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Walk With God Ministries


05 10月

神の御性質にあずかる特権 ポール・キース・デイヴィス 10月5日


神の御性質にあずかる特権(1)

ポール・キース・デイヴィス

ずっと昔、イスラエルの王であったダビデは、やがて神を求める人々の群れが起こるであろう、と預言しました。詩篇24編には彼の預言のアウトラインと、その一人となるための必要条件が書かれています。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けなかった者が、主を心から求める神の民の群れの一人になれるのです。ダビデは次のように言っています。
詩篇24:3-6「だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。 これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。セラ」

それでは、一体どうしたら神の民を覚醒させ、この条件を満たせるようにできるのか、という問題が残ります。こういう結果を生み出すために最も効果的なのは、それぞれが個人的に天からの啓示をうけて神と出会うことであることは明らかです。聖書には、預言的啓示を受けることをいつも神に求めていた、ある偉大な王のことが書かれています。第二歴代誌26:5には、「彼(ウジヤ)は神を認めることを教えたゼカリヤの存命中は、神を求めた。彼が主をもとめていた間、神は彼を栄えさせた。」と書かれています。

この10代の王と年老いた預言者との関係は、とても興味があると共に、貴重な教訓を私たちに与えていると思います。歴史の資料によると、ウジヤが16歳で王位に着いたときには、ゼカリヤはかなり年を重ねていたということです。ゼカリヤという預言者は、ウジヤ王を監督していた間、王に常に神を求めさせた、というのは、とてもすばらしいことです。そして、ウジヤが神を求めたので、神は彼を非常に栄えさせました。ゼカリヤが受けた啓示と、必死に神を求め続けたウジヤの心との間には、深い関係がありました。天へ通じる道を会得していたゼカリヤを見て、ウジヤは自分ももっと神を求めるようになり、結果として、彼をイスラエルの最も偉大な王の一人にしたのです。

同じ歴史の資料によりますと、ゼカリヤはウジヤが40代半ばのときに死んだということです。ウジヤ王の心にプライドが起こり、祭司たちが止めるのを聞かないで、神殿で香を不遜にも焚ことしたのは、その頃でした。残念なことに、この神の偉大なしもべは致命的な間違いを犯してしまい、それで命を落としました。ゼカリヤが神からのヴィジョンによって得た霊的理解を王に与えていた間は、ウジヤは正しいことを行っていました。啓示の油注ぎがなくなったときに、間違いが起こってしまったのです。

しかし、彼の犯した間違いにもかかわらず、ウジヤは聖書の中で「神の礼拝者、創造的な発明や軍事的にも天才的であった偉大な王」として記録されています。疑いもなく、それらの才能は、ゼカリヤや王自身が天からの知恵を求めたゆえに与えられたのです。

先の世代から学ぶ

ウジヤに代わって治めた彼の息子であるヨタムについて、非常に興味あることが書かれています。第二歴代誌27:2に、「彼(ヨタム)はすべて、主の目にかなうことを行った。父ウジヤが行ったとおりである。ただし、彼は、主の神殿にはいるようなことはしなかった。」と書かれています。

ヨタムは、父が行った正しく立派なリーダーとしての良い部分は全部見習いましたが、それと同時に父の間違いを見て、それをどうすれば避けることができるのか、ということも学びました。聖書には、ヨタムは父がした正しいことはすべてしたけれども、神殿に香を焚きには入らなかった、と書かれていますから、彼はしっかりと父の失敗から学んだのです。彼は父がらい病を患って苦しんでいる姿や、身体が蝕まれているのを目の当たりにしたに違いありません。そして自分が王である間、決して同じ間違いはしないことを心に決めたのです。私たちは、自分で植えたのではないぶどう畑で収穫を始めるときには、ヨタムと同じように、先人の良いところは見習うという態度を持たねばなりません。

