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Walk With God Ministries


11 04月

預言的ワーシップ(2)  ローレン・サンフォード  4月11日


預言的ワーシップ(2)

ローレン・サンフォード

第一コリント14:24-25 「しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者がはいって来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、 心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。」

預言的ワーシップは私たちを祝福すると共に、私たちの心の中に秘められたものを明らかにすべくかき乱すので、そこから逃げたいという思いを起させます。それは罪が示されるからかもしれませんし、また、私たちの中にある聖い願いを明らかにするからという場合もあります。私は1996年にトロントで行われた「キャッチ・ザ・ファイヤー」というカンファレンスに出席しましたが、そこではデイビッド・ルイス師が5000人ほどの人のためにワーシップを導いていました。そのワーシップには預言的なものが多分にあって、神は私の心の中をかき回し、引き抜いたり植えたりされました。

預言には私たちの願いや意図の中にある良いものも、又、悪いものも明らかにする働きがあります。その頃私は自分の教会の状態について大層惨めな気持ちでおりました。私の両親はインナー・ヒーリングに関しての素晴らしい働きの先駆者として有名です。私の教会のメンバーのある人たちは、両親が実際に何を教えているのかはよく理解せずに、教会を巨大なカウンセリング・センターのようにするという期待を私に押し付けてきました。そして両親の教えを誤って適応した結果、メンバーたちは自分の内面ばかりを厳しく見つめる、病んで何もできない人たちの集まりのような教会にしてしまっていたのです。

カンファレンスでのワーシップの時、主の御霊が私のうちに流れこみ、私はこう叫んでいました。「主よ、あなたの民を牧し、あなたに仕えたいと思っていましたが、それが一生同じ人々の手を取り、同じ人々を何度も何度もカウンセリングし、そして彼らが自分にばかり焦点をあてて自分の臍ばかり眺めているだけならば、主よ、私をもう御許に行きたいです。死なせてください。もう十分です。」と。 私は本気でそう思っていました。それに対して主ははっきりと答えてくださいました。「あなたは何がしたいのですか?」と。そして私は本当に初めて「私は預言的伝道者になりたい。私は魂を勝ち取りたい。」という自分の気持ちがはっきりと分かったのです。この啓示を受けて、私は涙を流しながら妻に倒れこみました。彼女は私に何が起こったのか全くわかりませんでした。

続けて主は「それならば、家に帰って教会の人々に『私を両親の油注ぎから開放してください』と告げなければいけません。」と言われました。 そして、私はその通りにしたのです。教会の人たちは自分たちの態度と焦点を抜本的に変え、それによって数ヶ月後にみんながトランフォームされるリバイバルが起こりました。未だにそれは続いています。預言的ワーシップは、引き抜き、引き倒し、滅ぼし、こわし、建て、また植えさせるのです。端的にいえば、あなたをかく乱するのです。私の人生を変革するあの出来事が起こってから2年あまりの間に、私は全く別人になりました。そして私はそれを喜んでいます!

預言的かき乱しが始まったとき、たとえ心の中の泥が沢山かき混ぜられるように感じても、そこから逃げたり、心を霊的、感情的に閉ざしてしまいたいという誘惑に負けてはいけません。池というものは、掃除を始めるまでは本当に澄んでいるように見えるものです。でも掃除を始めると、コンクリートの底にたまっていた泥が水を濁し、随分汚れていたことが分かります。その泥を見て混乱してはいけません。私たちの中に隠されていたものや汚れた根が引き抜かれるときに泥が出るのです。それは神があなたの池を掃除されていると言う意味なのです。そうなったら最後までその過程をやり通してください。十字架のもとに行き、イエスに近づくのです。あなたの中の解決されていない罪をかき立てる力が働いていたのです。その力はあなたをその罪から解放するためにも働いてくださるのです。あなたの罪がかき立てられたのはそのためであり、あなたを自由にするのが目的だったのです。罪の根を引っこ抜くことができる力は、又、植えることもできます。それが預言の働きでありプロセスなのです。

1998年に、神は私の中に新しいレベルのワーシップに対する解放(自由さ)を与えてくださいました。自由に踊ること。自由に表現すること。主の歌を歌うこと。これらは私に対する預言のことばの結果として起きたことではありませんでした。自分でそうしようと思って起こったことでもありません。それはその年に私たちの上に注がれ始めたある種の預言的ワーシップの結果生まれてきたのです。それは私の中に新しい何かを植えました。それは私の中で眠っていたか、あるいは存在しなかったものを建て上げました。預言的ワーシップには他にはない特別の次元があります。その油注ぎのもとにいて変えられないでいるというのは不可能なのです。

預言的ワーシップとは

使徒パウロはエペソ5:18-19でこれに関して次のように語っています。「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」

