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Walk With God Ministries


22 05月

オバマ政権のアメリカを憂う    坂 達也   5月22日


オバマ政権のアメリカを憂う

                                         坂 達也

 「オバマ政権に変わって僅か3ヶ月、アメリカは今経済のみならず、政治、社会のあらゆる面で、国全体が驚くほどのスピードで完全崩壊(トータル・メルトダウン)に向かっている。世界で最も自由な国であるはずのアメリカで、今や『宗教と言論の自由』を含む多くの『自由』を国民から奪う法案が次々に提案され、自由主義の基盤が脅かされている……それは考えられないような間違った方向、社会主義と全体主義の国になりつつある。」と激しい口調で語るのは、他ならないモーニングスターミニストリーズのリック・ジョイナー師です。(彼のインターネット・メッセージ Prophetic Perspective on Current Eventsと言う Video番組の4,5月分の概要をまとめたもの)
 間違った方向の一つの例として、ジョイナー師は、アメリカ政府が今しようとしていることはドルの価値を意識的に殺そうとしているとしか思えない、それは「世界を一つの貨幣に」にするための画策に通じると言っています。 

確かにアメリカ政府は、昨年来の未曾有の経済危機への救出策と称して膨大な予算を計上し、破産に追い込まれた主要銀行・保険会社とか自動車メーカーに資金を投入して来ました。そして実際に政府が資金援助した会社なり業界を経営的に支配しようとしているのですから、このやり方が企業の国有化を目指した社会主義政策と呼ばれても致し方ない状態です。その上、その莫大な予算の財源は、税金を上げるか、従来に増してより多くの国債等を発行し、世界各国からの借金を上増しするか、あるいはドル紙幣を印刷するかしかない訳ですから、いずれにせよ、これが世界中にドルを氾濫させ、ドルの価値をうんと下げることになり、それが又とんでもないインフレを引き起こします。そうなればアメリカの経済が完全に崩壊するだけでなく、膨大なドル債権を抱え込んだ世界中の国々の経済も破綻しかねません。そうなると、今既に検討され始めた「世界統一貨幣」の必要性に一層の拍車がかかるだけでなく、世界の経済を一つとして考えるしかなくなるような事態に追い込まれる可能性が十分に出て来ます。実はこのシナリオが裏で画策されていると言うのです。


もう30年も前からでしょうか、世界の銀行を支配する黒幕(団体、秘密結社等)がいて、彼らは「世界を一つの政府、一つの宗教、一つの経済、一つの貨幣(あるいはキャッシュレス・ソサイエテイー)にすることによって世界を完全支配する」と言う陰謀を持っていると言う話が、クリスチャンの間でも真しやかにうわさされ、又多くの本も書かれて来ました。私も少しはその知識をかじり半ば信じていましたが、そのような話には出来るだけ触れないようにして来ました。しかし今年オバマ政権になって以来、それが現実にかなり露骨に見え隠れするに至っては、もはやそれを隠すことは出来ない、むしろはっきりと問題にする時が来たと云う強い思いを持つようになりました。何故なら、この世がサタンの支配下にある以上、世界を支配すべくone world orderによる統一世界政府を造ることはサタンの初めから(バベルの塔以来)の目標であり、そのような画策陰謀があって当然と考えられるからです。(これをある人はバビロン・ミニストリーと言いました)又、それが紛れもない最後の時代に現れる反キリストが試みようとする陰謀であることは、黙示録を見ればはっきり分かることであって、特に黙示13章に具体的に書かれています。


ところで、上記のジョイナー師の話を裏書するようなイーメールが、実はつい最近私たちの地元ホノルルのクリスチャンの友人から届きました。それは連鎖署名依頼のメールですが、事の起こりは今ワシントンDCでクリスチャン番組をテレビから締め出し禁止しようと言う法案提出の準備が進められており、その団体は既に287,000人の署名を集めたと言うのです。そして同じ団体がこれから全米の公立学校での一切のクリスチャンプログラムを禁止するキャンペーンにも入ろうとしていると言うものでした。これに対抗して全米のクリスチャンが立ち上がり、対抗処置を講ずるべく今100万人の署名を募っているので協力して欲しいと言う内容のものでした。