現代のモデル

今の世代のクリスチャンたちが、前の世代のリーダーたちの経験から学び、熟慮し、熱心に見習うようにと、主がこの聖書箇所を預言的な型として、最近、私に示してくださったのです。残念なことに、前の世代の素晴らしい神のしもべたちに関する本は、彼らが犯してしまった失敗や間違いにばかりに焦点が当てられ、ひどい非難や批判をあびせているものがほとんどです。その結果、今の世代のクリスチャンが彼らから受け継ぐべき良いものまで、重要視しないようにさせてしまっています。勿論先人が犯した間違いに目をつぶれ、というわけではありません。ヨタムに倣って、その間違いから学び、同じ間違いをしないようにしなければなりません。

最近、聖霊が私にこう言われました。「何事でも尊敬しないより、尊敬したほうが、あなたはずっと霊的に成長します。」 ウジヤの致命的な間違いにもかかわらず、彼は偉大な王として記録されているのです。そして息子は間違いからも学んだのです。

私たちが「後の雨のリバイバル」を導いたリーダーたちの人生について調べるときには、このような姿勢をとるべきだと思います。彼らは神の栄光を大いに表わすと共に、人間的な過ちも犯しました。私たちは彼らがした正しいことは見習い、落とし穴は避けねばなりません。

生まれながらの敗者が勝者となる

「後の雨リバイバル」で最も顕著に奇跡を起こしたのは、A.A.アレンでした。この偉大な伝道者を個人的に知っていた人たちに沢山会う幸いを、最近、私は得ていますが、彼らはアレン師について非常に暖かい語調で語ります。彼はこのリバイバルの中で最も不名誉を着せられたリーダーの一人ですが、天の記録には勝利の人生、正しいリーダーとして記されると私は信じます。

彼は人生の終わりに間違いを犯したかもしれませんが、彼と全く同じ状況の中に置かれた人でなければ、誰も彼を裁くことはできません。何千人という人たちが彼の働きによって、今天国にいるのです。またおびただしい人たちが、そのうちの多くに私は会ったのですが、癒され今も生きているのは、彼が神の奇跡的な救いの力を流す管となったからなのです。

私は彼の人生を調べたのですが、彼がミニストリーを始めてすぐのころ、彼は主の訪れ、ヴィジテイション、を経験しています。彼はその頃は伝道者としてまあ
29 09月

霊的な橋  ビル・ヨント   9月29日


霊的な橋

ビル・ヨント


天使がキリストのからだの中に架けられた霊の橋を点検中、天の父は「わたしの栄光の重さにこれらの橋は耐えうるだろうか?」とつぶやかれた

辞書によれば、橋とは「河川などの障害物の上に通路として作られる構造」と説明されています。
あなたは、神から「行きなさい。」と命じられたところに行くための道が、障害物でふさがれているように感じていますか?
人々はそれぞれ人生の道をたどっていますが、その途中の橋が壊れてしまっていて、立ち往生している大勢の人がいるのを、私は感じます。

戦時には、敵が相手の国を麻痺させたいなら、その国の人々をつなげている橋を破壊します。人々はお互いに連絡がとれなくなると、敵の激しい攻撃に対してほとんど力がなくなるからです。


崩れそうな橋

私は幻で、キリストのからだを結びつけている関係のかけ橋が、長年修理を怠っていたため、今にも崩れそうになっているのを見ました。この橋がもし崩れてしまったならば、人々は立ち往生してしまうのです。いろいろな人間関係が新たにされ、回復され、強められなければ、多くのクリスチャンは、御国を築くための目的やゴールにたどりつけないのです。

私たちが「その橋(ある人との人間関係)はなくても、目的地には行けるから大丈夫だ。」、と高をくくっていたものが、それが約束の地に辿り着くことができる唯一の橋であることがわかってきたのです! 私はそれを幻の中で見たとき、一つのことわざを思いだしました。それは、「あなたなしでは私はどこにも行けません。 あなたも、私なしにはどこにも行けません。」というものです。そして、お互いが好きであろうと嫌いであろうと、「これらの橋はどうしても修理し新しくせねばならないのだ!」というはっきりしたリベレーションをいただいて、私たちのお互いへの反発は薄れはじめました。