預言的ワーシップにおいては、それに気がついていないかもしれませんが、 主に向かって語ると共にお互いに対しても語り合うのです。これは、ワーシップ・チームが舞台の上でただパーフォーマンスをしているようなワーシップでは絶対いけないという理由の一つです。ある人たちは「でも、私はただ聞くのが好きなんです」と言って異議を唱えるかもしれません。いいでしょう。しかし、会衆ワーシップというものは、誰かが楽しむためのものでは決してありません。私たちが一緒に歌うときは、互いに語り合い、互いに励まし合い、高め合うのです。あなたの隣の人が歌うのを聞き、隣の人はあなたの歌うのを聞き、そしてみんなの声が一緒になって神の御前に立ち上っていくときに、私たちは歌の中で互いに語り合い、共に主の臨在や、時には主の御ことばをお互いに分かち合うのです。会衆全体のワーシップは預言的な要素(次元)を含むことができますし、また、含むべきなのです。

エペソ5:18-19には、3つの歌の種類が述べられています。最初は詩で、これは、聖書の御ことばをみんながよく知ってい るメロディーで一緒に歌うものです。2つ目は賛美歌です。「何百年も前の古い歌で、多くの現代人を退屈にさせ、その上とても高いピッチで歌われるのでソプラノの人しか歌えないような歌」という賛美歌のイメージをあなたの頭の中から追い出してください。 賛美歌はそれ以上のものです。古いものも新しいものもありますが、賛美歌とはある人の心の中に生まれた詩やメロディーで、教会が一緒に歌うことを学んできたものです。クラシックな賛美歌も預言的ワーシップの中で使うことができますし、今でも私たちに霊の息吹を与えることができます。しかし、私たちのニューソング教会では、おもに新しい賛美歌集にある現代の歌を歌っています。それが、私たちが福音を伝えようとしている人たちに最も適切に語りかけるものだと信じるからです。

主が教会に預言の油注ぎを注いで望まれるときは、私たちが詩や賛歌を歌うときも預言の力は私たちを貫くことができます。ワーシップ・リーダーが主の御霊の指示に従い、詩や賛歌をこのように歌いなさいという御霊の導きのもと、会衆をもっと主の臨在に深く導き、高揚させ、又静まった所に誘うことができます。主が人々の心から情熱を引き出し今までとは違う高いレベルまで高揚されることもあります。ポイントは、今まで数え切れないほど何回も歌ってきた古い歌が、新しい油注ぎを受けて私たちの心を新たに貫き、今まで感じたことがないことを感じさせるのです。その場の空気は神の臨在で満ち、神が主権をもって一人一人を啓示によって取り扱いはじめられるのです。神は私たちを変え、引き抜き、引き倒し、滅ぼし、こわし、建て、また植えるのです。預言的ワーシップは私たちを変えますし、もし私たちが逃げないでそれを許すならば、少なくとも私たちが変わるようにと私たちの霊に働きかけます。

第三番目は霊の歌ですが、これは人間の心からではなく神の御霊から来るものです。(それがある人間の心を通して表されることもあり、その場合はその人の心の色を反映することはあります。) 霊の歌は、私たちが歌ったことがある歌とか、みんなが知っている歌ではありません。神ご自身が私たちのワーシップの流れにより、そのときに霊の歌を誰かに歌わせるのです。それは神御自身が何かを語りたいと思われたり、あるいは、私たちのうちに何か事を成し遂げられたいと思われるからです。それは神ご自身の歌であり、主の歌なのです。

それはある目的をもって発せられるものですから、預言的なのです。その中で、神は何かリアルなことを成し遂げられるのです。ある時には、その言葉は神が会衆の中でその時にしておられることを宣言します。癒しとか招き、また人の霊の中で働く悪の力を打ち破ることなどです。またある時は、空中にいる悪の力に向けられた神の勝利を宣言する預言かもしれません。神を妨害し、私たちをくじくものを叱責する言葉かもしれません。あるいは、もっと神の臨在深くに私たちを引き寄せてくださる招きの言葉かもしれませんし、悔い改めを促す言葉かもしれません。預言的な歌は、度々私たちの生活のある領域に祝福を与えてくれますし、時には、罪やある状況に直接対決することもあります。

霊の歌は、個人的な感情や必要を延々と述べるものであってはなりません。そのようなものは自分の家でしてください。教会でのワーシップは神の民に関するものでなければなりません。

私はワーシップを導いているときに、主の歌が起こってくるのを感じるならば、少しばかりそれに耳を傾ける時を持ちます。その感覚は、まだ実際には聞こえないけれど感じることが出来る歌を心の中で「聞く」という感じです。それはまた、私の内から、私ではないものが湧き上がってくるのを感じるというような形でやってきます。その時にそれが聖霊であることが私にはわかるのです。

多くの場合、私はそれまで歌っていた歌のコードにしたがって楽器奏者たちにそのまま続けさせます。私が主を待っているときにみんなの気が散らないようにです。私は聖霊に聞きながら、しばらく異言で歌ったりします。イエスの御霊が何を言っておられか、という感覚をつかみ、これから始まるメロディーの少なくとも一端が分かるまでじっと聞いて主を待ちます。また霊の歌の始まりの言葉もはっきりといただくまで待ちます。「主よ、私が感じているものの内容は何ですか?」とお聞きするのです。少なくとも最初にいうことが分かったときに、私は口を開いて歌い始めます。その後は流れるように出てきます。