私は渡米して47年になります。最初の頃私は未信者でしたが、それでもアメリカは間違いなくクリスチャン国であることを肌で感じることが出来ました。その後徐々に変わっは行きましたが、ここに来て突然、火山が噴火したかのように、総てのことが急激に変化しているのです。実感として、ショック以上の、少々大げさに言えば身の毛もよだつ程の戦慄すら感じられるのです。そのことを憂う人は非常に多くなりつつありますが、その一例として最近ダッチ・シーツ師が発表したインターネット・メッセージをご紹介したいと思います。それを下記に要約してみます。

「オバマ大統領は就任演説と、最近のヨーロッパ旅行中の演説の中でと、二度にわたって『アメリカは最早クリスチャン国家ではない』と言う言葉を口にしました。特に就任演説の中で彼は『アメリカは元々クリスチャン国ではない』と取れる発言をしています。又、最近のニューズ・ウィーク誌はそれに同意するかのように『クリスチャンのアメリカは終わった』と言う記事を載せました。
その意味は、アメリカはカルチャー・ワー(宗教の文化戦争)に負けたと言うことでしょうか。それとも、ある時点ではそうであったかもしれないが、今はそうでない、アメリカのクリスチャニティーは失われた、と云うのでしょうか。あるいは、アメリカ合衆国は他宗教が常にミックスされた国で初めからクリスチャン国ではないと言うのでしょうか。

真実がどうであるかを判断していただくために、二、三の歴史的事実をご紹介します。その一つは1892年の合衆国最高裁の公式の記録に残っている文書です。それには『アメリカ大陸の発見以来本日まで、この国はクリスチャン国であることを証言・断言する一つだけの一致した声(世論)があります…』と書かれていて、その当時の国民の一致した声と現大統領とは意見が大分違っていることがこれで明らかです。
その時の最高裁判事長であったジョン・ジェイ氏は『総てのよいことの造り主であり、その授け主である神が私たちにお与え下さった身に余る多くの祝福、特に神の最愛のご子息による救いの御業に対して、私は真にへりくだって心からに感謝申し上げます。』と云っています。これがクリスチャン・ステートメントで
03 04月

 「人の子らよ、帰れ。」主に 坂  達 也 2009年4月3日


 「人の子らよ、帰れ。」主に                               

      坂  達 也


先週掲載したキャシー・ペルトンの「恐れの根を取り除く」は大変興味のあるメッセージでした。文中で、彼女が折からの経済不況のあおりを受けて家族3人の仕事が無くなり、収入源が断たれたことが書かれています。彼女とその夫は、総てを主に委ねる信仰で生きようとしているすばらしい夫婦です。最初の二、三ヶ月は思いがけない方法で主が彼らに収入を与えられましたが、その後の数ヶ月は何も入らず、ついには貯金も底をつきました。その時点で、彼女は信仰による平安を装ってはいても、夫に仕事探しにもっと精を出すように「ほのめかした」のです。しかし主には(夫にも)彼女の心の状態が分かっていましたから、主は、その「ほのめかし」が神からの声を聞いてそう言ったのか、あるいは恐れ(不信仰)から出た、自分自身の考えであったのかを彼女に問い質されたのでした。

この話を読まれた方の中には、「自分で出来る当然の努力をしながら主の導きを待つと言うやり方がどうして信仰的な生き方ではないのか」と言う疑問を持たれた方も大勢おられたかと思います。つまり、仕事探しを自分の責任ですることは「主の御心の中に入る当然すべき自己努力」と言う考え方です。すると、問題はどこまでを自分の責任でし、どこから神に頼るのかと言う疑問にならないでしょうか。あるいはそう分けて考えること自体が間違っているのかもしれません。

それで思い出すのは神がモーセを通してイスラエルの民に言われた下記の御言葉です。「『あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」(出エジプト記19:4-6)

神はイスラエルに二つの要求をなさいました。一つは「わたしの声に聞き従う」こと、もう一つは「わたしの契約(律法の書)を守る」ことでした。私たちの願いは勿論、主の御声を聞いてそれに従うことですが、主は同時に、私たちが主との契約を守ることを要求されています。それがどう言うことかをヨシュア記1:8が「この律法(契約)の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」と説明してくれています。

