WWGM

Walk With God Ministries

18 3月

近況報告です      坂  達 也            2019年3月18日


近況報告です

 

                 坂  達 也

 

 

 最近私たち夫婦は、アメリカに移り住んでから7回目の引越しをしました。このニューヨークだけでも今回で4軒目の住居移動です。と言っても未だ、引越し後の荷物をほどく作業の真っ最中で、完全に落ち着くまでにはかなりの時間が掛かりそうです。

 さて、今度引っ越した先は築55年という古いレンガ造り、7回建てのCo-opアパートで、最初の思惑と違ったところも多々あり、思わぬ不慮の事態がいろいろと起きました。その最たるものといえば、元々息子夫婦から譲り受けたソファーが新居アパートの入り口のドアからどうしても入らず、止む無く又引越し屋さんに元の住まいの息子家族の家まで運び返してもらうという事態になったことです。お陰でこの二日間、私は近くの家具屋7−8軒を駆けずり回り、やっと玄関口を入りそうな、私たちには分相応な値段で手頃なセット物を見つけて、明後日配達されるのを待っているところです。

 

 実は、私は今回の引越しを通して、聖書のみ言葉の意味をより深く理解することができたという幸いな経験をお分かちさせていただきたいと思います。それはクリスチャンなら誰でも知っている「クリスチャンとしての生き方」の標語のような下記のみ言葉に関してです。

 

 「いつも喜んでいなさい。

  絶えず祈りなさい。

  すべての事について感謝しなさい。」(1テサロニケ5:16−18)

 

 考えてみればみる程、このみ言葉はクリスチャン・ライフそのものを最もやさしく簡潔で明瞭にその全体像を表現している「信仰の極み」であると私は思います。本当にこれができるクリスチャンになれば、エノクのように生きたまま天に召されること請け合いです。正直なところ、それは分かってはいるけれど現実は出来ないーー皆さんはともかく、私にとって最も難しいのは最初の「いつも喜んでいなさい。」です。この世の中を腹を立てない、イライラしないで生きるのは至難の技ですね。私は真っ先にそれを認めます。しかし、主イエスのかかとをつかんで生まれてきたと言われるイエスの弟のヤコブが書いたヤコブ書1:2で、ヤコブは、

 

 「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」

 

とまで言っています。こうなるとクリスチャンは、どんなに辛い試練を受けても、単にイライラするのを抑えて、見せかけだけの笑顔を見せるのではなく、試練が来れば逆に「待ってました」とばかりに心からそれを「この上もない喜びと思って迎えよ」という信仰の意気込みに変えられるという意味で言っているのですから、これこそ凄い真の信仰ではないでしょうか。実はご存知の通り、パウロもヤコブもそれを強調するのは、それだけの確固たる理由があるからです。そのことが続く次の節に書かれています。

 

「信仰がためされと忍耐が生じる・・・その忍耐を完全に働かせなさい。重要なのはその次の「そうすればあなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全は者となります。」

 

私たちは主にあって完全な者になれるし、ならねばならないのです。なぜなら、

 

 「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対してとこしえの救いを与える者となり・・」とヘブル書5:8−9に書いてあるからです。

 

「絶えず祈りなさい。」

 

 ところで私は、同じように今回の引越しを通して「絶えず祈りなさい。」の本当の意味を学びました。「祈る」といへば、何か、はるかかなたの天におられる父なる神にお願い事をするとか、誰かのために取りなすことと思われがちです。確かに、「絶えずとりなす」ことは重要ですが、今回はそれに加え、それ以上に大切なことを私たちがしないでいる事に改めて気付かされたのです。

 それは、私たちの内には聖霊さまが内住し、その聖霊を通じて、御父と御子がいつも私たちの側におられるのに、私たちはその最も大事なお方は遠い天にだけおられると誤解して(神は距離と関係なく偏在される)、個人的に親しく会話をしないことが多いからです。考えてみれば、もし私たちが苦境に立っている時、頼り甲斐のある親しい友が側に付いていてくれれば、その人に絶えず相談しないでしょうか。

 私たちには7歳と4歳になる孫がおりますが、彼らは父親が家に帰ってくると側に纏わりついて、いっ時、切れ目なく父親に話し掛けます。ボーンアゲインしたクリスチャンになる最大の利点は、御父と四六時中、個人的にいつも一緒に「絶えず会話を交わし、相談に乗っていただく」特権に預かることです。今回程私は、その特権の素晴らしさを味わったことはありませんでした。

 それを言えば、同じヤコブ書の1:5で「あなた方の中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は誰にでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。但し、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。」と書かれていますから、全てが信仰の問題であることがよく分かります。就いてはこの際ぜひ、ヤコブ書を最後まで通してお読みください。

 そしてヤコブは12節でこう締めくくります。

「試練に耐える人は幸いです。絶え抜いて良しと認められた人は、神を愛するものに約束された、いのちの冠を受けるからです。」

 

 

「すべての事について感謝しなさい。」

 

 この締めくくりのみ言葉は上記の二つのみ言葉を支えるのに不可欠であると同時に、すべてのことが信仰で実行したと思ってしたことが、たとえ、結果として主の全き御心でなかったことが分かった時も(その時には短く心からの悔い改めをする)、あるいは御心通りすべてうまく行った時も(とても嬉しい)、同じように感謝し、その感謝の心が自然に、神の栄光を讃える心からの賛美と礼拝に高揚してゆくものでなければならないと思います。尚、そのような主の全き御心を行うことに失敗する経験を主が敢えて許されるのは、その失敗を通して私たちのより霊的な信仰が築かれるからです。

 その為には先ず、自分がイエスを救い主として信じる信仰告白をした後で、ロマ書8:2ー11に書かれている「イエスの死にあずかる水のバプテスマ」を受ける必要があります。それはすなわち、イエスと同じようにイエスと共に死に、イエスと共によみがえって「永遠のいのちで生きる」という、そのバプテスマを受けた時から、信仰で、生きたままで自分に死ぬ(自分の十字架を担ぐ)という確かな意識を持つて生きることが、私は絶対に必要であると信じます。今の特に若い人たちにはこの「自分に死ぬ」という意識を口にすることを嫌う人が多くいることに注意する必要があります。なぜかといへば、その「自分に死ぬ」意識を持たない人は、結局のところ、パウロのいう1テサロニケ5章の確固たる信仰を持ち得ないと私自身は信じるからです。すなわち、御父が愛する私たちクリスチャンを敢えてこの世の苦しみの中を通すのは、ひとえに私たち肉的なクリスチャンに必要な霊的訓練を施す為であるのです。

 

 結論として申し上げられることは、聖書の福音「良い知らせ」とは「全て良し」、この宇宙に唯一存在する完全な「創造主の神」が造られた完璧な福音であることです。従って、キリストの父なる神だけが完全無欠、非の打ち所のない神であり、あらゆる人間は、一切を神に委ねて神に従うことに絶対に間違いはないということです。クリスチャンは、従って、いかなる状況であってもネガテイブに考える必要は全くない、常にポジテイブに喜びに満ちて生きられるのです。アーメン。(終わり)


Post a Comment