しばしば、私ではなくワーシップ・チームの中の一人に預言的な歌が与えられているのを感じることがあります。その場合、私は誰かが歌い出すまで待っていたり、誰なのがかわかるときはその人に声をかけます。これは、チームのメンバーがお互いによく知り合っているときにうまくいきます。チームに不和とかつぶやきがあると、このような預言の流れはすぐに止められてしまいます。

このような過程で霊の歌が与えられると、ある場合には会衆がじっと聞けるように一人がソロで歌います。又ある時は、会衆もチームと一緒に歌うようにと招かれます。会衆も一緒に歌うと、その歌の持つメッセージの力がみんなの内に盛り上がり、主の御ことばが植えられ確立されていきます。言葉の節は会衆がついていけるように短く簡単に覚えられるものでなければなりません。みんなでそれを何度も繰り返すと、その歌は私たちの心の中に根を張り、その真理が私たちのうちにリアルになり、みんなが神の力を知るようになるのです。

黙示録15:3に、同じようなことが書かれています。この節には2種類の歌について書かれています。「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌っていた」とあります。

一つは人間であるモーセから来ましたが、もう一つは小羊なるイエスからです。預言的ワーシップは天からのものと地からのものの両方を含んでいます。言い換えれば、この節は、人間の心から生まれた歌と共に、イエスから直接来た歌のことも表しているのです。つまり、詩、賛歌、霊の歌を表しています。

申命記31:19 「今、次の歌を書きしるし、それをイスラエル人に教え、彼らの口にそれを置け。この歌をイスラエル人に対するわたしのあかしとするためである。」

これよりも預言的なことがあるでしょうか? 神が歌を送ってくださり、主のしもべモーセに民に教えるように命じ、この歌によって彼らの罪を示し、引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、植えるようにせよ、といわれたのです。

詩篇40:3 < b>「主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。」

神の預言的な歌は事を成し遂げられます。主ご自身が詩人の口に歌を与えられ、それは預言の力と共に出て行き、人々を主のもとに引き寄せ、彼らが神に信頼し敬うようにさせたのです。詩人はこの歌を多くの人が聞いたり見たりできるように、公衆の前で歌ったことに目を留めてください。外部の人々も神の民による預言的ワーシップに触れる必要があるのです。聖書によれば、預言的ワーシップは預言的かつ伝道的な力強い働きをすることができるのです。

詩篇32:7 (あなたは)救いの歓声(songs)で私を取り囲まれます。

この箇所で言っていることは、私が私の心から出てくる個人的な歌で自分自身を取り囲むのではありません。ここでいう歌とは神の心から出る預言的な歌のことを言っているのです。主よ、あなたが私を取り囲まれます、と言っているのです。そしてその歌は預言的である故に預言的力を持ち、救いをもたらすことが出来ます。その歌はリアルな何かを成し遂げるのです。それは敵を引き抜き、私やあなたを植えつけてくれるのです。

預言的な音楽は、以上述べたようなダイナミックなすべての働きにより、クリスチャンを助けるばかりでなく、未信者のたましいをも勝ち取ることが出来るのです。ボブ・ディランが彼の預言的といわれる歌で世界の若者に影響を与えることが出来るとすれば、聖霊の力を持ってすれば、どれほどの力を与えることが出来るでしょうか。教会に来ていない人たちに理解できないキリスト教の専門用語や表現で満ちた歌ではそんなことは絶対出来ないでしょう。もしもう一度世界に手を差し伸べたいと思うならば、私たちはもう一度人間になることを学ばねばなりません。そしてこの世の人々が理解できる歌詞で、共感できる情熱をもって歌わねばなりません。

端的にいえば、クリスチャン・ミュージックはスタイルでも霊的意味においても大きくシフト(変革)する必要があるということです。 シフトなしには、私たちがしているのは聖歌隊に説教するだけのようなものです。教会全体が喜んで歌える歌を作曲し歌い方をも教えてくれるミュージシャンが召し出されるように私たちは祈る必要があります。少し変わったものとか、創造的、革新的ものをたくみに締め出してしまう今のクリスチャン業界の閉鎖的なシステムが解放されるように祈らねばなりません。これは私たちがしていかねばならないことですし、神が望まれることだと私は信じます。ですから神は必ずそれを達成させてくださいます。

最後に申し上げますが、主は誰にでも、どんなときでも、どこででも、一人一人個人的に、私たち自身の預言的ワーシップを下さると信じます。もし私たちが急がないで、時間をかけてそれにじっと耳を傾けるならば、きっとその力が発揮されるのを私たちは見ることが出来るでしょう。そして、多くの壊れたものが修復され、大いなる勝利が主のために勝ち取られていくでしょう。未信者が主を畏れうやまうようにと招かれるでしょう。それが私たちの戦略なのです。(終わり)


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04 04月

預言的ワーシップ(1.)   ローレン・サンフォード   4月4日


預言的ワーシップ(1.)