橋の点検中は、夢、ヴィジョン、ミニストリー、そして神の栄光さえ遅らされる

霊的なかけ橋である人間関係が崩れて、そのとき怪我をしたり傷を負ったりした人の叫びが大きくなり、天の門にまで届いたのです! 天使たちが「橋の点検者」として任命され、人間関係という多くの橋の基礎構造を注意深く点検し、橋が、栄光にむかってこの橋を渡ろうとしている多くの人たちの重さに耐えられるだけの強度があるかどうかを、調べるように遣わされました。

多くのクリスチャンが、一見、お互いを赦しあっているような格好をしていましたが、本当には和解してはいませんでした。多くのものは遠く離れたところからは愛しあっていましたが、神が建てあげるようにといわれた橋の工事に、積極的に参加するためにお互い同士近づくことは避けたいようでした。

あなたの後ろの橋を燃やすな!

主が、私たちみんなに「あなたの後ろの、どの橋も燃やすな。」といっておられるのを感じました。「私の人生に、もうこの人は不用だ。」と考えて、その人をあなたの人生から抹消してしまってはいけません。2年ほど前のことですが、別のミニストリーをしているある人に私は腹を立て、彼も彼のミニストリーも、もう私には不用であるから切捨ててもいい、と考えていました。彼との関係を打ち切ろうとしたとき、主が語られました。「あなたはこれから5年後に、あなたの目的を達成するために、彼と彼のミニストリーを必要とするであろう!」と。

奇跡の橋が作られている!

愛する者たちと、あるいは、敵とさえ和解しようと努力してきた人たちは、神がその舞台裏でずっと忠実に働いていてくださったことがもうすぐわかるでしょう。愛しがたい者を愛してきた人に、主は誉れをあたえます。修復するのは不可能だと思われた崩れた橋が奇跡的に修復されるのを、忠実な者たちは見るようになるでしょう。関係が修復されることを信じて、望みえないときに望みをいだき続けた忠実な者たちは、その奇跡を目の当たりにして、神の愛は橋を作る力を持っていることを、改めて知るでしょう!

人に踏まれるための橋もある!

2本の木と3本の釘で、イエスは私たちのために橋を作られた!

多くの壊れて崩れた橋の修復現場に十字架が取り戻されるのを私は感じます。自分に死ぬことが、これらの橋を強化し支える力となるでしょう。私たちは、へりくだって他の人を尊び、彼らのミニストリーや夢を自分のものより上に評価しなければなりません。これらの橋を建てるために、十字架と釘がいつも使われるようになり、やがてこの橋は神の栄光の重さにも耐えられるようになるでしょう。
橋を架ける人たちを歓迎いたします。どうか、釘3本と木を2本持ってくるのを忘れないでくださいね。(終わり)


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22 09月

女性によるブレークスルー フランシス・フランジペイン 9月22日


女性によるブレークスルー

フランシス・フランジペン

初めに一つお断りしておきますが、神によって与えられている秩序の範囲内ならば、私は教会で女性が自由に活動することを勧めています。私がこれから書こうとしていることは、神が女性に特別に与えられた元来の恵みを解き放ち強調することにあります。主はこれまでにも、リバイバルを起こすために女性のこの力を用いられたのです。

創世記に書かれている男女の区別

神が人間を創造されたとき、神は男に恵みを与えられましたが、女にはそれとは別であって、しかもユニークな恵みを与えられました。神はアダムに地上の生き物に名前をつけるように言われ、「 人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった(創世記2:19)」のです。 生き物に名をつけたというのは、犬を見てそれをスポットと呼んだ、ということではありません。アダムは、物事を組織化し管理する能力を持つ者として創造されたので、彼の周りの世界を識別し定義づけることができました。名前をつけることによって、アダムは生き物すべてを把握することが出来たばかりでなく、人間の生活に秩序と組織を与えたのです。

アダムという最初の人の中には、潜在的にパワフルな女性の素質も内在していました。アダムが眠っている間に、御霊は彼からあばら骨をとりました。主はそのあばら骨から女をアダムの伴侶として造りあげました。女はただアダムにふさわしい存在だったというだけでなく、アダムの創造的能力をもっと拡大させるものとなりました。実際、アダムの世界に以前は存在しなかった多くの新しい恵みを、女はもたらしたのです。その最大のものは、彼女はみごもって子供を産む能力を持っていたということでした。