私たちは常日頃、聖書にある「書かれた御言葉」(契約、律法)を聖霊の助けと導きによって精通し、祈りつつ、それを自分の霊と魂に叩き込んで自分の血肉の一部となる程に沁み込ませる必要があると言われるのはこのことであると思います。そうすることによって、私たちクリスチャンは先ず、基本的な主の御心と思いを知り、自分の心と思いが主と同じか、あるいは非常に近いものとなるのです。そうならなければ神と友人のような親しい関係にはなれません。これはちょうど神ご自身の思いを知るための原語である「霊のことば」を憶えるようなもので、それを憶えることによって、主と聖霊が語られる「声の御言葉」がよく理解出来るのではないでしょうか。

私は最近「主の御声を聞く」とはどう言うことかなのかを色々な面で体験させられています。先ず今までの私のフラストレーションは、何故もっと御声が聞こえないのだろうか―にありました。グラハム・クックは主が直接私たちにことばとして語られることはそんなに多くはないと言います。それではどうしてその時の神の御心を知ることが出来るのでしょうか。

神はアブラハムに「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」と仰せられました。(創世記17:1)「全き者であれ」の全きと言う言葉は英語でパーフェクトですが、神は私たちが完全な人間になることを要求しているのです。完全な人間とはどう言う人間でしょうか。完全な人間は唯一人イエス・キリストがそうですから、私たちはイエスのような人になれと言われていることになります。そして、それを具体的に言うならば、それがヨハネ5:19、20に書いてあります。「…子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。…」

イエスは父がなさることを常にみな見てそれを行ったのです。(霊的に心の眼で見ることと、心の耳で聞くこととは同じでしょう。)そして自分の考えでは何一つしませんでした。
前述のキャシー・ペルトンは、たまたまその時に恐れを持ったため、これが出来ませんでした。イエスは常に父を見上げて父の指示を待ちました。しかし大事なことはイエスの心が父の心と完全に一致して、通じ合っていたことにあります。

イエスは、一日の生活の中で誰かが突然現れるとか、些細なことも含めて起こることの総てを予期し予知されておられたかどうかは私には分かりません。多分予期されていなかったことも多く起こったでしょう。例えば、ある人から突然電話が掛かってくることは、通常私には予期出来ません。(時々は思いがけない人からであっても、その人からの電話だととっさに「霊感で、虫が知らせる」経験をされる方は多いと思いますが)イエスはほとんどの場合、前から父の予告を受けているか、あるいはその寸前に予知出来たかも分かりません。いずれにせよ、イエスは総てにおいて父の御心がはっきり分かってその通りになされたことは確かです。

私たちは何かが起こる、あるいは人から何か言われると直ぐリアクションしてしまいます。このリアクションとは通常自分の肉がこの世的に反応する、とっさの感情からのリアクションが多いのです。(例えば、ムッとするとか)しかしイエスは私たちのように罪の性質でこの世的に反発・反応されることはありませんから、恐らくとっさに思い浮かぶのは 全き父のお考え、父の思いであると思います。そして、それが正しいことである確認を父は瞬 間的に与えられるのであると思うのです。

詩篇85:10に「恵み(愛)とまこと(忠実さ)とは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。」とありますが、これは父と子の関係をよく表していて、ここで言う義(の心)とは「子は総て父に従う」緊密な交わりの関係そのものであり、それに父は常に愛と平安で応えられることを表していると思います。父と子のやりとりは、「阿吽の呼吸」とでも言いましょうか、イエスは自然に「父だったらこうお話しになる」と言うような適切なことばとか考えが、状況に応じてほぼ自動的に出て来るのではないでしょうか。
勿論大きなこと、例えばラザロが死にかけているので早く来て欲しいと依頼されても尚二日間も行かれなかったのは、大きな奇跡を起こされるご計画があったからですが(ヨハネ11章)、このような場合は前以て父と子は入念に打ち合わせされていたと思います。