ローレン・サンフォード

ワーシップはただ歌を歌えばいいというものでは決してありません。ワーシップとは、神と人間との間で行われる大きな取引とも言うべきもので、愛し合う両者の間で情熱的に愛と力を受け取ったり渡したりする(ギブ&テイクする)素晴らしい交歓です。今日のキリストのからだである教会の多くが、ワーシップをただ説教を聞くためのウォーム・アップに過ぎないかのように取り扱っているのはなんという悲劇でしょうか! 多くの教会が、全体の礼拝を一時間以内におさめたいので、長い説教の前に2つくらい歌を歌うだけでワーシップをしたことにしてしまっています。なんと勿体ないことでしょうか!

本来、ワーシップとは神の御前で個人的に主と交わるものであり、それだけで十分完全なものであり、そこにずっととどまり続け、味わいひたるものなのです。私は自分の説教の価値を低いとみなしたり、それをおろそかにすることは決してありませんが、実際に教会の中でワーシップがしめる位置は、少なくとも御ことばの説教と同じだけの重要さがあると信じます。事実、ワーシップは説教と同じほど考え方や思想を伝える力を持っているのです。

ワーシップには少なくとも二つのレベルがあります。一つのレベルは、神との親密な交わりの時であり、自分を捧げ主を崇めるものです。もう一つのワーシップのレベルは、力強い預言的なもので、人々の人生を変える力を持っているものです。実際のところ、私たちが今生きている時代は預言的な要素のあるワーシップを求めていると思います。本当の預言的ワーシップが教会に起こり、周りの社会にも強い影響を及ぼすスタイルで力あるワーシップがなされなければ、今のままでは社会を変革していくリバイバルは起こらないのではないかと思います。

第一歴代誌25:1「ダビデと将軍たちは、アサフとヘマンとエドトンの子らを奉仕のために取り分け、立琴と十弦の琴とシンバルをもって預言する者とした。…」

 ダビデと軍隊の将軍たちは、預言的ワーシップをさせるために、その能力のある人々を選び任務につかせました。 祭司ではなく、ダビデと軍隊の将軍たちが音楽に合わせて預言をする音楽家を任命したのです。軍隊の将軍たちが、何故ワーシップのための組織つくりに関与するのか、いぶかしく思われるのではないでしょうか。しかし彼らの考えていたワーシップは普通のものとは全く違いました。それは預言的ワーシップだったのです。
将軍たちがワーシップのために音楽家たちを任命したのは、明らかにそれを軍の戦略的行動として捕らえていたからです。それは戦争に勝利するためには不可欠なものでした。彼らは、肉の目で見える戦いと、霊的領域での目に見えない戦いとは実に同一の戦いであり、一つの戦いの両面であると考えていました。目に見える戦い、戦闘、攻撃は、単に霊的領域での真の戦いの反映に過ぎないと、彼らは信じていたに違いないのです。

もしこれが本当ならば、私たちも目に見える世界で戦いに勝つためには、まず霊の戦いを絶対にしなければならないことを理解する必要があります。戦いがどこでなされようとも、また、それが何のための戦いであろうとも、これが真理であるはずです。目に見える世界で何かを達成しようと思うならば、まず、それは霊の領域で祈りによって達成されねばならないのです。ダビデは敵を克服するためには、まず、霊的に敵を打ち負かす必要があることを知っており、そのために預言的ワーシップをする者たちを任命したのです。

もしあなたが主の用意してくださった新しい仕事を見つけたいならば、どうぞ探してください。しかし、それはすでに達成されたと霊で感じるまでワーシップをし、祈り通してからでなければなりません。主があなたに与えてくださる結婚相手をどうぞ見つけに出かけてください。しかし、実際に探し始めるのは、ワーシップと祈りによって霊で事を成し遂げ、あなたの行く道に邪魔物がなくなってからでなければなりません。神がすでに何かを成し遂げてくださったという平安をまず見つけて、それから神がしてくださったことを自分のものとするために出かけて行きなさい。

あなたは不正な雇い主と談判をする必要があるかもしれません。しかし、まず、霊的に何かがすでに達成されたとか、何かが動き始めたと感じて平安を得るまではワーシップし祈り通してください。あなたは神の御前で正しい安息の場所に行き着くでしょう。その安息と勝利の場所に行き着くことは、預言的ワーシップの一つの働きであり、 物事を霊の世界でリアルなものとし、目に見える世界でそれが実現するようにするのです。

ある人たちは毎日つらい環境で仕事をしています。そこではあまりやさしくない人やあまり正直でない人が権威のある地位についています。また、ある人たちは、結婚生活に問題があり葛藤しています。また、ある人たちは子供たちを非行から守るために毎日戦っています。また、ある人たちは、神が自分の町にリバイバルを起し教会の目を覚まし、人々を救ってくださるようにと願っています。