「神は神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記2)」ということは、忘れてはならない大事なことです。勿論、ある意味で、アダムもイブもそれぞれが神のご性質を備えていました。どちらも自分一人でも考え、話し、夢を見、創造したりできました。しかし、アダムとイブが一つになり、お互いの強さや恵みを尊重しあうときに、人類は神のご性質をもっと完全に表わすことができるのです。

アダムが最初の女性を見たとき、彼は「これこそ、今や、私の骨の骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。(創世記2:23)」と言いました。アダムのつけた「女」という名前は、「この生き物は、男という種類の中のユニークな変種である」と、アダムが認めて、それを表わすために使ったものでした。私の妻は「イブはアダムより一つ高級になったと思ったらいいのよ。」といいます。まぁ、ある意味では妻は正しいといえましょう。というのは、イブは二回精錬されているからです。アダムは土から造られましたが、女は土からではなく男から生まれました。女のほうがもっと複雑で感情的にも洗練されているのです。

ほどなくアダムは彼の伴侶の偉大な力を知りました。それは子供をみごもりこの世に新しい命を生み出す能力でした。この特性を知って、アダムは彼女を「イブ」と名づけました。それは「いのち」という意味でした。イブはいのちの新しいはじまりに不可欠な役割を果たしたのです。「それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。(創世記3:20)」とあります。

リバイバルの必要性

主はアダムに、すべてのものに名前をつけて回りの世界を組織づけ確立するという基本的な能力を与えました。そして女には、みごもりそして産むというユニークなキャパシティーを与えました。それぞれの主な能力は、男は確立し、女は産み出すということです。このような特性はただ「人間」に与えられたものではなく、神のご性質を反映しているものだということを忘れないでください。周りの世界に秩序を与えるという男の能力、つまり、不ぞろいのものに定義をつけ組織立てるのは、神が持っておられる才能です。また、子供をみごもってお腹の中で育て命を産み出すという女の能力も、神の御性質なのです。

ここで、イブがまだ子供を産まない前に、アダムが女にイブ(いのち)という名をつけたことに注目してください。神は女に子供を産む能力だけでなく、いろいろな方法でいのちを放っていく能力を与えたのです。事実ある翻訳では、イブというのは「活気を添える、元気をつける」という意味だと言っています。アダムは一人のときは元気がありませんでした。アダムが一人でいるのはよいことではなかったのです。地上のどの生き物もできなかったのですが、イブはアダムを元気づけることができました。アダムは家を建てましたが、イブはその家を家庭にしました。アダムがイブに「いのち」という名をつけたとき、やがて最初に子を産んで母になるおんなを預言的にそう呼んだだけではなく、自分の経験からそう言ったのです。つまり、イブはアダムの世界という建物の中にいのちをいれてくれたのです。

これは一般的な話でしたが、霊的な領域のミニストリーに関しても男と女はこれと同じものを神から刷り込まれていることが分かります。イエスは12人の男たちと教会の基礎を築かれました。これは女性のリーダーは一人もうまれないだろうという事ではなく、神から男性に与えられた能力の一つが、前述したように、秩序をつくり組織することだからです。

それと共に、キリスト誕生の前に女預言者のアンナがいましたが、祈りと断食をして暮らしていました。これは私の考えですが、アンナは一人でとりなしをしていたのではなく、その時代の預言的とりなしのミニストリーのリーダーだった可能性があると思います。霊的に敏感であり、新しい始まりを解き放つことにおいて、女性はとりなし手としてより優れています。勿論、これは男性は祈らなくてもいいということでは決してありません! なぜなら聖書の中のもっとも素晴らしいとりなし手たちは男性だからです! 私は一般的にみた男女の霊的傾向を述べているのであって、神の御心を地上にもたらすためには男性も女性も絶対に必要なのです。