私は最近、勿論イエスのようにではありませんが、私なりに、相手に答える言葉が何か自然に口に出て来て、後で、それが神がそのことばを私の思いと口に入れて下さったのであると言うことが結果として分かったことが何度かありました。それは神の御声を聞いたからそれをしたと言う感覚ではなかったのです。結果的にそうなったのですが、その時一つ私が気が付いたことは、私はずっと平安のうちにいたと言うことでした。

主との阿吽の呼吸と言うのは、時に「待つ」ことを教えてくれます。主は私たちの信仰を強めるために敢えて私たちを待たせることが多くあります。しかし、その時に平安を下さいます。ですから真に信仰のある人は安心して待てるのです。これをキャシー・ペルトンに当てはめれば、彼女の夫は「今は主の指示を待つ時である」こと、自分では何もしなくてよいことをはっきり感じていたのであると思います。キャシーもそう信じていたのでしょうが、彼女の場合は「恐れ」によって神とのコミュニケーション(親密な関係)がつい途切れてしまい、あわてて自分の考えで行動してしまったのではないでしょうか。

これからの世の中は益々暗くなり、患難を迎えます。今こそキャシーが受けたような信仰の訓練を私たちもしっかりと受け、患難に立ち向かう時です。

このようなしっかりとした信仰の土台を築き上げるためには、先ず常に天におられる父を徹底して求めることにあると思います。ダビデは「神ご自身の心を求めてやまない人」でありました。これが神の義の心であると思います。「 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5:6)詩篇の86:3-4でダビデは「 主よ。私をあわれんでください。私は一日中あなたに呼ばわっていますから。あなたのしもべのたましいを喜ばせてください。主よ。私のたましいはあなたを仰いでいますから。」と叫びました。 

そのダビデが「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。 私は主に申し上げよう。『わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。』と。」(詩篇91:1-2)とうたっています。隠れ場とは秘密の場所、それは主とあなただけが密会する秘密の場所です。そこにいつも宿り住む者は全能の神のご臨在に常に覆われ、これ以上安全なとりではなく、どんな敵も近づくことは出来ません。そのような主との密接な交わりの関係にいつもいれば(主の御前に住む、宿る)、あなたは神の御声が聞こえます。又、たとえ聞こえないと思われる時でも、主はあなたを導き、あなたの足はいつもしっかりと守られています。

少年であったサムエルはまだ神の御声を聞いたこともない時に、ある夜、神のともしびがついたままで主の箱が安置されている主の宮で寝ていました。(1サムエル3:3)これは主のご臨在の前で彼が安らかに眠っていたことになります。すると初めて主がサムエルを呼んだその御声を聞いたのでした。

今厳しい職場の困難な状況の中で夜遅くまで働いておられる方、毎日が戦場のような牧会生活に疲れておられる牧師の皆様に私は申し上げたいのです。主とだけの時を出来るだけ多く過ごして下さい。主に安息することはどんなに忙しい時でも可能です。「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。山々が生まれる前から/大地が、人の世が、生み出される前から/世々とこしえに、あなたは神。 あなたは人を塵に返し/『人の子よ、帰れ』と仰せになります。」(詩篇90:1-3)
私たちが、自分(の考え)を塵のようにへりくだらせ、神に帰って、罪のないエデンの園でアダムとエバがしていたような、主との深い交わりを持つことを神は望みつつ、私たちを待っておられます。(終わり)


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05 03月

「この世は揺り動かされ始めた」 坂  達 也 2009年3月5日


「この世は揺り動かされ始めた」
                          坂  達 也

1.「真理とは何か」

これはピラトがイエスに聞いた有名な質問です。(ヨハネ18:38)普通の人間で、この質問について考えてみたことのない人は恐らくいないと思いますが、古今東西の哲学者、宗教家、科学者は皆この「真理」を探し廻って来ました。「宇宙の大真理とは何ぞや」から始まって、「人生とは何か」、あるいは広い意味では「どうすればよいのか」「何が良い方法であるのか」と言う実生活における真理に至るまで、人間は真理を求め続けて来ました。本当に真理とは何でしょうか。

先ず真理を辞書で見れば「正しい道理。だれも否定することのできない、普遍的で妥当性のある法則や事実。」(ヤフー辞書)とあります。英語ではTRUTHですが、「証明された命題・定理・真実・事実、あるいは実存、正確なもの」と説明されています。