これらの状況はすべて戦いを意味しています。祈りは戦いに勝利するための一つの武器です。信仰に固く立つこと(エペソ6章)も大事なことの一つです。悪霊を叱責することは多分最も小さな仕事でしょう。しかし、今までで分かった(またこれからもそうだと思いますが)霊的戦いの最も効果的な形は預言的ワーシップなのです。私たちがまことのワーシップの中で主の栄光を称え、主が私たちを御臨在に引き寄せてくださるとき、誰も想像も出来ないほどの計り知れない力が流れ出します。そして、その中には敵は宿ることができません。 いかなる状況の中においても、又、どのような問題に面したとしても、主の民がそのとき主を礼拝し崇めることを心に定めるならば、それは戦いが実際に始まる前に敵の陣地に巡航ミサイルを撃ち込んで敵の力を砕くようなものです。それ故にダビデの軍隊は霊的な戦いに勝つためにワーシップをする礼拝者を任命し、勝利を得たのです。これはまさに戦略的な作戦でした。

私たちの人生に問題が起こり戦いが始まったときに、「教会に出かけてワーシップをするのをやめて家にいよう」と、私たちがまず衝動的に思うのは、考えてみれば当然ではありませんか?しかしそれは敵がささやく声なのです。人々と一緒にワーシップをすることから遠ざかるのは、まんまと敵の手に落ちるということです。なせならば、あなたが敵の声に従ってワーシップをしな
27 03月

主の軍隊の召集 リック・ジョイナー 2008年3月27日


主の軍隊の召集

リック・ジョイナー

人々を集める「動員の油注ぎ」について考えてみるとき、動員する数と油注ぎがどのような関係にあるかをも理解せねばなりません。バプテスマのヨハネの油注ぎは、ユダヤ全土から人を集め、主のための備えをさせるものでした。しかし、ほとんどの者は初めから大勢の人を集める能力をもっているわけではありません。ヨハネのミニストリーも、多分最初はそれほど大規模なものではなかったことでしょう。多くの場合、大きな権威を与えられる前に、まず小さなことに忠実であることを私たちは学ばなければならないのです。

世界的に見て非常に大きい教会やミニストリー、又ムーブメントも、初めはすべて12人くらいが集まって祈ることから始まりました。もし、私たちに動員の油注ぎがあるとしても、それは多分非常に小さなグループから始まるでしょう。小さなグループの時にどれだけ忠実であるかによって、主が私たちにどれだけ権威をもっと与えてくださるかが決まると思います。そして、多分それは少しずつ増えていくと思います。私が「思います」というのは、あくまで主がすべての主権を握っておられるのであり、いつもそうされるとは限らないからですが、普通、主はそのようにされます。

いつの時代においても、小グループを集める油注ぎのある人、あるいは数百人とか数千人、又はそれ以上を動員する油注ぎを受けている人たちがいます。自分たちにとっても、また他の人に関しても、それが真理であることを悟るならば、多くの人たちがフラストレーションから守られ、又、人々を動員するどころか散らしてしまうような失敗を犯すこともなくなるでしょう。神があなたを300人の牧師として召しておられるならば、あなたが様々な手段で教会をもっと大きくしようとしても、いろんなことが起きて、結局あなたは300人の牧師に戻るでしょう。その反対もあります。あなたが5000人の教会の牧師として神から召されているならば、教会の分裂やその他の問題が起こって、一時、教会が小さくなったとしても、また5000人に戻ることでしょう。

ですから、もし私たちがリーダーとして召されているのであれば、主は何のために自分を召されたのかを理解し、自分が置かれた場所で満足し、そこで最善を尽くすように決意する必要があります。小さいことに忠実であるならば、定められた時に主はより大きな権威を私たちに与えてくださいます。私たちは自分で自分を昇進させるのではなく、主が昇進させてくださるのでなければならないことをはっきりと知るべきです。神が与えられたのではない影響力を自分の力で得るとすれば、必ず問題を引き起こします。そのようなことは知恵のある者ならば何としても避けたいと思うはずです。ポイントは主に従順であるということです。役に立たない将軍であるよりも、才気ある有能な中尉である方がずっといいのです。

私たちのミニストリー(モーニングスター・ミニストリーズ)の仕事の一つは、色々なカンファレンスを開催することですが、それにもこの真理が当てはまることを学びました。私たちが開催するカンファレンスの多くは、クリスチャンをあるミニストリーのために調えたり、御霊の賜物を分与したりするものです。私たちはカンファレンスを宣伝する方法を知っていますし、確かに以前は何千人もの参加者がありました。しかし、聖徒たちを整えるためのカンファレンスは、小規模の方がよいということが分かったのです。私たちのゴールはただ沢山の人を集めることではなくて、参加した全員が変えられ、強い影響を受け、カンファレンスが終わるときには、以前よりもっとキリストの力強い働き人、メッセンジャーとなって遣わされていくということです。それと異なる種類のカンファレンス、特にキリストのからだの交わりやミッションや伝道への思いを促進させるためのカンファレンスの場合は、大きいほどよいのです。

