で起こる悲劇は、その痛みを忘れるのは誠実ではないという誤った忠誠心で私たちを縛ってしまう恐れがあるのです。飛行場でチラッと見た他人の顔やラジオからふと流れてきた歌で、その人の心は何
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