それでは聖書はどのように言っているのでしょうか。興味のあることに、へブル語中心の旧約聖書とギリシャ語による新約聖書では概念的に少し違いがあることに気が付かされます。旧約聖書では、その人が本当に信頼に足る人か、どれだけ忠実・誠実であるか、その行いが善か悪か、その人が正直で事実・真実を語っているかどうか、と言うようなモラル面に重点が置かれ、人間が対象にされています。

それが新約聖書では、知的(論理的)・客観的・観念的な事実とか法則に重きが置かれるようになりましたが、イエス・キリストにおいて新旧約聖書両面の真理に対する考え方が集約され一つになったと言えます。すなわち、創造者の神(父、御子、聖霊)こそが永遠に存在する方で、不変であり、常に正しく、しかもその方の性質も、お考えも、言われること、なさることの総てが真実で、「永遠不変の絶対的な真理」そのものであることを示しております。

それをイエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。…」(ヨハネ14:6)と言い表されました。「真理とはイエスご自身である」と言われたのですから、これ以上の明確な答えはありません。しかしキイは「わたしは道であり」にないでしょうか。
時を超越した永遠に不変の存在である神は絶対に変わることはありませんが、タイム(時)とスペースの移り変わりの中に住む私たちは、それぞれの時と状況下において数ある多くの神の不変の真理のどれをどのように適用して行くべきかを知る必要があります。これは神からの「知恵」と呼ぶことが出来ますが、それを常にご存知なのがイエスである訳です。

イエスは「恵みと真理とに満ちている方」であり、(ヨハネ1:4)イエスの御霊が私たちを「すべての真理に導き入れ」(ヨハネ16:13)て下さるのです。そして、そのイエスが「あなた(父)のみことばは真理です。」(ヨハネ17:17)と言われる通り、私たちは聖書に書かれた御言葉(恒久的真理)と、聖霊を通して時とスペースの中で適切に語られる父の御言葉(預言、啓示)の両方を常に必要とし、その真理を理解しなければなりません。

イエスはそのことを別の御言葉で次のように説明されました。「…わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネ18:37)ポイントはいつもタイムリーに「わたしの声を聞く」にあります。

さて、人間が真理を追いかけて止まない理由は、この世には真理でないものが余りにも多くあるからです。その「真理でないもの」とは神に不忠実なものであり、それが「罪」です。人間を罪に導いたサタンの総ての業は「うそ」「ごまかし」であり、神にたてつくものです。従って私たち人間が作り上げたこの世の社会は「真理でないもの」で充満しています。

2.今のシーズンに神がなさろうとしていることは何か

それは人間の中でも、特にクリスチャンの持つ罪と罪の性質をより集中的に洗いきよめることにあると私は信じます。勿論、私たちのみならず、どの時代に生きたクリスチャンでも皆この「きよめ」のための長いプロセスを通されて来ましたから、そのこと自体は特に目新しいことではありません。しかし、神は今それを加速されようとしておられます。しかも、もっと激しく徹底的に訓練をされようとしておられるのです。なぜなら、いよいよその総仕上げの段階、完成の時が近づいて来たからです。

黙示録22:11に「不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」とありますが、いよいよそれが実現する、この世の終末における最終段階に入ろうとしています。同じことをダニエル書では、終わりの時に「多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。逆らう者はだれも悟らないが、目覚めた人々は悟る。」(ダニエル書12:10)と言われました。

神に従順な者と逆らう者がふるいいにかけられ区別される時がいよいよ目前に迫って来たのです。それはクリスチャンが真に「キリストに似た者」となり「小羊の妻である花嫁」として完成されるためです。

「あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。 このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。 実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。」(へブル12:26-29)

上記で「天をも揺り動かそう」と言われたのは、黙示録12章に書かれている「天に戦いが起こって、悪魔とその使いどもが地上に投げ落とされる時」を意味しているように思えます。そして大患難を迎えます。確かに大患難の中を通ることは、神を信じない者にとっては懲らしめ、あるいは「さばき」です。しかしクリスチャンにとっては最後の総仕上げの大訓練であるのです。そのことがダニエル書3章に書かれています。