このことをお話している一番の理由は、クリスチャンのリーダー達が今まで犯してきた悲惨ないくつかの間違いについて、共に考えてみたいからです。その一つは、神が定めてはおられない目的のために、神の民を何度も何度も動員してきたことです。第二は、正しい目的のためではあるけれども、間違った霊でクリスチャンを動員してきたことです。第三は、敵の要塞を砕くために人々を訓練し、調え、教育するために動員するのではなくて、動員すること自体を目的としてしまったことです。このような間違いはすべて、人々に多くの幻滅をもたらし、落胆させました。落胆とは勇気をなくすことですが、勇気こそすべて勝利する軍隊にとって、もっとも大切なエネルギーの源となるものです。

動員の効果的な方法を知っていれば、大勢の人を集めるのはそんなに困難なことではありません。ですから、私はずっと前から、教会やミッション、ミニストリーがただ大きいからという理由で感銘を受けることはなくなりました。本当の問題はその実です。大きなグループだけれど人々は世話がやけ、力がなく、その働きは小さなグループより少ないということもあるのです。私たちが人々を動員したいと願う理由は、福音のための効果的な力を立て上げ、神の御国を伝えるためでなければなりません。

集まって来た人たちを効果的に備え、調え、導くことが出来る人にこそ、私たちは従っていくべきです。大きなグループや教会でもこのようにしているところもありますが、それは稀です。使徒行伝19章32節に、自分たちが何のために集まったのか分からない人たちが混乱していることが書かれています。はっきりした目的もなく集まることは、大抵の場合、人々を混乱に落としいれます。

教会のヴィジョン

アメリカのクリスチャンの半数以上が、どの教会にも所属せず礼拝に出席していないと推定されています。これは悲劇的なことです。しかし、彼らを教会の生きた交わりに連れ戻そうとする前に、現在の教会の状態を見てみる必要があるのではないでしょうか。もし半数以上のクリスチャンが所属したい教会を見つけられないとすれば、もしかして半数以上の教会がキリストによって与えられた基本的な命令から、なぜか離れてしまっているという可能性はないでしょうか? クリスチャンが教会の交わりから離れてしまう理由は沢山ありますし、その中で正当性のあるものはほとんどないかもしれません。しかし、多くの教会がキリストをもはや真のリーダーとして立ててはいないこと、そして、人々にはそれがちゃんと判ることも私たちは認めねばなりません。

神の民を集めることは重要です。
22 03月

主の愛を持ち運ぶ者となる  キャサリン・ブラウン  3月22日


主の愛を持ち運ぶ者となる

キャサリン・ブラウン

最近私に与えられた幻の中で、数人の人が主に近づいて主の衣のすそにさわろうとしているのを見ました。それは聖書にある12年間長血をわずらっていた女がしたのと同じでした。(マルコ5:25)彼らは多くの人生の重荷を背負っている様子でしたが、主の愛のまなざしを一度受けさえすればすべて癒されることが私には分かりました。主も彼らを癒してあげたいというお気持ちで一杯でした。あなたも「主よ、助けてください」と必死でひざまずき、手を伸ばして主にすがろうとしたことが、これまでありましたか? 主はいつでも私たちのうなだれた頭を上げてくださり、癒しの力で私たちを喜んで満たしてくださるお方であることを信じることはとても大切です。そのことに同意を表すかのように、主は幻の中で「わたしの手を、わたしの顔を見なさい。」と言われました。

次第にもっと多くの人が主に近づいてきて、主の御手にすがりつきましたが、なぜか彼らは主の愛に満ちた御顔を見上げることができないようでした。確かに私たちは、度々、イエスが人々の手をとって癒されたということを読みます。主の愛に満ちたまなざしが人々を病や罪への隷属から解放し、抑圧の鎖を砕き、死人によみがえりの命を与えました。私たちが業を行うときには手を用いることを私が思いめぐらしていると、主が「すべての実りはわたしとの聖なる親しき交わりから生まれ出る。」と言われました。

もし私たちが主の御顔を見たことが無いならば、イエスの御手の業を期待することはできません。しかし又、主の釘跡のある御手に触れることなしに御顔を仰ぐことはできません。ここに恵みのパラドックスがあります。私たちは十字架を見てまず信じますが、信じたときに主をもっと理解し、もっと鮮明に主を見ることができるのです。キリストの麗しさを見つめるとき、私たちは父なる神をも受け入れる祝福に預かるのです。イエスは「わたしを見た者は、父を見たのです。」と言われました。(ヨハネ14:9b)

顔と顔を見合わせて

この啓示を受けている最中に、私はまた、ある友達に関する素晴らしい幻を見ました。この友人はモザンビークや他の数カ国にリバイバルをもたらす働きのために、主に大きく用いられてきた人です。幻の中でイエスは彼女の前に立って顔をじっと見つめ、彼女を御腕に抱きしめました。すると、イエスのお腹から命の水の川が流れ出て彼女の中に入っていきました。主は愛のまなざしをもって尚も彼女を抱きしめておられましたが、その愛の流れによって次々に国が生まれ変わっていくのが見えました。これは私の友人に限らず、御国の福音をすべての国々に伝え弟子とせよ、という主の召しに答えたすべての人を象徴している幻です。私たちが持つ主との最も奥深い経験というものは、私たちの心の奥の聖所で起こるものであることに私は気がつきました。その場所で主は私たちと聖なる交わり(聖餐)の時を持って下さり、それによって私たちは永遠に変えられるのです。