今日、多くの場面でサタンが進撃してきていて、私たちはそれと戦っています。戦争やテロリストとの戦いもありますし、この世のますます拡大する不正との戦いもあります。リバイバルが必要です。国を覚醒するためには、神が女性に与えた力が発揮されなければなりません。男性が法律をさだめ正しく治めようと努力してきましたが、それだけでは真に国家をトランスフォームすることはできないのです。神は女性の
15 09月

神を楽しんで生きる キャシー・ウォーターズ 9月15日


栄光の中で神様を楽しんで生きる

キャシー・ウォルタース

最近のことですが、ミニストリーのために西海岸のある空港に着いたとき、数人の婦人たちが「あなたが来てくださって本当に嬉しいです!」と、とても興奮した様子で出迎えてくださいました。そして、「私たちは神様からのタッチを本当に必要としているんです。」と言われました。私も夫のデイビッドも、このような言葉をしばしば聞きます。

実は、人々がこのように「神からのタッチ」を求める言葉を耳にすると、私は少し気がかりなのです。というのは、神は私たちに「タッチ」よりもっと素晴らしいものを備えていてくださるからです。それは神の栄光の中に生きるということです。人々が神を求めているのだ、ということはよく分かります。しかし、もし神の栄光の中に生きることをみんなが会得したなら、自分自身が神のタッチを与える者になることができ、他の人にそれを求める必要はなくなります。

考え方を変える

神はクリスチャンを祝福していてくださいますが、神がよしとされないことがあります。例えば私たちの宗教的な考え方がそうです。聖霊は真理の御霊ですから、真理に反する間違った考えの中に臨在されることはありません。神は、私たちが変えねばならない三つの考え方について私に示してくださいました。これは非常に重要なことです。

まず第一に変えねばならない物の考え方は、ほとんどのクリスチャンがしてしまっているものです。意識的であれ、無意識にであれ、私たちは、「自分の古い性質(古い人)を変えて自分を良くしよう」と努力をしています。イエスはそのようなことのために、この世に来られたのではないことを、本当には理解していないからです。イエスは古い人を十字架にかけてくださり、私たちが、すでに義と聖さのうちに造られている新しい人として、信仰によって歩めるようにしてくださったのです。

サタンは「そのように超自然的な領域で生きる資格は自分にはない」、と私たちが感じるように、常に働きかけるのです。でもサタンはうそつきであり盗人であることを忘れないでください。イエスによって私たちは100%、新しい人として生きる資格があるのです。神様が90%してくださったが、私たちが残りの10%をしなければならない、というのでは決してありません。神様が100%なのです。天使や天からの訪れ、神の馬車というような超自然的なことは、私たちの毎日の生活の中で普通に起こるべきことなのです。それらは、神の栄光の顕われだからです。

IIコリント3:18 「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
ユダ1:24 「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、」

私たちは神のトロフィーであり作品です。働くのは神であり、私たちの仕事は、主に総てを明け渡すことだけです。私たちは、自分で努力をしながら生きるのではなく、すでに神がしてくださったことの中に生きなければなりません。「主よ、あなたの栄光を注いでください。」と祈らないでください。主はすでにそれはされたのですから。自分の努力で栄光から栄光へと変わることはできません。私たちは主の御霊によって変えられるのです。

第二の間違った考え方は、「誤った責任感」です。私たちは、主から与えられたことだけに責任があるのです。それだけです! 重圧の霊は、私たちにはどうすることもできない事柄や人のことまで、責任を感じるように仕向けるのです。私たちは誰をも変えることはできませんし、誰かに何かをさせることなど絶対にできません。

過去に起こった多くのリバイバルが、この宗教の霊によって消滅させられました。例えば、ウェイルズ地方の大リバイバルのために、神は一人の若いリバイバリストを大きく用いました。彼は神の器であり、神の栄光が彼を通して流れ出ました。けれども、一年が過ぎた頃、彼は、人々が御霊にどのようにお応えするかということに関して、自分に責任があると思うようになってしまいました。自分が考えるとおりに人々が聖霊に応えない場合は、彼はその集会から立ち去ったり、集会を中止したりしたのです。彼のこの行動は、その地と民衆の上に重圧の霊を招いてしまいました。彼が自分のものではない責任まで抱え込んだからです。

私たちの責任とは、神が「しなさい。」と言われることを行い、「言いなさい。」といわれることを言い、「行きなさい。」と言われる所に行くことです。神が私たちに要求されるのはそれだけであり、そうしていれば、私たちは喜びをいつも保つことができます!