王の像にひれ伏して拝むのを拒んだシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴに対して怒ったネブカデネザル王は、彼ら三人を縛って普通より七倍熱くした火の燃える炉の中に投げ込みました。すると火の中で三人ではな
21 01月

新大統領バラク・オバマとジョージ・ブッシュ  坂 達也  1月21日


新大統領バラク・オバマとジョージ・ブッシュ


本日アメリカの44代大統領にバラク・オバマ氏が就任しました。黒人で初の大統領に選ばれると言う、アメリカにとっては歴史的な日です。
 私はオバマ新大統領が、アブラハム・リンカーン大統領を彼の大統領職の模範として尊敬していることに大変興味を覚えます。その一つの顕れは、リンカーンに見習ってオバマ氏が選挙の宿敵であったクリントン夫人を内閣に迎え、共和党の対抗馬であった経験豊富なマッケイン氏にも謙虚に意見を乞うべく既に新しい親密な関係に入り、又一人の有能な共和党の現職大臣をそのまま民主党内閣に留まってもらうと言う超党派で適材適所の人事を進めていることにあります。

リンカーン大統領は能力のある人材のためなら、自らの個人的感情と意見を犠牲にしても起用し、奴隷解放、国が割れての南北戦争と言う国家的危機を、正義と真実を貫くことによって救ったクリスチャン政治家として知られています。
まさに今、アメリカの経済が80年来最悪の非常事態に陥った最中に就任したオバマ大統領が、敬虔なクリスチャンとして極度の苦労を耐え抜いたリンカーン大統領の信念と叡智に見習おうとしていることは、彼に大きな期待を寄せるアメリカ国民、特に私たちクリスチャンに大きな希望の光を与えてくれるものと信じます。ぜひ彼の為にお祈り下さる様お願いいたします。

さて、オバマ新大統領の歴史的就任式については、既に世界の報道陣が大きく取り扱っておりますから私が何も申し上げる必要はありませんが、本日の就任式の実況をテレビで見ながら少なからぬ感銘を受けたのは、新大統領にバトンを渡してワシントンを静かに飛び立って、故郷のテキサス州に帰ったジョージ・ブッシュ前大統領夫妻についてです。

五日ほど前にブッシュ大統領は、ホワイトハウスで約200人と言う少ない関係者を前にして13分間の短い最後のお別れ演説をしました。その中で彼は「この八年間で色々な難局を迎えた時、私はその都度自分が最も正しいと信じた決断をした。それが確かにセット・バックになったこともあった。そのような私の決定は皆さんが賛成しないことも多くあったでしょう。しかし、少なくとも私は非常に難しい決断を誠意を以って国民のベスト・インテレストのために果敢に決意し、それを実行して来た。私は、アメリカ国民が少なくとも私を自分の信条(道義)に常に忠実であった者として記憶されることを願っている。」と言うことを話しました。

彼が忠実であったと言う信条とは、クリスチャンの信条(プリンシプルズ)です。ですから彼は、自分が最も人気の無い(支持率最低時22%)大統領の一人であったことを重々承知の上で、しかし全く悪びれずに、最後の機会に堂々と自分のしたことを擁護し、8年間の国民の支持に心から感謝の意を表したのです。短い彼の演説には、彼がクリスチャンであることがにじみ出ていました。それは格調の高い心の温まる、むしろ、すがすがしいものでありました。(この演説直後の世論調査では22%が36%に回復)それが今日の新大統領の就任式を通しての彼の応対にも出ておりました。彼のしたことは受け入れない人でも、彼の誠実でフレンドリーな人となりを評価する人は少なからずおります。

ローラ・ブッシュ夫人が大分前にインタビューを受けた時、世間からこれだけ非難を受け、人気が落ちると言う試練を受けてそれに耐えられるか、と言う質問に対し、「自分たちはしっかりしています。二人とも十分に耐えられる強い人間です。」とにこやかに語ったことを憶えています。言葉には表しませんが、彼女の態度には、神の御心を行っていると信じる者にしかない、主に守られている強い信仰と平安が感じられました。