イエスは私たち一人一人と顔を見合わせてしっかりと抱き合うことを切望されています。主の御顔を仰ぐときに、私たちは主の手となって世の中で傷ついている人たちに手を差し伸べ癒したいという思いが与えられ、そのための力も与えられるのです。多くの人々の救いはそのような秘密の聖所で生まれます。花婿なる王キリストの秘密の場所とは、主のまなざしが私たちの心を虜にし、恋におとし入れ、私たちが主の愛で満ち溢れるようになる所です。そこで顔と顔を合わせるときに、私たちは完全に神を信頼し、主の愛に完全に頼り切ることができるのです。

私たちはみな、天からのマナで満ち溢れるようになる必要があることを改めて実感させられます。それは主に安息することによってのみ得られるものです。私たちがもっと主をよく知ることができるように、神は私たちの目から覆いを取り除きたいと切に願っておられます。そのような聖なる時に、主は御自分が総ての力を持ち、総てをご存知であり、永遠に私たちと共におられ、無条件の愛が常に満ち溢れている方であることを、私たちにもう一度思い出させてくださいます。主は美しい花嫁に心を奪われておられます。でも私たちは、自分が王の王なる方からどれほど深く慕われているかを、本当には理解していないことが多いのではないでしょうか。

主の胸の鼓動を聞く

最近、主の御前に出ているときに、主が私に気づかせてくださったことがあります。それは、私がいつも主の愛の中に安息する必要があり、「主からいただく次の課題は何か?」ということばかりに気をとられて主を待つのではいけないということでした。私の一番の願いは救い主と共に時を過ごすことであるという思いに達したとき、自分は時に何もかもやめて立ち止まり、ただ主の臨在を深く吸い込んで主の愛を受けることがいかに必要であるかに気がつきました。戦場にいる者たちは天の軍勢の総司令官である主と時を過ごし安息を得なければならないことを、主が語られました。又、孤独なリーダーたちが主の元に来て主との交わりを通して、彼らの空っぽになった部分を主が満たして下さることを主がどれほど望んでおられるかを語られました。主の恵みが、私たちの心の中にあるすべての自分で守ろうとする壁を打ち壊し、心の総てが主の愛によって満たされて全き者にならねばならないことを語って下さいました。

神の臨在の中で過ごす時間は、私たちの心の畑を耕し、主の御心と御ことばの種を深いところに蒔きます。そして、それは定められた時になると芽を出し実を結ぶのです。私たちが一人で神と時を過ごすとき、神は剪定とともに施肥をしてくださり、私たちの知性、意志、感情を、私たちのために立てられた主の完全な御計画に一致させ沿わせてくださいます。私たちが主をワーシップして時を過ごすと、イエスは私たちの硬いところを柔らかくし、乾いたところを潤してくださいます。主の憐れみに盲目であった領域の霊的視力を主は再調整してくださるので、私たちは物事を自分の見方ではなく主の見方で見ることができるようになります。火のように燃える主の目は私たちを主のもとへと引き寄せ、私たちの良心を謙遜と崇拝でひざまずかせます。イエスは私たちに、へりくだることが美しいことであることを知ってほしいのです。

3つの祭壇:勤勉、任務、献身

幻の中で、私は天にある3つの祭壇を見ました。一つは「勤勉diligenceの祭壇」と呼ばれ、一つは「任務dutyの祭壇」、そして3つ目は「献身devotionの
14 03月

これからの40日間への神の言葉 チャック・ピアース 3月14日


これからの40日間への神の言葉

チャック・ピアース

私たちは、この世代では今までになかったような大きな再配置、再編成の2ヶ月間を、今まさに迎えようとしています。この2ヶ月に起こることが、私たちの人生とこの国が辿る道を決めます。主は2008年3月4日、火曜日の朝1時に私を起されました。私がトイレに行くと、そこに「自分の理解(アンダースタンディング)に頼るな」と書かれた額がかかっているのが目にとまりました。そこに電気はついていなかったにもかかわらず、その言葉が明るく照らし出されていました。その聖句が火のように赤や黄色に浮かび出ていたのです。私は5時にまたそこに行ったので、額を見てみますと、聖句は実は紺色で書かれているがわかりました!