第三番目の宗教的な間違った考えは、「偽りの重荷」を私たちが担ってしまうことです。私たちはとりなし手として、ただ聖霊に委ねればいいのです。とりなしの霊の油注ぎをいただくときに私たちは霊的戦いをしますが、それは私たちが自分でしているのではなく、天からの油注ぎによってしているのです。私たちは宣言をしたり、笑ったり、泣いたり、床に転がって叫んだりするかもしれません。しかし、それが何であろうとも、重荷はやがて私たちから取り去られます。なぜならば、イエスこそが父の右座におられる究極のとりなし手であられるからです。

あるとき、私はフロリダのとりなしのグループに入っていました。ある日のこと私たちは霊的戦いをしていたのですが、重荷が非常に重く、それは私たちの上にのしかかる黒雲のように感じられました。ついに、一人の人がグループのために祈り、この偽りの重荷を投げ捨てました。みんな重荷が去る瞬間、それを実際に感じることができました。私たちはみんなで大笑いして、休憩をとることにしました。というのは、もう一度油注ぎを受けるために、時には休憩も必要だからです。

神は私たちにまず神を楽しむようにと召されているのです。結局のところ、もし主を楽しむことがなかったら、主に仕える意味がないではないですか。

あなたの考え方が聖霊の動きを左右する

以上3つの間違った考えが、聖霊が来てくださっても、また去ってしまわれる理由です。ある教会やミニストリーで力強い神の働きがあったとしても、2年くらい経つとそれが消えてしまうのは何故でしょうか? 人々はどうしてだろうと悩み傷つきますが、多くの場合神の動きを終結させてしまうのは、中絶の霊
08 09月

神の御国と教会のビジョン  リック・ジョイナー 9月8日


神の御国と教会のビジョン

リック・ジョイナー  

数週間前のことですが、私がここ数年来経験したことがなかったほどの、非常にパワフルなヴィジョンを二つ見ました。 一つは、この世を造られたときの主の御心を示すものであり、もう一つは現在主が最も切望しておられるのは何であるかを示すヴィジョンでした。それによって、神の御心の切なる願いとは、主の花嫁なる教会に対するものであることが私はわかったのです。神の花嫁に対する愛は非常に強いものであって、教会が神の御国のために存在するのではなくて、御国が教会のために存在するのだ、という真理を、私は二つのヴィジョンを通して深く理解したのでした。
これは、私の考えに新たな方向付けを与えるものであり、今まで2年間私の御国に関する学びを聞いてくださっていた皆様にも、それをお分かちしたいと思います。

神の御国について私がこれまでお話してきたことを、変えるわけではありませんが、何を一番にするかというプライオリティーが変わりました。主は被造物を愛しておられ、地球を愛しておられます。主はすべてのすずめを愛しておられるゆえに、一羽でも地に落ちたら気がつかれます。しかしながら、主がご自分の花嫁に対して抱いておられる愛に比べられるものは、何もないのです。私は二つのヴィジョンを主から見せていただき、教会は主の花嫁となる備えをせねばならないと、固く心に思ったのです。

教会がその目的を果たすためには、まず自分がどのように崇高な召しを受けているかを認識せねばなりません。確かに現実的には問題が沢山あり、それらについても言及せねばなりません。しかし、もっとも重要なことは、教会が主から離れては生きていけないほど、主を恋い慕うようになることなのです。婚姻の用意を調える花嫁は、主を愛するゆえに準備するのであって、自分の目標を達成したいという野心からではありません。勿論、花嫁は自分の目的を知りそれに喜びを見出すことは必要ですが、それは主の栄光を見ることにくらべれば、とるに足らないことです。