ブッシュ大統領の不人気の最大の原因は、言うまでも無くアフガニスタン、特にイラク戦争を世界の反対を押し切って強行したことにあります。その結果世界中からくそみそに言われ、それ以来、これは真に乱暴なたとえで申し訳ありませんが、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」で、ブッシュのやることなすこと総て感情的に「憎い」ことになってしまいました。

ブッシュ大統領の真の評価については歴史を待つしかない訳ですが、私はイラク戦争が主の御心であったか、なかったかについては、その判断をクリスチャンである皆様がしていただきたいと思います。但しその前に、下記の記事を(もう一度)お読みいただくことをお勧めします。
(この記事は昨年のイースターに当ブログの「世界のニュース」に掲載したもの)

「イスラム圏に今起っていること」

 ジョエル・C・ローゼンバーグ 2008年イースター更新

(2008年3月24日ワシントンDC)-「私は教会を建てます、そして地獄の門もその教会には打ち勝つことはできないでしょう」とイエスは言われました。(マタイ16:18)

この週末の時事問題に詳しい「ドラッジ・レポート」のトップ記事は、イスラム教からカトリックに改宗した著名なエジプト人の作家に、教皇が洗礼を授けたことでした。 そしてこの記事には、トップ扱いになる理由が充分あったのです。 これはイタリアやイスラムの世界ではとてつもなく大きな話題、特にオサマ・ビン・ラディンが、教皇はイスラムに十字軍を仕掛けていると非難した、その週にこの記事が出て来たのです。 然しながら、この特別な洗礼は、氷山の一角に過ぎません。


2001年9月11日以降、報道機関がアフガニスタン、イラクそして中東について先例のない程多く報道していますが、本流のメディアではほとんど語られていない、大きな話題がひとつあります。 何十万人ものイスラム教徒が福音的キリスト教に改宗しており、広範囲に及ぶ迫害や、まさに現実味を帯びた死の脅威の渦中にありながら、今年彼らは初めてのイースターを祝うのです。

私はアメリカ合衆国と中東で、36名余のアラビア人とイラン人の牧師と福音教会の指導者にインタビューをした後、2005年にこの話題を 初めてリポートし始めました。 然しながら、この3年間私はイラク、ヨルダン、エジプト、ヨルダン川西岸地区、トルコそしてモロッコを旅する機会に恵まれました。 加えて、私は200人を越えるアラブ人、イラン人、クルド人、スーダン人そしてその他牧師やキリスト教の指導者達に会い、インタビューをする光栄にも与りました。 更に多くの資料を入手することで、その傾向がより鮮明になりつつあり、この話題はさらに私達を興奮させております。

聖書の神は中東で、
23 12月

報告:その後のジュデイス・グルーバー夫人 12月23日


報告:その後のジュデイス・グルーバー夫人
                              
 その後の夫人の容態は一進一退のようです。元気の良い日は家の中を動いて家事もできるようですが、悪い時は臥せっていることが多く、ヘンリー師がお皿を洗っていると本人が言っていました。ちょうどクリスマス前で家族が大勢集まってきており、私が電話をした折もお孫さんたちが廻りにいて賑やかな様子でした。しかしながら家族のクリスマスのお祝いの会食は用意が大変なので、娘さんのベッキー宅でするそうです。

 そんなことでヘンリー師が夫人を置いて長期に旅行することに不安があるようです。正月明けの1月の沖縄行きは少し遅らせ2月に入ってから出発したいとのことでした。それも1月半ばになってから様子を見て最終的に決めたいとのことです。

 グルーバー師ご夫妻は日本の皆様が祈っていて下さる事を大変感謝しております。特にクリスマスを直前に控え、皆様お一人一人がすばらしい主の祝福をいただきますよう、お祈りしていますとのメッセージと共に、くれぐれも皆様に宜しくお伝えくださいと言っておられました。

 どうぞグルーバー師夫妻の為に引き続きお祈りいただけますようお願い申し上げます。世相によれば、新年は大変厳しい年になりそうですが、皆様方は、主に守られて、特別に祝福されたすばらしい年となりますようにお祈り申し上げつつ、年末のご挨拶とさせていただきます。
 ハレルヤ、主の御名を心から称えます。

                                          坂 達也

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