主が私に語り始められました。

「あなたは今日、自分の理解に頼ってはならない。これからわたしが造ろうとする道をあなたがしっかり見るようにわたしは招いている! わたしはわたしの民のための道を造り、また、造り直しているからだ!これから40日の間は、あなたをいらだたせ不快にする状況が増すであろう。自分の(今までの)理解に頼ってはならない。この期間にあなたの知らないことをわたしは示すであろう。わたしが形造っている型(パターン)をあなたが分かるようにする。過去の理解―たとえそれが今まで40年間の理解であったとしても―にとらわれてはいけない。なぜならば、わたしはこれからの40日間に、わたしの民のうちに新しい理解の時を生み出そうとしているからだ。わたしの知恵はあなたの知恵とは違うからだ。わたしはわたしへの恐れと畏敬の念を私の民の中に起している。

悪がどのように活動しているかをわたしはあなたに教える。わたしはあなたに悪がどのように話しかけるかを聞かせる。悪の声は今まであなたの心を乱し、あなたに戦いをいどみ、あざけってきた。あなたの中にわたしの義がわき起こるであろう。わたしの言葉があなたの口に与えられ、あなたがその言葉を発すると、あなたの周りの霊的雰囲気は変えられるであろう。

わたしはあなたの荒地に大路(ハイウエイ)を造る。風に吹かれて移動する砂で造るのではない。あなたの将来の土台が築かれるのだ。確かにあなたのために設けられた地をわたしはあなたに見せる。自分自身の理解に頼ってはならない。あなたを眠らせようとする力をあなたの中にある神の力で克服し、これからの40日を用いて、あなたの周りの霊的環境を変えてゆけ。

叫び声を上げてわたしをあがめよ。わたしの名を祝福せよ。あなたを将来へと導く戸口には、今まで敵の名が掲げられていたが、それはわたしの名に変えられるからだ。敵があなたの門をふさいでいたが、今わたしはあなたに権威を与えあなたを新しい地に入らせる!

心をつくして主により頼め。自分自身の理解に頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、わたしはあなたに道を示そう。あなたの周りの状況だけを見てはならない。自分の理解に頼ってはならない!あなたの心がわたしから離れないようにせよ。自分の能力に決して頼ってはならない。

わたしはあらゆる権威の領域を治める強い人々を立てる。権威の領域はこれからの40日間で編成し直されるであろう。あなたの口からでるわたしの言葉の力がブレイクスルーをもたらすであろう。あなたはチャンスを逃してはならない。また、再編成を促進するためにわたしが造っている触媒を見逃してはならない。今まであなたを騙し、威嚇してきた山を飛び越えるための油注ぎを受けよ。

それは、今週あなたに起こる嵐を恐れてはならない。わたしがあなたの道を整え直し、あなたの時を変えるからだ。あなたに追いつき圧倒しようとするものより先にわたしはあなたを行かせる。だから嵐を恐れてはならない。雨や風がかえってあなたの益となるのを見よ!扉の鍵がガチャガチャと音を立てるのが聞こえるだろう。わたしが地獄の門を揺り動かしているのだ。あなたが前進するのを妨げていた障害物(あなたの感情も含めて)に向かって、退け!と命じて、あなたが前進できるようにせよ。

あなたの道を平らにし、わたしが新しい道に入れるようにせよ。高すぎるものは低くなり、低すぎるものは高くなる。わたしは高慢なものを低くし、へりくだったものを新しい地位につかせる。未来へと続くまっすぐな道をわたしは造っている。わたしがあなたを未来へと導いてゆく道を見よ。あなたの只中にわたしが入るのを許し、荒野の中であなたを次の地へと導く道をわたしに備えさせよ。

わたしは終わりの時を初めから支配している。この地上でわたしの統治領域外で起こることは一つもない。わたしの御心が天で行われるように今日地でも必ず行われることを信じよ。わたしを統べ治める王として見上げよ。天の大路があなたのまわりの地上に出来てくるのを見よ。わたしはあなたが下に行くのではなく、上に上がってくるのを求めている。わたしがあなたのために用意した地へと導く大路を見つけよ。

荒野でわたしの声を聞け。あなたは自分が行くべき道が今まではっきりとは分からなかった。しかし今日、わたしはあなたを新たに召し出す。あなたは今勢いがついている(モーメンタム)この機会を逃してはならない。毎日座って教えられるだけで満足していてはならない。なぜならば、教えだけではあなたは次の地には行くことができないからだ。

あなたはあの山を飛び越える油注ぎがこれから21日間、わたしから発せられる召しが聞こえるように戦え。今の時のためのわたしの召しを聞くことができる者は、その召しにどのように従えばいいのかを知っている。あなたが今後に附いて行っている人のことを言っているのではない。あなたがあるところから次のところへと行くべき道を設けるという召しである。わたしの召す声を聞きなさい!わたしの声はあなたの谷、あなたの荒野に入り、「わたしのところに上ってこい!」と呼んでいる!

今は再構成のヴィジョンの時だ。今は地の上であなたが立つべき場所を探し出すときだ。それは、あなたが立っても沈まず、あなたを混乱させたり罠にかけたりすることがない場所だ。あなたの荒野でわたしの声を聞け。40日の間に、わたしはわたしの召集を喜んで受けたものたちに資格を与え始める。

これから数日の間、敵の声に混乱するな。あなたは敵から3度誘惑される。あなたを新しい場所に導くためにわたしが造っている大路をあなたが見つけ、そこに堅く立つことがないように敵は妨害してくる。今、しっかり目を覚まして声を聞き分けよ。様々な声はあなたのまわりに
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