言うまでもなく、宇宙のどこを探しても、神よりも愛すべきお方はおりません。主の道は私たちがもつ最高のものよりも、はるかにずっと崇高なので、たとえほんのわずかであっても主を知れば、私たちはそれによってトランスフォームされます。ですから、教会が召された姿にまで成長するための鍵は、主を見つめることなのです。私が油注ぎをいただきたいと何にもまして望んでいるのは、このことです。即ち、私が主を指し示すと、主を慕い求める思いで花嫁の心が一杯になる、という油注ぎを求めているのです。勿論、先ず自分の心の中に主に対するそのような思いがなければ、人にもそれを分け与えることはできません。神を愛することは、私たちの一番の崇高な召しです。最も崇高な召しを達成する者とは、主を最も愛する者です。

私が今までの書いてきたものを読んだ方は、私が常に教会を大切にしてきたことがお分かりになると思います。私が書いたり説教したりするときは、いつも、すべてのクリスチャンは地域の教会に所属するべきであるという考えを伝えてきましたが、それは私がクリスチャンになってすぐに与えられた一つの信念によるのです。その信念とは、クリスチャンが真に成熟するためには、生き生きとした真摯な教会生活が必要不可欠であるということです。私はますますこの信念を深めていますが、それと同時にそれを与えることが出来る教会が非常に少ないことも知っています。教会と個々のクリスチャンが、それぞれ与えられた目的を果たすためには、両者が変わらねばなりませんし、必ずや変わっていきます。

しかしながら、たとえ不十分な教会であっても、教会にまったく属さないよりはずっといいのです。実際のところ、問題のない教会に属するより、まだ完全でない教会に属するほうがずっといいのです。私たちはキリストに似た者となるように召されていますが、そのためには教会生活の中で多くのフラストレーションを感じたりイライラさせられることが必要なのです。誰でも完全なものを愛することはできるでしょう。しかし、不完全なものを愛し助けるために忍耐の限りを尽くすことこそ、主がこの地上を歩かれたときに示された御性質です。今というシーズンは、私たちは未成熟なものといるほうが自分が成熟できるのです。もしキリストのからだなる教会がチャンとするまでどこにも属さないで待っていると、教会はどんどん進んでいってついにあなたは追いつけなくなってしまうでしょう!

神の御国はやってきます。御心が天で行われるように、この地でも行われるようになります。地上に打ち立てられる神の御国は、言葉では言い表せないほど栄光に満ちた素晴らしいものです。この地は最初に創造されたパラダイスに回復されます。しかし、教会にはそれよりも崇高な召しがあるのです。教会は天国の領域へと召されています。主と共に御座に座り、主と共に支配し治めるのです。 教会はまた、主の聖なる御性質をも持つことを許されます。霊的な人たちは人からよく「彼らは天国のことばかり考えていて地上では何の役にも立たない。」というお叱りをうけますが、実のところ、地上のことで心を満たしているクリスチャンは、地上でよい働きはできません。本当に天国が私たちの家にならなければ、地上でできることはあまりないのです。

主は過去20世紀の間、私たちクリスチャンに「御国が来ますように。」と祈らせてきました。けれども、主の花嫁の準備が整うまでは、御国は来ないのです。ですから、御国を来たらすために私たちができる一番効果的なことは、教会が召しにふさわしいものになるように助けることです。花嫁は天で主とともに座し、地上にいるよりも主の御そばこそ自分のいるべき場所であると感じるのが、その召しなのです。

この社会をトランスフォームしようとしている人たちを、私は感謝します。しかし、いろんなアイディアをもってなされるトランスフォーメーションは、教会を通して成し遂げられるのでなければ、非常に限られたものです。教会は山の上の光となるように、つまり、それを見るものが、その光の源は一体なんだろうと、どうしても探求したくなるような偉大な社会に教会がなるということです。教会は地上で神の御国になるようにと召されています。即ち、それは天からの社会、文化であり、堕落した世の中とは全く違う姿で大胆に立ち上がり、自分の王であられる神の知恵とご性質を世に表していくものになることです。ですから主のからだなる教会の中で人がコ
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